2019年4月のアイデアライン
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2019/4/4 1387 pages
2019/4/5 1410 pages
2019/4/11 1447 pages
2019/4/22 1505 pages
2019/4/1
クールだったものが、クールでなくなっていく
エイプリルフールネタ
なせ、そうなるのか?
そもそもクールはいかに起こるのか?
アナログの逆襲
それでは「文章のたたき台」が作りやすいということは、どんな意味があるのだろうか。それは、そもそも「なかなか書き出せない」ときにこそ有効だということ。つまり、気軽に書き出せる気分が生まれやすくなるのだと思う。書きはじめる段階、誰もがさまざまな思いを抱えている。書くことに慣れていないと、いつも読んでいる誰かの文章と自分がこれから書く文章とのイメージ落差を感じることがあるかもしれない。文脈でことばの意味は変わるし決まってもくる。最終的には伝えたい内容が相手にうまく伝わる必要がある。人によって、もっといえば個人のなかでさえ、翌日、表現の解釈が違って見えることもあるだろう。書いた文章は今わかっていることが(振り返って)あの時点でもわかっていればと言ってもはじまらない。多くのことを一度に同時にやらなければいけないと思う心理がはたらきやすい。自分に合ったツールを自分の書く環境に取り入れていれば、いま挙げたような心配や前提は織り込みずみにできるでしょう。
簡単に書き出せないことこそ、書いてみる価値がある。
[第2回 ブックオフ・図書館・コンビニ « マガジン航kɔː] この意図/非意図という言葉こそが重要になる。
ブックオフもFCとして店舗を拡大させているが、そこで各店舗に置かれる商品は本社から送られてきた古本だけではないということにミソがある。そこではオープン時にのみ本社から古本が提供されるだけで、その後の商品は地元での買取を中心としておこなわれ、その周辺住民が読んでいたさまざまな本がそこに集まってくる。だからその商品棚は(もちろんベストセラーなどが多く集まるという点では一致するかもしれないが)地域によってばらつきがあり、そして商品の選定がある程度は偶然的になる。そこでは従来の本屋や図書館がそこに置く本の種類を決めてそれを客に見せるというモデルではなく、地域住民とのインタラクティブ(地域住民が読まなくなった本を買取に出す)がうみだす偶然性の中でその店舗の形が決定づけられてゆくのだ。
そのような点において、地域住民の声にならない声が反映された、そして図書館の「用意された公共」ともちがう、またことなる公共性をもつ空間ともいえる店舗がそこに誕生しているのではないか。これがブックオフの独自性なのである
空気からの脱却を目指す論者はたいてい、自分の頭で考えて意見を堂々と発言しよう、とアドバイスする。が、その「自分の頭」や「発言」こそが、すでにして磁力を帯びた沈黙=無言に囲まれているのならば、結局、その空気によって知らず知らずのうちに先導されているにすぎないのではないか。
やや懐疑的かつ、大胆に発言すること。
今週のメルマガで書いたことに近い。読書感想文のお話。
学びを通して「何者かになる」という方向性はいいのですが、大人の自己実現と若者の承認欲求が合わさり「自分らしさ地獄」を生んでしまっているのです。
生徒たちに、学びを通して何者かになってほしいなら、正解を当てに来ているのではないかと疑うことが必要です。感心するようなプレゼンをしたら、まず疑うべきです。そして問題意識が本人から生み出されているか、丁寧に確認していく必要があります。大人の関心ではなく、生徒の感心を伸ばしてほしいのです。
正解を当てにいく感覚。ボールを置きにいく感覚。
忖度によって得られるメリット。規範の生成と抑制
うまく立ち回れることで失われるもの。たとえば、村上春樹の小説。
『人を伸ばす力』
インクリメンタルな環境改善以外の表現は何か?
環境リファクタリング
プラスだけではない、という語感が欲しい
元号のリセット感
あまりにも小気味よい新しい元号
数学ガールは、数学と対話と学びに関するコンテンツ
SEOが問題なのではなく、SEOに(過剰に)最適化するのが問題なのである
対象読者
コンテンツの質
不正が混ざり込む余地
2019/4/2
2019/4/3
サブスクリプトとリコメンドでレビューはどう変わるか
Scrapboxでの蓄積が増えてくると、一断片あたりに提示できる情報の量が、ブログの一記事よりも大きくなる
ブログだとせいぜい2000記事で言えることだけ。
Scrapboxは関連ページでいくつでも示せる。
塞翁が馬とは言っても悪いことはやっぱりある
一日一枚の情報カードを入力していくように、一日にひとつアイデアラインの書き込みをページにしていく?
2019/4/4
「すべてを書こうとすること」と「何も書けないこと」は、わりと近しい位置にあるけど、「人生にすべてを望むこと」と「すべての責任は自分にあると思うこと」も、やっぱり近しいものがありそう。
短く書こうとすること
バレットジャーナルの短く書くことは、記述の短さだけが特徴なのではなく、短く書こうとすることが大切
プログラミングの名前付けに似ているかもしれない。
社内で競争を煽れば、個の成果は最大になるかもしれないが、それだけで終わる
2019/4/5
色味を強調すると中間色が飛ぶ
バレットジャーナルから見るアナログの復興
やっぱりアナログだよね、という感覚はどこから生じているのか?
2019/4/6
メルマガを運営しているときに、心がけていること
じわじわ右上がりならそれでいい
そうでないなら?
内容
告知方法
その他
ScrapboxのプレゼンテーションモードのCSSについて
忖度指数
自己責任という言葉の不自然さ
「自己責任でお願いします」
結果としてその成果物にXがあることと、あらかじめXを準備してから制作に取り組むことには、雲泥の差がある。
でも、それができる人が、本の書き手になってしまう
凡人のための方法論ではないもの
超少なく見積もっても、一つの成功の裏側には99個の失敗がある。あるいはエラーがある。
あらかじめ成功を準備しておく、というやり方はできない。あやまった選択と集中。
「馬鹿なのか?」というツッコミがあるけども、「頭良すぎるのか?」というツッコミも必要。
上意下達、トップダウン、ウォーターフォール
これらはすべて同じか?
『いいから雑多に生きなさい』(享楽的生き方文庫)
受け手が面白いと思うかどうかを100%確信することはできない
三手先を読み、三日先を予想しないが、勝つつもりで勝負に挑む
教養という地図
描写の前に観察する
2019/4/7
やるおわでは、タスクとtodoを一つの例としてあげたけど、自分が使っている言葉の意味が、他の人のそれとは違っているのかもしれない、と考えることは、ほとんどあらゆる分野で有用だろう。
たとえば「〇〇をしましよう」と言われて、自分が〇〇だと思っていることをしたら、その中身が全然違っていた、ということはよくあるわけで。
「すべてを書こうとすること」と「何も書けないこと」は、わりと近しい位置にあるけど、「人生にすべてを望むこと」と「すべての責任は自分にあると思うこと」も、やっぱり近しいものがありそう。
疑問を持つことと、結論ありきで事実を疑うことの差異
イデオロギーと現実の乖離が大きくなると、トンデモかトンチンカン的言説は増えていくだろう。そして、イデオロギーは固定的だから、現実の変化が早いと、そういうことは起きやすい。
正解信仰における政治
そうそう、立身出世のためとか利益最大化とかのためではなく、本を書くことって良い学びになります。体験談ですが。
それについてどう説明しようかと延々と考えることは、一つの対象について、いろんな角度や距離から見つめることです。たぶん。
で、これは、別に本だけではなくて、相似としてブログ記事なんかにも言えます。心構えとして。
何が言いたいかと言うと、何かコツがわかったら、わかりやすい文章がすいすい書けるというのはたぶんなくて、どうしたって地味な作業がいっぱい必要ではないか、ということです。
ゲーティッドコンテンツへの感想の書きにくさ
結城メルマガはそうではない
でも、書きにくいコンテンツは結構多い。
謎。
URLを含んでいるかどうかだろうか。
数万円のセミナーによる認知的不協和
awake
人の理性は、元来備わっているものか
ここで言う元来とはどのような意味だろうか?
環境の規定抜きに人間を語ることに意味があるか?
マナーとアーツの境界線
作者の死→テクストの死→読者だけの世界
バラ色の茨の道
踊るには舞台が必要
ステップにはスペースが必要
無期限繰り返しゲームにする
神の効能
信頼が重要
もし記憶を自由に操作できるなら人はどんな風に生きるだろうか?
メメント
ゴウセル(七つの大罪)
自我による完全支配は、本当に幸福をもたらすのか?
テクノロジーは、私たちの一側面を強調する
ツールのせいだけではない
人生は実験である
自己の中に他者を見る、他者の中に自己を見る
自分が責任を負うことが、無限の責任の拡散を止める手段になることはある
発想工房は、プログラムのコーディングの気持ちになれる
2019/4/8
「放っておけ、放っておけ。生をこの世に受けてから、一度もなぜこの世界に物語が生まれたのかを疑問に思ったことのない連中なぞ」
Aというものが、それとはまったく反対の性質を持つBでもありうる、と一度でも想像したことがあるのか、ないのか。
殺虫剤と詐欺
詐欺のフィードバックサイクルもすばやく回るようになっているのではないか?
2019/4/9
ときめく対象が増えたらどうなるのか?
こんまり流には、ときめく対象が一定である(いっそ上限は固定されている)という前提がある。
Twitter歴2009/04/14より
河合隼雄『無意識の構造』
野崎昭弘『詭弁論理学』
岡田英弘『倭国 東アジア世界の中で』
サービス、サーバント、英霊
サービス提供者の非人間的な振る舞いと扱い
非線形的な思考
初心者と達人は違う(練習法ですら違う)
小さな企業と大企業のマネジメントは違う(リスクヘッジの方法ですら違う)
「こうすればこうなる」は、エクセルの操作なら言えるが、人生という長い道のりでは言えなくなる
やりがい充填環境
何かしないではいられない
ゼロからスタートしない
人が生きる、ということ。
メルマガ 有限化について
物語を書く(書き上げる)上でも有限化は必要
日常生活を送るとき、私たちは無限の可能性に思いを馳せることなく行動ができている
習慣が大半を占めているから
しかし、言葉を持ち、未来を想像できるようになった人間は上記のような可能性に開かれてしまった
神という絶対的な切断者を持たないと、かなりどうしようもない。
90年代に国が進めた「大学院重点化」で、大学院生は急増した。ただ、大学教員のポストは増えず、文科系学問の研究者はとりわけ厳しい立場に置かれている。
ブログブームが起こり、プロブロガー希望者は急増した。ただ、プロブロガーのポストは増えず、ブロガーたちあ、とりわけ厳しい立場に置かれている、みたいな言い換えをしてもいいけど、これが国が進めた施策であるという点が非常に厄介。
ある時代までは、ブラウン管(あるいは銀幕)の向こう側にいる人に規範性は求められていなかった、ということはあるだろう。
2019/4/10
ゆっくり太っていったのに、一気に痩せようとしてしまう。
負荷を与えず、負荷を与えたいという要求
アイデアが使えるようになるということ。
批判的な反応が顔を覗かせると創作はやりづらい
「本を読む生活は山登りに似ている。頂上がないことを除いて」
アイデアの作成と評価
2019年6月30日(日)でパブーが閉店
2019/4/11
理解の解像度の違い
『無知の科学』を参照すると、本を買うだけで、知識が増えたような錯覚を覚える、ということはあるのかもしれない。
アドセンスの弊害
間接取引による想像力の不喚起
お金をもらっていないのだから、何してもいい、という感覚
「勝手に読まれているだけ」
自虐も自慢もほどほどに
自虐は笑えるように
自慢はひねらずまっすぐと
Twitterの作法
「いいか、大切なことを一つ教えてやる。集中して作業したいなら、タイムラインを見るな。以上だ」
等結果性によれば、人間と世界との関わりなど、長い時間をかけた変化を伴う多元的システムにおいては例外なく、Aの地点からBの地点に到達するまでに複数の経路が常に存在するという"『ハーバードの個性学入門』(ドット・ローズ)
至る道は複数ある。一つじゃない。
「普通の」という平均思考は、限定的にしか機能しない。道はいくつもあるのだ。
運の要素が大きい、ということを自覚しておくことは、ほんとうに大切だと思います。でないと、「こうすれば、こうなる」と言いがちだから。
あと、逆に「こうならなかったのは、こうしなかったからだ」みたいな攻撃の材料にもなる。これも危険。
世の中はそんなに単純なものではない。この段階ですでに「シンプルに考えよう」みたいなアプローチの危うさが露呈する。シンプルに考えた方がうまくいくこともあるし、そうでないこともある。そういう「割り切れない」感じと付き合っていかないと、結局しんどいことになる。
罠はいつも近道のフリをする
アナログは中途半端に劣化する
異なる二つの組み合わせ
地球の内部と外部
植物の根と幹
市場と企業
小さな独立系書店の復興
百貨店での買い物とコンビニでの買い物
面白いものが見つかる可能性
ダイレクトに巨大な全体にアクセスしない本の書き方の模索
箇条書きを膨らませていく。
最初かサビかオチを見つける。
タイムラインのように流れてくる要素をただただ眺める
二、三個並べて要素を比較する
考え方や価値観を変えることはそんなに簡単なことではない
簡単だったら困ってしまう
知っただけでは変えられないのは当たり前
クソリプする人は、普段どんな風に本を読んでいるのか?
そもそも、自分以外の人はどんな風に本を読んでいるのかもわからない
脳内の情報処理システムは、読むときにも書くときにも作動する。とすると、誤読しやすい/誤解される表現をしやすい、は同時に発生するのかもしれない。逆に言えば、書くこと/読むことは、相互的に鍛えられるのかもしれない。
ツイッターのフォロワーを、減らせないときには巫女が必要
絶対的な切断者
理屈(有無)を言わせない存在
自意識(自我)ではどうしようもないときの対応策
並行世界原稿が扱えるエディタ
分岐(異なった構成案)を扱えるエディタ
GItでブランチを切ってもいいのだけれども。
コメントなどを一緒くたに扱えるエディタ
しかも、リッチテキストではなく
FirefoxでWorkFlowyがめちゃ重い
2019/4/12
改悪を叫ぶ無料ユーザー
本音と建て前 理想と現実
現時的には、○○だとしても、○○だと伝えるだけで十分か。
理想としては▼▼だ、と伝えることにも意義があるのではないか?
建設的な議論の土台
同じ場所に立つ。
何かを組み上げることを目的として共有する
書きたい気持ちが皆無なら、書かなくてもいい
多くの書き手は、かかざるをえないというような一種の欠乏感をエンジンに持っている
それを満たすことが(マイナスからゼロへの)快として機能する
書いたものからのフィードバックは時間がかかるから、そうした行為そのものの快がないとなかなか続かない
カクヨムでは今のところ「広告を掲載して広告料を作者に渡す」「読者が作者に対価を支払う」という二つの収益化策を検討している。ユーザーが自分の銀行口座を登録しておくと、一定額を超えたところで振り込まれる仕組みになる予定だ。秋の実施までに、さらなる調査と検討を重ねて入念に準備するとしている。
こうしたものが当たり前になった世界での、書き手の戦略とは?
ネットで投げ銭が流行らないのは、登録が面倒だから説
私は新しい学問を切り開いてきた、あなたたちも、では?
動機づけのエコー(リフレイン)
人は、自分が動機づけられたもので他者を動機づけようとする、というのはどの程度言えるだろうか。
ぐぬぬなき生産
2019/4/13
『情報がきらめくアーカイブの魔法』
デジタルの情報整理にスピリチュアル要素を混ぜ込めるか?
ファイル一つひとつに感謝して、アーカイブしていきましょう。
『知性が輝くアーカイブの魔法』
『情報整理の問題地図』
『アイデアは分類するな! 〜デジタル時代の情報整理〜』
"True love never runs smooth"
Connect-the-Dots
言語の同質性
思想の同一性
今の若い人たちにとって「どのコミュニティを選ぶのか」ってことは生涯年収に直結するので、金持ちが集まっているコミュニティを選ぶ人が多くなる。最近だと若いうちからインターンに行ってベンチャーの奴らとつるんでいるだけでいつの間にか年収1億になりましたという話になる。だからそういうところに人が集まっているんだけど、本質的にはこんなことはすべてがどうでもいいことです。問題は、人はお金の奴隷だけじゃなくて言葉の奴隷にもなりうるということ。いつも同じようなことばかりしゃべっていると、同じような言葉を使うひとの中でしか生きられなくなってくる。それが不自由なわけですよ。
そうすると、人間というのは自分の中が空っぽになって「俺は何のために生きてきたんだろう」という状態であっという間に年を取ってしまうんですよね。そういう中でもう一度言葉とかお金の主導権を自分に取り戻すってことがすごく大事で、それが結局自動機械化した世界から距離を取るということになるんです。
だから僕らがやろうとしているのは、それをするための手助けをするってことですよね。それぞれの世界の人に対して「あなたがいる世界の言葉からちょっと離れなさい」と言っていく。それが哲学とか思想の機能だと思っている。
知的ベクトル
(自分が考える)自分、というのを壊せないと、こういうのはどんどん強力になっていく。壊せなければ壊せないほど、壊しにくくなる。
分類軸が固定できるものは、フォルダ式でいけると思いますし、その方が簡単な面は多いでしょう。
というような「情報整理」の話について、ガッと書きたい
厚みは減らない
変な言い方だけど、厚みみたいなものは薄くならないんだよね。減らない、というとちょっと違うんだけど。
脳内の情報処理システムは、読むときにも書くときにも作動する。とすると、誤読しやすい/誤解される表現をしやすい、は同時に発生するのかもしれない。逆に言えば、書くこと/読むことは、相互的に鍛えられるのかもしれない。
目の前のゲームとは違うゲームの可能性が示される、ということは、それとはまた違うゲームを想像してもよい、ということになる。一見それは無限の可能性につながってしまいそうになるが、現にそこにある要求を認める限りにおいては、有限性は維持される。
みたいなことも、『僕らの生存戦略』の一つの大きなテーマではありますね。
フリーランスになる前にやるべきこと、というツイートを見かけたけど、なってから勉強したことも結構ある。まあ、準備する余裕があるなら準備した方がいいとは思うけど、そういう「しないよりはした方がいい」みたいなことは無限タスクの原因になるから要注意。
「たしかに有益なことが含まれるアドバイス」って集め続けると、結局何もできなくなってしまうので、影響を受けやすい人ほど注意した方がいいと思う。
ふと、「冒険者のたしなみ」というショートショートを思い出した。
たぶん、ある程度「自分の方法」というのがつかめていれば、取捨選択もしやすいだろうから、また違ってくるのだろうけども。
ある程度情報を集めたら、そこからは一旦実践的理解を深めていくターンなのだと思う。でも、そういうターンの切り替えがソーシャルメディアでは、なかなか難しい。 だから、生産性をある程度維持するなら「無限に面白いタイムライン」を、一部分、崩していく必要がある。ある作業をすることより、タイムラインを見ることの方がはるかに面白い状態なら、それを我慢するのは相当に難しいだろう。
僕が知っている限りにおいて、「出したネタや書いた文章群を並び替えて一本の流れを作る」フェーズで困難に遭遇する人(あるいはそこで挫折する人)が多い。これはめちゃくちゃ負荷のかかる作業だと思う。特に、ブロガーさんは単発の記事が多いので余計にそうかも。
で、どうにかその負荷を小さくできるノウハウはないかな〜と考えているのだけれども、なかなかどうして難しい。
いくつか思いつきはあるんだけど、本当に効果があるのかは試してみないとわからない感じ。で、「本の書き方」みたいなことは、早々試せないのが難点。
ちなみに、やるおわでは、最終的にあのアウトラインとして固まるまでに5や10では効かないパターンを検討しているし、大きな入れ換えも二度ほどあった。どうしてもスムーズにはいかない。この負荷を、ゼロにはできないにせよ、なんとか小さくできる知見があればいいのになと思いながら幾年月
複雑なネットワークのものをリニアにまとめなければならないのは困難の種でもあるのだけれども、逆に言えば、できあがるものはリニアでいいわけで、その点はある種の救いではあるかもしれない。立体的なオブジェクトを作らなくてもいいわけだから。その「リニアなゴール」を活かせないかと考えている。
書き方の、ある種の型(フレーム)は、この辺の有限化装置として機能しているのだろう。できあがるものが面白いかどうかは別にして、完成には持っていきやすくなる。
脳内の情報処理システムは、読むときにも書くときにも作動する。とすると、誤読しやすい/誤解される表現をしやすい、は同時に発生するのかもしれない。逆に言えば、書くこと/読むことは、相互的に鍛えられるのかもしれない。
成功する方法ではなく自分の成功を定義するための方法
自分がいいなと思う書き手が、どんな風に作品を作り、読者と関係性を築いているのか。それについて考えてみる。社会的成功や知名度の物差しは、そこではいったん置いておく。話題性の高低については完全に無視する。自分がいいなと思う書き手について、まず考える。
その人が何をやっているか、何をやっていないのかを考える。案外後者も大切で、それを考えないと、良いところ取りではなく、無理な要求ができあがってしまう。
なにもそっくりそのまま真似せよ、という話ではなく、自分が感じているその「いいな」というのが何によって発生しているのかについて考える。それは、自分がこれから進んでいく道の一つの指針にはなると思う。
知識の有り様を比較し、どうせ不可避なのであれば、よりマシな知識とよりよい関係を結べるよう、賢明な素人のための「知」として、フィロロギーは人と「知」の間を取りなします。そのために現代のフィロロギーは、
人間の仕様に関する一般的知識と自己の限界についてのローカルな「知」
知識の創出と流通、蓄積に関する「知」(「知」のライフサイクルとエコシステムに関する「知」)
知識を批判吟味する知識
などを備えるべきだと思います。
「真理への『知』」から解放されたついでに、もう一歩踏み込んで言うと、僕は、知性の一番のウリは間違える能力なのではないか、と思っています。組織立って、大規模に、体系的に間違える能力。誤った観念の大伽藍を作り上げてしまう力。たとえば、最初に書いた『アイデア大全』という本は、いわゆる発想法の本ですけど、その技法の多くは要するに間違えるための技術です。間違えることで、元のものの見方、考え方を離脱し、新しい場所へ出ることができる。
自己紹介ということで言うと、僕の立場はせいぜいが素人、よく言って独学者ぐらいのものかなと思います。じゃあ、ただの素人がなぜ「『知』とは何か?」みたいな偉そうな話ができるのか、なんですが、「かしこいはつくれる:来るべき人文知のためのプログラム」(読書猿)という小文で“鋳造”した賢明な素人(informed layman)という概念がありまして。
2019/4/14
小さい川なら大木一本そのままで橋にできるが大きな川だとバーツを組み立てる必要がある
GTDはボトムアップと言えるか?
リストが固定化されている
真なるボトムアップは存在しうるか?
人の意志はトップダウンではないか?
自分というのは作用のこと
感情のハウリング
「そのまんまでいいんだよ」
悲しみも寂しさもそこにあっていい。
それを掴まえて大きくさせない
パーフェクトヒューマンになる、ということではない。
呪いの力、祈りの力
ツボは軽く押す
後悔も軽いものなら、反省のトリガーとなる
強く押しすぎると、逆効果
安易な広告文が口を突くことがある
やるおわで「自分の方法を作るために、言葉という武器を手に入れよう」みたいなの
決して嘘は言っていないし、アピール力もありそう。
でも、「〜〜をしよう」という一つの(メタな)方法に閉じ込めてしまって
それは、やるわお で問題視していることそのものである
だから、他の本でこういう宣伝文句を使ったとしても、やるおわでは、それはできない
そうしたら、この本の構造を支えている背骨がもろく崩れ去ってしまう
「結局、それが必要なんでしょ」と。
それには抗いたい
思考と止める言葉と、ある種の方向に向かう思考を止める言葉
あるいは理性と感情のそれぞれの抑制?
変えるためのコストが大きすぎる社会
就職先
進路
関心領域
属している共同体
「かけがえのないもの」と「かえがきくもの」。前者は価値を担保するが、そればかりだと、どこにも逃げ場がなくなる。これをどう仲裁するか。
代わりのないものといくらでも変えが効くもの。
異なった光り方
カツサンドはうまかった。
余剰生産
家事から学ぶ経済学
追加投資をすることの価値
ラインは動いている
抽象の階段を登ろう
思考の技術
具体例を考えよう
反例を考えよう
たとえてみよう
難しく表現してみよう
さくせん会議ノート
ノーティングの技法
生きることと考えること
「読者について考える」
〜〜について考えるの汎用性
最終的に、僕たちが生きるとは、僕たちが考えることと言えるのではないか?
課金のデータ
どんなタイミングで課金が多く発生しているのか
たとえば、それをライフログやバイオリズムと関連付ければ
もっと課金させられる状況や
課金を抑えられる状況
がわかるかもしれない。
自分の土俵で戦う
自分のゲームをする。
放浪する自己
自分探し
何ににも作用を与えていない
作用そのものが自己に向いている
自己が、他への作用であれば、この旅は終わらない
ノマド・セルフ
秀作期間の不在
現在のインターネット・クリエイティビティーの現状
いきなり本番(戦場)
よいことでもあり、弱点でもあり
知を道具として使う
やるおわの話にも通じる
読書猿さんの対談記事
梅棹さんの、アマチュア思想家宣言
実践に合わせて、縦横無尽に知識を組み合わせていく
権威がないからこそ、できること
知的ベクトル
知的ベクトルは交差する
人は、自分が動機づけられたもので他者を動機づけようとする
というのはどの程度言えるだろうか。
2019/4/15
晩御飯をつくることと、公開メモ
家事と知的生産
トンカツとカツサンド
人間としての生(あるいは個人性)を棄却して、共同体のために悪に抗うことが無自覚に美徳とされる(というよりも暗黙の規範によりそのような行動が要請される)、ということについて、2019年の僕らはちょっと考えた方がよいのではないか。
百歩譲って、それが戦争という国難を乗り切るための施策だったというのなら、納得はできなくても慮ることはできる。焼け野原の国土を急速に復興させるためだから仕方ないというなら、同情もしよう。でも、今は2019年だ。そのような考えを継承する必然性はどこにあるのだろうか。
僕たちに必要なのは、そのような〈ヒーロー〉ではないだろう。世界を一変させてくれるような、超人ではないはずだ。むしろ、超人が超人にならざるをえない環境にそこ、僕たちは目を向けるべきではないか。
フィールドワーク
エスノメソドロジー
2019/4/16
傷をつけると黴菌が入り込む可能性が出てくる
相手を傷つけることで、奮起を促す行為のデメリット
2019/4/17
そうしていると、表題の「大切なことはタスク管理が教えてくれた」という何匹目のドジョウになるのかわからない言葉の考えに至りました。しかし、よくよく考えてみるとタスク管理がただ教えてくれるのではなく、自分自身がタスク管理を通じて自分という者を教えてくれている。そのような意味を込めて、大切なことはタスク管理が教えてくれたように思えます。
セルフマネジメントは、自分で自分を管理すること
「これは何か?」、という問いから浮かび上がるもの
Scrapboxプロジェクト「フリーランス」を作ると良いのでは?
自分のページにテキストを上げる手間
昔は手書きでHTMLを書いていた
ブログが生まれて、そのような苦労から解放された
WordPressが普及して、むしろややこしくなった
少なからぬ市民はそうした状況のなかで暮らしているが、防御しようもない。であれば、こうした不吉なニュースは痴情のもつれとして忘れるというのも、それはそれで健全な精神なのかもしれない。
私はそう思えないのだが。
不信感に苛まれて、不安で暮らせなくなるよりはたしかに「健全」なのかもしれない。
しかし、そうした状況を「当たり前」として放置してしまう問題もある。
たとえば、不信感に苛まれて不安で暮らせなくなるよりは、そうしたことを運が悪かったとスルーしてしまう方が健全なのかもしれない。しかし、それは「飛行機が墜落することはごく稀あるけど考えてもしかたがない」というのと等価に置けるかというと、少し違う気はする。
市民社会の在り方というのは、市民の姿勢が構成するのだから、無関係な問題として切り離すことは、少なくとも状況の改善にはつながらないだろう。
タイムリープと構成案作り
幾通りもの可能性世界を試す
未来を嫌えば、未来が来るのが遅くなればいいのにな。
嫌悪を無限まで飛ばせば、永遠の現在に閉じ込められる
ある意味で、精神的にはそういう作用があるのかもしれない。
生の方が扱い方の可能性は広がる
ハッシュタグをつけない、ということ
ネットワークそのままで保存しておく
木材は、木のままが一番いろいろな使い方ができる
ただし手間もかかる
活動にたいする欲求は、食欲と同様に変質するか
すぐにツイートさせないアプリ
2秒ほどツイートボタンを押せない時間(クールタイム)が発生する
2019/4/18
140字de書評を再開する?
トップダウン思考が当たり前になっていると、人のナチュラルな発想がダメなことのように感じてしまう
おいしいラーメンを作れることと、ラーメン屋を経営できることは同じではない
それなりにおいしいラーメンでも立地や店構えが悪いと、お客さんはこない
お客さんは、「美味しいラーメンを求めて、どんな局地にでも趣く」ようなラーメンマニアばかりではない
「おいしくラーメンを作る」のとは違った技術・考え方が必要になる
集客、アピール
一杯のラーメンからお店が経営できる利益を作れる力(価格設定・コスト)
最低限の接客
店内の雰囲気
これらの技術は独立だろうか、それとも相関があるだろうか
マニアが絶対に話題にするくらい、極端なラーメンなら多少この辺のスキルが弱くても生存率は上がりそう
これをコンテンツ・メイキングで考えればどうなるか。
かつての作家と出版社の関係
2019/4/19
目次情報と目次ページ
目次ページだって、デザインされている。
Amazonで項目が確認できれば、それでOKというわけにはいかない場合がある
そんなある日、理論物理学の分野で若くして名を成した、大親友の北川拓也を訪ねてボストンに飛んだ。成功の秘訣を聞いたら次のように教えてくれた。
「論文を読まないことです。下手に読んでしまうとアレもコレもやられていると、暗澹たる気持ちになります。そうではなく、まずは自分の中で問いを膨らませます。そして解きたくて辛抱たまらんという状態になったら、そこで初めて論文を見るんです。」
この話を聞いて、私は覚悟を決めた。「とは派」になる。そのためにはまず、自分の中にある問いの種を育てなければならない。本書は、こんな私の問いをめぐる旅を記したものである。
2019/4/20
話を少し拡張すると、ようするに10分から15分くらいでさくっと教養の基本を学べるというコンテンツがあるといい。
TEDは有能
無料で使えるNHKの学習コンテンツはけっこう多い
有料だがNHKアーカイブには質の高い教養コンテンツが多い
YouTubeは玉石混交(スタディサプリとかよい)
放送大学はradikoで聞ける講座もある。YouTubeサイトもある
MOOCをきちんと検討してもいい
書きたくて、書けるなら、書いておこう。
計画経済がうまくいかないことは経験されているのだから、「選択と集中」とか〇〇人材を増やす、みたいなのって、もうちょっと自重した方がよいのでは。
非対称性に気をつける。ある方向から考えたら、逆の方向から考える。それまで、自分がその方向から考えたことがなかっても。いや、なかったからこそ。
気をつけるというのは、自分がある方向から考えているときには、逆の方向からはまず考えないから。そういうときに、メリットやデメリットが極端に強調されてしまう。
教養というものが、実社会においてどのような効能を持ちうるかはわからないけれども、一つの視点に固執しないで済む、というメリットはあるだろう。ときにそれが、自分の先入観をメタメタに壊すことになったとしても。
なにを考えているかよりも、どう考えているかの方が、はるかに意味合いは大きいだろう。盲信であるなら、何を信じていても、対話は不可能なのだから。
それはそれ、これはこれ、他の人は他の人の道、自分の道は自分の道。成果も貢献も形は一つではない。物差しはいくつもある。はかるものは、はかられるもの。その上で、何を選ぶのか、ということ。
生産性の向上を願うなら、消費税が8%か10%かの判断を現場がしなければいけない微妙な施策は避けていただきたいものです。
移動、変身のための勉強。(限定的な)自己破壊のしての勉強。
その人の価値観は、その人を取り巻いてきた環境が影響を与えている。簡単に否定していいものではない。
「編集視点を持つライター」というのは「経営者視点を持つ従業員」に響きが似ているな。
皇帝はレトリックを用いない
2019/4/21
インタビューの後半で、質問者は「ライフハックは人間をモノのように扱うことが多いと批判される」という話題について質問しています。
これはライフハックに限らず、多くのノウハウに敷衍できると思う。平均的な考えで個々の人間を扱ってしまう。普遍性を纏うために、人間の個別性を捨象してしまう。やるおわで書いたように、非常にテイラー的な(近代工業的な)考え方。
おそらくそれは、一番考えなければならないけど、一番考えるのがしんどいことと向き合うことからの逃避と呼応している。そういう楽さが、その手のノウハウにはある。
人生に効率を導入すれば「やること地獄」がおわるわけではない。
価値の参照点が移動する
40万円のセミナーを受講したら、それ以前とは価値の参照点が変わってしまう
単に40万円を失った、というだけでは済まない
たとえば、それがサンクコストになって、よりその行為にのめり込むようになる
価値の参照点は、自分だが、行為を経ることで、その自分自身が変化してしまう。
同じではいられない
経験は世界を変える
不全感をコツで埋めようとしてしまう問題
その状況を肯定させてしまうフィードバック
視座などといった小難しい言葉を使うこと
リゼロは異なると思うけど。
でも、安全な作品と二次創作という関連はあるだろう。
言われただけでできるわけではない
2019/4/22
市民ブログ
市政の状況についてコメントするブログ
2019/4/23
管理できている状態
管理:物事があらかじめ決めた基準に対してどのような状態であるかを把握すること。 「管理している状態」は、「今、何がどうであるか」を即答できる状態にすること
ということは、基準のない管理はない。 基準がなければただの情報付加か整理をせずに整頓しているだけ
卓見。『アルゴリズム思考術』のスケジューリングの話にも近い。
すべきことではなく、できることから
すべきことは世の中にいっぱいある
めちゃくちゃレベルの高いものもある
すべきことから考えを始めてしまうと、無力感に苛まれる
自分ができることは、自分ができることだけ
すべきことのすべてをできるわけではない
というか、ほとんどできない
自分ができることから考え始めた方がいい
メンタル的には安全
言葉と情報の貿易
偉くなると学べる時間が減る。
レトリックがはたらくとき、そこには共犯関係がある?
それはおごりではないか?という自問
エポケーの一種かもしれない
本を読む幸せ、書く幸せ
2019/4/24
人の背中を押すのは楽
フリーランスの肝は時間の使い方
お金の使い方
仕事の選び方も大切。
千日手の感覚
いったん仕切り直しましょうという感覚。
結城メルマガで出ていた、時間がかかりそうだったら、諦めるというのも近い
パンセとしてのScrapbox
"『パンセ』(仏: Pensées)は、晩年のブレーズ・パスカルが自らの書籍の出版に向けて、その準備段階で、思いついた事を書き留めた数多くの断片的な記述を、彼の死後に遺族などが編纂し刊行した遺著である。「パンセ」はフランス語のpense(考える)の受動態penséeで、ここでは「思想」「思考」を意味する。 "
不思議のダンジョンとしてのScrapbox
2019/4/25
アイデアの扱いからみたバレットジャーナル
自分のインデックス
あるいは自分の興味のインデックス
2019/4/26
ポストトゥルース時代の逆説の価値とは?
献本ってステルスマーケティングなのかな?
自身に対する満たされない欲求を、他者に投射することで満たしたとしても、自身そのものは変わっていないので、欲求が尽きることはない。
(一時的にであれ)なまじ満たしてしまっているで、欲求を弱化させるフィードバックもたぶん働かない。
究極的に楽に生きるのは、ともかく何も考えないことなのであろう。
自分のコアは強固に保持したまま、ノウハウを装備することで問題を片付けようとすること。
ノウハウ主義
どうしようもない事実から始める
なんといっても、それはどうしようもないのだから
それがスタート地点となる
2019/4/27
コンテンツ発表の形式が、ブログに(もっと言えばWordpressに)限定されてしまっている
自分でHTMLとJavascriptを使って、「遊ぶ」ようなことが減っている。
これはあまりよろしくない
規格化によってコンテンツの流通は加速されたが、発表が画一的にもなってきた
しゃべり方というのも、一定の様式を持つならば、しゃべり型と言える。認識されたパターン。
その型に乗っかることで、心に働くある種の作用が迂回される。
誰かの発言を、まずその発言者の文脈に(できるだけ)沿って受け取ること。文脈に手を加えるのは、その後の作業でいい。
断片的な情報の場合、まず自分の文脈で読もうとしてしまう、という力が働きやすい側面はあるのかもしれない。もともとの文脈を剥ぎ取って、再構成することがタイムラインというものの「効能」であるわけだし。
その再構成が、一種の遊びとして(≒他の選択の可能性を持つものとして)行われるなら面白いのだが、真面目に(≒それが唯一絶対であるかのように)行われるとわりと窮屈な感じになる。
大人の定義というのは難しいけれども、駄々をこね続けてさえいれば、自分以外の誰かが問題を解決してくれると思っているのは、子どもっぽいな、とは感じる。
ノウハウさえあれば書けるわけでもないし、書けたからといって読まれるわけでもないし、読まれたからといって評価されるわけでもない。
自分の舵をとる方法
「自分の舵をとる方法」というのがあるわけではない。
自分の仕事のやり方に興味を持つ
興味の矢印が自分を向いている
メルペイのセールでセブンで本を買ったらどうなる?
2019/4/28
本と変化
おそらく、書き始める前と書き終えた後で著者が何一つ変化していない本はあまり面白くないかもしれない。
本の在り方
著者が書くことだけで満足してしまう本でもなく、
読者が読んで分かった気分になるだけの本でもない。
理論と実践の両方にアプローチできる本。
2011-10-10 に書いたモットー
ひとつの出来事に対して、詳細を検討せず、簡単に悪いと断じてしまう思考の癖は、高確率で人間関係や自己認識においても発動するのだろう。
相手が悪いのだと決めつけること、自分が劣っているのだと決めつけること。
間がない。遊びがない。
「価値を生むには手間が必要」ということと「手間さえかければそれが価値になる」はイコールではないですね。
ノブレスオブリージュを人工知能に「覚えさせる」なんて無理だろう
それは恥の感覚と関わっているのだから
単に知識の問題ではなく、環境との相互作用で生じている一種の感覚だから、それを機械的な環境で学習することはできない
できるのは、個々の出された結果のパターンを学ぶだけ
そこでは、個々人が状況に対して真摯に向き合う、という根源そのものが喪失している
Scrapboxのページの近さ
アウトライナーのノードと、Wikiのページのちがいは何か。それはScrapboxのページとのちがいにも当てはめられるか。
オオタキさんもWorkFlowy使ってたんですね。勘違いしてるかもしれないですが、ぼくも段落がひとつのゴールであることに賛成です。あと、Scrapboxの方が、Wikiよりかなりページどうしの距離が小さい気がします。これがなぜかなと考えたりしています。これまた勘違いかもしれないですが。
「褒めて伸ばす」というのは、ポジティブな言葉を相手に投げること以上に、相手をしっかり見ていることが大切だと思う。
書評でも同じかもしれない。テンプレ以上のものを出そうと思えば、しっかり見るしかない。率直であろうが、ひねろうが、対象と自身が(ステレオタイプを経由せずに)しっかり向き合うことが必要となる。
気にしていないことは、そもそも意識にも上らない
非効率的なことなら、非効率的だと指摘すればよく、仕事ごっこといった雑な言葉でまとめない方が良い
雑な表現で批評した気持ちにならない方が良い
批評ごっこ
ハッシュタグによる分類の弊害に近しい
他の人のことを強く気にしているけどもそのことを認めなくない人ほど「自分は他人のことを気にしてない」と公言する。
本当に気にしていない人は、気にしてないこと自体に気がついていないので、わざわざ公言するに至らない
分断するもの
分担と分断
物語と多重性
一人の人間の中にたくさんの物語の積み重ねがあること
そうした人たちが社会の中にたくさんいること
2019/4/29
Scrapboxは情報を主役にできる
小難しい議論を展開しておいて「なぜ皆はこの良さをわかってくれないんだ」と嘆くのは筋違い
情報の希薄化
コンテンツ=1パラグラフ
めほりFM: 情報の希薄化について思うこと
批判、摩擦、そうしたものがあると、拡散されにくい
情報の希薄化が引き起こす問題とは?
情報が希薄化したところに、何が入り込んでくるのか?
コンテンツという言葉の浅薄化
2019/4/30