感覚の時代
感覚の時代とは、あなたは考えなくてもいいんですよ、感じていればいいんです、と誘いかけてくる時代である。
考えすぎてしまうことへのアンチテーゼにとどまっている間はうまく機能する
しかし、それで満たされるといったいどうなるか。
あるいは、考えることの偽造として、思うことが強化され、結果的に偏見が助長される、ということもあるかもしれない。 で、思うことが強化されていると、以下のように使っている言葉が異なるかもしれない、と思考のトリガーを起動させることも難しくなる。自分がそう思っていることが、正しいのだから。
とは言え、考えることは認知的に負荷でありしんどいことはたしか。まるっきり何も考えない方が楽ではある。しかし、考えることができないと自分と環境のギャップに気がつけないので、そこに発生する別種のしんどさを是正することができなくなる。しんどくないけど、しんどい、という状況が続く。
そういうときに、「救い」や「答え」を謳うものが出てくると、(そしてそれが正しいと感じられてしまうと)、一気にそこに引き込まれてしまう。私の「思い」の中では間違っているものは何もないのにしんどい、という認知的に不和な状況を一撃で解決してくれる何か。その魅力は筆舌にしがたいだろう。
だからこそ、そういう謳い手は「考えてはいけません」と言う。自分の感覚を信じることが大切だと説く。そういう受け手にアピールするためであるし、また、考えられてしまうと欺瞞に気がつかれるからでもある。
ちなみに、「救い」というものは、理性やロジックではまずたどり着けないと思う。それは、「信仰」(と呼べる心的態度)でしか得られない。理性の機能は疑うことであり、それがあるかぎり絶対的な何かには至れない。
デカルトですら、「思う」ことからしか出発できなかった。その「思う」がどう生まれたのかには言及できなかった。恣意的に出発点を定めるしかなかった。根源を明らかにはできなかった。「思う」ことを根源「として」話を始めるしかなかった。 えらく話がずれて来たが、「考える」だけでも十分ではない、というのはキープしておきたい。