結城メルマガYMM367の感想
適当に選んでしまった学科の勉強に完全に興味を失ってしまい苦痛です。かといって何か他に興味を持てる学問や特技があるわけでもなく、思い切った方向転換もできません。何をしてもしんどくて少しずつダメになる生活がつらいです。どうしたらいいかわかりません。
「どうしたらいいのかわからない」という状態は非常につらい
そういう状況で、「こうしたらいい」と差し出されると、それが藁であってもつかんでしまうことはある。
誰に相談するのかは、かなり大切
「助けてくれようと」手ぐすねを引いている連中がわんさかいる
まずは、落ち着くこと。
主体性の感覚をじわじわと引き戻すこと
何かできることがあるという感覚を取り戻すこと
やりたいこと、好きなこと、得意なこと、何でもそうですが、実際にやってみて初めて「あ、これおもしろい」や「自分はこういうのが好きだったんだなあ」や「意外に自分ってこういうこと得意かも」と気付くことはよくあります。やる前にわかるのではなく、やった後でわかる。
文章と主題の関係にも似ている
人間は複雑な存在であり、生きるというのは複雑な営みです。十数年、二十数年生きたくらいではまだよく把握できないのです(五十年以上生きてもそうです)。実際にやってみる。試してみる。体験してみる。それを通して初めて「ああ、自分というのはこういう存在だったのだなあ」と少しずつわかってくるものです。
それはそれとして、仕事について考えることは、自分と社会の関係性を考えることだと思う。
両方のこと(つまり、自分と社会)を知っていないと、なかなかうまく考えられない
経験が大切
同じ参考書を使って勉強しているのに、人によって成績に差が付いてしまうというのよく見かけます。どうしてそんなふうに差が付くのでしょうか。
自分にとっては、かなり斬新な視点だった。
「同じ参考書を使って勉強していたら、成績が同じになる」という発想がなかった
新しい概念に触れたときには、一見無駄に思えるほどの時間を掛けてその概念と「遊ぶ」ことが本質的に重要です。特に数学ではそうです。ある概念を説明されて、すぐに問題を解き始めるのではありません。その概念はどういうものなのかなと考える。こういう意味かな。たとえばこういうことかな。そんなふうに考える時間を持つのです。 試してみる。やってみる。例を作ってみる。そのようなプロセスに時間を掛けるのは、一見すると非効率的に見えます。でも、実はこれが決定的に重要になります。実は問題集や参考書で最初に提示される基本問題は、その概念と「遊ぶ」手助けのためにあるのです。単に問題が出て来たからこなしていく態度ではなくて「ははーん、これはこういう意味なんだね」ということをつかむためにあるのです。
何かフレーズを与えたい
試すことを通して、わかるようになる、というプロセス。
実践的理解だと、ちょっと堅い
私は、効率的な勉強を否定しているわけではありません。ある概念をきちんと理解していて、基礎的な問題はもう解ける。そんな状態まで来てるのに、同じレベルの似たような問題ばかりたくさん解くのは時間の無駄です。その場合は、問題を適当にスキップすることを考えるのが、効率的な勉強です。時間は有限なのですから効率は重要です。
単純な線形で捉えない視点
状態によって、最適は異なる
「告白のタイミング」がよくわかりません。
だから恋愛は面白いのだろうと勝手に推測