読めない人は読みすぎる人
Twitter、ブログ、本に関して、見当違いなコメントを寄せる人がいる。
そういう人たちは、そこにある情報が読み切れていないのではなく、むしろそこにある情報以上のものを読み取っているのではないか。
情報が読み切れていない場合は、その原因を情報量の少なさに求めることができる。
140字では情報量が少なすぎる
この場合、ブログや本になれば見当違いなコメントは減るはず。
が、実際そうはなっていない
眺めてみると、「AはBである」という旨のコンテンツを、「AはBであって、それは良くない」という風に受け取っている。
そのようなことが書いてあるだろうという自分なりのコンテキストに合わせて、情報を「解釈」してしまっている。
この場合、どれだけ情報量が増えても、見当違いは減らない
自分のコンテキストを超えられない
自分に疑念がないというのも一種のハイコンテクストではないかな。
おそらくこれに近い。
理解不足と読み過ぎ(≒書かれていなことまで読む)というのは、テキスト通りに読む、という中心点から見たときに対称に位置するもので、どちらも絶対値で見ればズレている、ということなのだろう。
なんとなく思うんだが、「文章読めないマン」というのは、高度なハイコンテクストの産物じゃないかな。読む以前にわかってると思ってる、ということ。
「文章読めないマン」は、「こいつはねっとウヨだからこう言ってるに違いない」とか「こいつは差別主義者だから…」「こいつはネオリベだから…」「こいつは爺いだから…」など、ハイコンテクスト化してるんじゃないかな。