実用的虚構 v3
1 ― 中間知的ホモ・デウス
我々はこうした理論をもとにバウムガルテンによる虚構概念の再解釈を試みる-ここで敢えて「虚構」を二重化する所以は現代学問の視点忘却性にある。ライプニッツに傾倒していたバウムガルテンは「この世界」或いは「現実世界」と「可能的諸世界」をわけ、前者に「真なる虚構」、後者に「他世界的虚構」と「ユートピア的虚構」という説明を与えた。我々が実用的虚構の原理とアーティキュレーションしたいのは、―「現実世界」では不可能だが「可能的諸世界」のいずれかで「可能なもの」とされる―「他世界的虚構」である。ジジェクの提示した存在論的位相のズレが「現実世界」の「可能なもの」の概念を再記述しうるのだ。すなわち「可能的諸世界」における現実世界での不可能性とは「理論的実在性」の観点から観察されたものであり、「実用的虚構性」の側面から見たとき、これまで「他世界的虚構」とされていたものが「現実世界」でも「可能なもの」といえるのではなかろうか、ということである。また理論的実在性からみて「他世界的虚構」であったものは、既に「現実世界」で非知、消極的承認、積極的参与、などといった人間を通じた回路を媒介にして「可能なもの」となっていたのだ。これは未だ「可能なもの」とならずに抑圧されてきた凡ゆる形而上学、凡ゆる古典的哲学、凡ゆる文学に光を与えることになる。なぜなら「実用的虚構性」は、あらゆる「不可能」とされてきた「他世界的虚構」を救うパースペクティヴであるからだ。この意味で自由知的ホモ・デウスではなく、中間知的ホモ・デウスこそ、我々の「予知」なのである。 2 ― 実在論的プラグマティスト
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3 ― Autonomous world
「中間知的ホモ・デウス」に至るべく重要な萌芽が、Blockchainの水面下で息を潜めている。それは「Autonomous world」である―そこで発端となったludensのテクストを援用するとしよう。
ここまで虚構の範疇を曖昧にしてきたが、私たちが変革すべきだとする虚構は個人に属する感覚的オブジェクトではなく、制度や社会的集合体などの大きなスケールに属する「客観性」と「超越性」を帯びた感覚的オブジェクトたる象徴的存在者(symbolic entities)だ。上記論をバウムガルテン的に整備するなら、他世界的虚構とは個人に属するものと制度や社会集合体に属するものがあるのだ。つまり非知を前提としない積極的-超越的な他世界的虚構がテクネーによって複数的に-多元的宇宙の様相をもって-創世され、市場原理によってメタ・ユートピアに至ること。その先にある人間が中間知的ホモ・デウスなのである。 ボードリヤールがいった
バウムガルテン的詩人のプライオリティを政治哲学として導入すること。