マイケル・アップル
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「先進産業経済体制」では「第一に考えるのは利潤の最大化」なのであって、平等公平な「資本の分配と雇用は二の次」なのはネオリベのテーゼ-成長なくして分配なし-そのものだろう。
こうした経済のあり方は、知識との関係においても、雇用の場合と同様のことが言えそうである。企業経済は、経済装置が効果的に機能し、経済的拡張の機会が最大になるように高水準の技術的知識が産出されることを要求する。一定の限界が設定されている場合に、実際に求められているのは、こうした優先的知識を一般の人々にひろめるといったことではない。そうした知識の産出の最大化の方がより重要とされるのである。そうした知識形態がたえず効果的に産出されているかぎり、学校そのものは、少なくともその主要な機能においては、有効に機能しているわけである。したがって、〈少数民族〉や貧困階層等々の子どもたちの一部が低い水準の学力にとどまっていたとしても大目にみられてしまう。〔優先的〕知識そのものの産出の方が、経済におよぼす影響がはるかに重大だからである。〜したがって、ほぼ一定の失業率があることによって〈経済市場〉がより効果的に機能するので、実際にその程度の失業率がうみだされているというのと同様に、文化制度もまた、低い学力を〈自然発生〉させる。ある種の文化資本の分配やその稀少性は、こうした価値計算においては、その特定の知識そのものの産出の最大化と比べれば大したウェイトをもたない。 https://scrapbox.io/files/6522ceae480a3c001b83b5d9.png
本書の主題
つまり、私たちが直面する困難な時代にの底辺にあるのは、経済のような抽象物にとどまらない。むしろ大切なキーワードは、闘争と生成(shaping)である。それは構造的な問題なのである。~国家、政治、文化生活、生産様式、分配、消費における社会的プロセスの各側面が、それぞれの内および外にまたがって影響しあっている。生産様式がそれ自体成り立つための条件を再生産するようになっているとき、「それ〔この再生産自体〕」が他の領域において対立と矛盾を引き起こす。~その闘争の内容と場は絶えず変化している。したがってカステルが喚起するこれらの闘争のイメージは、一定してるわけではない。~そしてこれらの人々の集団は、常に形成の途上にあり、自然に生ずる葛藤の中にまきこまれることによって再形成されるのである。
そしてこの再生産の権化たる教育に焦点をあてる。
則、資本主義時代の危機、それは経済構造のみではなくイデオロギー的なものであり、それは教育から来ているものなのであるということである。そしてその教育は構造や社会と向き合わず方法論と向き合ってきたという。
アップル的文化資本
私は文化資本という概念をブルデューやその他の人々とは異なった特別な仕方で用いている。例えば、ブルデューによれば、支配者集団の生活様式や言語、文化的性向など―すなわち、文化資本―は学校において現金化可能であり、そのおかげで彼らの支配が維持されることになる。このように文化資本の「所有」のおかげで彼らは優位な立場に身をおくことができる。文化資本という考え方には確かにある強みがある。 上記のように今日の文化資本受容を表現するとともに下記のように不足観点を述べる。
しかし〜ブルデューの仕事は依然配分理論にとどまっている。彼にとって、文化資本とは生徒を階級によって社会における「相応しい」位置に振り分けるために使われる配分装置である。文化資本をもたない生徒は定義によれば逸脱したものということになる。このようなアプローチがとらえていないのは、学校もまた企業社会によって必要とされる文化商品の基本的生産様式のひとつとして機能しているということである。
そして『学校幻想とカリキュラム』で示したような経済と教育の類似構造を引用する。それは「先進産業経済体制」では-「資本の分配と雇用は二の次」で-「利潤最大化」が第一とされる。そうすると結果的に「〔優先的〕知識そのものの産出」の方が利潤最大化に貢献する為、〈少数民族〉や貧困階層等々の子どもたちの一部が低い水準にとどま」ることが〈自然発生〉するのだ。 教育社会学 第三のソリューション 参照