アルチュセール
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マルクスから見える新たな社会の地平
個から社会へ
『フォイエルバッハに関するテーゼ』は短い文章ではあるが、この切断が前の時期に接する最先端を示すものであり、古い意識と古い言葉のなかで、したがって必然的に平衡を失ったあいまいな概念と定式のなかに、新たな理論的意識がすでに現れている地点をしめすものである。
マルクスが人間の個人−本質という古い一組の概念のかわりに、新しい概念(生産力、生産関係など)を導入するとき、じっさい、彼は同時に、「哲学」の新しい見解を提出しているのだ。
そこで取り上げられるのが「社会的諸関係」である。すなわち、マルクスのいう「社会的諸関係」とは「生産力」や「生産関係」が含まれているということである。これは、「人間」とは何やら抽象的な単一の「本質」を持った単体としては存在せず、「生産力」や「生産関係」が含まれている「社会的諸関係」のなかで存在しているということである。
もちろんアルチュセールは人間そのものを否定しているわけではなく、人間というような観念(彼によるとブルジョア・イデオロギー)がどのように析出されているのか、その条件を明らかにするためにこのような方法をとるわけである。ここからアルチュセールは、「人間」によらずに「構造」を中心とした社会理論を構想することになる。
ヘーゲル図式の拒み(外在から内在へ)
ヘーゲル流の全体性とは、歴史に外在する「精神」という本質である一つの中心を備えた構造なのである。しかし、アルチュセールは、そのような全体を社会編制の構造化された「複合的全体」として捉えているのである。
それまでのマルクス主義の考えでは、上部構造は下部構造の反映に過ぎず、複合的なものとは捉えられていなかったことから考えても、アルチュセールのいう「複合的全体」は、その後の文化研究において大きな影響力を持った。 アルチュセールは、構造をヘーゲル的全体性から区別するのに用いたのが、「構造的因果性」という概念である。構造的因果性という概念を導入することによって、全体が、構造的なものとして、つまりへーゲル的全体という統一体のタイプとは全く異なった統一体のタイプを保有するもとして措定され、事情は異なったものとなる、ということである。それが以下の言明だ。
引用からわかるように、ここでは、構造と呼ばれるものは、経済に外在し、結果として全ての現象を統括するというようなヘーゲルのいうところの「精神」のようなものとして想定されていない。ヘーゲルは「原因」を「精神」に求めたが、アルチュセールによれば、そもそも「原因」という「本質」を措定することが誤りであり、構造は、そうではなくて、「原因」さえもが「結果」に既に内在しているというような、構造自体による構造の閉じられた円環の内部での再生産が強調されている。則、「相対的に自律する」諸審級が「重層的に決定」された形を含み込むのである。
アルチュセール型
両者の差異は下記に明確に現れる。
じっさい、ヘーゲル的矛盾は、重層的に決定されているかのようなあらゆる外観をしばしばしめすにもかかわらず、現実には決して重層的に決定されていない。
ここでいわれる「重層的決定」とは、社会編制を、上部構造、下部構造、イデオロギーなどの諸々の要素によって重層的に決定されたものとして構想するものである。 これ〔マルクスの全体〕は、その統一性が、ライプニッツやヘーゲルの全体の表出的、つまり「精神的」統一体であるどころか、あるタイプの複合体、つまり経済の審級によって最終的に固定される諸々の種別的決定因子の様式に従ってそれぞれ分節/接合されては、複合的な構造的統一体のなかで共存する、それぞれ異なり「相対的に自律した」諸水準あるいは諸審級を内包した構造化した全体の統一性によって構成されているのである。 そして、このような「重層的決定」は「最終審級における経済の決定」からは「相対的自律性」を獲得している。 しかし、この複合的全体は、諸審級は相対的には自律していても、一つの要素が支配的になっていて、それを決定するある原理によって統一されている。これが「最終審級における経済の決定」 といわれるものであり、社会編制においてどの要素が支配的になるかは、経済的土台が最終審級において決定するといわれている。だから、やはり重層的決定も相対的にしか自律していないのであり、最終的あるいは最終審級においては経済の決定を免れえない。
もちろん「最終審級における経済の決定」とは、社会の諸審級の「相対的自律性」においては不在であり「最初の瞬間にせよ、最後の瞬間にせよ、「最終審級」という孤独な時の鐘が鳴ることはけっしてない」のだが、不在の現前として常に前提にされており、そして最終的に決定される構造の再生産による「原因」が内在する「結果」として描かれているのである。
アルチュセールは「イデオロギー装置」によるイデオロギーの働きについていくつかのテーゼを提示している。そこでまず下記を紹介したい
イデオロギーは諸個人が彼らの存在の現実的諸条件に対してもつ想像上の関係の《表象》である。
このテーゼは、従来までのイデオロギーが、現実の人間の存在諸条件を歪めて反映するもの、いわゆる「虚偽意識」とする考えに変更を迫るものである。そうではなくアルチュセールはあの有名なテーゼで論駁するのだ「人間は本性的にイデオロギー的動物である」 人間の存在の現実的諸条件の想像のうえでの倒錯や変形に対する、すなわち人間の存在的諸条件の表象についての想像の中での疎外に対する、ひとつの原因を探究し発見するもの
そして、その原因として発見されるのが「イデオロギーのなかで人が見出す世界の想像的表象に反映されているもの、それは人間の存在諸条件であり、人間の世界である」。しかし、人間の存在的諸条件は、アルチュセールによれば最終審級において生産諸関係や生産諸関係から派生する諸関係に依存しているので、それを「原因」とすることが出来ないのである。従って、アルチュセールは、人間の存在諸条件が「原因」となるのではなく、それらはイデオロギーとの「関係 rapport」のなかで存在するという考えを提起する。近期に発表した『マルクスのために』でも下記のような言明が存在する。 つまり、アルチュセールはイデオロギーを、男と女の想像的関係、存在の現実条件との関係のなかで「生きている」というような概念、表象として定義しているのである。そしてイデオロギーは社会の固有の審級として社会の有機的な一部分なのであり、それがなければ社会が社会として成立しえないような社会の不可欠の要素である。こうして、「イデオロギーは永遠である」もう一つの理論的主張が導かれることになる。「イデオロギー」はここでは、観念の内容や表面的な形式としてではなく、表象され、生きられた状況の無意識のカテゴリーとして概念化されている。 イデオロギーは一つの表象体系ではあるけれども、これらの表象は多くの場合、「意識」とは関係がない。〜それ表象は何よりもまず構造として、大多数の人々に認められ、彼らの「意識」を通らないのである。〜人間が世界との「生きられた」関係を変化させ、「意識」といわれる、この種差的な無意識の新しい形態を獲得することに成功するのは、こうしたイデオロギー上の無意識の内部においてなのである。
ここでは、まず現実があって、それがイデオロギーによって歪められているということではなく、そもそも現実とはイデオロギーの「効果」によって析出されるものであり、そこでは諸個人と社会の「想像的な関係」が表象するもののうえにすべてが成り立っているということ前提とされなければならないということである。アルチュセールは説明の順序を逆にして、「初めにイデオロギーありき」と考えている。つまり人間はつねにイデオロギー的に汚染されている、ということであり、ここからアルチュセールが『資本論を読む』でいった「イデオロギーによって、イデオロギーのもとでしか実践は存在しない」というテーゼがうまれるのだ。そしてこのような「関係」を支えているのが「最終審級において、生産諸関係や生産諸関係から派生する諸関係」 すなわち経済の決定である。 すなわち、想像上の必然的なイデオロギーの変形の中で、あらゆるイデオロギーが表象するのは、現存する生産諸関係(およびそこから派生する別の諸関係)ではなく、何よりも生産諸関係、およびそこから派生する諸関係に対する諸個人の(想像上の)関係である。従って、イデオロギーの中では、諸個人の存在を統制する現実の諸関係のシステムが表象されているのではなく、諸個人と、彼らがそのもとで生きる現実的諸関係との想像上の関係が表象されているのである。
そして、このような生産諸関係からイデオロギーが表象されるとするのなら、それは「観念」としては表象されず、物質的な存在をもつということになる。これが、アルチュセールがイデオロギーの第二のテーゼとして提出したものである。このようなイデオロギーは、「国家のイデオロギー装置」と呼ばれるものによって実現される。ここから、どうして諸個人に与えられた表象が必然的に想像的にならざるを得ないのかという置き換えられた問いに答えられるようになる。それは「イデオロギー装置」の効果なのである。イデオロギーは、このような「装置」を通して、私たちの「実践的行為」にまで貫徹しているとされる。
呼びかけられる主体
そして、アルチュセールはイデオロギーの「呼びかけ」の機制に言及する。
アルチュセールはこのテーゼに対して、主体のカテゴリーを機能与件とするイデオロギーの構成について述べている。
ここでいわれていることは、イデオロギーが存在するには呼びかけによって「主体」を要請しなければならないということである。ではこのような「主体」という概念はどのようなものか。
我々は、主体というカテゴリーはあらゆるイデオロギーにとって構成的であると主張する。しかし、同時かつただちに、我々はあらゆるイデオロギーが具体的諸個人を主体として《構成する》ことを機能(この機能がイデオロギーを決定している)としてもつ限りにおいてのみ、主体のカテゴリーはあらゆるイデオロギーにとって機能的なのだ、ということをつけ加えておく。
イデオロギーは具体的諸個人を主体として、呼びかけ、構成することによって、その主体をイデオロギーの機能与件とするわけである。諸個人は「国家のイデオロギー装置」に主体として呼びかけられるやいなや、イデオロギーの再生産の循環のなかに組み込まれる。なぜなら、生産諸条件を整えるためには、国家の抑圧装置による暴力の抑圧だけではなくイデオロギーによって支配を再生産する必要があるためであった。
個人が主体として構成されるときには、常にイデオロギーの機能が働いている。そして、主体化の機能には「呼びかけ」が重要になってくるのである。
(1)主体としての《諸個人》への呼びかけ。(2)諸個人の大文字の主体への服従。(3)諸主体と大文字の主体のあいだの、そして諸主体のあいだでの相互の再認と、結局は主体自身による、主体の再認。(4)こうしてすべては首尾は上々で、諸主体が自分たちが何者であるかを再認し、それに応じて行動しさえすれば、将来も首尾は上々であろう、《かくあれかし「アーメン」》となるための絶対的保証。
ここでいわれる呼びかけのプロセスとして、アルチュセールは警官の職務質問を挙げている。それは、例えば、《おい、お前、そこのお前のことだ!》という毎日耳にする警官(やその他の)呼びかけに端的に現れているという。そのように呼びかけられることによって、呼びかけられた諸個人はそれが自分であることを知り、主体として大文字の主体に服従する。そのような呼びかけは、毎日至るところで行われているのである。
この、街頭で警官に呼びかけられ振り向くことによってその個人は国家の主体=臣民になる、というのは何気ない日常的な振る舞いを介して個人が国家に回収され、自由が奪われるというあまり喜ばしくない場面を表しているのである。