ヘーゲル
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真理の生成過程を花とアナロジーする
種子が蕾になったらそれは否定ではあるが進化の必要過程だよね的な
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その分離した自己と概念を統一することもある→二つを包み込む自己が生成される
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上記の自己を知、概念を真とするとわかりやすい
つまり知→真になってまたそれが知になって、そっから真生み出してっていうループ
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ex):テレビを見ている「今」→スマホを見ている「今」→ゲームをやってる「今」
上記各「今」は個別的な「今」
これを止揚し、連続的な「今」と捉えると、それは普遍的な「今」となる これは「ここ」や「これ」にも言える。
ものの独立的な意味及び存在と他のものとの関係性(差異)が相互連関している
ただそれは非可逆的なものではなく、彼岸から新たな此岸へ利用されたりするため相互連関 /icons/白.icon
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ex) 豚を食べたい→豚を殺して食べる(実存を否定して自己の実存に取り込む)
動物との差異は何か
非自然とは: 他者の欲望を欲する
他者がいないと成り立たない
承認欲求がないと自己意識は生まれない
自分自身の認識と他者の自分に対する認識とが相互連関している
奴による承認が前提
媒介されていると言う(無媒介は承認がないこと、こういった独我論ありえない) 木を加工して机を作る
労働とは自己を超出する及び自由になること
内面に閉じこもって、欲望闘争を檻の外から優位にみる
ただこれは自己の無限性が欠如するので否定的にヘーゲルは考える 矛盾を正当化するために絶対的なものを信奉,傾倒する
ex)キリスト教に全ての思想を委ねること(意識や欲望を外化する)によって自己意識を捨て、絶対的普遍的なものを自己に残す /icons/白.icon
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理性
何も概念把握してない
感覚的確信ではものからの信号を受けてるのにそれは完全に自分ものとは言えねーじゃん 記述して徴表して法則にする(→恣意性から普遍性へのシフト
ここまで観察してきた偶然性を帯びている無機物や自然物ではなく、自己同一性・必然性・体系性を帯びた有機体を対象とし、植物→動物→人間→自己意識を観察する
前提知識
実体とは
社会や共同体から離れ愛欲に塗れた1対1の関係を求める(駆け落ち的な)
第二段階: こころの法則(第一段階を反省し、皆のためにやろう!!) 普遍性があると思っているが無媒介な倫理観に基づく行為 個別性の遊戯からエゴイズムに気づき絶望する(学生団体みたいw)
と同時に自分のことすらエゴだと絶望する
第三段階: 徳(第二段階を反省し、個別性を排除した普遍性の善を探求しよう!!) 個別性はそこまで悪いもんじゃないから失敗🥺
即且対時的に現に在るような個人性
ことそのものと個人の利益の中で揺れ動くのが自己意識 ことそのものの実現自体に執着せず、行為単体で自らを慰めるゴミ
関心だけ
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精神(この章は精神史として)
古代ギリシャ
ポリス(公的システム)
table:.(and)
ポリス(父) 家族(母)
規律 人間の掟 神々の掟
引用 クレオン アンティゴネー
当時男性は普遍性のために活動し、女性は個別性のために活動した
ローマ法
一般者は絶対多数の個人というアトムに分散しており、この死せる精神は平等であり、ここではすべての人々は各人として、人格として認められる
教養
ex)
君主は万人の普遍的な象徴でなければならない
となると自己が自分自身と疎外関係であることに気づく
ルート①: 信仰
理性によって真理を探究する
啓蒙の精神へ
信仰と啓蒙の争いへ(啓蒙に群杯)
フランス革命へ
対立を調停する神の要請: 第三の要請 →神の教えにおける絶対的に正しい純粋義務のもとに自己を確立していく: 道徳的世界観 第一の要請の否定: 最高善が実現していたら義務(道徳的行動)の必要性がない 第二の要請の否定: 感性があって初めて理性及び道徳的意識が成立するため、感性を収束させるこの思想は矛盾 第三の要請の否定: 自分の正しさに向かうはずが神という他律的なものに任せているため 良心とは: 自己の確信であれば制約はない(詐欺でも当本人が良心としてやってればそれは良心)
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宗教
感覚的確信: 光の神(ゾロアスター教説orユダヤ教ヤハウェ説) 光は様々な存在者を存在させる一者。これにより存在を与えられている
物には多数の諸性質が持っている=多神教:単一性ではなく多数性の立場をとる
ピラミッドやスフィンクスなどを崇める
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法の地盤は総じて精神的なものであって、それのもっと精確な場所と開始点は意志である。これは自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定をなす。そして法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である。 自由のために本質観取された地平ということが、精神自信から生み出された精神の世界という認識なのでは。そして凝固した経験命題のように基礎づけ化していく(些か懐疑不要であるとは言い難いが)。 意思とは恣意性のある欲求であり、教養のもとに欲求が吟味され、共通善や一般意志のような普遍性のある意思となる。 /icons/白.icon
欲求を労働を介して自由に追求し交換し所有するプロセスが己自体の人格形成(労働における陶冶)をも用立て、市民社会経済の主体と成る。客体的には欲求の体系に相即的に 労働における普遍的で客観的な面は、それが抽象化してゆくことにある。この抽象化は手段と欲求の種別化をひき起こすとともに生産をも同じく種別化して分業を産み出す
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真の自由〜は私と他者との同一性にあるので、他者もまた自由であって私によって自由であると承認される場合にのみ、私は真に自由である。
世界史は理性の本質である自由の実現へと進む
ここにおける人格とは法的人格である
美の起源
形象は久しい以前からあった。敬虔な信仰は昔から、崇拝のために形象を必要とした。しかし美しい形象は不要であり、それどころか邪魔でさえあった。美しい形象のうちには、ある外的なものも存在しているのだが、形象が美しいかぎりは、このものの精神が人間に語りかけることになる。しかし崇拝において本質的なのは、ある事物への関係である。なぜなら崇拝そのものは魂の非精神的な朦朧化だからである。~美しい芸術は~教会自体のなかで成立した。~もっとも~芸術はすでに教会の原理からは抜け出てしまっているのだが。
ヘーゲルはここで、美の概念の誕生について説明している。美は崇拝と異なるものである。崇拝は教会の原理に基づいており、神の存在を必要とするのに対し、美は教会の原理から抜け出ており、神とは無関係である。
しかしながら美は教会で生まれた。すなわち、美の概念は教会における芸術の受容のあり方、すなわち崇拝から生じた。その意味では美と崇拝との間には何らかの連続性がある。
その連続性とは一体何なのかが問題であるが、それは何かを崇めるという崇拝の形式である。つまり教会での崇拝は神を対象としていたのに対し、美の概念は神の代わりに美を崇める対象とすることを要求するのである。美は近代において神の代わりになるものであり、つまり世俗化した神なのである。