ニーチェ
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狂気の人間。 諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、白昼に堤燈をつけながら、市場へ駆けてきて、ひっきりなしに 「おれは神を探している!おれは神を探している!」 と叫んだ人間のことを。市場には折りしも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種となった。 「神さまが行方知れずになったというのか?」 とあるものは言った。「神さまが子供のように迷子になったのか?」と他の者は言った。〜彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちに言ってやる!おれたちが神を殺したのだ〜お前たちとおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!だが、どうしてそんなことをやったのか?〜こ の地球を太陽から切り離すようなことを何かおれたちはやったのか?地球は今どっちへ動いているのだ?おれたちはどっちへ動いているのだ?あらゆる太陽から離れ去ってゆくのか?おれたちは絶えず突き進んでいるのではないか?それも後方へなのか、側方へなのか、前方へなのか、四方八方へなのか?上方と下方がまだあるのか?おれたちは無限の虚無の中を彷徨するように、さ迷ってゆくのではないか?〜神は死んだ!神は死んだままだ!それも、おれたちが神を殺したのだ! https://scrapbox.io/files/64b546e80b3429001bfe5fad.png
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1
2
森で神を讃ずることを選んだ聖者との対話
老いたる聖者はその森にありて、未だなお、神の死したることを知らざるなり
table:対応関係
過去 苦悩から神という陶酔的快楽 人間への愛と贈与
現在 人間への愛と贈与 苦悩から神という陶酔的快楽
3
全てのものはこれまで、それ自体を超えたる何等かのものを造りたり。さて汝等はこの大いなる潮の退潮となり、人間を超克するよりもむしろ禽獣へ引き換えさんことを欲するか。猿猴は人間にとりて何物ぞ。笑柄のみ、或いは痛ましき陰所のみ。しかして人間も超人にとりては同様なるべし しかして汝等に天上の希望を説くところのものを信ぜざれ。彼等は自ら知れると知らざるとを問わず荼毒者なり。
毒蜘蛛の比喩へ繋がる、
超人はかの海なり。汝等の大いなる侮蔑はよくその中に陥没するを得ん。
あらゆるものを内包した絶対精神的な進化を遂げた現存在? 4
人間は禽獣と超人との間を繋ぐ一つの索なり。一つの深潭に懸れる一の索なり。
に続き愛を語るツァラトゥストラ
毒蜘蛛
よくこそ、毒蜘蛛よ。汝の三角と標徴とは、汝の背に於て黒し。しかして汝の魂に何物のあるかをも我は知る。汝の魂には復讐あり〜汝等平等の説教者よ。汝等は我にまで毒蜘蛛なり、また隠密の復讐者なり
説教者の深層心理
汝ら平等の説教者達よ、無力の暴君的なる乱心は、かく汝らの中に平等を求めて叫ぶ。汝らの最も隠密なる暴君的熱望は、かく徳の言葉の中に自らを蔽う
真理は言語ゲームのもとに記述される。真理が真理足りえるには言語が完璧なものでないとならない(人工言語なら可能ってこと)。つまり本来の真理をメタファーとして描いたものにすぎない 第一の自由として自然権を得た次に、定言命法を止揚して、当為の自由という第二の自由を獲得しようとしたことではないか(引用) 受動的ニヒリズム
能動的ニヒリズム
社会彫刻とchoukokuの綴りが一緒なの運命感じる
『ツァラトゥストラかく語りき』は、自分の個人的な経験とあまりにも深くかかわっているので、読者には分かりにくかったのではないかと考え直したのだ。そこでニーチェはツァラトゥストラが詩的な言葉で「歌った」ことを、もっと素の言葉で読者に分かりやすいように語り直す必要があると考えた。こうして『善悪の彼岸』という書物が生まれることになった。ニーチェはブルクハルト宛ての書簡において『善悪の彼岸』が、前の『ツァラトゥストラかく語りき』と「おなじことをいっておりますが、しかし違うのです」と説明しているのである。
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第一遍
わたしたちをまだ多くの冒険に誘うに違いない真理への意志、すべての哲学がこれまで畏敬の念をもって語ってきたこの有名な〈誠実さへの願い〉、この真理への意志はわたしたちに何という問いを投げかけてきたのだろうか! それは何と驚くほどに悪しき奇妙な問いだろうか!(...)なぜ、むしろ非真理を望まないのか? なぜ不確実さを望まないのか? 無知をさえ望まないのか?──真理の価値の問題がわたしたちの前に歩みでる。
ではなぜニーチェは反真理の立場にたつのか。それは真理という物差しにおいて、それが「間違っていたとしても、それはわたしたちにとって判断そのものを否定する根拠にはならない」からである。そこで展開されるのが生の哲学的思考である。
真理を生の条件として誤謬する際たる例がストア派の自然賛美である。
[ストア派は]「自然にしたがって生きよ」と教えたが、君たちはほんとうに生きることを望んでいたのだろうか? おお高貴なストア派の人々よ、何という言葉による欺瞞だろうか! 自然というものがどんなものか考えていただきたい。自然は、際限なしに浪費するし、際限なしに無関心であり、意図も顧慮ももたず、憐憫も正義も知らず、豊饒であると同時に不毛であり、同時に不確実である。この無関心こそが力であることを考えてみたまえ。──君たちはどうやってこの無関心にしたがって生きることができるというのか?──生きるとはまさに、この自然とは〈違ったものとして存在しようとすること〉ではないのか。生きるということは、評価すること、選り好みすること、不正であること、限られたものであること、関心をもとうと[違ったものであろうと]欲することではないだろうか? もしも君たちの「自然にしたがって生きよ」という命令が、基本的には「生にしたがって生きよ」という意味だとすると、──君たちにそれができない理由があるだろうか。君たち自身がそうであるものから、そうでしかあらざるをえないものから、一つの原理を作りだすということができるものだろうか?──ほんとうのところはその反対なのだ。君たちは自然から自分たちの掟のための規範を読みとるのだと強弁しているが、じつはすばらしき役者であり、自己欺瞞者である君たちは、その反対のことを望んでいるのだ! 君たちの傲慢な心は、自然に(自然にすらだ)、自分の道徳と理想をおしつけ、[自然を]わがものにしようとしているのだ。
序言
道徳の起源についての私の仮説の若干を公にする最初の切っ掛けを私に与えてくれたのは、明快で、小綺麗で、小器用で、小生意気なくらいの一小冊子であった。その中では、一種の不合理な逆立ちした系譜論的仮説が、生粋のイギリス風の仮説が初めてはっきりと私の前に立ち現れた。〜小冊子の議題は『道徳的感情の起源』、著者はパウル・レー博士〜この書物ほど章句という章句、結論という結論ごとに、私が心のうちで「否」を言った書物は、私のかつて読んだもののうちに恐らくなかったであろう。 この系譜論的仮説こそ後期フーコーの歴史研究に引き継がれたものである。それは直感とか心理学的原理から対象の歴史的変遷を導き出すのではなく、何らかの起源から歴史的変化を経て、我々の時代の対象へと生成されたという前提で、その変化の過程を追っていこうという態度のこと。 /icons/白.icon