フッサール
初版、序言
かつてのわたしは〈論理学一般と同様、演繹的諸科学の論理も心理学にその哲学的解明を期待しなければならない〉とする〔当時の〕支配的確信から出発していた。したがって拙著『算術の哲学』第一巻〜においては心理学的研究がその大半を占めている。この心理学的基礎づけはいろいろな点でどうしてもわたしに十分な満足を与えなかった。数学的諸表象の起源の問いであるとか、実践的方法の実際に心理学的に規定された形成などが問題になったばあいには、わたしには心理学的分析の成果は明晰で教示に富むものと思われた。しかし思考作用の心理学的諸関連から思考内容の論理的統一性(理論の統一性)へ移ったとたんに、正当な連続性や明晰性はもはやどうにも見出されなくなった。そのため〈数学およびあらゆる学問一般の客観性が論理的なものの心理学的基礎づけとどのように整合するか〉という原理的な疑惑さえもがますますわたしを不安にした。 ここでフッサールの言わんとするのは、つまり、こういうことである。心理学はわれわれの心理現象、たとえば思考作用をも一つの経験的な事実と見て、帰納的にその因果法則を求めてゆく。しかし、その帰納がどれほど積み重ねられても、それは結局は経験的な普遍化にほかならず、そこに得られる法則は蓋然的なものでしかない。このような経験的蓋然性から、たとえば矛盾律のような論理法則の必然性がいかにして生じうるであろうか。「Aは非Aではない」といった論理法則のもつ必然性は帰納によって経験的に確認されるものではなく、ア・プリオリな明証をともなって洞察されるものなのである。したがって、こうした論理法則に従う思考内容(理論)の必然的統一性を、思考作用という実在的な心理的連関から導き出すことはできない。論理学の求めるのは心的作用のイデア的(ideal)連関であるが、心理学の求めるのは心的作用の実在的(real)連関であって、後者から前者を導き出すことはできないというわけである【『現象学』木田 元より引用】
いっさいの理論的・心理学的関心に無頓着な、認識体験の純粋記述的研究を、経験的な説明と発生を目的とする心理学本来の研究から区別することは、認識論的に極めて重大な意義をもつがゆえに、われわれは記述的心理学と言う代わりに現象学と呼ぶことを良しとするのである。この呼び方はそれとは別の理由からも、すなわち多くの研究者の用語法では、記述的心理学という表現が〈内的経験の方法的重視と、いっさいの精神物理的説明の捨象とによって限定される、学問的な心理学的諸研究の領域〉を表わしているという理由からも、適当と思われる。 ここで言われる「記述心理学」とは師たるブレンターノの心理学区分である。ブレンターノは経験的心理学を、発生的心理学と記述的心理学に分類した。そして前者は生理学と手を結んで、心理現象の発生-消滅の因果法則を帰納的に研究するものであるのに対して、後者は内的経験に基づいて、心理現象を組成する究極的な心的諸要素を記述的に明らかにするものであり、「心理構造学」Psychognosieと説明した。そして現象学は諸体験の純粋記述的研究であり、そのかぎりでは「記述的心理学」であると述べているから、ブレンターノの用法をそのまま踏襲しているように思えるが、二年後の一九〇三年に発表されたある評論では「現象学をそのままただちに記述的心理学ということはできない。~現象学の記述は経験的個人の体験や体験諸クラスにかかわるものではない」とも論じる。 つまり
1906/9/20 草稿
かりに自分を哲学者と言いうるとした場合、わたしが自分自身のためにぜひとも解決しなければならない普遍的な課題をまず第一にあげてみたい。それは理性の批判である。論理的理性と実践理性および価値判断理性一般の批判である。概括的にもせよ理性批判の意味、本質、方法、主要観点を明晰に自覚しなければ、また理性批判の普遍的構想を十分に考え、企画し、論定し、そして基礎づけなかったならば、わたしは真の意味で生きることはできない。不明晰さとさまざまに動揺する懐疑の苦しみとをわたしはもう十分に味わってきた。わたしは内的確実性に到達しなければならない。そこでは大変なことが、きわめて大変なことが問題になっているのをわたしは承知しているし、偉大な天才たちがそこで挫折したことも知っている。だからかりにも自分をかれらに比肩しようなどとすれば、わたしは最初から絶望せざるをえまい。
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懐疑の発生メカニズム
自然的態度(ドクサ)に基づく自然的思考にとっては、認識客観が認識の中に与えられていることは自明的であったが、しかしいまはこの所与性が謎になるのである。 ある主観が客観的である証拠はなく、とするのであれば主観的客観観念の可能性を否定できない。この自覚から懐疑が発生する
だが懐疑論自体が懐疑論を否定しているという論理矛盾を指摘する俗な思考は対処療法に過ぎない
私にとって必ずしもすべてが疑わしいわけではない。なぜなら「私にはすべてが疑わしい」と判断する場合、「私がそう判断していること」は疑いえないからであり、したがってあくまでも普遍的懐疑ということに拘泥するのはかえって不合理であろう。 https://scrapbox.io/files/64b55a0acb652f001b492d22.png
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概念メモ
なんらかが表象されているとき我々はその表象を我々の内部で構成している。だが、我々はそれを外部―つまり主観を超越した場所―に存在すると錯誤してしまう。このことを超越化的思考作用/超越化的解釈と呼ぶ。我々は決して表象の外には出られないのだ。またこれをメルロポンティは「上空飛行的思考」と呼ぶ。 またこうした態度が我々の通常の態度であるゆえ「自然的態度」と呼ぶ。こうした非学問的態度をエポケーして―括弧に入れて―考えなければならない。
超越論的主観性は、我々が最も直接的に具体的に経験している光景そのものであり、超越化的思考作用/超越化的解釈を全く無くした見たままの状態。自然的態度から超越論的主観性(超越論的態度ともいう)の地平に還元することが超越論的還元である。 超越論的主観性は、形而上学的な土台などではなく、その諸体験と能力をもったものとして、直接経験の領野である。
我々は、机やサイコロを見るときに、長方形だとか正方形だとか考える(これを「知覚」「経験」という)。が、実際我々の目に映っている多くは平行四辺形や台形だろう(これを「感覚」「体験」という)。フッサールは前者を「現出者」として後者を「現出」とする。つまり、我々は「現出」の感覚・体験を突破した向こう側に「現出者」を知覚・経験しているのだ。
またこれは、「現出者」は同一的でパースペクティヴによって「現出」が多面的に立ち顕れると言えるだろう。つまり現出の多面性が、単一の現出者を「媒介」しているのだ。この意味でフッサールの下記言明を理解できよう。
客観の同一性の表象は媒介されている
そのため現出者の知覚は、厳密に直接的ではない。あくまで現出によって媒介された直接性なのである。これが「現象」なのであり、現出と現出者の二義性を孕む概念なのである。
現象という語は、現出することと現出者との間の本質的な相関関係のおかげで二義的である
すなわち超越論的態度によって観取されるのは、たんにみた直接経験ではなく、二重的な体験としての「志向的体験」なのである。
現象学の無前提性
ここでいう無前提とは、現象学が基礎づけとする、他の「学問」がない、現象学の前提となる、他の「学問」がない、という意味での「学問的無前提性」である。 現象学的アプリオリによる本質学
カント的アプリオリと現象学的アプリオリ
カントは「あらかじめ」備え付けられていることをアプリオリであるとする。空間と時間のもとに考えるのもカテゴリーのもとに思考するのも「そもそもの初めからアプリオリに与えられている」ものである。そうした主観的アプリオリに対してフッサールは「カントは現象学的アプリオリを知らなかった」として区別する。フッサールのいう現象学的アプリオリとは時制変化しない「ある」であり、時制変化する「ある」現象学的アポステリオリなのだ。 上記で説明した「現象学的アプリオリ」に「理念的」とか「本質的」とか「普遍的」とか「必然的」といった家族的類似をつくるとともにそうした存在論的性格をもった数学や論理学などの学問を「本質学」或いは「厳密学」とする。一方「現象学的アポステリオリ〕には「実在的」とか「事実的」とか「個別的」とか「偶然的」といった家族的類似をつくるともにそうした存在論的性格をもった心理学や物理学などの学問を「事実学」或いは「精密学」とする。