ライプニッツ
日本ライプニッツ研究協会
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図のような定点や曲線上の点に対応する直線を引いたとき、そのある一部分をすべて関数(fonc-tion)とよぶことにしよう。たとえば横座標BCもしくはAβ、縦座標のABもしくはβC、弧のAC、接線のCTもしくはCδ、法線のCPもしくはCπ、接線影のBTもしくはβδ、法線影のBPもしくはβπ、接線の切片ATもしくはAδ、法線の切片APもしくはAπ、接線と法線の切片TδおよびPπ、接線と法線の余切片TPもしくはδπ等,そのほかいくらでも複雑なものをつくることができる
ここでわかるように「対応」することこそ、原初の「関数」なのだ。
関係は真理のように精神に依存する実在性を持ちますが、人間の精神に依存する実在性をもつわけではありません。というのも、それらの関係すべてを常に決定している至高の知性的存在者が存在するからです。関係とは区別された混合様態は実在的な偶有性でありえます。しかしそれらが精神に依存するにしてもしないにしても、それらの観念の実在性のためにはこれら様態が可能であること、あるいは同じことですが、判明に知解できることで十分です。そしてそのためには、成分が共可能的である、言い換えれば共にありえなければなりません。
この箇所では、個体ないし単純実体同士に限らず、共可能性が一般的に論じられているが、ライプニッツにおいては、個体ないし単純実体もまた、神によって完全な形で概念的に把握されていることに注意しなければならない。この場合、二つの個体ないし単純実体をともに矛盾なく把握することが可能かどうかという問題が起こってくる。そして、神が把握する二つの個体についての概念は互いに整合的でなければならず、この意味でやはり「共可能的」でなければならないのである。