ブルデュー
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「おまえの父や祖父の道に従え」のような諺や教訓的な詩はカビルに多くあり、過去の知恵や経験を凝縮したものとして、現在の困難の解決に資するものと考えられている。過去に実践された振る舞いを繰り返していれば、失敗せずにすむというわけだ。
このように、過去の経験は、現在から切り離された遠い時点に捨て置かれることなく、口語的な伝統、すなわち、物語や伝説、詩や諺などのかたちで伝承されていく。こうした文化的な学習を通して、伝統的な知が継承され、現在の問題に対する解決が与えられるのだ。過去は「集団的記憶の永遠の現在において生き直される」のであり、過去が、現在、さらに未来に対する見方を支配することになる。
未来そのものが過去を経由するのであり、現在に対する批判や否認は、より良き秩序を目指すこと〜それは、現在や過去を断罪することになる〜からではなく、過去の秩序の熱い記憶から生じるのだ。それこそが、自尊心の礎であり、自己懐疑に対する最高の防御となるのである。
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植民地支配による伝統的社会の文化喪失(déculturation)
それまで住んでいた農村を離れ、都市へと流入してきた者たちは、収入もない根無し草のような存在として、伝統的な価値体系の急激な弱体化と同時に、新たな近代的な規則の暴力的な強制によって、文化的・心理的な二重生活を強いられる。
このような経験のゆえに、それまでの伝統的な生活に内在していた暗黙の前提や無意識的なモデルを意識化せざるをえなくなるとともに、新たな都市の文化に対する、不安ななかでの同一化と反感をともなった否定的態度とのあいだで絶えず揺れ動くことになる。
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弁証法的関係がまさに現実化する、構造化された弁証法的関係性、すなわち、外的なものの内在化と、内的なものの外在化という二重のプロセス〜(内在化と外在化の弁証法の結果として、実践は)指揮者の組織する活動の結果ではないにも関わらず、集団的に編成される。
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ハビトゥスは、行為主体が「エートス」として身につけた過去としては、規範的なモデルとして機能するが、「ヒステリシス」の効果としては、新たな状況に晒され、その都度、調整や修正を重ねながら、実践に移されるわけである。
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一般的で移動可能な傾向性であり、ある特定の客観的な規則性に従った学習の結果として、この規則性の下にあるあらゆる行為主体に対して合理的あるいは非合理的(狂気)無行為を決定するもの
学習の結果である点においてハビトゥスと通ずるが、過去の経験に規定され内在化の側面に留まる概念であり、アウヘーベンされていない。つまり過去の経験が現在を規定している。
過去の実践を現在、そして、未来においても反復、再生産する傾向性であり、本質的に新しい実践や状況の変化はない静的なもの。つまりハビトゥスのような構造化すると同時に構造化する動的な性質がない。
過去に重きを置く態度は、伝統を反復することで、その伝統の影響力をさらに強化する。過去の力は再生産され、強化されるわけだ。「エートス」とは、このような過去の持つ、現在、そして、未来を決定する力のこと table:比較
予見(未開社会) 予測(資本主義社会)
金銭の貸借 当事者間の信頼関係に基づく 利子の計算を含む契約に基づく
親類や友人、姻戚関係者といった知人間でしか契約を結ばないことで、将来にわたる関係性がまさにこの現在において確かなものとなるのは、約束を守るという評判の相手についての経験だけでなく、なかでも特に、当事者を結びつけ、やり取りが終わっても生き続ける客観的な関係性によってである。それによって、やり取りの将来における成り行きは、資本主義社会における貸借関係が、契約者のまったくの非人称性を前提するために備えねばならない、明示的で形式的な取り決め以上に、より確かなものとして保証されるのだ。
未開社会における貸し借りは、すでに存在する関係においてのみで行われ、その関係が将来にわたっても継続され、より強化されていくことが「予見」される場合において実現する。これは、これまでの経験による借り手の評判が、「アポステリオリな、あるいは、事後的な確率」として、今回の貸し借りが実現するかどうか、すなわち、「主観的に見積もられた、アプリオリな、あるいは、事前的な確率」を決定しているのだ。そして、その負債が将来において返済されることで、この関係がさらに強化され、「象徴資本」として、再生産されていく。このように、前資本主義的な社会における貸し借りは、エートスに従って行われているわけである。 過去の経験を保存し、再生産してくエートスの対極にあるのが、ヒステリシスである。この概念は、一般に、「履歴現象」と訳され、ある状態の変化を生み出した力が働かなくなっても、生み出された状態そのものは維持される現象のことである。特に磁気現象に関して使われ、強い磁場に置かれることで磁化した物体が、その磁場を離れても、磁化された状態を保つ現象を指すものである。 ハビトゥスを構成する論理に必然的に含まれたヒステリシスの効果によって、実践は、常に外部に晒され、その実践が現実に向かい合っている環境が、客観的に合わせられた環境からあまりに隔たったものであるとき、否定的な評価、それゆえ、「二次的な否定的強化」を受けることになる。
先に見た一般的な概念と異なり、ブルデューにおいては、「エートス」とともに、ハビトゥスの論理を構成するものであるかぎりにおいて、過去を継続するものというよりむしろ、新たな状況への開けを意味している。
このような開けによって、新たな状況が、実践が行われていた元々の状況と大きく異なっているとき、ハビトゥスが否定的な価値をともなって浮き彫りになるわけである。この意味で、ヒステリシスの効果は、このような反復、再生産がもはや無効になるような状況を明らかにするものなのだ。別言すれば、「ヒステリシス」の効果が顕わにするのは、過去の経験を放棄し、新たに組み替えねばならない状況である。
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社会的位置空間の卓越性条件は、機能的に文化したそれぞれの領域に異なる。
そしてそれぞれの領域での正統性を定義して支配的価値観として確立することを目指した象徴闘争が勃発する。更に卓越性を保証する財や慣習行動が、被支配階級に普及すると陳腐化し、正統性としての価値が希薄化・通俗化するため、それに対抗して新たな象徴へと移り変わり変容していく。(引用) /icons/白.icon
支配階級
中間階級
庶民階級
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あらゆる形式の文化的(教養的な)能力は,経済的生産体系と,〔ひろい意味での〕生産者の生産体系(これ自体は,学校体系と家族体系の関係から形成される)とのあいだに築かれる実在的な関係においてこそ,文化資本として構成されることができるのである
ブルデューは、文化資本の成立について二つの機縁を考えている。一つは、「文字の成立と普及」であり、もう一つは「学校教育の成立とその量的拡大」である。
文字が文化資本の本源的蓄積(accu mulationprimitive du capital culturel)をおしすすめる契機になるし、学校教育の普及によって、文化資本の再生産が可能になるからである。
文化の本源的蓄積とは、個人の記憶によるのではなく、テクストの中に保持されて、文化的資源の領有手段(書き方、読み方、その他の解読の技術)が独占され、宗教、哲学、芸術、科学という象徴的な諸資源がすべてまたは部分的に独占されることである。しかしながら、この資本は学校システムの出現によってのみその完全な実現の条件をみいだすのであって、このシステムは、文化資本の分配構造において〜持続的に認証される諸資格を付与するのである 絵画、ピアノなどの楽器、本、骨董品、蔵書等、客体化した形で存在する文化的財
この種の文化資本は、三つの側面から特徴づけることができる。
まず第一に、これは「身につけられる資本」とつねに関係づけて把握されなければならない。有体化している文化資本は、経済資本とまったく同様に譲渡されることができる。そのかぎりで、それらは法的所有物であるけれど、問題になるのは、それらの文化財に接していて特定の素因が獲得されるということである。だから、たんに物を所有することに尽きるのではなく、客体的な資本は、身につけられる資本を含みながら相続されるという点が見逃がされてはならない。
第二に、文化財を取得できるためには、それに見合う経済資本がなくてはならないが、それとともに、あらかじめ文化財の価値評価をし、文化的芸術的に享受しうる文化資本が身につけられていなければならない。そしてまた、この文化資本は稀少価値をほこる「象徴的な所有」の対象になるということが忘れられてはならない。このような面からみると、文化資本は経済資本によって物質的に支えられながら、象徴資本としての効力も発揮するといいうるのである。 第三に、さまざまな種類の文化資本が真に「わがものにされるということ」は,「それを特殊な使用目的におうじて使いこなしていく」特種な資本が身につけられるということ、そしてこのことはまた,「この資本がうみだす活動(service)」が再生産されるということでもある。
学歴、各種「教育資格」、免状など、制度が保証した形態の文化資本
文化資本は活動主体に獲得されてこそ生きてありうる。そうでないとそれは死んだ文字やたんなる物になってしまう。この点で生物学的な限界をもっている。そこで「資格という形態で文化資本の客体化」がはかられる。
協約された、恒常的法的に保証された価値が付与される
そして、資格証明された制度的な文化資本が、効力あるものとして社会的に再生産されて分配されていくメカニズムが重要である。
ブルデューは,人々に承認されてこのように通用するメカニズムを「社会的な錬金術」とみる。このはたらきが「文化資本の形態」を生産し下記性質を付与する。
ある時代のある時点で実際に習得した文化資本にたいして相対的な自律性
それは、下記で明言しているように、あたかも生者が葬送儀礼として蘇生する行為の様なものなのである。
死者を再建する(instituer)〜集合的な呪術によって樹立
それではここでいう「集合的な呪術」とは何か。ブルデューは競争試験を例にとる。 無限にことなる連続するなかに〜容赦なく非連続〔評定〕をもちこみ、〜そして、慣習的に承認され保証された能力と、たえず能力あることを実証していかなければならない単なる文化資本とのあいだに、本質的な区別をもうける
それは魔術的にのみ,つまり集合的な信念(croyance collective)をつうじて強制され保守される領域
かくて文化資本の制定力は、集合的な信念に支持されてその社会的効力をもち、また社会的に承認された試験制度として維持されていることがわかる。
ハビトゥス | 慣習行動を生み出す諸性向、言語の使い方、振る舞い方、センス、美的性向など。 文化資本の特性は、基本的には、活動主体の身体に直接に結びつけられていることである。だから、ブルデューが、「文化資本が身体に蓄積される」というような表現をするのは、うえでみたように、同型的な範型に媒介されて、教育と同化の働きがおこなわれること、時間と精神集中を消費しつつ、経験の調整をたえず強化し、類似する経験や同一の経験をそのつどプログラム化する事態をさしている。 しかし,文化資本を測定するうえできわめて困難なことは、習得のための時間(temps d'acquisition)がその尺度となっていることである。この時間は就学期間(temps de scolarisation)だけをいうのではなく、ブルデューによれば,「学歴市場(marche scolaire)の特有な論理」つまり、学校システムと家族システムから形成されるのである。
ところで、文化資本を身体化するとは、「自己を耕す」(se cultiver)ともいわれるように、「活動主体」の「自己自身を対象とする労働」の過程ともみなしうるのである。この過程をつうじて文化資本は、"人格"(personne)に統合される、身体に形成される特質であり、これはすでにふれた「範型」ということになる。
文化資本を身体化する場合、「自己の人格」「彼がもつ最も個人的なもの」「彼の時間」が消費されることになる。だから個人に獲得されるこの種の資本は、たとえば、贈与や遺産相続、あるいは売買や交換のように、直接に譲り渡されるものとは異なるし、あきらかに貨幣とも異なっている。文化資本のばあいは「最も個人的なもの」とひきかえに資質(propriete)とか品性(noblesse)という資格で獲得されるからである。