スチュアート・ホール
introduction
ホールによると、伝統的なマス・コミュニケーション研究は、コミュニケーションの過程を、送り手/メッセージ/受け手といった線的なモデル、すなわちメッセージがやりとりされるレベルにのみに注目しており、社会的諸関係の構造のような多様な要素を構造的に概念化していない、と批判する。
そこで、ホールは、これをメッセージの「生産」、「流通」、「分配」、「消費」、「再生産」 といったそれぞれの契機が接合(articulate)される過程から捉える。もちろん、ここでいわれているそれぞれの契機はそれぞれに固有の存在条件を持っているのだが、ホールが注目するのがこの一連の過程を通して生産されるメッセージの「言説的な生産」の局面であった。
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記号論的マス・メディア論
もちろん「encoding/decoding」モデルそれ自体は、マス・コミュニケーション研究においてそんなに目新しいものではない。しかし、ホールはそこにバフチン記号論の知見を取り入れ、「意味作用」 としての意味の生産が行われる時のメッセージと受容者の間の「差異」のせめぎあいの契機を問題としたのである。 例えばニュースを放送する場合、「生」の歴史的出来事は、決してそのままの形では伝達されずに、テレビのディスコースにおける声と視覚の形式の範囲内でのみ意味されることになる。だから、ディスコースは、ある「支配的」な形式上の規則に従属することになるのである。
そこでは、メッセージは下記を要請される
(いかに明確に)「効果」を及ぽすことが可能になり、「必要」を満足させ、または「使用」される前に、まず意味あるディスコースとして充当され、意味あるものとして読解されなければならい。
ここでは、視聴者を優先的な意味(preferedmeaning)の中へヒエラルキー的に組織化されるように見えるのだが、後に考察するようにこれは「支配的」ではあるが「決定的」なものではない。そして、このような過程には、「encoding 」、「decoding」の契機が存在する。ある決定的な契機において、放送の諸構造はコードを使い「メッセージ」を生み出す(encoding)、別の決定的な契機において、「メッセージ」はその解読を通じて、社会的諸実践の構造の中に現れる(decoding)。「メッセージ」は、それまでのマスコミュニケーション研究で見られたような、効果、使用、満足というような実証的な研究によって同定される、理解の諸構造によって組み立てられたものであるのだが、同時に、図に見られる下から「技術基盤」、「生産関係」、「知識の枠組み」へと上がっていく社会的、経済的、そして文化的関係によって生産されてもいるのである。
しかし、「情報源」のコードと「受信者」のコードの間には非対称性が存在し、また、そこに付属する「意味構造1」と「意味構造2」は同じものではないために、「歪曲」、「誤解」が生じる可能性が常にあるのである。「歪曲」、「誤解」と呼ばれるものはま、この双方のコミュニケーションの交換の二つの側の間に等価性が欠けていることから生じる。繰り返しになるが、このことがこの言説的諸契機における、メッセージの「相対的自律性」を、しかし、「決定性」を明確にする。
decodingの類型
メッセージは一義的に決定されたかたちで受容者に受信されるのではなく、コミュニケーションの「一致(correspondence)」は、「歪曲」や「誤解」を含んだ複合的な形でコencoding/decodingのあいだを「接合」する。
ホールはここで、読者のdecodingの過程には三つの立場があるとの想定をして、イギリスの社会学者、フランク・パーキンの理論を応用しながらそれを説明している。「支配的コード(dominant code)」、「交渉的コード(negotiated code)」、「対抗的コード(oppotitonal code)」がそれである。 含意された意味を完全に、そして歪めることなく受け取り、その意味がコード化された参照コードによってそのメッセージを解読する〜観念的で典型的な「完璧に透明なコミュニケーション」の場合である。
ここでは、例えばニュースキャスターのような「専門的コード(pofessional code)」も相対的には独立しているにも関わらず、支配的コードのヘゲモニーの範囲内で支配的定義を再生産する方向に働くとされる。
そのような読解は、ヘゲモニー的定義の正統性一般的な意味作用(抽象的) を作り出すことを認めつつ、一方でより制限された状況的な(立場にある)レベルでは、自身の基礎的規則を例外をはらみながら一作り出す。
交渉的コードは、支配的定義に特権的立場を与える一方で、読解のより交渉的な適応を自身の仲間内的な(corporate)立場に保持する。
「視聴者がディスコースによって与えられた、全くの共示的な屈折を完壁に理解しながら、おおっぴらに逆らうやり方でメッセージを解読すること」
そこでは、異なった準拠枠を用いて優先的なメッセージを解体するのである。ホールは、テレビにおけるメッセージとしてのイデオロギーが一義的に決定されて受容者に受け取られているのではなく、その他の契機、すなわち、家族学校、ジェンダー、社会的コンテクスト、文化的な場の影響、そして、バフチンのいう「イデオロギー的記号の多強調性」から受容者の読解による意味をめぐる闘争も考察の対象にしなければならないとつけ加える。 「言説における闘争」は言説の節合と非節合から成るとされる。結果として、言説実践を通して、この「言説における闘争」は最終的には、「闘争における強制力」、すなわちヘゲモニ―の相対的な強さに依存することとなるのである。それはヘゲモニーによって支配されることもあるし、カウンター・ヘゲモニーによって意味が逆転することもある。さらに下記のようにつづける。
階級のポジションから社会集団や個人のイデオロギー的ポジションを読みとるのではなく、どのように意味をめぐる闘争が導かれるのかということを考慮に入れなければならないという事実は、イデオロギーが (例えば、経済闘争のレベルで)起こり、または他のところで決定される、闘争の単なる反映であることをやめるということを意味している。それはイデオロギーに相対的な独立、また「相対的自律性」を与えるということである。イデオロギーは社会闘争の単なる従属変数であることをやめる。かわりに、イデオロギー的闘争はそれ自体の特殊性、適切性を獲得するのである。 https://scrapbox.io/files/6540973ac0f766001bd9c488.png
8月にイリノイ大学、9月にアイオワ大学で行われたインタビューをもとにしている。
ボードリヤール的内破論の否定
まずフーコーの問題点を下記のようにする
わたしはいまだにイデオロギーについて語りますが、フーコーはイデオロギー的な次元をまったく持たない言説の編成について語ります。〜放棄しては、現代社会と社会的実践を理解することは困難になる。〜ある共事態における社会的編成の中での、相対的な力関係や異なる真実のレジームの配置の問題は、社会秩序内での力の維持に関して特定の効果を持つ訳ですが、これをこそわたしは「イデオロギー的な効果」と呼ぶのです。「イデオロギー」という用語は、わたしの思考をそのような問題に向けつづけてくれるため、わたしはその言葉を使用しつづけるのです。イデオロギーという用語を放棄することによって、フーコーは〜「諸勢力の関係性」について考えが及んでいないため、彼の理論から政治的なものは抜け落ちているのです。
そしてボードリヤールに移る
表象と意味の内爆発に関するボードリヤールの議論を取り上げてみましょう。〜すなわち、ものごとは表面的に映る通りのものに過ぎない、という考えです。それらは何ごとをも意味しないし、含意もしないというのです。〜われわれは既に読解、言語、意味、を超越しているというのです。〜ボードリヤールの立場は何やら超現実主義(=シュルレアリスム)的なもの、まるで三次元世界を超えたものになってしまったように思います。彼の理論は、現実を認識する過程には、そこの表面に即物的にあるもの以外は何も存在しないというのです。確かにいわゆるポストモダン社会といわれるものの中では、その社会が生産することのできる表面的な事物の多様性や複数性に圧倒される気分にされますし、また、永久に模倣し、再生産し、複製し、反復することを可能にしている近代的な文化生産の豊かなテクノロジー的基盤をも認識しなければなりません。しかし、唯一、最終的で絶対的な意味、すなわち究極の意味内容など存在せず、あるのは永久にスライドしつづける意味作用の連鎖だけだという主張と、一方での、意味など存在しないという主張の間には、埋めることのできない大きな違いがあるのです。 上記で示した違いを語るにあたってベンヤミンを導入する。
ベンヤミンかつて、たった一つしかない単一の芸術が持つアウラを、モンタージュが永遠に破壊してしまうだろうことをわれわれに認識させてくれました。そして、いったん複製することで単一の芸術作品のアウラを破壊すると、もはや二度と過去と同じように、伝統的な理論的概念を使用してアプローチすることが許されない新しい時代にわれわれは進入することになるのです。 そして始まる近代の記号性の膨張を語るとともに、ただ、ボードリヤ―ルではないことを明らかにする。
最後に下記のように示す。
われわれは皆、歴史的に、かつ、空想的に記号化され得る記号化のエージェントになってしまったのです。われわれは、新たな自己意識と内省性の形態を創出した、この読解と言説の多数性の真っ只中にあるのです。したがって文化の生産および消費の様式は、このような記号性の膨張の結果、本質の上でも想像のうえでも変化したのは確かなのですが、それは必ずしも表象そのものが崩壊したことを意味するものではないのです。表象は以前よりも複雑な問題性をはらんだ過程になったに過ぎず、それは表象の終焉を意味するものではありません。 節合概念について
まずイギリス語における節合概念について述べ、それが性質を指し示しているという。
わたしは常に「節合アーティキュレーション」という言葉を使用しますが、はたしてわたしがそれに与える意味が完全に理解されているかに関しては疑問を感じます。イギリスでは、この言葉は都合よく二重の意味をもっています。なぜなら、「節合する」とは発話行為そのもの、発言すること、自身の言語が明瞭であること、を意味するからです。それは言語活動や表現すること、等々、のニュアンスを持っているのです。一方、われわれは「節合」的なトラックなどとも言います。それは前部の機関部と後部のトレーラー部分が、互いにくっつけたり、離したりできるトラックのことです。二つの部分は、切り離すことの出来る特定の接点において、互いに結びついているのです。したがって、節合とは、特定の条件下で、二つの異なる要素を統合することができる、連結の形態なのです。 これはまさに浮遊するシニフィアンを主人のシニフィアンによって固定的な位置に構成する、パロール的なものとして、諸要素を節合するということとしてイギリス語が節合概念をまさに指し示しているということであろう。 しかし、そのつながりは、いかなる時も常に、非必然的で、非決定で、非絶対的かつ非本質的なものです。いかなる状況下であれば、ある種の連結をつくり出しうるのか、構築しうるのだろうか、と問いかけなければならないのです。したがって、言説のいわゆる「統合性」といわれているものは、実際には異質の、相違した諸要素の節合に過ぎないのでして、それはまた、必然的な「諸属性」を持たないため、別のあり方でいくらでも再節合しうるものなのです。問題とされる「統合性」は、その節合された言説と社会的な諸勢力を、特定の歴史的な諸条件の下で、必然的ではないながらも、結びつけることが出来るつながりのことなのです。したがって、節合の理論とは、特定の条件の下で、イデオロギー的な諸要素がある言説内で互いに意味をなすようになるあり方のことであると同時に、特定の複合的な局面状況にあって、それらがどのようにして特定の政治的主体から見て、節合されたり節合されなかったりするのかを問う方法でもあるのです。
そして上記のように、ヘゲモニーはある特定の諸勢力が恣意的に諸要素を節合することによってできる、則、必然的に形成されるのではなく、非必然的な契機としてなしえるものであるという。
このことを言い換えさせて下さい。節合の理論は、あるイデオロギーにおいて必然的で不可欠な考えを、主体がどのように思考するのかということよりはむしろ、イデオロギーがどのようにその主体を見いだすのかを問うのです。節合の理論は、イデオロギーがどのようにして、人々にみずからの歴史的状況の意味を何とか取りまとめ、それに対する理解可能性を持つことを可能にする力を付与するのか、考えさせてくれるのです。しかも、それらの理解可能性の諸形態をみずからの社会経済的あるいは階級的な配置や社会的な位置づけに還元することなしに、考えさせてくれるのです。
『ヘゲモニーと社会主義の戦略』において〜ラクラウの議論は、イデオロギー的な諸要素は党派性を持たないということであって、したがって、われわれが考えなければならないのは、異なる諸実践の間のつながり、すなわち、イデオロギーと社会的諸勢力のつながり、イデオロギーの中での異なる要素の間のつながり、ある社会的な運動を構成する異なる社会集団の間のつながり、等々、なのだということを言っているのです。ラクラウは、伝統的なマルクス主義のイデオロギー論に染みついた運命論的な必然主義と経済還元主義を切り崩すために節合の概念を使用するのです。 つまり諸要素はあくまで浮遊するシニフィアンとして不安定で開かれているのであり、そこにある特定のイデオロギーとの関連における必然性は存在しないということ。同時にそれはグラムシのヘゲモニーを再評価し、階級からの生産という観点を拒むことであるということ。
そこで例として「宗教には何ら政治的なコノテーションはありません」とし下記のように説明する。(下記のそれらは諸要素)
それらのつながりが「非必然的だ」というとき、わたしは宗教が他のものから切り離されて、自由に浮遊していると言っているのではありません。宗教には、歴史的には、複数の異なった勢力と非常に直接的に結びついたかたちで、特定の編成内につなぎ止められて存在するのです。にもかかわらず、それは何ら必然的で、内在的な、歴史を超越して存在する党派性など持たないのです。その政治的かつイデオロギー的な意味は、まさにある編成内の配置によって決定されるのです。 上記では諸要素は何らかの主人のシニフィアンに、つなぎ止められた形で存在し、それを脱節合→再節合することによって再編成されるということ。そしてその編成内の各諸要素の差異および配置によって、浮遊するシニフィアンの存在条件が確固たるものに至るということ。だからこそ宗教という言説は「複数の方法で節合されるように変容させることも、潜在的には可能」なのだが、「歴史的に見て、宗教は長い間に特定の文化に特定の仕方で挿入されてしまった」ことにより、「切り崩すのが非常に困難な傾向性の磁力的な配列が構成された」という。その意味で「政治的あるいはイデオロギー的なコノテーションを持つのは、言説の個別の要素ではなく、それらの諸要素が新たな言説的編成の中で相互に配列される」ことによるものだという。 そしてグラムシをラクラウらと同様に拒む
政治的な勢力を構成するのは、すなわち歴史的な勢力になるのは、新たな政治的主体として構成される限りにおいてだけなのです。したがって、社会的な勢力の間の節合、すなわち非必然的なつながりこそが、それ自身を構成しているのであり、かつ、みずからのたどっている過程を理解可能かものにする、イデオロギーあるいは世界の認知図を構成しているのです。そして、この節合こそが、歴史的な舞台の上に新たな社会的かつ政治的な位置や、新たな一連の社会的、政治的な主体をもたらし始めている。〜わたしは、そのつながりが社会経済的な構造あるいは配置から必然的に決定されるのではなく、まさに節合の結果としてあらわれるのなと考えたいのです。
ラディカル・デモクラシー主義との対比
インタビュアーが「あなたの節合の理論は、社会的な編成の諸要素が、言語のように作用していると提起している」観点から『ヘゲモニーと社会主義の戦略』との共通点や相違点を問う。
諸実践を言説的に機能するものとして、すなわち言語のように機能するものとして、再考するという道に、私は非常に深く入り込んでいるというあなたの指摘は、まったく的を得ています。わたしにとって、その言語のメタファーは非常に生産的なものであったし、わたしの思考を強力に貫いているものだと思います。もしも、現代の思想的な革命を構成する理論をたったひとつ挙げなければならないとしたならば、わたしは、言語のメタファーを挙げるでしょう。それは幾千の異なった方向に発展しましたが、いずれにしても、われわれの思想的な宇宙を再構成もしたのです。〜われわれが「自己」と呼ぶものは、差異から、そして差異によって構成されているのであり、構成されたのちも矛盾を含むのだ、ということを気づかせたのです。それはまた同様に、文化的な諸形態も、その意味では、決して全体性をもったり、完全に閉ざされたり、「綴じられる」ことないのだ、ということを気づかせてくれました。
上記のようにラクラウらを称賛すると同時に下記のように相違点を明らかにする。
それは言語のメタファーの有効性を認める立場と、それを全体化する立場であり、ホールは前者、ラクラウは後者をとっているということ。
サッチャリズム研究
主体の回帰
個人主義の世紀の系譜を紐解く
そして自己は核=確たるものから離れると言う
「主体」のモデルも変わってきた。一つの全体と中心をもち、安定し完結した自我(Ego)もしくは自律した合理的な「自己」(self)として個人(the individual)を捉えることは、もはや不可能である。「自己」とは、もっと断片的で不完全なものとして概念化されるものであり、私たちが生きるさまざまな社会的世界との関係における複合的な「複数からなる自己」もしくは複数からなるアイデンティティとして構成されるものであり、ある歴史とともにあるなにものかであり、「生産される」ものであり、過程のなかにあるものである。さまざまな言説や実践によって「主体は」さまざまに場所を定められ、位置づけられるのである。
この主体のずれにおけるキー・エピソードを下記と示す。
1960年代の文化革命。1968年それ自体とそこでの「舞台」としての政治への鋭い感覚ならびに「意思」や「意識」についての議論。フェミニズムと、その「個人的なものは政治的である」という主張。精神分析への関心の復活と、その主体性の無意識の根の再発見。1960年代から1970年代にかけてのさまざまな理論的革命−記号論、構造主義、「ポスト構造主義」と、その言語や言説、表彰に対する関心。
そしてこの主体の回帰による局面が提起する事象を示す。
文化的次元
ホールは多元化する社会を下記のように描く
人々が活動する社会的世界の多様化に関連して、「市民社会」は、途方もなく拡大してきた。現在、多くの人々は、消費を媒介としてのみこの社会的世界に関わっている。しかし私たちは次第に、この世界を高度な水準で維持するには、限られた市場論理をはるかに超える集合的な消費形態を必要とすることを理解しつつある。それだけでない。それぞれの社会的世界は、それぞれの行動のコードや、「場面」や「経済」、また「快楽」(馬鹿にするなよ)をもっている。すでにこれらは、なんらかのアクセスをもつ諸個人に、日常生活を超えた選択と操作の基準を再び主張し、そのより表現に富んだ次元で「遊ぶ」ような空間を可能にしている。こうした社会生活の「複合化」は、日々の労働、社会的生活、家族生活、性生活において、一般人(少なくとも工業化された世界において)がとりうる複数の位置性(positionalities)や複数のアイデンティティの可能性を拡張する。そうした機会はさらに広く―狭くではなく―グローバルに可能となり、かつ私的な横奪によって限定されないようになる必要がある。
そんな複数多様化する社会における権力=政治の図式をラディカルに言明する。
そのミクロの世界では、権力と対立―そして搾取や抑圧、周縁化―の発生点が増殖しているのだ。私たちの日常生活は、これまでにもまして、そうした権力形態やその交錯線のなかに取り込まれている。システムへの反抗が存在しないどころか、新たな抗争性の点とそれをめぐって組織される新しい抵抗の社会運動が増加するのであり、その結果、従来左翼が非政治的と考えていた領域―家族の政治、健康の政治、食糧の政治、性の政治、身体の政治―へと「政治」が一般化する。私たちには、これらの権力関係がいかに結びついているのかについての包括的な地図、そしてその抵抗の地図がまったく欠けている。おそらくその意味では、一つの「権力ゲーム」など存在しないのであって、あるのはさまざまな戦略や権力の網の目とその分節化であり、したがって、政治はつねに位置をめぐる(positional)ものなのである。 そんな肥えて複雑化した文化社会ではルソー的な「自然に還れ」は機能せず、楽観的な生物中心主義(エコロジー思想)も機能せず、逆説的な人間主義が必要と唱える。 第一の宇宙における存在論は物理学に奪われたが、「第二の宇宙」における存在論は未だ卓越した思弁による形而上学のものなのではないか 現代思想26
文化的アイデンティティはそれ自身の歴史を持ち、そしてその歴史にはそれ自身の現実的、物質的、象徴的な効果がある。過去は私たちに語りつづける。しかしそれ(過去)はもはや私たちを単一の事実としての「過去」へと位置づけはしない。というのは、過去と私たちの関係は、 母と子の関係のように、常にすでに「切断の後」にあるものだからである。それは常に記憶や幻想ファンタジーや語りナラティヴや神話を通じて構築されている。 上記で述べられているのは過去が|記憶・幻想・語り|を通じて〈いま・ここ〉に語りかけることによって私のアイデンティティを構成するということ。
文化的アイデンティティとは,歴史と文化の言説の内部で作られるアイデンティフィケーションの地点、アイデンティフィケーションや縫合の不安定な地点である。それは本質ではなく、一つの位置化(positioning)である。したがって問題のない超越的な「起源の掟(Lawof Origin)」に絶対的に保証されることなどないアイデンティティの政治,位置の政治が常にあるのである
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アイデンティティは決して単数ではなく、さまざまで、しばしば交差していて、対立する言説・実践・位置を横断して多様に構成される
この論点を明確にするためにホールは,「アイデンティティ」を「縫合の点」であると規定する。「縫合(suture)」は、主体が自らを取り巻く「他者の言語」と結びつくことを意味しており,「節合(articulation)」とほとんど同じ意味で使われている。
私は「アイデンティティ」という言葉を、出会う点縫合の点という意味で使っている。つまり、「呼びかけ」ようとする試み、語りかける試み、特定の言説の社会的主体としてのわれわれを場所に招き入れようとする試みをする言説・実践と、主体性を生産し,「語りかけられる」ことのできる主体としてわれわれを構築するプロセスとの出会いの点〈縫合〉の点という意味である。このようにして,アイデンティティは言説の流れの中に主体をうまく節合もしくは「連鎖化」させた結果である。