バフチン
言語は、人間の集団活動の所産であり、そのすべての要素で、言語を生みだした社会の経済的組織化をも、社会的・政治的組織化をも反映しているのである。
ことば対話テキスト (ミハイル・バフチン著作集 8)収録
記号としての心理
内的心理の現実とは、まさしく記号の現実です。記号という実体をのぞいては、心理はありません。確かに記号といら実体をのぞいても、生理的な過程、神経組織の過程はありえます。しかし、人間存在の特性としての主観的心理はありえません。これは、生体のうちで営まれる生理的な過程とも、生体を取りまき、心理がそれに反応し、なんらかの仕方でそれを反映する外部の現実とも、根本的に違うものです。主観的心理は、その存在の場を、いわば、生体と外部世界とのはざまのごとき場所、この二つの現実領域の境界線上にもつものです。その境界線上で、生体と外部世界とが出会うわけです。が、それは、決して物理的な出会いではありません。生体と外部世界とは、この境界領域で記号を介して出会うのです。心的経験なるものは、生体と外部世界との接触の、記号による表現にほかなりません。従って、内的心理をものとして〔自然科学的な方法によって〕分析することはできないことです。それは、た だ、〔記号論において〕記号として解読し解釈しうるだけです。
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対話における闘争の有用性
バフチンにとって「対話」は「社会的交通」を意味している。それは下記点において「対話」が発生するからであると捉えたからなのである。 共同体の終るところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点
そこでは中立的な言語を媒介とする自己と他者との対称的関係は成立しない。言語記号そのものが「言語ゲームの異型性」のなかでつねにすでに屈折させられている為である。それを彼は下記のように表現する。それは「意味をめぐる闘争」において常に多様性に開かれているということであり、これが、「イデオロギー的記号の多強調性」と呼ばれるものである。 バフチンは社会構成体における階級対立を念頭に置いているため、記号そのものを階級闘争の賭金として考えている。階級闘争は、それぞれの階級に固有の言語ゲームが接触する地点においても発生するのである。
則、同一性原理に依拠する「対話」では何の新しい意味も生まれてこなく、たったひとつの意味が永遠に再生産されるだけである。その状態では「社会的交通」の場そのものが存在しないからである。そうではなく、差異と差異との衝突によって生じるダイナミズムから他者性を自己のうちに取り込むこと。自己をつねに「社会的交通」に向けて開放しておくこと。そのときはじめて意味生成は豊饒なものとなってくるのである。
基礎づけ
美男と芳紀純潔な年ごろの美女が「予期せず」出会う。
出会った「瞬間」、二人の間に、運命のように抗し難い、不治の病のような、「突然の」情熱が燃え上がる。
二人の結婚は一筋縄ではいかず、二人はそれを「妨害する」数々の障害に直面する。
二人は「離れ離れ」になり、互いを捜し求めて広範にわたる場所を彷徨い、再会と別離を繰り返す。
二人は「親の反対」、「難破」、結婚式前夜の花嫁の誘拐、「監禁」、「海賊」による襲撃、冤罪など、降りかかってくる様々な障害を乗り越え、苦難から逃れる。
予期せぬ友や敵との出会い、予知夢、預言(者)、予兆が重要な役割を果たす。
障害と苦難を克服した二人の男女は、最後に夫婦として結ばれる。
このような典型的な展開を見せる「ギリシャ小説」の「クロノトポス」に対し、バフチンは「冒険の時間の中の異世界 (an alien world in adventure-time)」という名を与えた。その特徴は、次の通りである。 「二人の男女が突然、互いに情熱を燃やす」という出発点、「二人が結婚して結ばれる」という終着点の「間」で全てのアクションが起こる。
この「間」に何が起きても、いかなる試練によって試されても、二人の「愛」は変化せず、それが疑われることもない。
激しい紆余曲折にもかかわらず、それは「愛」に影響を及ぼすことはなく、二人の性格や人格 (personality) にも痕跡を残さない。
このような「冒険の時間」は、「日常」(日々の具体的な生活や(人・ヒトとしての)成長から成る人生のサイクル)から完全に遊離し、「偶然」や「運」(chance) によって支配される。
様々な「試練」は広範な場所で(海を隔てたいくつかの国をまたいで)起こるが、その場所の具体性(社会のあり様や政治形態などの詳細)は、出来事の生起に全く貢献しない。 上記のように特徴づけられる「ギリシャ小説」の「クロノトポス」は、抽象的で静的な時空間であり、それが、社会性や政治性を持たない「完全に個人的」な「登場人物」のイメージの基盤となっている。
クロノトポスとは
さて、「ギリシャ小説」の例を踏まえたうえで、バフチンによる「クロノトポス」の定義は、下記の通りである。
We will give the name chronotope (literally, “time space”) to the intrinsic connectedness of temporal and spatial relationships that are artistically expressed in literature.
バフチンが論じるところによれば、「クロノトポス」とは、文学において芸術的に表される、時間的・空間的関係の本質的な繋がりの謂いである。それは、文学の形式的に構成的な (formally constitutive) カテゴリーであり、そこにおいて、空間的、時間的標識は、一つの注意深く考え抜かれた、具体的な全体に融合する。時間は厚みを持ち (thicken)、肉づけされ (takes on flesh)、芸術的に可視化されるとともに、空間もまた、時間、プロット、歴史的な性格を帯び、それらに対して敏感となる。
このような「クロノトポス」は、本質的にジャンル的な重要性を持ち、それゆえ、ジャンルやジャンル間の区別を定義するものこそが「クロノトポス」である、と言える。形式的に構成的なカテゴリーである「クロノトポス」が、かなりの程度、人間(登場人物)のイメージを決定する限り、人間のイメージは本質的に「クロノトポス」的である。
文学が、歴史のなかの実在の時間・空間と、そのなかで自己を開示してゆく歴史的実在の人間とをみずからの ものとする過程は、複雑で断続的な道筋をたどってきた。しかも、文学がみずからのものとしてきたのは〔実在の時間・空間のすべてではない〕。人類の発展の歴史の各段階で近づきうる、時間と空間の個々ばらばらな局面である。それに対応して〔文学が〕つくり上げてきたのも、現実のうちからみずからのものとした局面を反映し芸術的に精錬するのに適したジャンルの方法である。/ 文学がこのように芸術化してみずからのものとしてきた、時間的関係と空間的関係との本質的な相互連関を、 ここではクロノトポスと呼ぶ 。これは、相対性理論(アインシュタイン)を基盤にして導入され基礎づけられた用語で、今日数理的な自然科学において使われている用語である。しかし、われわれにとって重要なのは、この用語が相対性理論においてもつ専門的な意味 ではない。われわれは、この用語を、ほとんど比喩として文学研究の領域に移入する(ただし、ほとんど比喩としてであって、まったく比喩としてではない)。つまり、われわれにとって重要なのは、この用語のうちに、空間と時間とは切り離しえないということが示されている(つまり、時間が空間の四次元として示されている) 点である。さらに、ここでは、時空間なるものを、文学の形式・内容上のカテゴリーと解してゆく(したがつて、 文学以外の他の文化の領域における時空間については、ここでは触れない) /icons/hr.icon
/icons/bard.icon Morson & Emerson (1990)解釈:アインシュタインとの比較 ①「クロノトポス」において、「時間」と「空間」は本来的に繋がっている(「クロノトポス」は、時間と空間が融合した (fused) 感じを明確にする)。抽象的な分析において、時間と空間を分けることはできるが、そのような分析には、「クロノトポス」の本質を歪めてしまう危険性がある。
②.「時間」や「空間」の意味には多様性がある。特定の「クロノトポス」は、絶対的なものではなく、多くの可能性の中の一つに過ぎない。(We live in a universe of “heterochrony”.)
③ 宇宙の異なる側面や秩序は、同一の「クロノトポス」において作用することはできない。(例えば、生物体は、天体とは異なるリズムの内にある。)
④ 多様な、複数の「クロノトポス」が存在するということは、「クロノトポス」そのものが可変的で、(潜在的に)歴史的であることを意味する。それぞれの「クロノトポス」は、互いに競合 (compete) し、「対話的 (dialogic)」な関係にある。
⑤「クロノトポス」は、行為・実践において、目に見えて「そこにある」というよりも、行為・実践のための「土台 (ground)」である。つまり、「クロノトポス」は、世界において「表象される (represented)」のではなく、出来事の表象可能性 (representability) にとって不可欠な基盤を成す。
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/icons/bard.icon 言語人類学への導入 まず、De Fina & Perrino (2020) が整理するところによると、バフチンの「クロノトポス」を発展させた(言語人類)学者たちは、1) 「クロノトポス」的な表象において、時/空間と役割 (personae) は繋がっていること、2) それが実際に具現化されるコミュニケーションにおいて、「クロノトポス」的な表象は常に変化すること、3) 「クロノトポス」的な表象は、共有された知識、イデオロギー、価値体系を通じて、歴史的な過程と深く結びついていること、以上の点を(異なる程度で)強調してきた。
Silverstein (2005) によれば、記号論的な産物としてのディスコースにも、それが社会的に組織化される時間と空間を循環する (circulate) 何かとして概念化できるという意味において、「クロノトポス」的な性格が看取される。ある特定の場で生起する、言語などの記号を媒介とした相互行為と、それとは異なる時空間的「包み (envelope)」で生起する/した相互行為との間に繋がり・関係が生まれるとき、それらの相互行為は同じ「クロノトポス」的フレームの中に引き入れられる、と考えることができる。さらに、Silverstein (2016) は、「クロノトポス」とは、時間的・空間的な包み (envelope) のようなもので、その「語られた世界」に住まう登場人物たちは、当該のフィクションの世界における(社会的)存在として、展開する利害(関係)の「筋書き化」された軌跡に沿って相互行為を行うものと理解される、としている。(我々個々人が実際に経験する社会生活も、このような「クロノトポス」的な様相を本来的に呈していると考えられる。)
同様に、Wirtz, (2014) が概念化するところによれば、「クロノトポス」的フレーム、および、それを生み出す実践は、私たちが私たち自身、および、他者を何らかのアイデンティティのカテゴリーに合致する(社会的に認識可能な)人として特定する経験を具現化する。このようなプロセスにおいて、アイデンティティは「抽象物」以上のものとして、社会的な相互行為を通じて私たちが就く(inhabit)、遂行的でクロノトポス的な創造物として位置づけられる。
あらゆる「クロノトポス」的表象における二つの重要な側面を指摘するのが、Agha (2007) である。「クロノトポス」的表象は、時間を場所と人格 (personhood) に結びつけるが、それはコミュニケーションの「参与枠組み」において経験される。「クロノトポス」的表象を生み出したり、構成したりすること自体が、「クロノトポス」的に組織化され、そのような行為が、「クロノトポス」に変容をもたらすこともある。そうした変容は、分かりにくかったり(意識的に把握することが難しかったり)、その重要性にも程度の差があったりするが、それは常に「参与枠組み」の中で展開する。
Hartikainen (2017) は、コミュニケーションの参加者が喚起する「クロノトポス」が、他の「クロノトポス」と無関係には存在していないことを論じている。上記、Silverstein (2005) の記述にもある通り、一つの「クロノトポス」は、他の「クロノトポス」との「間ディスコース」的 (interdiscursive) な繋がりや対照化を通じて、その形を獲得する。そして、特定のコミュニケーションにおいて喚起された特定の「クロノトポス」は、他の「クロノトポス」と「間ディスコース」的に結びつくだけでなく、それを喚起するコミュニケーションそれ自体の「クロノトポス」とも対話的 (dialogic) な関係を結ぶことになる。
このように、言語人類学者たちによる再定義が示すところは、「クロノトポス」的な構築・定式化が、社会的生活の時間的・空間的な展開を解釈し形作るメタ記号的な枠組みであり、時間、空間、社会性、人格の経験を可能にする、ということである (Nakassis 2016)。「クロノトポス」は、時間・空間・人格の形態をメタ記号論的に投影することで、今・ここで展開する記号作用を媒介する。そして、「クロノトポス」それ自体も、社会的な時間・空間において、様々な記号論的な実践(特に、時間、空間、人格への再帰的なアラインメントや、「クロノトポス」的なはたらきかけ)を通じて現れる、弁証法的なプロセスの中にある。
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ドストエフスキーの意義
彼によれば、ドストエフスキーの小説は、あたかも客体のように造形された登場人物たちを作者が意のままに操り、一定のプロットを介して相互に関係づけ、なんらかの思想を表現してゆくような小説(モノローグ小説)とは異なっているという。 ドストエフスキーは、ゲーテのプロメテウスとおなじく、(ゼウスがしたように)声なき奴隷たちを創作したのではなく、自らを創った者と肩を並べ、創造者の言うことを聞かないどころか、彼に反旗を翻す能力を持つような、自由な人間たちを想像したのである。それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。〜ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。〜ドストエフスキーはポリフォニー小説の創造者である。 ドストエフスキーの世界にとっては、事物や人間心理の秩序に基づいた通常の筋の運びのためのプラグマティックな因果関係が存在するのみでは十分ではない。〜すなわち、ポリフォニー的な世界を構築すること、そして既存のヨーロッパ的な形式、つまり本質的にモノローグ的(単旋律的な)小説を破壊することだったのである。
上記で述べたトランズアクション的ポリフォニー小説は下記で「最高度の意味でのリアリスト」と言う立場からくると言及している。
上記はドストエフスキーの創作期のノートの中での言及を引用した文。ここからドストエフスキーは文字通り「完全なるリアリズム」を描こうとしているとバフチンは語る。
第一にドストエフスキーは自分をリアリストとみなしていて、自己の意識世界の内に閉ざされた主観的ロマン主義者とはみなしていない〜すなわちその深淵なるものを自分の外部に、他者の心の内に見出そうとしている。第二に〜この新しい課題を解決するためには〜モノローグ的リアリズムでは不十分〜第三に〜自分が心理学者であることを断固否定している。〜彼は心理学の内に、人間の心の自由さ、非完結性、そしてその独特な不確定性・未決定性〜を計算から除外したような、いわば心の物象化作用を〜人間を貶めるものと感じていた
この意味でまさに目的論的決定論的図式を拒んだデューイ的記述こそポリフォニー小説だと思う。 結語
本論考において解明しようとしたのは、芸術的なヴィジョンの新しい形式をもたらし、そのことによって人間とその生の新たな側面を発見し、垣間見ることのできた、芸術家としてのドストエフスキーの独自性である。〜すなわちこれは、小説というジャンルの枠を超えた、ある特殊なポリフォニー的芸術思考そのものとして論ずることのできる問題だと思われるのである。そうした思考こそが、モノローグ的な立場からは芸術的に捉えることが不可能な人間の諸側面、とりわけ思考する人間の意識とその対話的存在圏を把握することができるのである。 そしてディスラプトではないことを次のように述べる
新しいジャンルがこの世に生を享けたとしても、既存のいかなるジャンルも、それによって捨てられたり取って代わられたりすることはけっしてないのである。あらゆる新しいジャンルは、ただ既存の古いジャンルを補完し、その領域をかくだいするだけなのである。なぜなら、どんなジャンルもそれぞれに、それがなくては成立し得ない優先的な生存圏というものを持っているからである。〜だが同時にまた、本質的で有力なジャンルはどのようなものであれ、一度生まれ出たなら、古いジャンルの領域全体に影響を及ぼさずにはいない。すなわち、新しいジャンルは古いジャンルを、いわばより自覚的にするのである。
小説の文体について