デューイ
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社会と学校
現在の社会は学校をつうじて未来の社会を準備する、こと。
その準備は、具体的には、未来の社会の担い手である、新しい世代を教育することによって果される。当然、教育は「未来の自己に開かれている新たな可能性」の実現というかたちをとることになる。 この見解では、現在の社会が未来の社会と、学校あるいは教育をつうじて連続の関係にあるとかんがえられていることには注意しておかねばならない。すなわち、未来は現在の延長上に位置ずけられているのである。
社会の変動の三つの側面
まず、「産業」の変化がある。科学の応用による多くの発明、自然の力の大規模で安価な利用、世界市場の成立、それを目標とする大工業や交通網の発達。
そこに描かれているのは、帝国主義段階に突入した先進資本主義諸国を中心とする世界の経済状況である。もちろん、焦点はアメリカ工業にある。
つぎに、「家庭および隣保制度」の変化がある。このとき、デューイが注意するのは、産業の変化におうじて、家族や小地域社会から生産活動が失われたという事実である。
さらに、このような環境で形成されるパースナリテイの変化がある。そこには、寛容さや社会的判断の発達などの、いわば、プラス面がみいだされる。しかし、生産活動から切り離されて生ずる、いわば、マイナス面をどう回復するか。
この、回復のための方策の一つが、生産やこれに関連する諸活動の学校へのとりいれである。「手工教授・工作室作業・および家庭技芸―裁縫と料理―」などが、学校にとりいれられる。これらの活動をとりいれる理由としては、一般には、それらが児童の関心をひきつけ、自主性をたかめるということがあげられているが、それのみでは充分ではない。それらは、「生活および学習の方法」とかんがえられねばならない。
すなわち、より具体的にいえば、それらの活動は、(1)社会が自らを存続させる過程、(2)その過程=条件であることを児童に納得させる契機、(3)必要におうじて人間が洞察と工夫により充してきた過程、として、あつかわれねばならない。
教室は、それらの活計の場となる。児童は、活動をつうじて、生産や協力の訓練をうける。このとき、学校は生活と結びつくことになる。学校は「小社会」あるいは「萌芽的社会」となるのである。 このような発想が、学校と社会とのあいだに、ある種の等質性を予想しつつ成立している。
具体的に学科を論じては、デューイは、地理を重視し、「すべての科学の統一」を、そこにみいだしている。これは、地理において、人間の活動がもっとも全体的に示されるからである。
この全体的に示すということは、作業を単に認知・習得するということではなく、洞察力や想像力の対象にするということである。裁縫は、裁縫の技術を身につけることによってではなく、衣類にかんする人間の歴史を出発点から現在の到達点までたどりなおし、それまでに使用されてきた道具や機械の原理を洞察することによって意味がある
学校に作業がもちこまれたとき、それらに寄せられる非難の一つは、教育内容を功利的にかたむかせ、卑賤にするということであった。これにたいして、デューイは、現代における人間のほとんどは職業人であるとこたえる。彼らは日常の職業活動に生きる意味をみいださねばならない。ところが、なんと多くの彼らが、その意味をみいだせずにいることか。その理由は、経済制度のなかにもあるが、彼らの職業活動にたいする洞察力・想像力の不足のうちにもある。こうして、デューイは、いわゆる労働の疎外やこれにもとずく人間性の疎外にたいして、その部分的克服・防止の方策を教育に求める。
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学校と児童の生活
児童中心の教育というとき、デューイによれば、それは学校がまず児童の生活の場でなければならない。新教育以前の学校は、なんと児童の伸びんとする力を阻害してきたか。そのことについて、デューイは実例を多数ひいて述べ ている。
机と椅子についてみるならばそれは「最少の時間に多量の材料をのみこむ」という、至高目標の達成のみをねらう学習のためのものであった。そこでは、児童をつねに受身で一度習ったことは忘れるものではないと信頼されている。
教室の構造は、児童がものを構成し、創造し、かつ能動的に探求すべきであるという、心理学の要請からは、ほど遠いものである。教科課程、教育方法の割一化されている。それらは、個人の集団(社会)への埋没を意味するものであるゆえに、デューイのもっとも排除するところであった。
あなたがたは、子どもの観念や衝動や興味からはじめるといわれるが、その子どもの観念・衝動・興味なるものは、すべてかくも粗野であり、かくもでたらめで散漫であり、かくも洗練されていないし精神化されていないのであるから、子どもはいったい、どうして必要な訓練や教養や知識を獲得することになるのか
上記にたいしては、新教育は、単に、児童の衝動を刺戦し、ほしいままに充足させるものではないと反論する。「設備の組織」と「材料の組織」 をもつことにより、児童の活動を指導し、それらの活動を一定の進路にそわせることができる。そのとき、教育がめざす目標は、児童が「誘導」されながらたどりつくはずの目標である。
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新教育の特徴
児童中心主義
教育において重力の中心が教師やテキストから児童に移動するのだと表現し、コペルニクスが天体の中心を地球から太陽へと移動させた転換の意味の大きさをそこ(コペルニクス的転回)に見出している。 指導誘導主義
自然成長性への過度の信額は、デューイにはない。この点では、現在、彼によせられている批判の一部には誤解がある。むしろそれならば、児童中心主義と指導誘導主義とのあいだに、デューイが予定調和の関係をもちこんだところを衝くべきである。
学校において指導してゆくときに、利用しうる児童の衝動は四種類に分けてかんがえられる。
①社会的本能とりわけ言語本能
②製作の本能−構成的衝動
③前二者の結合から生じる探求の衝動
④そして同様に前二者の、さらに洗練・純化され、完全な表現としての表現的衝動すなわち芸術的本能
これら四種類の興味(欲望といいかえてもよい)は、「自然の資源」であり、「投資されざる資本」であって、子どもの能動的な成長は、これらをはたらかせるということにかかっている。 このような人間性の理解にもとずき、ひとりびとりの児童の成長・発展のために、学校はどうあらねばならないか。学校をさした「小型の社会」とか「生活の場」という言葉は、「理想的な家庭の拡大」という意味をここでさらに含めることとなる。 家族では、児童はそれら四つの衝動を充足させつつ、生活し、教育されているのである。 学校は、たいていの家庭で、いろいろな角度から比較的貧弱にかつ偶然的におこなわれているこの努力を大規模に、組織的に、知的におこなうところのものでなければならぬ。そこでは、「家庭」という環境の本来的な目的を探求しつつ、さらに、子どもの成長のために必要な、大勢の大人および子どもとの接触を加えた場が成立する。
学校生活は徐々に家庭生活から成長すべきだ
それほどメタファー的でない言い方をするなら、スペンサーの進化の考え方は常に制限され限定されたものであった。彼の言う「環境」は形而上学者の言う「〔それ自体でそうあるべく定まった〕自然」の言い換えにすぎなかったため、その働きは定まった性質と定まった目標を持っていた。進化はスペンサーの同時代人の心の中では依然として「唯一の、彼方に有る、心的な出来部」(asingle,frffdivine event)へと―最後のもの、定まったものへと―向かう。とにもかくにも、定まった法則と力(「環境」の名のもとに総括される)が存在し、動きを制御し、それが一定の仕方である目的に向かって進み続けするのである。
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理性主義批判
経験から乖離し、普遍的真理という高級な領域に我々を導く機能としての「理性」を、いまやわれわれは疎遠で退屈でつまらないものと感じ始める。一般性や規則性を経験に導入するカント的機能としての理性を、われわれはますます余計なもの―伝統的形式主義と手の込んだ専門用語に溺れた人々が必要もないのに生み出したもの―と感じる。~歴史上よく知られた理性主義が使用した理性は、不注意、慢心、無責任、硬直―要するに絶対主義〔的専制〕―に陥る傾向があった。
人間は習慣の生き物であって、理性の生き物でもなければ本能の生き物でもない
このような相互作用を認めるならば、我々の「習慣」と環境の関係は、変化する環境の組み込みにおいて我々が自らの「習慣」を再編成し、再編成された習慣が我々の行為を通じて、環境に働きかけ、それがまた環境の再編成、変化を生み出すという関係である。
デューイはその「相互作用」を循環ではなく「螺旋」にたとえた。(引用) 我々は、循環の内にとらわれているのではない。我々は、社会的慣習が何らかの相互依存の意識を生み出す際の螺旋をわたっており、そしてこの意識は、環境を改善する際に、社会的紐帯の新しい知覚を生み出し、永遠に生み出していく行為において具体化されている。
全ての「習慣」は連続性のもとに変化し、また生の螺旋的進展となり、我々の「生」の意味となる。
確実性のパラダイム
今後、確実性の探求は制御方法の探求に、つまり変化の諸条件を、それらの結果に関連させて規制する方法の探求になる。理論的確実性は実践的確実性に、つまり道具的操作の安全性、信頼性に同化される。 知の起源
知識の理論は、視覚の働きにおいて起こるとされたことを手本として作られる。対象は、光を目へと屈折させ、見られることになる。それは、目と、視覚器官を持つ人には、変化をもたらすが、見られるものに変化をもたらすことはない。実在する対象は王者のように超然とした確固たる対象であるため、それを見つめるいずれの心にとっても王である。知識の観衆説は、その当然の結果である。 人間の業績や目的を、物理的自然と仲間の人間からなる世界から切り離された人間によるものとする。われわれの成功は自然の協同に依存している。人間本性の尊厳の感覚は、それがより大きな全体の中の協同する一部としての人間本性の感覚に基づく場合には、畏怖や崇敬の感覚と同じように、宗教的である。
伝統的教育批判と経験
いかなる経験の質も、二つの側面を持っている。即ち、それが快適なものか不快なものであるかといった直接的な側面と、経験がその後の経験にどのように影響を及ぼすかという側面である。第一の側面は明白なことであり、そのことは容易に判断されうる。だが経験の効果は、その表面には現れ出ない。このことが教育者に問題を提示することになる。経験が生徒に不快感を与えず、むしろ生徒の活動を鼓舞するものであるとしても、その経験が未来により望ましい経験をもたらすことができるよう促すためには、直接的な快適さをはるかに越えた種類の経験が求められることになる。そのような質的経験を整えることこそ、教育者に課せられた 仕事なのである。
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経験の基準となる二原理
第一
経験の連続性の原理というものは,以前の過ぎ去った経験から何らかのものを受け取り、その後にやってくる経験の質を何らかの仕方で修正するという両方の経験すべてを意味するのである。 そして教育者は連続性における下記を見極める事。
しかし、教育としての成長、成長としての教育の観点からすると、問題はこの方向での成長が、成長一般を促進するか遅らせるかということになる。このような形態をもつ成長、が更なる成長のための条件を創り出すのか、それとも、たまたま特殊な方向で成長してきた人がそのような成長から切り離され、新しい方向で引き続き成長するための契機・刺激・機会 が与えられるようなかたちの成長条件が設定されるのか。ある特殊な方向での成長が、それだけで他の筋道での発達のための径路を開くような態度や習慣に対して、どのような影響を与えるのか。
第二
(経験の相互作用の原理)は経験における両方の要素-すなわち客観的条件と内的条件-に同等の権利を割り当てている。どのようなものであれ、正常な経験は、以上のような二つの条件が一つのものにセットされるという相互作用である。これら二つのものが一緒になるか、あるいは相互作用がはたらくかして、われわれが状況と呼ぶものを形成する。 デューイによれば、経験は個人の内面だけで進行するものではない。経験する主体としての個人と、経験がなされる「客観的な条件」との相互作用において進行するもの である。即ち教育者はの役割は下記である
価値ある経験の形成に寄与するにちがいないすべてのものが引き出せるようにと存在している環境-自然的、社会的な-をどのように利用すべきであるか、そのことを知らなければならない 。
上記の連関
連続性と相互作用という2つの原理は、相互に分離しているのではない。それらは離れていても、結びつくものである。それらはいわば、経験の縦の側面と横の側面である。相異なった状況は、相互に継承されているのである。
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教育における目的
進歩主義教育の哲学においても、学習過程で学習者の活動を導くような目的を形成する際に、学習者が参加することの重要性が強調されてよい。
まず目的とは?
目的とは目論まれたもの、つまり終局への見通しである。すなわち目的には、衝動にはたらきかけることから生じる結果を見通すことが含意されている。結果の見通しには、知性の作用が含まれる。知性の作用には、第一に客観的条件と環境とを観察することが求められる。というのは、衝動と欲望はそれ自体で結果を生むことはできなく、周囲の状況との相互作用や協同によってのみ、結果というものが生み出されるからである。
そんな複雑な知的作用=目的設計について
その作用には、つぎのような知識や能力が含まれる。(1)周囲の状況の観察、 (2)過去の似たような状況で起こったことについての知識、その一部分は回想によって得られた知識、また一部分は広い知識をもった人からの情報・忠告・警告から得られた知識、 (3)それら得られた知識が何を意味するのかを理解するため、観察されたものと回想されたものとを結合する判断力。
このようにデューイは目的の形成が知的作用であることを強調することで、一部の進歩主義の学校に見られる「活動は目的であるとして活動を過度に強調する傾向」を批判する。衝動は目的と混同されてはならない。衝動を実行に移す前に, 予想される結果に対する見通しを立てな ければならない。衝動は活動の計画や方法を形成していくうえでの契機であり、またそのよう な形成を要請するものであるにすぎないのであり、目的の形成は「状況の綿密な検討」と 「適切な情報すべての確保」によってのみ可能なのである。
教師の仕事は、衝動や欲望が生じるや、それを好機に利用する点を見定めることである
セルフアクション
ある事物は、他の事物に影響されることなく、その事物自身が内に持っている力のみで活動している
セルフアクションは慣性の法則、運動の法則、作用・反作用の法則に基礎付けられるニュートン以後の古典力学の観点に合わない前科学的な見方から援用されている。 この考察視点は認識論・論理学・心理学・社会学の大部分において思考基盤にされている。人間の行為というものは、何者にも左右されない個人の内心から生みだされる動機によって基礎付けられ、実行に移される。これがセルフアクション概念に基づく人間の行為観である。
インターアクション
ある事物は、他の事物と因果的関係にあり、他の事物から影響を受けて活動している
インターアクションは古典力学と一部の心理学で用いられており,ここから「人間の行為は、外的環境の働きかけによって形成された動機に基づいて実行に移される」という人間の行為観が導き出される トランズアクション
ある事物は、他の事物による環境への働きかけとそれに続く周囲の環境の変化から影響を受け、それによって活動している
電磁場というのは,力の働き方について力学にある「遠隔力」と「近接力」の二つの説明の中で、近接力の考え方を採った時に用いられる。
例)ある空間に物質Aと物質Bが遠く離れて存在している。この時,物質Bが物質Aに引き寄せられたと仮定すると,この現象をどのように説明するかが問題となる。
まず思い付くものは、物質Aが物質Bに直接何らかの力を及ぼして自らに引き寄せたという説明である。この説明は、距離など関係なく,物質Aは物質Bに対して力を直接及ぼすことができるとするものであり、これが遠隔力の考え方である。
また別の視点からこの現象を見ると,物質Aが自身に近接する空間に何らかの働きかけを行なうことでその空間を変化させ、その変化がAの周囲の空間から他の空間へと伝わっていくことで物質Bの周囲の空間が変化し,その変化によって物質Bに何らかの力が働いて物質Aに引き寄せられたと考えることができる。これが近接力の考え方である
この立場からすると物質Aと物質Bとの間にある空間を伝わる何かが存在しなければならないということになるが、そこで持ち出されたものが場の概念なのである。電磁場はこの場というものの一種であり,近接力の考え方が前提となっている。
ある物質とその周囲の空間との相互作用、ある物質の周囲の空間とそれに隣接する空間との相互作用、その空間と他の物質の周囲の空間との相互作用、その周囲の空間と他の物質との相互作用が一つの過程となって,ある物質と他の物質との間で生じた作用をなすと述べている。言い換えると,これはアクション(action:作用)が隣接する物同士の相互作用を通じて次から次へとトランス(trans:一方から他方への移行)していく過程を,各局面を個別バラバラに考えるのではなく、一つの作用として扱うということを意味している。つまり,トランズアクション(trans-action:相関作用)というものは,複数の様々な相互作用(inter-action)が全体として一つの作用過程を形成している場合にこれらを組織的体系的な一つの作用の流れとして全体包括的に取り扱うための考察概念ある。 それぞれの差異
セルフアクションとインターアクション・トランズアクション
セルフアクションが事物の活動を他の事物とは無関係なものとして見るのに対し、インターアクションとトランズアクションは事物の活動を他の事物の影響によるものとして見る
インターアクションとトランズアクション
インターアクションが事物同士の直接的な相互関係を念頭に置いて部分的・局面的な考察しか行なわないのに対し、トランズアクションは事物同士の相互関係をその間に介在する環境を通じた作用の連鎖の中で全体包括的に考察する