リップマン
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民主主義の欠陥
その場を忘れミステリーに没頭すべきはずが、どうにも眠らずにはいられない。一般市民は今日、後列で何も聞こえない観衆のごとく感じるようになった。彼はいま起こっていることに、どういうわけか影響を受けている自分を知る。規則や規定は絶えず、税金は一年ごとに、戦争はときどき、彼に思い起こされる。周囲の状況という大きな流れに押し流されていることを。それでも、これらの問題は納得できないままに彼の問題である。そのほとんどは目に見えない。多少なりともそれらが扱われるとして、それは遠い中央で舞台裏から、誰ともわからない権力によって処理されている。私人として彼は、何が行われているのか、どこに連れて行かれるのか確かなことがわからない。周囲の事情をわかるように伝えてくれる新聞はなく、どう考えればよいのか学校は教えてくれなかった。多くの場合、彼の理想は現実とかけ離れており、演説を聞き、意見を述べ、投票をしても情勢を左右できないことに気がつく。彼は見て理解し指図することができない世界に生きている。
理念上、一般民衆は「支配されるだけの存在」から「統治に参加する存在」へと変貌を遂げているが、多くは政治的無関心や政治不信が蔓延しそれを理由に選挙を棄権する。
1923年のシカゴ市長選挙はその典型であり,全有権者の約半数が棄権している。メリアムとゴスネルの調査によれば,棄権者の30%は病気や介護等の止むを得ない事情で棄権したが,残り70%は政治的無関心や政治不信のために棄権したという
冒頭の引用は、このような一般民衆の状況を率直に言い表したものであり、彼らは「民主主義」という理想を掲げても,政治を動かしているのは顔も知れない政治家や官僚という少数者であり,多数者の一般民衆は政治の外野で何とも知れない力に左右されるだけの無力な存在に過ぎない政治に対して疎外感を覚えずにはいられないということ。
民主主義の欠陥
従来のような「高い教養を有し無限に公共精神や興味・関心・努力を発揮して、主体的に自らの所属する社会の運営に関わっていく完璧な市民」としての公衆が現実世界に存在しなくなったにも拘らず,20世紀前半の合衆国ではこの公衆像が依然として民主主義論の根底に据えられており,大衆としての一般民衆はこの実在不可能な理想的存在となるよう強いられるという事態が発生していた。
これは民主主義論における現実と理論の乖離状態と言え,リップマンは,達成できない理想として,この公衆を「幻の公衆(the phantom public)」と呼んでいる 政治の専門家は政治の内部者であり,統治の問題を多く経験しているので,一般民衆よりも適切な統治のステレオタイプを形成している。
逆に一般民衆は政治の部外者であるから,統治について不十分なステレオタイプしか持っていないことになる。ステレオタイプは人間の判断を左右するものであるから,一般民衆が政治に参加をすると適切な統治が行なえなくなる。
だから,一般民衆は政治に参加すべきでなく政治の専門家の中で誰の統治に従うかの態度表明さえすれば良い。こうして,リップマンの議論はエリート主導型の民主主義論に至る