ジェイムズ
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本来現象学はこの時代に存在しないが、フッサールは現象学の発想の源泉として明言しているため上記記述とする 知覚→情念→生理的変化から知覚→生理的変化→情念へ転回
情念は単なる因果的帰結に留まらず、その変化を感じとして捉え返す作用全体が情念。(こうしたクオリアとの併存をサンタナヤが一貫性の欠如と揶揄する。) ①思考はどれも、ある人格的な意識の中の一部分となる傾向を持つ②思考は個々の人格的な意識の中において常に変化している③思考は個々の人格的な意識の中において感知される仕方で連続的なものである④思考は常にそれ自身とは独立な別のものに関わっているように見える⑤思考はこうした事物のある部分に関心を払い別の部分を排除しており歓迎したり拒否したりしている。つまり一言で言えばどの時点においても選択している
核としての焦点/周辺としての緑暈が確定したアトミックな対称としてではなく、観念のような永続的な対称として川とメタファーされる。 そして下記図のベクトルは下記性質を持つ
意思的、能動的、選択的
流動的、連続的
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第四章冒頭
生物を外から見ると、先ず目につくのは、それらが習慣の束だということである。 それとも、もし、フーリエや、ベラミーや、モリスのユートピアをはるかに凌ぐような世界、幾百万もの人びとが永久の幸福をたもちうる世界が、ただ一つの前提、この世界の遠いはずれにいるひとりの迷える魂が、孤独な苦しみの生涯をおくらなくてはならないという、ただそれだけの条件でわれわれの前に差し出されたとしよう。そこでわれわれがただちに味わう、この特殊で自主的な感情は、いったいなんなのだろうか?さし出された幸福をつかみとりたい衝動が心の中に湧きおこりはするが、なおかつ、そうした契約の結果であるのを承知の上で幸福を受けとり、それを楽しむのが、いかにおぞましいことかとわれわれにさとらせるこの感情は? より高度で、より尖鋭なすべての理想は、革命的である。これらの理想は、 過去の経験の結果という装いよりも、こういう装いをとることが多い。つまり、それは未来の経験のほぼ確実な原因であり、環境と、環境がこれまでわれわれに教えこんだ知恵が、みずからを曲げてそれに合わせることを学ばなくてはならない多くの因子なのだ
理論は、われわれが安住することのできる謎に対する解答ではなく、道具となる
プラグマティズムの真理観
まず前提として真理を下記のように論じる。
どんな辞書を見てもおわかりになる通り、真理とはわれわれの或る観念の性質である。虚偽が観念と実在との不一致を意味するように、真理は観念と「実在」との「一致」とを意味している。
上記において、「プラグマティストと主知主義者」は意を共にするが、「一致」と「実在」の定義については論争がはじまる、という。
「化」としての「過程」がプラグマティズム的真理であるとはどういうことなのか。またそれは何をもって真理として確定したと言えるのか。下記のように述べる。
われわれは限りなく有用とも限りなく有害ともなりうる諸実在の世界に生きている。それらの実在のいずれに望みを嘱すべきかをわれわれに告げてくれる観念が、これら第一義的な真理化の領域においては、真の観念と見なされ、そしてかかる観念を追求するのが第一義的な人間の義務なのである。真理を所有するということは、この場合それ自身で目的であるどころか、他の必須な満足を得るための予備的な手段であるに過ぎない。もし私が森のなかで道を見失って餓死しようとしているとき、牝牛の通った小路らしいものを発見したとすれば、その道を辿って行けばそのはずれに人間の住み家があるに違いないと考えるのは、極めて重大なことである。なぜならば、私がそう考えてその道に従って行けば私はわが身を救うことになるからである。このばあい真の思考が有用であるのは、その思考の対象である家が有用だからである。このようにして真の観念の実際的価値は、第一義的には、その対象がわれわれにたいして有する実際的な重要さから由来する。実際、その対象はいつでも重要なわけではない、他の場合には私は家を必要としないかもしれないのである。このような場合には、家の観念は、たとえ真理化されえようとも、実際的には的はずれなものであって、むしろ隠れて見えないでいる方がよいのである。けれども、いかなる対象でもたいていはいつかは一時的に重要となることがあるものであるから、余計な真理、つまり事情によっては真理となるかもしれないというだけの観念、を広く貯えておくことの利益はいうまでもない。われわれはこのような余計な真理をわれわれの記憶の成隅に貯えている。われわれの参考書はかかる貯えの過剰で満たされているのである。そのような余計な真理が実際にいざ必要となると、それは冷蔵庫から取り出されて現実世界で働くことになり、それにたいするわれわれの信念が活動しはじめる。そのとき諸君はその真理について、「それは真理であるから有用である」とも言えるし、また「それは有用であるから真理である」とも言える。これら二つの言い方は正確に同じことを、すなわち、これこそ充足され真理化されうる観念だ、ということを意味している。真とは、いかなる観念にせよ真理化の作用を完成したことを表わす名なのである。 第一に宗教は、より永続的なものごと、重複的なものごと、いわば宇宙に最後の一石を投じるものごとが最善であると語り、終局的な言葉を語る。「宗教は完成である」というシャルル・スクレタンの一句こそ、宗教の明言する第一の事柄をいみじくも言に表しているように思われる。だがこの名言は科学的にはとても検証され得ないのである。第二に宗教が明言するのはもし我々がこの第一の宗教の名言を真であると信じるならば、我々の状態がたちどころに善くなるということである。 https://scrapbox.io/files/65be1e1e0061420026529835.png
経験主義と理性主義
経験主義とは、部分によって全体を説明する習慣であり、理性主義とは、全体によって部分を説明する習慣である。理性主義は、かくて、一元論と親近性を保つというのは、全体は統一とともにあるからである。一方、経験主義は、多元論的な見解に傾く。どんな哲学も、世界を要約的にスケッチしたもの、つまり、世界の略図、ないし、事件のパースペクティブを遠見に書いた見取り図以上のものではありえない。
またジェイムズは「経験主義的な人間は、部分を全体の前におく」ことを好み、理性主義者は、「世界を、秩序のある宇宙としておきたい」とも言い換える。
ドイツ風のやり方をあまり忠実にまねしすぎたために生じたことである〜彼のあとからきたものはみな、彼の著作を引用し、自分の意見を彼の意見と比較する義務をおう。これが、職業的なゲームのルールである
これに対して、ジェイムズは、「一つの哲学は一人の人間のもっとも内的な性質の表現である。宇宙の定義はすべて人間性が宇宙にたいして意識的におこなう表現にほかならない」と訴え、こうした「もっと人間的なイギリスの伝統にしたがれるように、という強い希望をここで表現させて頂きたい」とする。つまり大陸合理論を拒み「人間的な」イギリス経験論を讃美するのだ。言い換えるなら「理性主義」的系譜よりも「経験主義」的系譜を発展させることを試みるのだ。「全体者に学ぼうではないか」という理性的判断にジェイムズは下記の言葉を宣告するのだ。
こうした「理性主義」的態度を拒むジェイムズは下記の意味では肯定をする。
絶対者の概念が、宇宙の合理性についての我々の感情にもたらした最大の貢献は、宇宙の表面はどれ程みたされていようとも、その底ではすべてがうまくいっている―無限につづく混乱の中心に平和がやすらっているという確信であろう〜世界のもっとも深い実在を、静的で歴史のないものとすることにより、世界が我々の共感をとらえる度合いを少なくし、世界の魂を我々にとってよそよそしいものとするからである。にもかかわらず、この考え方は、平和を与える。〜絶対者の仮説は、ある種の宗教的な平和をもたらす点において、もっとも重要な合理化機能をいとなむ 一元論と二元論の批判的継承と多元論へ
一元論について
唯物論における考察
自然科学の前提であるとしても、精神的な状態においては却下せざるをえない
唯心論における考察
絶対的観念論派の主張:世界の無数の事象の間には無限の矛盾的対立と不整合が見出されるが、それを高次の次元において合理化し、一切を包摂する絶対者の存在の元によって現象界の非合理、不整合は解決される。つまり絶対者は一切の矛盾をアウフヘーベンする超越的合理性であり精神的源泉である。 二元論について
心理学の説明上の便宜としては容認するが哲学の厳密な理論として、2つのまったく別種なものの併存と相互作用という思想はアドホックであるため容認不可能である
汎心論を踏襲しつつ、世界全体としては一者による合理化のもとになく、無数の不条理とピースミールな合理性、断片化した高次の精神の作用が、あたかも無数の星のように輝き作用しているという主張