ローティ
ネオ・プラグマティズム
1967『言語論的展開』
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序文
フレーゲと前期ウィトゲンシュタインが創始し、両者共に下記テーゼを唱えた
言語使用者が身につけ、個々の事例に適用すべき、なんらかの明確に定義される共有された構造がある
曖昧な形而上学や認識論の用語の使用を追放し、厳密な論理分析のよって哲学の諸問題を探究しようと示した言語哲学。則、カントのいう超越論的立脚点に代わるものを見出そう、という移行をが言語論的転回という。
フレーゲ、ラッセルを継承し論考に影響を受けた論理実証主義(エイヤー・カルナップ・ベルグマン)
有意味な言語は全て理想言語へと還元できるという検証可能性を一つの尺度として中立的な観点を得よう!
↓
その批判的継承で発展したクワインやデイヴィッドソンらのプラグマティックな言語哲学。哲学的探究やライルの行動主義に影響を受けて発展した日常言語学派
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ローティの態度
果たして哲学的問題を解決するのに尺度は必要なのか〜言語哲学は伝統的な哲学の在り方をより強固にして再生しているだけではないのか。
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過去三十年間に哲学に生じた最も重要な問題は言語論的転回それ自体ではない。むしろプラトンとアリストテレス以来、哲学者に保持され続けてきた認識論的な難点を全体的に再考しようという動きが始まったことである。〜もし伝統的な知識の観衆説が覆されるなら、それに取って代わる知識説は、哲学〜の他のあらゆるところで考え方の変更を引き起こすであろう。
これが自然の鏡批判につながる??
1972/80『虚構的言説の問題なんてあるのだろうか』
「グラッドストーンはイギリスで生まれた」という文と「シャーロック・ホームズはイギリスで生まれた」という文はどちらも意味においては「真」であるが、前者は実在した歴史上の人物について語っており、後者は架空の人物について語っているため、両者は「真理」として同等の地位を持つのか、というのが、この問題である。
ラッセルは「指示されたものは何であれ必ず存在する」という「記述理論(theory of the definite descriptions)」を主張したが、これによると「ホームズ」が実在しているかどうかを問題とするのではなく、前提として「コナン・ドイルによる一連の物語があって、それは〈シャーロック・ホームズはベーカー街に住んでいた〉という言明やこれに伴う他の言明を含んでいる時」、その場合「真」であると解釈される。
これを、サールは、ラッセルの「記述理論」を「存在の公理」として保持しつつ、「同一性の公理」と「同定の公理」を付加し、「現実世界」と「虚構的言説の世界」の二つの言語ゲームに参加している、すなわち作者によって作りあげられた現実世界から分離された言説が存在し、われわれが「ホームズ」を「指示」する場合、「虚構的なホームズを現実に指示する」というような表現になると解釈した。
そしてローティは、ラッセルとサールのこのような理論に対し、両者の考え方には共通して下記性質をみなす
言語の詩的な戯れに満ちた恣意的な側面に対するパルメニデス的恐怖
それは、パルメニデスが「存在しないものについては語ることができない」と述べたような、プラトンとラッセルに共通する真理観である。
つまり哲学という観点から物語を見ると、ラッセルやサールのような無理矢理哲学の鋳型に物語を押し込む状況に陥る。
1979『哲学と自然の鏡』
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冒頭
哲学者は、通常、自分たちの学問〔哲学〕を、繰り返される永遠の問題―人が反省を行うや否や持ち上がる問題―を論じるものと考えている。〜本書は、哲学、特に分析哲学における最近のいくつかの展開を、〔ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、デューイが引き起こした〕反デカルト的・反カント的革命の視点から外観しようとするものである。「心」には「哲学的」見解がなければならないとか、「認識」にはそれについての「理論」〔つまり認識論〕が必要であり、「認識」とは「基礎」を有するものであるとか、カント以降人々が考えてきたようなものが「哲学」であるとかいった、読者の確信を覆すことが本書の目的である。
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第一部 われわれの鏡のような本質(Our Glassy Essence)
本部の Glassy Essence は、シェイクスピア 『尺には尺を』より引用する
しかし、あの男は、傲慢なあの男は、わずかな束の間の権力をふりかざし、自分が鏡のような本質(Glassy Essence)を持つという最も確かなことをいささかもわきまえず、怒った猿のように、神の前でとんでもない振る舞いをし、天使たちを泣かせる。もし天使が私たちと同じように笑うことができるなら、彼らは、ひたすら笑い転げて死ぬことだろう。
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主題
しかし、何が起ころうと、哲学が「終焉を迎える」恐れはない。宗教は啓蒙時代に終焉を迎えることはなかったし、絵画も印象派においても終焉を迎えたりはしなかった。プラトンからニーチェへと至る時代が、ハイデガーが提案するような仕方で要約され、「距離が取られ」、20世紀の哲学が(今のわれわれに16世紀の哲学がそう見えるように)ぎこちない行ったり来たりの過渡的段階に見えるようになるとしても、移行の先には「哲学」と呼ばれるものがあるであろう。
1983『ポストモダニスト・ブロジョワ・リベラリズム』(引用)
まず、普遍主義的な「カント主義」と歴史主義的な「ヘーゲル主義」が対比される。「カント主義」は、家族、共同体、国家を越えた「非歴史的」な「人類そのもの」のような存在を前提して、人間の尊厳や、人権、道徳を考察するものである。それに対して、「ヘーゲル主義」は何らかの「特定の共同体」から出発して、人間の尊厳や、人権、道徳を「歴史的に制約された共同体の関心」として考察するものである。
この歴史主義的なヘーゲル主義という地平はジジェクがいったヘーゲルにとって弁証法とは、克服の過程の物語などではなく、そうした企ての失敗の体系的記録である。というポスト・マルクス主義者的な観点に似ている。
豊かな北大西洋の諸制度と諸習慣をカント主義的な基礎づけなしで擁護しようとするヘーゲル主義的な試み
上記の立場をローティは「ポストモダニスト・ブルジョワ・リベラリズム」と呼ぶ。
公私の弁別モデル
私はバザールにおいて商談をしている多くの人々が、お互いの信念を共有するくらいなら死んだ方がましだと思いつつも、「ビジネスライク」に交渉しているところを思い描く。そのようなバザールは明らかにマッキンタイアやR・ベラーのような自由主義の批判者たちによって用いられている意味での「共同体」ではない。〜もし、そこに居合わせたなら、役所や八百屋の店先やバザールにおいて信じ難いほどの「差異」を見せつけるような人が現れても、ただ感情を上手くコントロールする能力さえ持ち合わせていれば良い。そのようなことが起こったならば、できるだけ微笑みを絶やさずに上手にその場を切り抜け、その日の辛いを商談が終わった後に自らの「クラブ」へと戻れば良い。そこでは自らの道徳観を満たすような親しい人々との交わりによって心安らぐことができるだろう。
つまり私的なクラブでは、例え奇抜な趣味趣向でも、愚行であっても排他的な同好の士の内部でのみ完結する。
一方公的なバザールでは自分の規準からは許し難くも思える価値観を含めた多様な空間のため、ビジネスライクに付き合うことが「残酷さと苦痛の減少」へと繋がるということ。
ブルジョワ・リベラリズム
次に、「ブルジョワ・リベラリズム」に注目しよう。それは「哲学的リベラリズム」と対比的に使用される言葉である。ローティによれば、「ブルジョア・リベラリズム」は、アメリカの「中産階級の希望を実現する試み」で、「哲学的リベラリズム」は、そのような希望を「正当化する試み」である。その区別によって、「希望を実現する試み」と「希望を正当化する試み」が対比されている。
「リベラル・デモクラシー」という希望を抱く人々にとって必要なことは、その「希望を正当化する試み」などではなく、むしろ「希望を実現する試み」なのである。「ポストモダニスト」という表現は、そのような「試み」の区別と関係している。
次に、ローティの使用する「ポストモダニスト」の意味を考察するために、彼の「ポストモダン」に対するスタンスを見ておこう。ローティは、自分の哲学的スタンスが「脱構築」という点で、「ポストモダン」の哲学者に近いと考えている。その一方、「ポストモダニズム」という言葉が明確な意味を持たないし、多様に使用されるので、ほとんど「無意味な語」になってしまっているので、この言葉を使わないほうがよいのではないか、あるいは下記とも主張している
哲学の語彙から捨て去られるべきである
さらに、彼は、ハーバーマスとともに「ポストモダンを疑わしく思っている」ことも表明している。このように矛盾して見えるローティの発言の真意はなんであろうか。それを考察することによって、ローティの「モダン」と「ポストモダン」に対する見解を一瞥しておこう。
ポスト・モダニズム
ローティは、「ポストモダニズム」をリオタールに従って、「メタ物語に対する不信」を表明する態度と理解している。それは一つの「メタ物語」によって、すべてのことを説明しようとする態度への「不信感」の表明である。そのような「メタ物語」とは、例えば、それを記述することで、アメリカの「民主主義」を歴史的に必然的なものとして正当化するような「物語」である。このように、すべてのことを正当化する哲学的物語をローティは拒否する。
このようなスタンスによって、ローティは、「ポストモダニスト」に近い。それでは、なぜ「リベラル・デモクラシー」という希望は、「メタ物語」による正当化を必要としないのだろうか。われわれが現に生きている社会が「リベラル・デモクラシー」を標榜しているならば、その社会に生きているわれわれにとって、問題は、それが正しいかとうかを決定すること、つまり「正当化する」ことではない。
むしろ、われわれにとって問題であるのは、それを「実現する」こと、実現途上にあるならば、それを「改良する」ことである。希望に向かう航海のさなか、われわれは、乗っている船を自分たちに相応しいかとうか検討するために、それを解体し、点検することなどできるのだろうか。すでに、「リベラル・デモクラシー」という希望を抱いているならば、それを哲学的に正当化することなと必要ではない。
このようなローティの「ポストモダニズム」的見解は、別の文脈では、「エスノセントリズム(自民族中心主義)」と呼ばれるものである。それは、われわれが免れることのできない自民族の文化的準拠枠を思考の出発点とせざるをえないという立場である。
だが、先に触れたように、ローティは、ハーバーマスとともに「ポストモダンを疑わしく思っている」。「会話を止める宗教」という論文の中でも、彼は「ポストモダン」が「モダン」の否定であるとうか疑間視している。さらにヴァージニア・ウルフの「モダン」の変化が1910年ごろに起こったという主張も疑っている。1910年ごろに起こったとされる「モダン」の変化は、「宗教から離れる世俗化」の進展を指している。だが、ローティの見解では、そのような「宗教の世俗化」は、「モダン」の変化でもなく、ましてや「ポストモダン」と呼ばれるようなものでもない。むしろ「宗教の世俗化」は「啓蒙主義」の主張していたことであり、「モダン」にほかならないのである。それゆえ、ローティは、ハーバーマスとともに、自分が「モダン」の、つまり「啓蒙のプロジェクト」の継承者であると見なすのである。
1985『解放のないコスモポリタニズム』
ローティは、「人類の普遍史」のような「メタ物語」による「リベラル・デモクラシー」の正当化を拒絶する。
リオタールと同じように、われわれはメタ物語を捨て去りたいのである〜リオタールとは異なり、われわれは啓発的な一次的物語(edifying first-order narratives)を紡ぎ続ける
ローティは、「人類の普遍史」のような「メタ物語」による「リベラル・デモクラシー」の正当化を拒否する点で、リオタールと同じように、「ポストモダニスト」である。だが、「リベラル・デモクラシー」のための「啓発的な一次的物語」を語り続けるというのである。
1987『連帯としての科学』
われわれは、自然科学を記述するための新たな手立てを見出さなければならない。だがそれは、自然科学者の正体を暴露したり、彼らを格下げしたりすることを意図するものではない。単に、聖職者として彼らを見るのをやめるだけである。科学とは、人間の心が世界と出会う場所であり、科学者とは、人間を超えた力の前で、適切な謙虚さを示すもののことであるという考えを、われわれは捨てる必要がある。必要なのは、なぜ科学者が道徳的模範なのか、なぜ道徳的模範たるに値するかを説明するための、別の手立てである。
科学自体の自己目的化した直接的な見方でない新たな視点を増やそうということ
「合理的」という言葉は、別の意味でも使用することができる。〔その場合、〕それは一群の道徳的徳目を目指す。寛容であること、周りの人々の意見を尊重すること、人の言うことに耳を傾けること、力よりも説得を頼りとすることが、それである。これらの徳目は、ある文化社会が存続すべき場合に、その社会の構成員が身につけていなければならない徳目である。この意味では「合理的」という言葉は〜「教養のある」に近い意味を持つ。このように解釈された場合、合理的なものと非合理的なものの区別は、芸術と科学の区別と特に関わるわけではない。この解釈においては、合理的であるということは、なんらかの話題について、教条主義や暴利的態度や義憤に囚われることなく論じることにほかならず、話題が何であるか―宗教であるか文学であるか科学であるか―に関わるものではない。
上記のような合理的な科学は、連隊の典型事例であるし下記である。
科学は、人間の連帯の範という意味においてのみ、模範〜である。
1989『偶然性・アイロニー・連帯』
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リベラル・アイロニズムとは
ミルの仮面をかぶったニーチェ
リベラル
シュクラーの恐怖のリベラリズムの意味とする
残酷さ(強者の弱者支配)を第一の悪徳とする(引用)
負の功利主義ぽい??
アイロニズム
唯名的で歴史主義、真理よりも系譜や軌跡による偶然性を是とする主張
(ミルの仮面をかぶったニーチェ)
真理はつくられる
これってまさにイデア論やん
真理とは偽りのない表現ではなく、むしろ、メタファーの動的な一群である
つまり記述されてるだけ
言語の偶然性 :言語ゲーム的に言えば文化コードの偶然性と≒
通時態はつかのまの理論である
互いの話を理解したいのならば、二人にとって必要なものは、発話と発話のあいだでつかのまの理論を収束させる能力があるだけでいい
シニフィアン連鎖ぽい
「The Structure and Distribution of Coral Reefs」のような感じ
相互作用って意味では一般言語学の差異によってシニフィエが確定すると一緒?
自己の偶然性
特異性を求める詩人と普遍性を求める哲学者に分ける
ただこれは二元論的な話ではなく、オイディプス・コンプレックスのような数ある適応モードに過ぎずグラデーションである
強い詩人
弱い詩人
リベラルな共同体の偶然性
基礎付けではなく→再記述
「ジグゾーパズル的アプローチを排除せよ」(バーリン)を引用
ローティが考えるInformed citizenは言語,良心,共同体,が偶然性を帯びていることを自覚すること
われわれと連帯
いまあげてきた例の要点は、私たちの連帯の感覚が最も強くなるのは、連帯がその人たちに向けて表明される人びとが「われわれの一員」と考えられるときである、〜この場合の「われわれ」は、人類よりも小さく、それよりもローカルなものを意味する。
アウシュヴィッツ期、アメリカの大都市に住む若い黒人たち、そういったものから連帯の本質を述べる。それに対して哲学的、宗教的な系譜を述べる。
宗教的な形をとるのであれ世俗的な形をとるのであれ、こうした普遍主義的な態度とは相容れない。私の立場は、諸々の類似性と差異 ― それは、あなたと一匹の犬の違い、あなたと一体のアシモフのロボットとの違いにまで及ぶ ― の拡がりのなかに「自然の」区分線、すなわち、理性的な存在車の終わりと非理性的な存在車の始まりとのあいだを画する、道徳的な義務の終わりと仁愛の始まりとの間を画する区分線がある、という考え方とは両立しない。
定言命法や隣人愛、兼愛説などの哲学的或いは宗教的な同一化ではない。
私の立場が含意するのは、連帯という感情は必然的に、どのような類似性や非類似性が私たちにとって顕著なものとして感じられるかということにかかわっており、何が顕著なものとして感じられるかは歴史的に偶然的な終極の語彙のはたらきに依存しているということである。〜歴史的な偶然性は、西洋の世俗的な民主的社会に典型的な道徳的・政治的な語彙の進展をもたらした偶然性である。こうした語彙が次第に脱―神学化され、脱―哲学化されたものになるにつれ、「人間の連帯」が一つの強力なレトリックとして立ち現れたのてきたのである。私は、その力を減じようとは思わない。。私はただ、「人間の連帯」をこれまでしばしばその「哲学的な前提」として考えられてきたものから引き離したいだけなのである。〜このことは「神の子」「人間性」「理性的な存在車」といった抽象によって思考する試みは無益だということを意味するわけではなく〜曖昧だが人びとを鼓舞する虚焦点 (focus imaginarius 例えば絶対的真理、純粋芸術、人間性それ自体)を提供することによって、政治的・文化的な変化への途を拓いてきた。〜虚焦点〜を受け止める正しい仕方は、このスローガンを、「われわれ」という感覚をできるだけ拡張していくことを思い起こさせてくれる一つの方途とみなすことである〜先のスローガンを正しい仕方で読めば、私たちは哲学を民主的な政治に支えるものとして捉えるようになるだろう。つまり私たちが現代の諸問題にいだく直感的な反応と、私たちがこれまでそのもとで育ってきた一般的な原理とのあいだの「反照的均衡」とロールズが呼ぶものを達成しようとする試みとして、哲学をみなすようになるだろう。そのように解するならば〜道徳的な考慮に際して用いられる語彙を編み直すテクニックの一つとなる。
ニック・ランドのドーキンス批判と同様なことが言えるのではないか?
「近代国家におけるすべての重要概念は世俗化された神学概念にほかならない」によって発生した生物多様性と同じ系譜を連帯概念は辿っているが、カテドラル論を認知しつつ受容するか否かが違いである。
むしろ、連帯とは〜私たちとはかなり違った人びとを「われわれ」の範囲の中に包含されるものと考えてゆく能力である。すなわち、哲学的あるいは宗教的な論考よりも(例えば小説やエスノグラフィックによって)さまざまな苦痛や辱めをそれぞれの細部に立ち入って描くことの方が、道徳的な進歩のために近代の知識人が果たしてきた主な貢献である、と。〜私たちが手にしている終極の語彙をもって―それがいかに拡張されたり、修正されうるかについてのヒントに注意深く耳を傾けつづけながら―やってゆくことである。
エスノセントリズム、超歴史主義的(あらゆる偶然性と歴史性のもとにある自分たちが信じてるものを基軸として)に―相対主義批判論者(パトナムら)のいうような脆弱性に陥らないように終極の語彙を用いて―連帯を漸進的に拡張することで同一個人内での葛藤に収束させていくこと。
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/icons/bard.icon ギャンダー批判 (引用)
1989『ヴィトゲンシュタイン・ハイデガー・言語の物象化』
1991『合理性と文化的差異』
私はこの論文で、ある文化が他の文化よりも合理的であり、そのため他の文化よりもよい、と言われる際に浮上する問題のいくつかを論じる。〜ある文化が他の文化ほど合理主義的ではなく、そのため他の文化よりも良いと言われる際にも現れる。
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合理性の定義
合理性1
アメーバよりもイカの方が、言語を使用しない類人猿よりも言語を使用する人間の方が〜つまり、環境からの刺激に複雑かつ繊細に自分の反応を合わせることによって環境にうまく対処する能力
ティリッヒの技術的理性やサヴァイヴスキルでもある。
この能力はそれだけでどの種やどの文化に属すのが最も良いかが決まるようなものではなく、その意味で、倫理的に中立である。
合理性2
人間は持っているが獣は持っていない、ある付加的要素の名前〜合理性2が合理性1と違うのは、合理性2が単なる生存以外の目標を設定するからである。
例えば積極的安楽死など、生存を絶対視しないような価値基準を設定し、それら間の序列を定める機能のようなもの。
合理性3
自分との違いに過剰に当惑せず、そうした違いに攻撃的に反応しないでいられる能力〜自分が以前に望んだことをより多く達成するだけでなく、別の種類の人間に、以前とは違うことを望む人間に、自分を作り直すことをいとわない〜それはまた、力ではなく説得に信頼を置き、暴力に訴えたり焼き殺したり追い出したりするのではなく、話し合う気があるということを伴っている。〜そのため、この意味での合理性は、ヘーゲルの場合のように、自由とほぼ同義だと考えられることがある。
ここでいうヘーゲルは人格の相互承認論のこと
批評
これらの3要素が統合すると「あることが自明のことのように見え始める。」
技術的手段を駆使して自分たちの願望を満たすのに長けている人間は、自ずと正しい願望―「理性に合致する」願望―を持つようになり、他の望ましくない願望がどのような経緯でなぜ獲得されたかがわかるため、そうした他の願望に寛容を示すことになる〜ここから、科学技術のほとんどを生み出した場所―すなわち西洋―が、道徳的理想や社会的卓越性を獲得する場所でもあるという考えが生み出される。
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哲学的理由(概ね、合理性2を攻撃する。)
デューイのようなアメリカ・プラグマティスト、デリダのようなポスト構造主義者
具体的に彼らは「理性主義」「男根ロゴス中心主義」「現前の形而上学」「プラトン主義」を中心概念として批判する。
政治的理由
ロジェ・ギャロディやアシス・ナンディによる「西洋諸国は病んでいる」のテーゼ
ローティ論
西洋は病んでいないが、自らを窮地に追い込み、それによって世界の全体を窮地に追い込んでしまった〜私のようにプラグマティストでもあるリベラルにとって、〜諸問題は〜合理性1と合理性3の関係に関する問題に帰着する。
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文化の定義
文化1
ある一組の共有された行為の習慣〜ある人間共同体の構成委員が他の構成員や周囲の環境とうまくやっていけるようにする行為の習慣〜他の動物にはなく人間だけが持っているようなもののことでは必ずしもない
民族学者の村文化と動物行動学者のヒヒの群れ文化も上記に属すということ
人間にも人間でないものにも適用できるこの中立性と、良し悪しを評価するものではないという点において文化1と合理性1に似ている。農村文化と仏教文化には複雑さと豊かさの点において違いがあるが、それはアメーバの合理性1とイカの合理性1とを隔てるのと同じ違いであって、種類の違いではない。
文化2
ある卓越性の名前〜「ハイカルチャー」の類を意味する。〜抽象的な考えを巧みに操って楽しく過ごせるとか、さまざまな絵画や音楽や建築や文学の多様な価値について詳細に語れるとかいったことである。文化2は教育によって獲得できるもの〜甘美と光明は相伴うとアーノルドの示唆にあるように、それは多くの場合、合理性3と結びついている。
文化3
合理性2の使用によって生み出されるものとほぼ同義〜歴史の進行とともに、「自然」を押さえて―われわれが獣と共有しているものを押さえて―着実に優勢となったとされているもの。〜人間に普遍的ななにか、程度の差こそあれすべての人間、すべての文化が評価し尊重することのできるなにかによって、劣悪で不合理で動物的なものを克服すること
ここでキルケゴールとヘーゲルを引用する
ある文化1が他の文化1よりも「進んでいる」ということは、「本質的に人間的なもの(essentialy human)」の理解に他の文化1よりも近づいていると言うことであり、ヘーゲルのいう「絶対精神の自覚」をよりよく表現しており、文化3のより良い事例となっているということである。文化3の普遍的支配が歴史の目的である。
この実存主義的絶対精神論かと言えるような進歩史観おもろいな
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デューイ的視点
プラトンとカントに共通する普遍主義と、ヘーゲルの内在的目的論の感覚、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というヘーゲルの考えを払拭するため、歴史を人間の自由の増大の物語と考えるヘーゲルの歴史の見方をダーウィンの進化の説明と混ぜ合わせた
デューイ=ダーウィン化されたヘーゲル+ドーキンス
デューイのダーウィンの翻案をさらに言い換えて、ミームという言葉―リチャード・ドーキンスやダニエル・デネット―が最近流行らせた言葉―を使うのが有益だと思う。ミームとは遺伝子に似た振る舞いをする文化的因子のことである。~―以前他の生物種が占有していた場所をその生物種が奪うことができたこと―~同じように、ある文化が別の文化に勝利したことを、一組のミームの勝利と見ることができる。デューイ的な観点からすれば、どちらの種類の勝利もなんらかの特別な卓越性~を示すものではない。どちらも、偶然的状況の連鎖の結果に過ぎない。デューイにとって適者生存の主張は、生き残るものが生き残るというトートロジー的主張にすぎない。
スペンサーとの差異
前に、スペンサーが、文化の発展の勝利主義的な話を生物進化についてのダーウィン的な話に同化させようと試みた。しかし、スペンサーは合理性2と文化3に幾文か似たものを手放さないでおこうとした。すなわち、彼は内在的目的論の観念~を維持しようとした。これとは対照的に、デューイにとって「自然」は力の名前ではなく、一連の偶然の出来事の結果の名前にすぎない。その言葉は、高度な合理性1を表すに過ぎない。
デューイ的近代観
デューイにとって、17世紀の新科学、18世紀・19世紀の新たな科学技術やリベラルな改革運動は、合理性2から生じたものではなく、したがって、それらは―スペンサーの言うような―人間が自分の「本性的な」、「本質的に人間な」諸能力に気づいてそれらをより周到に行使した結果ではない。それらは単に、ある人間共同体が示すようになった新たな柔軟性と順応性の実例に過ぎない
上記によって資本主義、議会政治、植民地主義、環境の激変や大量虐殺など様々な展開をもたらしたが、それらをデューイはどう捉えたのか
概して古い問題を解決すれば新たな問題を生み出すことになるということを意味した。彼には、われわれが生み出した新たな諸問題に対する包括的解決策はなく、あるのはただ、新たな問題を副産物として生み出した同じ実験的大胆さが苦痛を現象させようとする意思と結合すれば、やがてそれらの新たな問題も少しずつ解決されるであろうという、希望だけであった。
柔軟性と効率の増大の影響
解放にも抑圧にも―苦痛の減少にも増大にも、合理性3の増大にも減少にも―等しく使うことができる。そのため、より大きな度合いの合理性1は、その本質からして必ず解放に向かうというわけではない。それがより大きな度合いの合理性3を生み出すアプリオリな理由はない。
が明らかに大きな度合いの合理性3が存在する理由が下記を一例に上げる
キリスト教のレトリック―人類の同胞愛のレトリック~宗教的寛容が~帝国主義・植民地主義的列強の公的レトリックに組み込まれていった
デューイ的ユートピア
哲学は、われわれの自己イメージを変更することができ、われわれが合理性2という考えをきっぱりと捨て、自分たちがアメーバやイカとつながっているだけでなく、想像できないほど柔軟で自由で想像力に富むわれわれ子孫のヒューマノイドともつながっているかもしれないと考えるようしむけることができるというのが、 彼の答えであった。こうした子孫は、人間が互いを苦しめることが今よりももっと少ない社会民主主義的ユートピア―人類の同胞愛が今のわれわれにはほとんど想像できないような仕方で実現されているユートピア―に住んでいるだろう。このユートピアがあまねく社会の理想とするのは、苦痛を最小にすることと合理性3を最大にすることとの間のバランス―他人を傷つけないよう圧力をかけることと異なる生き方に寛容であることとの間の、残虐行為に 対して警戒することとパノプティコン的状態を作るのに抵抗することとの間のバランス―である。このユートピアの住民は、よきプラグマティストとして、自分たちは人間の真の本性を理解し合理性2に従って生きていると考えるのではなく、単に、以前の人間共同体の住民よりも幸福かつ自由で、より豊かな生活を送っていると考えるにすぎない。
『A Common Faith』にあるようにデューイは、自然を非目的論的なもの、それ自身の価値序列を持たないものと見ることによって自然を世俗化することを、われわれに望んだ。
しかし、彼は、われわれ自身を進化の偶然の産物の一つにすぎないもの、イカやアメーバと同じ種類の能力だけを(はるかに大きな度合いにおいてではあるが)持つものと見ることによって、超越の感覚のようなものを持ち続けるようわれわれに望んだ。
そうした感覚は、まさしくわれわれがイカや類人猿を超越してきたようにわれわれの子孫がわれわれを超越する可能性を、われわれに受け入れさせる。
デューイの暴力性批判
キリスト教、イスラム教、仏教、近代西洋の世俗的ヒューマニズムとなると、これらの文化は−平和や富や幸運やユートピア的な合理性3があらば−それらが絶滅するのは、少なくともそれらに匹敵する新たな見事な文化がそれらに取って代わる場合だけである。〜このかなり安直な答えは、私が文化的差異という話題を捉え損なっていることを示唆する。というのも、この話題は私が暢気に「近代西洋の世俗的ヒューマニズム」と呼んでいるものはある種のなんでも食べてしまう怪物であり、他のすべての文化1をみな飲み込むが、それ自身の内部から多様性を生み出すことができないのではないかと今日大いに問題になっているものだからである。この疑念は、私が抱いているデューイ的な諸々の見解―アシス・ナンディの言う「進化論的・テクノクラシー的プラグマティズム」を作り上げている見解―は、あらゆる重要な論点をすでに先取りしてしまっているのではないか〜ナンディをはじめ多くの人々の見るところでは、デューイ自身が、思いやりと寛容を誇りとしているとはいえ、文化的性をすべて破壊しようとする非自己批判的文化1ーすなわち、本当は文化2の追求や合理性3の発展に本質的に対立する、実利主義的で独創性に乏しい、暴力的な文化1―の代表者の一人にすぎない
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ナンディ的視点
私が理解する限り、ナンディの観点からすれば、寛容とプラグマティズム―合理性3と、合理性2は存在しないという見解―は、水と油のようなものである。人間を単に有機体の一つにすぎないものと見、人間の文化を超歴史的なもの(自然や神)と密接に関わることのないミームの担体と見るべきだというプラグマティックな主張は、インドの伝統において重要なものが今後も存続することを認める文化的差異の寛容とは相容れないと、ナンディは言うであろう。ナンディは、次の一節でガンディの見解として述べていることを、彼自身も受け入れるだろうと私は思う。
ここで『TRADITIONS』のガンディーの西洋観を引用する。対する下記デューイ
西洋は他のいずれにも勝るという客観的評価はデューイはも否定するであろう。というのも、プラグマティストにとって、あるものが優れているかどうかの判断は、それによって達せられるべき目的が何であるかに応じて異なってしかるべきものだからである。しかし、それでも彼は、三つの点を力説するであろう。
1西洋の業績のあるもの
伝染病の予防、識字率の増大、運輸・通信の改善、商品の品質の規格化など
2未来の創造
西洋は社会政策の諸問題を過去から引き継がれた原則や伝統にではなく未来の実験結果に任せるという点において、他の既知のどの文化よりも優れている。
3世俗化
西洋が世俗的になり超越に見切りをつけようとしていることが、この第二の業績を達成するのに大いに貢献してきた。すでに素描した理由から、デューイは世俗化を、社会民主主義的ユートピアに説得力を持たせている要素の一つと見た。
そしてナンディ的文明論に対して、これにデューイは対し概ね同意するが、搾取と抑圧の意識の拡大に先頭を切って貢献してきたのは西洋だった。即ちナンディ的技術論も疑問符を覚えるだろう。
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比較検討と結論:
比較検討
上記を簡略化すると進化論的、テクノクラシー的プラグマティズムが政治的に統合されたグローバルな共同体において優勢となる場合、ナンディは悪い結果になる、デューイは良い結果になると考えている。(ワーズワース的な自然との共同体のようなものと一体になる場合も含めて)
具体的に...フーコーもナンディも近代西洋の中に監視社会による合理性3の欠如をみる。対照的にデューイは科学技術を駆使する社会が与える暇と富と安全の増大が、合理性3をますます容易にしているとみる。
たとえば技術が潜在的に有する暴力性をナンディは説き、対照的にそれはプラグマティック(使用者の意図)に過ぎないとデューイ。
宗教か芸術か
デューイは〜われわれは民主主義的価値観の支えとなるものを〔科学以外の〕別のところに見出さなければならない」というナンディの主張に同意するであろう。しかし、ナンディが明らかにガンディーに従って宗教こそがそのような支えを見出す〜と考えるのに対して、〜ギリシア芸術〜が世俗化の過程に重要な貢献をなし、それによって人間を忍従の文化から希望の文化へと導いたという伝統的説明を受け入れる。
ローティの見解
詩作と対照をなす思索というものがあるとするかどうかがハイデガーとデューイの決定的な違いであるのとちょうど同じように、科学と技術に対する最も安全で信頼できる拮抗勢力を宗教とするか芸術とするかについてのこの違いは、ナンディとデューイの決定的な違いかもしれない
ローティ的結論
多文化的な、グローバルなユートピアを作る本当の仕事は、これからの何世紀かの間にそれぞれの文化1をその構成要素である多数の細い糸にいったん解きほぐした上で、これらの糸を他の文化1から引き出した同様の細い糸と織り合わせ―こうして合理性3の特徴をなす統一性の中の多数生を促進す―る人々の手によってなされるだろう。こうして織り上げられるタペストリーは、運がよければ、今のわれわれにはほとんど想像のつかないようなものになるであろう。
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/icons/bard.icon 富田恭彦補論 (引用)
哲学的理由の合理主義批判について
アリストテレスは人間を「ロゴスを持つ動物」と捉え、その延長線上で、ヨーロッパでは久し人間の本質は理性であるとされてきた。ヨーロッパ中世の文献に頻出する人間の定義、「理性的動物」はその典型であり、また、理性的であること、理性的なあり方を徹底することが、近代啓蒙主義の要であった。世界史を理性的絶対精神の自己展開と見るヘーゲルの見解も、その顕著な事例の一つである
上記に対して、他方では、理性的抑圧による不自由と不平等の拡大を説くルソーや、ヘーゲルのの理性的絶対精神の考えを個々人を非人間的に扱うものとして攻撃したキルケゴール~最近ではフランクフルト学派のマックス・ホルクハイマーやテオドア・アドルノによる~理性主義(合理主義)は非理性主義(非合理主義)をもともと含有しており、合理主義自体が非合理主義を生み、全体主義等の深刻な問題を生じるとする。
デューイ
『哲学の改造』での理性主義批判や知識の観衆説のことである
デリダ
『グラマトロジーについて』のこと
1995『プラグマティズム入門』
序反表象主義としてのプラグマティズム
プラグマティズムには依然として地域主義的雰囲気が漂っている。〜デイヴィッドソンがデューイに付け加えたものは、反表象主義的言語哲学であり、〜デューイの〜反表象主義を補完し〜取って代わるものなのである。私は他のところで、哲学における「言語論的転回」は表象主義にとってのある種の最後の逃避所であり、後期ウィトゲンシュタインやデイヴィッドソンを言語の写像論から離反へと導いた論〔弁〕証はデューイを知識の観衆説理論からの離反を導いた論〔弁〕証と同じものだと論じた(※)。もしも、もはやさらなる逃避所を見出すことができないのであれば、デイヴィッドソンは、最近の哲学的思考には「潮目の変化」が生じつつある―変化はあまりに深く浸透しているのでわれわれはそれが起きていることを認識しないかもしれない―と、書いた彼が正しかったということになるだろう。もしも〜そのような認識がなされれば、〜地域的人物として扱われることもなくなることであろう。彼らは私が考える、彼らに相応しい地位を、西欧の知的進歩の歴史の中に与えられることになるだろう。
※哲学と自然の鏡参照
1996『脱構築とプラグマティズム』
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脱構築とプラグマティズムについての考察
結論を言えば『友愛のポリティックス』で展開されたような種類のロマンティックでユートピアじみた希望は、デリダの自己形成に貢献するものであり、それゆえ(明らかに私自身もそのひとりである)彼の読者の一部にも貢献する者だと思う。しかし『友愛のポリティックス』のようなテクストが政治思想に貢献するとは考えられない。思うに政治は実際的な、短期の改良や妥協の問題である。−民主主義社会における妥協は、われわれが現前の形而上学を克服するときに使う言葉と比べれば、はるかにわかり易い言葉で提案し擁護しなければならない。政治思想の中心をなすものは、こういう改革がいかにして、どういう条件のもとで実現されうるかについての仮説を提示する試みである。急進思想やパトスは私的契機のためにとっておき、他の人々との問題の処理に当たっては、私は改良主義、プラグマティズムをとりたい。
1995『亡霊が知識人に取り憑いている』
2000『アメリカ未完のプロジェクト』
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ハーバーマスの『近代未完のプロジェクト』とボールドウィンの『次は火だ』の一節から取られた我々の国を完成させる(Achieving Our Country)の継承
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右翼と左翼のローティ的定義
右翼:自らの国は完成された(achieved)ものであり、むしろ昔の方が良く、現在では古き良きものが失われつつあるので、それを守り復活しようと考えている人々
左翼:自らの国は未だ改良の余地があり、完成させる(achieving)ために様々な改革運動を行う必要があると考えている人々
他と一線を介す点はどちらも愛国精神に基づくこと。つまり愛国的左翼である
左翼の分類(改良主義左翼/新左翼/文化左翼)
改良主義左翼とは
マルクス主義が始まる前の19世紀から存在し、共産党的な革命論とは異なる現実的な手法により少しずつ労働問題を解決し、労働者の地位を改善していった
最も大きな成功はニュー・ディール
新左翼とは
学生運動を主とするアメリカのベビーブーム世代の若者たちによる、ラディカルな運動。彼らはマルクス主義的なイデオロギーとユートピアを掲げたが、革命は成せず政治の季節は終わりを迎える。
公民権運動を成功させ強烈な反戦運動によってベトナム戦争を終わらせるきっかけを作った。が、奴隷制・先住民虐殺・戦争介入などを批判するばかりで極端な反権力思考だけを遺した
文化左翼
1972年の大統領選で、労働組合がニクソンを支持すると、左翼知識人の多くは労働組合や改良主義左翼に見切りをつけた。が、マルクス主義も信奉できないため、オルタナティブとしてフロイトやフレドリック・ジェイムソン、フーコー、デリダなどの哲学を社会理論に応用しようとする新手の左翼が登場する
差異の政治・アイデンティティの政治・承認をめぐる政治と呼ばれるもので、マイノリティが受ける抑圧をポストモダン的観点から理論化する。彼らが作った大学のカリキュラムによってアメリカのマイノリティに対する社会的なサディズムは減少した
一方で経済的抑圧は以前よりも軽視されてしまい、貧富の格差が広がる
精力的な若い起業家の一団が大洋横断ジェット機のファーストクラスを満たしている一方で、その後部客室は、気持ちのよい場所で開かれている学際的研究会議に急ぐ、私のように腹の出 た教授でふさがれている。だが、この新たに得られた文化世界主義を享受しているものは、最も豊かな二五パーセントのアメリカ人に限定されている。この新しい経済コスモポリタニズムからは、残りの七五パーセントのアメリカ人が自分たちの生活水準はどんどん下がっていくだろうと思うような未来が予感される。
カーター大統領とクリントン大統領による民主党政権における中道政策の転換により、政権中枢区においても誰も富の再分配を問題にしなくなった。当然、共和党の大統領が、これを問題にするわけはなく、二大政党のどちらを選んでも大差がなくなってしまった。
新たな世襲的社会カーストに区分されつつある。このような状況の中で、希望を見いだせない貧しい有権者が極右の政治家に煽動され、1932年にヒトラーが大衆支援のもと政権をとったようなことが起きかねないと危惧する
文化左翼は籠ってないで、愛国心を持ち、立法・改正のために現実的な行動を起こし、連帯しよう!
文化左翼がこれから受け入れていかなければならない本質的な変容の一つは、彼らの半ば意識的な反アメリカ主義を脱却することであり〜アメリカ人を鼓舞するようなイメージを考え出していかなければならない。ただ、そうすることによってのみ、文化左翼は大学の外にいる人々と、特に労働組合と連合を組むようになることができる。〜もしそのような連合を組めないなら、アメリカ合衆国の法律に何の影響も及ぼさないだろう。
(引用)
2001『文化政治と神の存在の問い』
「文化政治」とは、どのような言葉を使うべきかをめぐってなされる議論を典型とする。フランス人はドイツ人を「ボーシュ」と呼ぶのをやめるべきだとか、白人は黒人を「ニグロ」と呼ぶのをやめるべきだとかわれわれが言うとき、われわれは文化政治を実践している。というのも、そうした言語実践を放棄することによって、われわれの社会的・政治的目標―ある人間集団どうしが互いに対して持っている寛容の度合いを増大させること―が、促進されるからである。
そしてこうした文化政治をミルの系譜としてのジェイムズに立脚して論じる。それは「すべての問いは〈何がよりよい世界を創るのに役立つか〉という問いに帰着する」といったプラグマティックな考えだ。
文化政治が存在論に取って代わるべきであり、取って代わるべきかどうか自体、文化政治の問題であるというのが、私の論じたいことである。だが、これらのテーゼの擁護に向かう前に、私のような、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムに共感する哲学者にとって、そうした論点が重要であることを強調しておきたい。なすべき正しいこととは、常に、人間の幸福に最も貢献することである―獲得されるべき正しい信念はなおさらそうである―とジョン・スチュアート・ミルは考え、ジェイムズはこれに同意した。そのため、ジェイムズは、信念の功利主義的倫理学を擁護した。何が存在するかに関する問いも含めてすべての問いは〈何がよりよい世界を創るのに役立つか〉という問いに帰着するという発言を、しばしばジェイムズは行おうとした。
つまり下記引用にもある通り、ジェイムズとローティにとって「社会的実践のため」にあらゆるものが検討されるべきであって、実在するから〜とか、真だから〜といった言明はなにも政治的理由にならないということである。
「それについて語るべきだ。なぜなら、それは実在しているのだから」という言明は、それゆえ、「それを信じるべきだ。なぜなら、それは真だから」という言明と同じく無益である。私がジェイムズと共有している見解からすれば、実在する、真であるというのは、ものや信念が、うまく行き、採算が取れ、役に立つとわかり、そのため、容認された社会的実践の中に組み込まれたとき、それらに対してわれわれがかける褒め言葉である。これらの実践が相争うとき、実在や真理がどちらの側に与すると言っても無駄である。〜ジェイムズの論点を別の言い方で述べると、真理と実在は社会的実践のためにあるのであって、その逆ではない。
そのため「探究の道を塞ぐ」還元すれば真理の研究等を「制限しすぎる」のではないかという批判や、「神の存在を信じることが人の幸福に寄与するなら、幸福に寄与するという理由だけで、人は神の存在を信じる権利がある」というジェイムズの主張は「寛大すぎる」という批判が生じた。が、そうした「何が寛大すぎ、何が制限しすぎなのかという問いそのものが、実は文化政治の問いなのだ」という。つまり「存在論が、文化政治に先立つ」ゆえ、「それらについて語る方がよい。なぜなら、それらは存在するのだから」と言うのではなく、「社会的実践のため」に、「それらについて語るほうがよい。なぜなら、それらは存在するのだから」という視点で語るべきなのだ。
2003『分析哲学と会話哲学』
哲学の文化政治的試み
私は哲学が学の確かな道に就こうとしているとは思わないし、哲学を学の確かな道に就かせようというのはいい考えだとも思わないので、哲学教授は文化政治を実践しているのだという見方に喜んで賛同する。文化政治を進める一つのやり方は、語の用法の変更を提案したり新語を広めたりすることによって、行き詰まりを打開し会話をもっと実り多いものにすることである。私は、物事を正しく捉えるという目標を放棄し、個人の自己記述や文化の自己記述のレパートリーを拡大するという目標にそれを置き換えることを、心から望んでいる。私の見るところ、哲学の主眼は、 ものごとが「本当は」どのようなものであるかを見抜くことではなく、われわれの成長を助けること―われわれをもっと幸せに、もっと自由に、もっと柔軟にすること―にある。われわれの概念が成熟すること、われわれの概念 のレパートリーがますます豊富になることこそが、文化的進歩なのである。
知識の観衆説的な政治図式を解体し、終極の語彙を拡張することによって行き詰まりを解消するという、文化政治を展開する。
2003『反聖職権主義と無神論』
ヴァッティモの宗教論の価値:『信じることを信じること』より
私はだんだん宗教的になっている。だから、多くの人々の言う、神を信じているという状況に至ろうとしている。しかし、私は「信じている」と言う言葉がこの場合に正しいかどうか自信はない。ヴァッティモのこうした考えを、ローティは歓迎する。
ヴァッティモの重要性は、これらの不幸なポスト・カント的戦略のいずれをも拒否した点にある。彼は宗教を真理と結びつけようとする試みを脇へやり、そのため「象徴的」真理、「情動的」真理、「メタファー的」真理、「道徳的」真理のような概念を無用とした。〜彼の神学は、明らかに、彼が「中途半端な信仰者」と呼ぶ者、つまり聖パウロの言う「信仰への熱意が薄い」人々−結婚や洗礼や葬式のときだけ教会に行くような人々−のためのものである。
そしてヴァッティモが用いたデカルト=ヘーゲル批判「今やデカルト的思想(およびヘーゲル的思想)はその放物線を描き終えた以上、信仰と理性をそれほど鋭く対立させることはもはや意味をなさない。」は、ハイデガーの存在―神学概念で指摘したこととほぼ同一であると論じる。更に脱存在―神学という見方はニーチェ、ハイデガー、ジェイムズ、デューイが共有していると言う。
これら四人の反デカルト主義者はみな、「単に私的な」、「単に文学的な」、「単に美的な」、「単に情動的な」といった表現における「単に」の軽蔑語としての使用に、断固反対する。〜これら四人の人々はみな、ヴァッティモがハイデガーを語るのに使った言葉で言えば、「自由の敵であり存在の歴史性の敵である思考の地平を放棄する」よう促しているのである。
ローティとヴァッティモの相違
ローティのヴァッティモ要約
ヴァッティモと私が追求してきた考え方は、次のように要約することができる。一八世紀と一九世紀におこなわれた宗教と科学の闘争は、制度間の抗争であり、どちらの制度も文化の支配権を主張した。科学がその闘争に勝利したことは、宗教と科学のどちらにとってもよいことであった。というのも真理と知識は社会的協力に関わるものであり、科学は協同的な社会的プロジェクトを以前よりもうまく遂行するための手段を与えるからである。もし社会的協力を望むのでであれば、その時代の科学と常識を合わせたもので事足りる。しかし、もし別のものを望むのであれば、認識の土俵の外に出された宗教、有神論対無神論という問題に関心を持たない宗教こそが、まさしくわれわれの孤独に合うかもしれない。
上記で同一な点を述べた上で差異を設ける
彼がカトリック教徒として育てられ、私がまったく宗教のないところで育ったことを考えれば、これは驚くにはあたらない。~私とヴァッティモとの間のさまざまな違いは、結局彼が過去の出来事を聖なるものと見ることができ、私が聖なるものは理想的な未来にしかないという感覚を持っているということに帰着する。ヴァッティモは、神がわれわれの主からわれわれの友へとそのあり方を変える決意をしたことを、われわれの現在の努力を左右する決定的な出来事と考える。彼が持っている聖なるものの感覚は、その出来事とそれを体現した人の記憶と結びついている。私が聖なるものの感覚を持っているとすれば、その感覚は、いつか、いずれかの至福千年に、私の遠い子孫たちが、愛がほとんど唯一の掟である地球規模の文明を生きていてほしいという思いと結びついている。そのような社会においては、コミ ュニケーションは支配の下に置かれることがなく、階級やカーストは見たこともなく、階層制度は一時的な実際的便宜のためのものであり、権力は十分な教育を受けた教養ある有権者の自由な合意にまったく委ねられているであろう。
その上でキリストテクストを再評価する。
真理の追求と神の追求はすべての人間の体に物理的に組み込まれているという考えを捨て、そちらも文化形成の問題だと認めるなら、宗教をそのように私的なものにすることは、当然かつ適切なことと思えるであろう。ヴァッティモような人間は、私に宗教的感覚が欠けているのは低俗だからだと考えるのをやめるであろうし、私のような人間は彼がそうした感覚を持っているのは臆病だからだと考えるのをやめるであろう。われわれはどちらも、 自分がそういったしゃくにさわる説明をしないことの裏づけとして、「コリントの信徒への手紙一」第一三章を引用 することができる。~『第一のコリントの手紙』第一三章は、ヴァッティモのような宗教的な人間にとっても私のような宗教的でない人間にとっても同じように役に立つテクストである。前者のような人間においては、彼らが持っているわれわれの現在の状況を超越するものの感覚は、信頼の感情と結びついている。また、後者のような人間においては、その感覚は人間のよりよい未来への希望にほかならない。これら二種類の人間の違いは、正当化できない感謝の気持ちと、正当化できない希望の違いである。これは、何が本当に存在し何がそうでないかについての対立する信念の問題ではない。
文化形成の問題という視点は多自然主義の理解に似ている。
2006 『Take care of freedom and truth will take care of itself』
ローティの考える物語
Q:脱構築的なテクスチュアリズムに由来する「テクスト」という考え方とローティの「物語」についての考え方の関係について。A:「物語」とは、「世界精神」、ヨーロッパ、人間、西洋、文化、自由、階級闘争のような何かについてストーリーを語ることである。それは、あなたが自身のストーリーとして位置づけることができる何か大きなものなのだ。
哲学に対する物語(文学)固有の価値
Q:あなたは哲学よりも文学の重要性について繰り返し、様々な角度から論じてきたが? A:文学とは道徳的な想像力により広く貢献できるために、道徳的進歩にとってはより重要なものです。⋯⋯哲学は道徳的原則の形式において先験的な洞察を要約するのに役立ちますが、創造的なものをまったく生み出しません。例えば、哲学的反省は奴隷制を根絶しませんでしたが、奴隷の生活を描いた「物語」はその根絶に多くの貢献をしました。
2007『プラクマティズムとロマン主義』
2007『知的自伝』