ヴァッティモ
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美の変遷
ヴァッティモはアリストテレスの芸術論に言及する中で、このギリシャの哲学者により提示された美学の詩学的アプローチ—芸術の本質とは何かを問う代わりに、良い作品の制作方法を体系的にまとめ伝授する方法論について思索をする—がカントにより終止符を打たれた、と述べる。 ヴァッティモによれば、カントは“既存の摂理に収斂しえない事実、出来事”として芸術を捉え、問題化を試みた。カントは「天賦の才」「自然」概念を基軸に理論化を試みる。カントから生まれた新たな美学の潮流はその後、一方ではスペンサーを代表とする実証主義的傾向、他方ヘーゲルにより継承され観念論的傾向の強い美学へと継承されていく。芸術の本質とは何かという問いは、ハイデガーにより再び取り上げられることになるまで待たねばならない
ヴァッティモ的美学
ヴァッティモが理論化を目指した存在論を基盤とした美学とは超越的位相との関係において芸術の本質を問う、というものである(下記)。
芸術と実在——すなわち人間が意識化できるものばかりでなく意識や人間自体をも超越するもの——との関係を措定し、その関係性において美学理論構築の可能性を打ち立てるべく努力する
その際に彼の指針となったのが、芸術を一つの出来事として現象学的に捉え解釈理論を基軸に存在論的観点から理論化を図る、というパレイゾンの手法であった。パレイゾンが存在論的色合いの濃い実存主義により思想形成を行なったという経緯に鑑み、美学の問題に取り組む際に彼がこのような思索的アプローチをとったのは当然のことであった、とヴァッティモは受けとめている。 美に規範を見出そうという美学史上の幾多の試みは不成功に終わったが、その原因は前提となる原則がありそれに叶うべく存立するものであることを前提に芸術作品について考えようとした点にある、とヴァッティモは指摘する(ローティの形而上学的基礎づけ批判ぽいな)。 https://scrapbox.io/files/6505c61294050b001b0ba375.png
ニーチェからは、名高いテーゼ「神は死んだ」から形而上学における絶対性の概念(主体の概念もそのなかに含まれる)の失墜を読み取る。それまでの哲学に究極の基礎づけを与えてきた神が死んだということは、絶対的な真理、全体性や統一性や永遠性の名で呼ばれてきたものが失墜したということを意味する。 次にハイデガーによる「存在論の歴史の現象学的解体」から引き出してくるのは、客観的な強い構造としての存在の解体であり、存在の「弱体化」である。
結局のところ、ハイデガーの思考は、永遠性や安定性や力としての存在の観念に代わって、生や成熟、誕生や死としての存在―つまり、永続するものではなくて、〜生成するもの、生まれて死ぬもの―という観念を打ち立てたという事実に集約できるように思われる。このように独特のニヒリズムを引き受けるという点に、『存在と時間』というタイトルが示唆する計画の真の実現があるのだ。 https://scrapbox.io/files/650660149d61af001b19cdff.png
伝統的な形而上学的基礎づけを求める志向が「進歩史観的に」彩られた時代を「近代」と規定している。
実際、思惟の歴史が前進的な「啓蒙」であり、その歴史は自らの基礎をより完全に自らのものにしそれを繰り返していくことを通じて発展していくのだ、という考えに支配されているのが近代なのである。
ヴァッティモの捉えるポスト−近代とは、単に近代批判という姿勢のみならず、彼が「マスメディア」(ないし情報技術)の発達を肯定的に捉える。
「普遍史」の実現をもうすぐにでも可能にしてくれるような情報の収集・伝達の手段を偏愛しているにもかかわらず、現代とは、むしろ「普遍史」の構築という課題が逆説的にも不可能になった時代である。ニコラ・トランファギアが指摘するように、これはマスメディアの世界―地球上に遠く広くいきわたっている世界―が、同時に、歴史の「中心」が複数化したような世界でもあるからである。
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多数性―弱さ
わたしが提示しようとするテーゼとは、メディアの社会において、揺れや多数性にみずからの基礎をもち、ついには同一の「現実原則」が侵食されるような解放の理想へと道が拓かれているということである。つまり、きわめて明白な自己意識のもとに打ち立てられていた解放の理想や、事物の成り行きを知る者の完璧な意識(ヘーゲルの絶対精神であれ、マルクスの考えるようなイデオロギーに縛られない 人間であれ)に準拠していた解放の理想は、もはや過去のものとなったのである。
ヴァッティモによればこの新たな解放は、たんにマイノリティや弱者、周縁やローカルの権利要求や自己表明という意味において理解されるべきものではない。なぜならそれでは、ふたたび同一性や真正性という「強い思考」の暴力へと逆行してしまうことになるからである(残念ながら、彼の希望的観測とは反対に、歴史はこの方向に進んでいる。過度なポリコレはまさにこれであろう)。
複数文化のこの世界において、わたしがわたしの価値体系―宗教的、美的、政治的、倫理的―を表明するとき、わたしは、(わたし自身のものを筆頭に)こうした価値の諸体系のもつ歴史性や偶然性や限界について鋭く意識することになるだろう
この意味で「弱い思考」は、みずからが「弱い」と自覚しているという意味で、「強い思考」よりも「強く」なりうるのである。
不透明な社会像
ヴァッティモは、近代の社会の理念は「絶対的な自己透明性というユートピア」に導かれていた、と規定する。それはすなわち、公共圏において、各人が自己意識的になり、自由に互いが互いに「透明に」コミュニケーションできるような社会である(こうした理念がハーバーマスやアーペルらに継承されているのは言うまでもない)。 しかし、マスメディアや情報技術の発展を重視するヴァッティモは、こうした「透明な社会」という理念に異議を唱える。情報技術による「歴史の中心の複数化」という論点についてはすでに触れたが、まさに同じ理由で、現代が向かっているのは透明な社会の逆、異種混交的な社会である。
そして、ヴァッティモはこうした現代の命運を肯定する。というのも、透明な社会という理念は、全ての発話が透明になるような一つの場、一つの理性、一つの空間しか認めないという意味において、「強い思想」―現前と閉塞性に彩られた理性―を体現しているからである。
しかし、逆説的にも、(それこそカントが思い描いていたような)そうした「透明な言論空間」を可能にしてくれるはずだったマスメディアが、その強い思想を裏切るのである。
一方では、アドルノの批判的社会学が示したように、社会の自己透明性は支配の理念としての姿を現し、解放の理念としては示されない。しかし他方で、―これはアドルノが見逃したことなのだが―コミュニケーションのシステム内部自体のうちで、自己透明性の実現を原理上不可能にするようなメカニズム(つまり「歴史の新しい複数の中心の登場」)が展開しているのである。」 マスメディアによって、必ずしもコンセンサスの均質化・統一化へ向かうわけではなく、それに逆行する。私とは異なる世界、私とは異なる文化、私とは異なる伝統の存在がメディアを通じて過剰に示されることで、世界は多中心化していくからである。
この結果、私たちは「本来的な」「唯一の」世界経験といったものの特権性を奪われ、むしろ「現実世界」の偶然性や相対性という感覚が引き起こされ、経験は表層化していくことになる。そして、それこそが、ヴァッティモの考える「存在の弱体化」の具体的なあり方なのである(ここでは当然、メディア=媒介という意味での解釈学的性格もまた考慮されるべきであろう)。
しかも、経験の表層化、あるいは「世界の軽薄化」は、ヴァッティモにとっては「現前の権威の弱体化」と同義でありs、それこそが弱い社会思想の倫理の方向性となる。
こうして、メディア世界に生きる私たちの世界経験は、たえず「揺らぎ」(oscilliatione)の中に置かれるものとなる。
したがって、弱い思想が歓迎するのは、メディアを通したコミュニケーションの「不透明な社会」である。ただし、その不透明さとは、異他なる他者が見えなくなる靄という意味ではなく、あらゆる差異を差異として「解放」し、互いが「自らの」方言(dialetto)で語ることで生まれる、ノイズと困惑に満ちた不協和のことなのである。 https://scrapbox.io/files/6505c3b5749f37001b16f96a.png
弱い信仰
「あなたは今もう一度神を信じますか」という問いにヴァッティモはこう答える
この真意は信じていることが真であるなら万人がそれを分かち合うべきというわれわれの確信を考慮してのこと
則、ヴァッティモはすべての人間が有神論者になるべきだと思ってないし、実際ジェイムズに従って「私には宗教性を持つ権利があるか」という問いと「万人が神の存在を信じるべきか」と言う問いを切り離す 脱デカルト=ヘーゲル的神学
さらにデカルト=ヘーゲル的思想は合理的、普遍的、間主観的合意の追求へ向かうと下記のように述べる。
客観性の形而上学は《存在》の真理をテクノサイエンスの計算可能な、測定可能な、決定的に操作可能な対象と同一化する思考において頂点に達する。
ただひたすら愛
キリストのあるべき姿をハイデガーから導出する
ハイデガーが語った存在の忘却の事態と同様、重要なのは忘却された起源を、それを再び現前させることによって記憶することではない。我々がそれをすでに常に忘却してしまっているということを記憶することが重要なのであり、そして、この忘却とこの隔たりを想起することが真の宗教経験を構成するものなのだということを記憶することが重要なのだ。
ヴァッティモは、宗教がこのように歴史を通じて常にすでに起源からずらされているという事実―そして本質をケノーシス=世俗化に求める。そしてキリストの価値を『第一のコリントの手紙』第十三章に尽きているとする。受肉とはケノーシスの行為、すなわち神がすべてを人間に引き渡す行為であった。 受肉、すなわち人間の次元へ神が降りるということ―新約聖書が神の「ケノーシス」と呼ぶもの―は、ポスト形而上学の時代における非暴力的で非絶対的な神が、まさしく弱体化という使命を、その弁別的な特徴として有することのしるしとして解釈されるだろう。この弱体化とは、ハイデガーに霊感を得た哲学が語るのと同じものである
ヴァッティモによれば、「ケノーシス」に象徴されるように、キリスト教思想はその始まりからすでに「世俗化」のプロセスを進めていたのであり、ポスト形而上学の時代の「弱い思考」がこのプロセスを完結させるのである。だからこそ下記なのである。 ヘーゲルもまた、人間の歴史をもって精神の受肉を構成するものと見、心理と紐づけることによって絶対精神において頂点に達するマスター・ナラティヴと転じたが、ヴァッティモは、大きな物語を拒み、ただ愛が行き渡る希望を見た。 則、ヴァッティモはヨーロッパ文化の世俗化を、ケノーシス、つまり神がすべてを人間に引き渡す行為としての、受肉の約束の成就として描くことによって、宗教を私的なものにした。
啓示は愛に尽きるのであり、他の一切は終わりのない多様な歴史的経験に任されている
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「宗教の回帰」という現象は、ある意味でポストモダンにおける「真理」の根拠や大きな物語の喪失の産物であるとヴァッティモは考える。ヴァッティモは、こうした時代を「神の死以降」ないし「形而上学の終焉以降」と名づける。つまり、絶対的な真理、単一の真理という物語ならびにその土台が保証されなくなったため、そうした土台に立脚していた従来の無神論が、今や失効してしまったのである。 形而上学の終焉と道徳的な神の死は、無神論の哲学的土台を液状化させ(る)
だからこそ宗教に一定の場が戻ってきたとヴァッティモはいう