パレイゾン
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形成性とはなにか
芸術とは認識であり内的表現であるというクローチェに対し、パレイゾンは実践的側面に留意せずに芸術を語ることは出来ない、また作品の外的物質的なかたちをも重視するべきであるとの見解を掲げた。パレイゾンにとって、芸術の実践的側面とは芸術家により想起された観念を事物へと翻訳する作業には留まらなかった。
彼は作品形成を芸術家が一方的に形を与えるというよりも活動を通じて形が獲得されるような、言い方を代えれば活動を実行する中で表現されるものと表現自体とが同時に作品というかたちにおいて生まれてくるような事態と捉えた。パレイゾンが作品形成の実行様態や作品を現実のものとする上での素材を形成活動における二次的な手段である以上の何か本質的なはたらきとして関与するものであるように論じているのも、彼が作品形成をこのような様相において捉えていることをふまえるならば納得がいく。
このような作品形成の様相に基づき芸術の実践的側面について思索を深める中で、彼は「形成性(formatività)」という概念を提起する。それは人間のあらゆる活動は思考する(pensare)すなわち思索的(speculativa)活動・行動する(agire)すなわち実践的(pratica)活動・形にする(formare)すなわち形成的(formativa)活動から構成されるということである。彼は「形成する(formare)」とは「行為しながら行為を実行する様態を見出す(mentre fa inventa il modo di fare)」ことであると定義し、こう続ける。 人間の営みは、最も単純な様相から複雑な様相に至るまですべからく形成性という〜性質を備えている
そして創意性を紐付け形成性を発展させる。
思考の動きをたどること、明白な表現をもって様々な考えを現実化すること、それらの考えを判断や推論、証明、体系において系統立てること、それらの考えを発見すべき連関に基づき創意的に関係づけることなしに思考することは不可能だ。道徳法則の具体化であるような規律を状況に応じて考案すること、意図や課題を認識し理想的な到達点を思い描くこと、実践的行動、習性、性格を実現すること、習俗や伝統を定着させ制度を確立することなしに行動することは不可能だ。明確極まりない考えを実行に移すだけの振る舞いにおいてさえ、ある計画を実現するとは計画を試みるということでもあるという意味において創意性が介入する余地があるのだ
芸術においての形成性
形成性は、あらゆる活動の実行に介在している。そしてパレイゾン曰く、この性質が最も端的に現れるのは芸術作品の形成活動においてなのである。形成活動の実行において、作家には遵守すべき行動原則もなければ踏襲すべき既存の実行様態があるわけでもない。作家は形成活動を実行しながら行為の様態を見出していく。そんな下記言明はゲーテの「芸術作品の有機性」を継承している。 芸術作品は、あたかも有機体が徐々に成熟していくかのような―それ自体が胚であり、有機的な組織体の個的法則であり、完全な究極性であるかのような―様相を呈する。
成り行きまかせの行為のように見えながら、形成活動は作品の立ち現れをもって収束する。とすれば、活動をそこへ導く何らかの誘因が働き、或いはそれらの選択の妥当性が存在すると考えねばならないだろう。それを下記のように言明する。
パレイゾン曰く、「うまくいった」とは下記を意味する
形成するとは行為をする中でそのやり方を生み出す[見出す]ような行為のことをいう。〜作品に内在する法則(legge)に適うものとして作品を表現し得た
作品は法則に適合するかたちで形成され、形成活動の成果としてたち現れるもの、ということになる。パレイゾンの形成性の理論においては、作品に内在する法則(legge)は作品の存立に先行している。でなければ、作家は形成する過程において作品の形成がうまくいった(riuscita)か否かを判断する基準をもち得ないということである。
人格概念
パレイゾンによる解釈の定義は「人格ペルソナによるフォルマの認識」というものである。解釈行為の主体としてここに提示されている「人格ペルソナ」とは一体どのような概念だろう。人格は自らにおいて存在するという自存性と他者との関わりにおいて存在するという関係性の統一にある、と彼は考えた。そしてこのフォルマは所産的フォルマであると規定される。 人格を人格たらしめるのは個的存在、個人であるということではなく、それが交わりにおいて存在し、生きる存在であることによる。いかなる他者との関係に依拠するかにより人格の実定性は異なるものとなり、人格の多様な実定性は所産的フォルマに対する無限の解釈への開かれを生み出す。
パレイゾンによれば、芸術が時代精神や民族・集団の声を帯びたものとなるのは、芸術家が自身の行為を介し自身が生きる社会・時代に特有の民族性・社会性・時代精神を作品に内包させる、換言すれば形成活動の成果として作品においてそれらを具現化することによる。芸術家は社会的・時代的にある特定の集団に参与しているが、その集団において共有される超個体的なものを抽出し作品において開示する。仮に作品がそれを制作した作家個人の制作の痕跡を排除したような普遍的様相を呈するものであったとしても、芸術家が普遍的な様相を呈した作品を作ることを希求し人格のイニシアチブにおいて活動を方向づけた、という点においてその芸術家に固有の態度、表現とみなすことが可能である。
あるいは、共同作業による作品形成も共同作業に関わる個々の人間の人ペルソナ格の所在を裏付けるものに他ならない。共同で作業をするという概念自体が形成活動に参加する者たちの人格の参与を仄めかしている、という。パレイゾンによれば、共同作業による作品の実現は、作業を司る者たちの個的な参与により共有されるべきものが成立し実現されるという意味において人格的であると受け止めることが可能である。
共同作業に携わる人々の個々の人格は、全体への適合性(congenialità)を前提として存立している。各々の人格における個体性を犠牲にすることなく適合性へと到達しようとする努力、それは各人が自身の人格の個体性を踏まえ初めて可能になることである。パレイゾンによれば、芸術において人格は「三つ巴でありながら一体」という性質をもつ。人格はまず、形成活動を開始するにあたってのイニシアチブ、“形成のエネルギー(energia formante)”としてある。このおかげで、芸術家は自らの活動を純粋に形成的なものへと向けることが可能になる。人格はまた、形成活動を実行するにあたり“形成の仕方(modo di formare)”、すなわち様式(stile)としてあらわれる。形成のエネルギーをもって人格固有の形成の仕方を通し物理的にたち現れる作品(opera formata)もまた、人格のたち現れである。形成するという行為は作品を作り出すだけではなく、芸術家の内部にも変化を生じせしめる。パレイゾンの表現を用いより端的に表現すれば、形成行為は芸術家の人格をも形成せしめる。 芸術は単なる表現をはるかに超えた、内実の詰まった何かである。芸術は作者の人ペルソナ格を表現するというよりも、作者自体である、と言ってよい。作品は作者の人ペルソナ格そのものである。ある瞬間において画像として捉えられた部分的なまがいもののイメージ、というようなものではない。その生きた総体において捉えられ、物理的で自律的な一個の物質において固体化されている。
これを、作品とは芸術家の人格が受肉したもの、と捉えることも可能である。芸術家は形成活動の成果としてたち現れた作品を通し、歴史的次元において自身を実体化するのである。
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基礎付け
クローチェとアランを拒む
彼曰く、芸術について思索をすることには二通りの意義がある。
クローチェ的意義:芸術概念の普遍的な定義を見出すことに意義があり、完成された作品と芸術家の着想との関連性が重要な観点である思索 デューイ的意義:人間の個的生における芸術の意味合いを見出すことに意義があり、作品を形成あるいは受容する際の個的体験が重要な観点である思索 パレイゾンは後者の見解に対し同意を示す。ドイツの実存の哲学により思想形成を行い、個的人格の問題、与えられた状況における活動を契機とする自己形成、個的体験に対する解釈の問題に携わってきたパレイゾンにとり、芸術について思索を試みるとは個々の人間の生における芸術をめぐる体験、より具体的には作品を制作する際の芸術家の形成体験および形成された作品の受容体験について思いを巡らすことに他ならなかった。
次いで彼は、作品を形成するという行為の意義について考察を進める。考察を進めるにあたり、彼は予備考察としてまず、制作過程における作品成立の条件について検討する。それは作品成立の起点をどこにおくかによって、作品を形成するという行為の意義が異なるものとなるからである。そこで同様に、二通りの既存論を展開する。そして両者を拒む
クローチェ的作品成立:芸術作品は、実際に作品が現前する以前、すなわち芸術家のうちにイメージが生起した時点で作品として既に成立したとみなすべきという起点。芸術家のうちに内的イメージが生起した時点で作品が成立したとみなすなら、作品を現実的に形成する行為は生起した内面的イメージを写し取る作業と同義となる。 クローチェによれば、まず芸術家の内面において作品のイメージが生起し、それに基づき作品の現実化作業がなされる。この見解は作品を形成する芸術家の具体的な体験にはほど遠い、とパレイゾンは異議をとなえる。彼自身の見解においては、芸術家は制作を実行する中で次第に形を見出していくのであって、最初に作品の着想があり次いでその着想を実現化するのではない。作品形成における着想と実行(作品の現実化作業)の同時性を彼は唱える。
アラン的作品成立:芸術家が形成活動を実行し作品が物理的に現前したことをもって作品として成立したと考えるべきという起点。作品が現実化された瞬間をもって作品の成立がなされたとみなすのであれば、作品を形成する行為は作品が成立する上で必須の条件となる。 アランによれば、作品の着想はその現実化のうちに収斂されるものである。イメージは制作されつつある―もしくは今制作されたばかりの―作品にのうちに次第に見出され、制作の最終段階において確定的なものとなる。パレイゾンは、この見解に対しても異議を唱える。というのも、彼にとって芸術作品は偶然性に任せた行為の賜物ではない。芸術作品の形成活動は、試行錯誤をくり返しつつも作品の実現にむけある方向性をもって実行されるものである
パレイゾンの地平
試行錯誤をくり返すとは、活動の実行において不確実性が満ちているということだ。彼は作品形成の実行様態が不確実性に満ちている一方で、そこにはまた形成活動をある方向へと導く誘導性も内在しているという点に着目し、整合性をもってこれらの性質を説明しうる活動の様相を論理化しようと試みる。そこから下記テーゼを導出する
試行錯誤するという活動の様態のうちに、彼は不確実性と或る方向への導きを見出す。選んだ活動の様態がその時点においては確実性に欠けたものであったとしても、諸々の可能性のうちから芸術家がその様態を選択するのは、それこそが妥当なものであると芸術家に選択を促す何かが働きかけるためである。それが『Estetica』で述べられている或る種のはたらきかけ(spunto)の芸術家による感知という機能である。 活動の様態を選択する度に芸術家が感知するこのはたらきかけは、形成活動がうまくいった際にたち現れるであろう形が内包する法則(legge)によりなされるものである、と彼は述べる。この様態について彼は以下のように言及している。
芸術作品の形成活動は、ある種の予知とうまくいくという予感によって導かれる。作品がたち現れる以前に、作品そのものが既に形成活動に作用を及ぼしている。
彼は形成活動の実行において作用を及ぼす形を能産的フォルマ(=能産的形)、形成活動がうまくいった際にたち現れる形を所産的フォルマ(=所産的形)と定義した。この定義を用い、実行中の作品の形成活動がうまくいき作品が所産的フォルマとしてたち現れる以前にそれが能産的フォルマとして作用を及ぼすという様態を理論化し、「能産的フォルマによる所産的フォルマの形成的誘導」をめぐる概念構造を提示するに至る。 管見によれば、この概念構造はパレイゾンにより起想されたものではなく、「能産的自然」と「所産的自然」をめぐる概念構造を基盤としたものである。(この概念構造において提示されている「自然」の概念とはいかなるものであり、同概念構造は自然のいかなる様相を理論化しようとしたものだろうか。次節では、この概念構造の成立およびパレイゾンへの継承の過程を確認したい) ゲーテの踏襲
スピノザにより、この自然観は神と自然を同一視しつつ「能産的自然」「所産的自然」の概念を用いた理論構造としてまとめられた。スピノザにとって自然は唯一・永遠・無限の実体としての「能産的自然(natura naturans)」、あらゆるものを自己の様態として自己のうちに産出する内在因であった。産出された様態、すなわち「所産的自然(natura naturata)」は実体のうちにあると考えられる。「所産的自然」は、「能産的自然」から因果的には区別されても実在的には区別されない。両自然は対立しているのではなく、ひとつに統一されている。存在するものは実体とその諸様態であるから、存在するのは統一された自然のみということになる。
パレイゾンによれば、1773年から75年頃には上掲書によりこの理論がゲーテの知るところとなったが、ゲーテが同理論を受容するのは1786年から88年にかけてのイタリア旅行以後のことである。ゲーテが同理論を受容するに至った要因としてパレイゾンは、この旅行を機にゲーテの自然への対峙の仕方の変容を挙げる。旅行以前のゲーテにとって自然は感受すべき客体としてあり、彼の関心は刻々と様変わりするその外的様態に向けられていた。彼がその当時自然のうちに見出していたのは、豊穣で無秩序かつ激情的な創造性(creatività esuberante, tumultuosa e orgiastica)であった。自然に対峙する主体としての自己と客体としての自然という図式がここでは明確である。それが、イタリア旅行をきっかけとして、目にする多様な様態に内在しそれらを生み出す原理あるいは法則、成長を促す内的動因をゲーテは自然のうちに認めるようになる。
それに伴い、自然の創造力のうちに見出すものも永続的で恒常的な規則性と適法性(regolarità e legalità eterne e costanti)へと変った。また、彼にとって自然は、最早客体として自己に対置するものではなく、自己に内在するものとなる。スピノザの概念構造を受容したゲーテは、それを基盤として自らの芸術理論を構築する。内なる自然(能産的自然)が内的動因として芸術家を制作へと導き、多様な可能的様態のひとつである作品(所産的自然)を現前させる、というものである。
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