ブルーノ
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ブルーノの死
1600年2月17日、ローマもテヴェレ河に近い"花の広場"カンポ・ディ・フィオーリは、ときならぬ人群れのなかに異様に寂まりかえっていた。焚刑の時が近づきつつあったのである。広場の中央にはポンペイ劇場を背にして、一人の邪宗徒が裸にされ柱にくくりつけられていた。「冒の言を吐いたその口に舌枷をはめられて」この男は、最後にさしだされた十字架から顔をそむけると、やがて贖罪の炎のなかにつつまれていった。かくてジョルダーノ・ブルーノはその五十二年の生をとじる。ソクラテスが毒死してよりほぼ二千年。かれもまた殉教徒としてみずから死の道を選び、火刑のとともに昇天してゆくみずからの魂をじつつ従容として死んでいったという。「私に宣告を下しているあなたがたのほうが、宜告をうける私よりも、もっと怖れているのではないか。」これがブルーノの遺した最後の言葉であった。 清水はこうした鮮烈なブルーノの死へ向けて、熟慮に基づく確固たる意志を掲げたソクラテス的とも呼べる〈英雄的態度〉を強調する。
ガリレイやカンパネッラとともに反宗教改革の犠牲となったブルーノの死は、二人とも悲劇的な死に方をしているためであろうか、よくソクラテスのそれに比べられる。(...) ブルーノの晩年は死との対決であったといえる。人間であるからには一度は死との対決を避けられぬ、といっしまえば至極あたりまえのことのようだが、ここで云う対決とは勿論それとはだいぶ異なった意味をもっている。ブルーノの場合死はどうしても避けることのできない運命としてではなく、なお選択の自由に委ねられていた問題であった。欲するならば、毒杯を免れることのできたソクラテスのように、かれもまたおそらくは死を免れえたでもあろう。しかし自己の思想的信念に従ったブルーノは、ローマ法王庁への服従を拒絶して、異端者として処刑される道を選んだ。ここでまず注目されねばならないことは、ブルーノの選択が一時のゆきがかりではなくて、八年間の獄中生活の総決算としてなされたということである。宗教裁判の庭にひきだされて以来、ブルーノの意識のうえに、死の不安がたえず濃く蔽い被さっていたであろうことは、想像に難くない。だがいわば死に直面した限界状況におかれた人間の一種異常の陶酔状態から死の選択がなされたと考えることは、この場合不可能である。その間には幾度か妥協の機会があたえられながら、かれはこれを拒んだのであった。その頑固なまでの自説の繰返しは、ブルーノという人間の平常の態度を、またその選択が冷静な熟慮の結果であることを、われわれに物語るに充分であろう。死の選択はブルーノにとってはむしろ生の選択であったともいえる。動物的生命の持続として無条件に生存の習慣に従って生きてゆくことが死にまさるものとは考えられなかったのである。「ああ、人の運命のいかなればとて、吾は、生ける死に死せる生を生くるとは。」ひとたび意識によって対自化されるとき、生存はもはやそのまま盲目的に肯定されるものではなくなる。選択され条件づけられた生存のみが、生きるに値し、生の名にあさわしいものではないか、それは既にはやくからブルーノの心を捉えた疑いであった。
では果たして彼をそこまでして魅了し、命を賭してでも足掻こうとしたその条件とは何か。そして、それはソクラテスに同じ〈真理〉であるのか??
人はここであの有名な言葉を想い出すことができよう。「暴力にも奪われず、時にも腐敗せず、蔽えども減ぜず、伝うとも滅びず…夜も断ち切ることをえず、闇も引き抜くことのできぬ」もの、それは真理である。「真理こそ万物のうちでもっとも真摯なもっとも神々しいものである」。ブルーノのうちに燃えるこの真理への情熱が、かれに生よりもむしろ死を選択させ、真理の殉教者として悲劇の道へと駈りたてずにはおかなかったのであろう、と考えるならば、そこに私たちは超人的意志を具えた一個の理想的人間像を描きあげなければなるまい。ブルーノの意志を支えてかれに毅然たる態度を堅持せしめたものは、果たしてこの真理への情熱であったのだろうか。たしかに、ブルーノのうちに一人倍強い真理への情熱が不断に燃えつづけていたのだという推測には、多くの真実がふくまれているでもあろう。しかしまた情熱のうつろい易さを認めているのも、誰よりもまずブルーノ自身であった。「心誘う燈火に向かって舞い飛ぶ胡蝶は、炎にやかれて亡ぶ身の末を知らず、渇きにせかれて清流いそぐ牡鹿は、猟男の矢の苦きを知らぬ。」獄窓におくった八年間、真理への情熱がたえず変わらぬ強さでかれの毅然たる態度を支えていたとは、むしろ考え難いのである。事実この期間にブルーノの心の動揺を示すともとれる記録も残っている。むしろそこから人は、あるいはかれの変節を、あるいはふてぶてしい敷瞞や強情ないいのがれを、見つけることもできるであろう。獄中のかれに真理に向かってまっしぐらにすすんでゆく十字軍士の姿を見出そうとする期待は失望に終わるであろう。往々にしてブルーノに付与されてきた情熱的英雄像は、資料によって知りうるありのままの人間ブルーノを押しまげずには生まれない。とはいうもののまたこの動揺だけを強調してみても、ブルーノの態度を充分に説明することはできない。獄中のブルーノを襲ってその心を動揺させ自己の生き方に反省の目を向けさせた疑いは、べつに獄中生活という特殊な外的条件によってはじめて生まれたものではなく、すでに昔からブルーノのうちにあってかれの情熱を冷やかに監視しつづけていたものではなかったか。「(美しき憧れに羽薄いて空高く飛昇するイカロスは)地に墜ちて死すべきことを知る。されど、如何なる生の、吾が死にふさわしきものぞ」。身を灼く情熱のさなかにもなおその空しさの意識はかれから離れることはなかったのである。人間情熱とはうつろい易きものであり、その本質をブルーノは充分に自覚していた。こうしたブルーノのうちに、私たちは、情熱を素村にじて真理の道を選進するオプティミストとはほど遠い、むしろたえず新たな疑いを繰り返しつづける懐疑者の姿を認めないわけにはゆくまい。といってかれの生涯はいわゆる懐疑主義者のそれと同一視されるべきではない。己れの道にたえず疑いを向けながらも、その獄中生活に示された毅然とした態度は、その底に流れる首尾一貫した精神の持続を物語っている。深い懐疑につつまれながらしかも生を生きることを希求させた精神、この精神こそかれに死を選択させたものではなかったか。 換言するのならば、彼の英雄的態度とは、うつろいやすい情熱でも、真理への信仰でも、勿論一時の衝動でも、見栄の成果でもない。それは以下に記されるようにまさにブルーノの「思想の決算であり、かれの哲学の結論」すなわち熟慮の末の確固たる答えなのだ。
ブルーノと相前後して宗教裁判の犠牲となったガリレイはかれとはまた異なった道を選んだ。法王庁の要求に屈して自己の思想を撤回すると公言し、ともかくも死刑を免れることができた。それはよかれあしかれガリレイの生き方であった。これとは逆にブルーノは自己の思想を貫こうとして死を選んだ。その死はたんなる獄中生活の結末ではなくて、ブルーノが自ら選択した生き方であり、かれの思想の決算であり、かれの哲学の結論であった。
思想的系譜
パドヴァ・アヴェロイズムの展開
そもそもパドヴァ学派という名称が喧伝されるもととなったのは、ペトラルカの有名な自然科学者攻撃で、かれは当時の北イタリアを風靡していたアヴェロエス流の自然研究にたいして自己のヒュマニズムの立場を対比させ、人間研究という本質を忘れてしまった世のアリストテレスかぶれの哲学者どもが「かつては神学の師でさえあったこの学問を(...)つまらぬ言葉の冗舌におとしめてしまった」と資慨した。ここで攻撃の玉にあげられているアヴェロイストたちがいわゆるパドヴァ学派であるとされて、これら自然哲学者たちがフィレンツェのプラトン・アカデミアを中心に栄えた新しいヒュマニズムの流れに対抗していたのだという、かの有名なフィレンツエ対パドヴァの対立という伝説をつくりあげるもととなったのである。
イタリア・ルネサンスの思潮主流がヒュマニズムープラトニスムであったとすれば、これに対立するもう一つの思潮がアリストテリスムである。そもそもプラトニスムとアリストテリスムは二つの代表的思想傾向として拮抗し、しかも前者が文学の都フィレンツェ、後者が科学の都パドヴァを中心として、イタリア・ルネサンスの対立する二大思潮をなしたとする説は、いわば十九世紀以後のルネサンス解釈の定石となってきたところである。そしてこれはペトラルカによって対立構造が設計されたのだ。そしてこうした自然哲学の重要性は次のように記述される。
第一に科学的思考が中世神学にたいして重要性を唱えはじめたものとしてパリおよび北欧の十四世紀後期スコラの唯各論者の流れをあげてそこに近代自然科学思想の発生母胎をみようとするのが一般である。これにたいして第二の発生母胎としてあげられるのが、北イタリアとくにパドヴァ・ボローニャを中心とする自然思想家の一群である。
そしてダ・ヴィンチ、テレジオ、ブルーノによって涵養されたパドヴァの血脈はホッブズへと流れゆく。こうして神に替わる造物主としての自然、すなわちパドヴァの系譜は神法から自然法への、暗黒の中世から世俗化への礎をうちたてたのだ。