カント
Aが実在する原因を突き詰めて考えようとする時、その「実在」を「実在」たらしめる始点を突き止めることは、どれほど際限なく因果の系列を辿っても不可能である。
負量概念におけるこの事を「自然」における「ポジティブ(現実的/実定的)なもの」の総量の不変化として捉えようとした。「+A」が生起するには、自然全体のどこかでは「ーA」が同時に発生している。自然全体を総計すれば変化量は常にゼロである。 その「総量」を持った自然全体の無からの生起は、因果に共通性を持たず「+/-」に還元されない"特殊な原因"がある。
カント全集 15 所収
178? 講義草稿
すべての人間は二重の仕方で人間形成を受ける。(一)学校によって、(二)(人々という意味での)世界〔世間〕によって。〜人間知は、かくして、学校知と世界知とのいずれかであると理解される。※後者は実用的人間学である。 この実用的人間学は、人間は何かということを探求するが、それは、人間が自己自身から何を作り出すことができるか、そして、他人を〔どのように〕用いることができるかということに関して、規則を引き出す目的のみである。それは学校知の一つである心理学ではない。 実用的人間学は、心理学であるべきではない。果たして人間は魂を持っているとか、何が(身体ではなく)われわれの中の思考し感ずる原理に由来するか、といったことを追求するのが目的ではないのである。また、記憶を脳から説明したりするような、医者の生理学であってもならない。実用的人間学は人間知であるべきなのだ。
また下記のようにも補足している。
序文
古代ギリシアの哲学は、三つの学問分野に分けられていた─自然哲学、倫理学、論理学である。この分野別の分類は、哲学の本性にまったくふさわしいものであり、分類の原理をつけ加えることのほかには、改善すべきところはまったくないと言ってよい。この分類の原理をつけ加えれば、哲学がさらに完璧なものになるのは確実であるし、[原理に基づいて]それぞれの分野をさらに細かく分類するという必要な作業を、正しく規定することができる。
そこでこうした三つの哲学を「悟性と理性そのものの形式だけを、そして思考一般の普遍的な規則を考察する」哲学(論理学)と「実質的な認識として、ある対象を考察する」哲学(自然哲学〔=自然学〕と倫理学〔=道徳学〕)に区分する。そして「形式的な哲学」としての論理学を下記のように論ずる。
次に「実質的な哲学」では「形式的な哲学」とは対照的に経験的なものを含むて、更に「特定の対象にかかわり、こうした対象がしたがっている法則を検討する」とする。そこで下記のように論ずる。
この法則には二種類ある──自然の法則であるか、自由の法則であるかである。そこでこの実質的な哲学も二種類に分類される。自然の法則を考察する哲学は自然哲学であり、自由の法則を考察する哲学は倫理学である。自然哲学は自然学とも呼ばれ、倫理学は道徳学とも呼ばれる。〜世界についての知[=哲学]である自然哲学と道徳哲学は、それぞれの学にふさわしい経験的な部分をもつことができる。自然哲学は経験の対象である自然についての法則を規定しなければならないし、道徳哲学は自然によって触発される人間の[自由な]意志の法則を規定しなければならないからである。自然哲学が規定する法則とは、すべてのものがそれにしたがって生起するような法則である。道徳哲学が規定する法則もまた、すべてのものがそれにしたがって生起すべき法則ではあるが、しばしばこのような法則にしたがって生起しないこともありうるのであり、その条件についても考察する。
格率が普遍的法則になることを、その格率によって汝が同時に意欲しうる、そのような格率に従ってのみ行為せよ
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中山訳と熊野訳を並行して読んでいるため[像=表象][知性=梧性]などがごっちゃになって書かれているが許して欲しい
第一版 序文
そこで本書でカントが考えているのは「理性がいっさいの経験から独立に追求しうるあらゆる認識」を検討することによって、「形而上学一般が可能であるか、不可能であるかを決定し、さらには形而上学の源泉ならびに範囲と限界を規定する」ことを試みるのである。
アプリオリな総合判断
認識の区分
わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。〜対象はわたしたちの感覚を触発するが[対象が感覚に働きかける道は二つあり]、対象みずからが感覚のうちに像を作りだすか、人間の知性[=悟性]のもつ能力に働きかけるのである。働きかけられた知性は、対象の像を比較し、これらを結びつけたり分離したりすることによって、感覚的な印象という生の素材から、対象の認識そのものを作りあげるのであり、この活動が経験と呼ばれる。だからわたしたちのうちの認識において、時間的にみて、経験に先立つものは何もない。すべてが経験とともに始まるのである。
[この合成物を構成しているものは二つあるが、その]一つはわたしたちが[感覚的な]印象によって受けとったものであり、もう一つはわたしたちに固有の認識能力がみずから作りだしたものである(この作用において感覚的な印象は、[認識を作りだすための]たんなるきっかけの役割をはたすだけである)。ところでわたしたちは、長いあいだの訓練によって、認識が合成物であることに注目し[印象に付加されたものを]巧みに分離することができるようにならなければ、この[付加されたものを、感覚的な印象という]土台となる素材から分離することができないのである。
約言すると「[感覚的な]印象」と「認識能力」が強固に結びついてできているのが「合成物」としての「認識」なのであるのであり、「長いあいだの訓練」は「感覚的な印象」から分離した認識をつくりだすことができるということである。そこで「経験から独立した認識というものが、すなわち何よりも感覚のすべての印象から独立した認識というものが、存在するかどうか」と問う。それはつまり「感覚的な印象」からそもそも論独立した「認識」についてなのである。そして「このように経験から独立して生まれる認識を、アプリオリな認識と呼んで、経験的な認識と区別することにしよう。経験的な認識の源泉はアポステリオリである。すなわち経験のうちにその源泉があるのである」とする。そしてよくある誤謬を示す。
そしてさらに精微化し、「アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引きだせないものだからである」とする。
区分の条件付け
上記節から認識の概念的区分を説明したが、実際に「純粋な認識と経験的な認識を確実に区別しうる徴表はどのようなものか」。そしてそれを「必然性と厳密な普遍性は、アプリオリな認識の確実な特徴であり、この二つの特徴はたがいに分かちがたく結びついている」と述べる。この「純粋な認識」を条件づける「徴表」とはどういったものなのか。
①「必然性」
経験はわたしたちに、あることがこれこれのものとして起こりうるということ[事実性]を教えてくれるが、それがそのようなものとしてしか起こりえない[必然性]ということは教えてくれない。だから[このように経験的な事実には必然性は伴わないということから]第一に、ある命題が同時に必然的なものとして考えられる場合には、それはアプリオリな判断であるとみなされる。
②「厳密な普遍性」
第二に、経験に基づいた判断は、いかなる場合にも真の意味での普遍性、厳密な普遍性を示すことはない。この経験的な判断からえられるのは、ただ(帰納によって)想定された普遍性であるか、あるいは相対的な普遍性であるにすぎない。だから経験的な判断にそなわる普遍性というものは、〈これまで経験したところでは、この規則、あるいはあの規則には例外がなかった〉ということにすぎないのである。〜したがって経験的な普遍性というものは、せいぜい多くの場合に妥当するにすぎないものを、すべての場合に妥当するものであるかのように、恣意的にその妥当性の水準を高めたものにほかならない。
そしてこうした「必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断」の最たる例として「数学」を挙げる
自然科学からそのような実例を引きだすとすれば、数学のすべての命題がその好例となる。日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が、明らかに含まれているのである。[この原因の概念は経験から独立した普遍的なものであり]ヒュームのようにこれを、習慣から導こうとすると、この[原因という]概念はまったく失われてしまうことになるだろう。ヒュームは、ある出来事が発生する際には、その前に特定の出来事が随伴するように発生しているときには人々がこの二つの[出来事の]像を結びつける習慣があることから(すなわちたんに主観的な必然性によって)、この原因という概念を説明しようとしたのだった。 またこうした「実例に依拠する必要はない」ともする。それを下記のように記す。
分析的と総合的
主語と述語の関係について語っているすべての判断において、主語と述語の関係としては二種類の関係が可能である(ここでは肯定的な判断だけを検討する。後になって否定的な判断にこれを適用するのはたやすいことだからだ)。一つは述語Bが主語Aのうちにあり、Bという概念がこのAという概念のうちに(隠れた形で)すでに含まれている場合であり、もう一つはBという概念はまったくAという概念の外にあり、たんにこの概念に結びつけられているだけの場合である。最初の場合をわたしは分析的な判断と呼び、第二の場合を総合的な判断と呼ぶ。〜第一の分析的な判断は、解明的な判断とも呼べるだろうし、第二の総合的な判断は拡張的な判断とも呼べるだろう。
〔厳密ではないがイメージとして〕“林檎は赫い”などといった主語=対象(林檎)に内在する述語=性質(赫い)を分析的=解明的と呼び、“林檎は美味しい”などといった主語=対象に外在する-なぜならそれは人間が食するという経験によって成されるため、林檎という対象にその性質は内在していない-述語=性質を総合的=拡張的と呼ぶのだ。そして下記より、これまでの認識区分と照らし合わせて論じる。まずは「経験的な判断」と「総合的な判断」である。
つぎに本稿の主題である「アプリオリな判断」と「総合的な判断」を論ずる。下記にてあの有名なテーゼ-「ア・プリオリな総合的判断はどのようにして可能か」に至るのだ。
table:カント的統合
ア・ポステリオリ ア・プリオリ
しかしアプリオリな総合判断には、このような[経験という]補助手段がまったく欠如しているのである。わたしがAという概念に、Bという他の概念が結びついていることを認識するためには、Aという概念を超えてその外にでねばならないのだが、そのときにわたしは何に依拠しているのだろうか、この総合はどのようにして可能となるのだろうか。〜人間の知性[=悟性]はここで、ある未知のもの(X)に基づいて、Aという概念の外部にあり、Aという概念と異質なBという述語が、このAという概念と結びついていると考えるのであるが、それではこの未知のもの(X)とは、いったいどのようなものだろうか。
そこでカントは「理性のすべての理論的な学には、ア・プリオリな総合判断が原理としてふくまれている」として「数学」、「自然科学(自然学)」、そして暫定的に「形而上学」を挙げる。ちなみに「ふくまれている」としているように全面的にアプリオリな総合判断としているわけではないので注意⚠️
数学
数学的判断は総じて総合的である。〜なによりも注意されなければならないのは、本来の数学的命題はつねにア・プリオリな判断であって、経験的なものではないことである。数学的命題は必然性をともなうからであり、必然性を経験から引きだすことはできない。〜最初はおそらく、7+5=12という命題はたんに分析的な命題であって、七と五の和という概念から矛盾律にしたがって帰結する、と考えられるかもしれない。しかしながら、より仔細に考察すればわかることであるが、七と五の和という概念は、ふたつの数をひとつの数に結合すること以上のなにもふくんではいない。そのことによっては、ふたつの数を足しあわせたそのひとつの数がなんであるのかは、まったく考えられてはいないのだ。十二という概念はだんじて、七と五の結合を私が思考することだけによりすでに考えられていたものではない。さらに、このような可能な和について、私の有している概念をどれほど分解したところで、私はそれでも十二をそのうちに見いだすことはないだろう。
自然科学
自然科学(自然学)は、ア・プリオリな総合判断を原理としてじぶんのなかにふくんでいる。
その例として「物体界のあらゆる変化において物質の量は不変である」ことと、「運動のいっさいの伝達にあって作用と反作用はつねにたがいにひとしくなければならない」ことを挙げる。
この両者のいずれも必然性を有し、したがってア・プリオリな起源を有することばかりでなく、どちらの命題も総合的命題であることもあきらかである。
形而上学
柄谷行人が敢えて超出的闘争にて「超出」とつかったのはカントリスペクトなんだろう。またこうしたアプリオリな総合判断の学のなかでも「形而上学については、この学がこれまで順調に発展してこなかった」として下記のようにも論ずる。 形而上学はこれまで不確実で矛盾した学であると評価されて、不安定な地位を占めてきたのだが、その唯一の原因は、この[純粋理性の]課題に思い至ることができなかったこと、おそらくはこれまで分析的な判断と総合的な判断の違いについて考えてみることができなかったことにある。形而上学が存続しつづけるか、それとも滅びるかを決定するのは、まさにこの課題を解決できるか、それともこの課題を解決できる可能性が現実にまったく存在しないことを十分に証明できるかどうかにかかっているのである。 ただカントは同時に、「[形而上学が問いかける問いは、人間の理性にとって]自然な問いなのである」として人間にとって形而上学はそばにあるという。その所以を下記のように論じる。
形而上学もまた、[まだ]学としてではないとしても、[すでに]人間の自然の素質として(素質としての形而上学として)、実際に存在するのである。というのも人間の理性というものは、博識を誇るという虚栄のためではなく独自の欲求に駆られて、理性を経験的に使用しつつも、理性のこのような経験的な使用から借用してきた原理によっては答えることのできない問いにまで、抑えがたい勢いで進んでいくものなのである。だから理性が発達して思索にふけるようになると、つねに人間の心のうちに、ある種の形而上学が生まれてきたのであり、今後もつねに生まれるものなのである。だから形而上学については次のように問うこともできる。 形而上学は人間の自然の素質として、どのようにして可能となるか? 超越論的哲学
私は、対象にではなく、私たちが対象を認識するしかたに、その認識のしかたがア・プリオリに可能であるべきかぎりで総じてかかわる認識を、すべて超越論的と名づける。そのような諸概念の体系は超越論的哲学と呼ばれることだろう このような学の区分にさいしてもっとも注意すべきは、なんらか経験的なものをうちにふくむいかなる概念をも紛れこんではならないことである。いいかえれば、ア・プリオリな認識はかんぜんに純粋でなければならない。だから道徳性の最高原則やその根本概念は、ア・プリオリな認識ではあるけれども、それでも超越論的哲学にはぞくさない
つぎに「たんなる思弁的」とはなんなのか。これは下記の引用から理解できる。「拡張」にではなくという言明は、総合判断を拡張的判断と言い換えているところから意味を特定できるのではなかろうか。つまり理性そのものを外在対象と接合することではなく、理性を徹底化することが思弁なのではなかろうか。
思弁にかんしてはじっさいただ消極的なものであって、私たちの理性の拡張にではなく、その純化にのみ役にたつにすぎない
また理性を徹底することは「そのように呼ばれる学は、ア・プリオリな総合的認識ばかりでなく、分析的認識をも完全にふくまなければならないであろう〜私たちにここで許容されているのはただ、私たちにとっての唯一の問題であるア・プリオリな総合の諸原理を、その全外延にあって見とおすのに欠くことのできないほどに必然的な分析を遂行することだけなのである」とカントがいうように分析的な検討が含まれるだろう。だが上記にもあるように、分析判断は「ア・プリオリな総合の諸原理を、その全外延にあって見とおすのに欠くことのできないほどに必然的な分析」のみが許されるのを忘れてはならない。
つまりカントは本書で、純粋理性によるアプリオリな総合判断という思弁によって新たな形而上学としての超越論的哲学を創世すること、を試みるのだ。
カントは人間の認識能力を感性→悟性→理性として論じる。そこで感性を下記のように論じる。
私たちが対象によって触発されるしかたをつうじて、表象を受けとる能力(受容性)を感性という。感性を介して、したがって私たちに対象が与えられて、感性だけが私たちに直感を提供する。
また感性によって提供された「直感」は「すべての思考が手段としてもとめるものは直感である」と論ずる。この意味で下記の悟性を理解できるだろう。
悟性によっていっぽう対象が思考され、悟性からは概念が生じるのだ。
つまり感性が直感を提供して、その直感という手段を通じて、悟性が対象を思考する。その結果「概念が生じるのだ」。こうした理解を持って書き文章も読み解けるだろう。
私たちの認識はこころのふたつの根本源泉から生じる。第一のものは表象を受けとる能力(印象に対する受容性)であり、第二のものはこの表象をとおして対照を認識する能力(概念を生みだす自発性)にほかならない。前者をつうじて私たちに対象が与えられ、後者によって対象が(こころをたんに規定したにすぎない)あの表象に関係づけられ、思考される。
つまり前者が感性で、後者が悟性なのである。そして感性による「アプリオリな純粋直感」を空間と時間のみとして下記のようによりわける。
外官(これは私たちのこころのひとつの性質である)を媒介に私たちは、対象をじぶんの外にあるものとして、くわえてそれを総じて空間中に表象する。空間のなかで、対象の形態、大きさ、および相互の関係が規定され、あるいは規定可能である。内官を介することでこころはじぶん自身を、もしくはみずからの内的状態を直感するけれども、内官によっては一箇の客観としてのたましい自身の直感は与えられない。にもかかわらず、たましいの内的状態の直感がそのもとでのみ可能となる一定の形式は存在する。だから内的な規定にぞくするいっさいは時間の関係のうちで表彰されるのである。時間なら外的に直感することがありえない。空間が私たちのうちにあるなにかとして直感されないのと、おなじことである。
中山訳では「対象をわたしたちの外部にあるものとして、すなわち空間の内にあるものとして心に描くのである〜内的な感覚能力にはある特定の形式がそなわっていて、心の内的な状態を直観するのは、この形式によらねばならないのである。[この形式とは時間であり]その内的な規定に属するすべてのものは、この時間という形式との関係で心に思い描かれるのである。〜この時間[という形式]は、[心の]外部において直観することはできないし、空間[という形式]は、[心の]内部において直観することはできない」と言い換えている。つまり「わたしたちの外部にある」対象を直感するための「空間」であり、他方「みずからの内的な状態を直感する」ための「時間」なのである。 さきに結論部をさきどりすると超越論的観念論が解である。つまりア・プリオリに認識された-主観に属する-「空間」と「時間」は、主体を排除すると無きものである。つまり人間が消滅したとき「空間」と「時間」も薪沿いになる、そういった超越論的観念論がカントの超越論的感性論の帰結である。つまりカントの論に即して一般的な実在論者に言わせれば「空間」と「時間」は仮象なのである-カント自身に語らせるなら内的に実在的だと論じている(つまり人間の内では時間は実在するということ)。 空間
1 :空間のア・プリオリ(=非経験的)な性質
空間は、外的経験から抽きだされた経験的概念ではない。というのも、ある感覚が私の外部にあるなにかと(すなわち、空間中で私がいるのとはべつの空間の場所にある或るものと)関係づけられるためには、だからまた私が感覚相互をたがいに外的に、しかも併存しているものとして―かくしてまた、たんにことなっているばかりでなく、ことなった場所にあるものとして―表象しうるためには、空間の表象がすでに根底に存していなければならないからである。
つまりこれは「私」と「併存している」が、「私の外部にあるなにか」。という「ことなった場所にあるもの」として表象しうることができるロジックとして、アプリオリなものでなければならないということである。続けて「この外的経験がそれ自身、ただ空間の表象によってはじめて可能となるのである」というのは、アプリオリに「空間」を認識できているからこそ、はじめて「外的経験」が可能になるということである。
上記のように捉えると中山訳がスラスラとも読めるだろう。「[すなわちわたしの外部にある対象]にかかわるためには、そもそも空間という像[=表象]がすでにその土台となっていなければならない。わたしはこの空間という像を土台とすることで、これらの感覚をたがいに分離しながら併存したものとして、すなわちたんに異なっているだけでなく、それぞれが異なった場所に存在するものとして、心に思い描く[=表象する]ことができる。〜このような外部の[現象についての]経験そのものを可能にしているのが、空間という像なのである」。
2 :根底に存している
空間はア・プリオリな必然的表象であって、いっさいの外的直観の根底に存している。空間が存在しないことについてはけっして表象しえないいっぽうで、空間中にいかなる対象も見いだされないしだいはじゅうぶん考えることができるのだ。空間はしたがって、現象を可能とする条件とみなされるのであって、現象に依存する規定とはみなされない。だから空間はア・プリオリな表象であり、外的経験の根底に必然的に存する。
つまり「空間の中に対象が存在しない状態はすぐに思い浮かべることができるが、空間そのものが存在しない状態を思い浮かべることは決してできない」ということであって、それゆえ空間は「現象に依存する規定とはみなされない」のである。寧ろ空間が現象を基礎づけるアプリオリな土台なのである。
3 :純粋な直感[空間論的一元論]
空間は、事物一般の関係についての論証的な[すなわち言葉で説明できるような]概念ではないし、よく使われる表現で言えば、[事物についての]一般的な概念でもない。空間は純粋な直観なのである。
その理由として下記を挙げる。
その第一の理由として、人間には一つの空間しか心に思い描けないことがあげられる。たしかに多数の空間について語ることもあるが、これはじつは単一の空間の複数の部分について語っているにすぎないのである。このような部分的な空間というものは、すべてのものを包括する単一の空間のいわば構成要素として、この空間に先立つものと考えてはならないし、こうした部分的な空間を合成することで、この単一の空間が形成できると考えてもならない。部分的な空間は、単一の空間の内部でしか考えることができないものなのである。 空間はそもそもただ一つしか存在しない。空間における多様なものも、空間そのものの一般的な概念も、この唯一の空間を〈制限する〉ことによって生まれたものである。そこから次の結論が引きだされる。
この論説は『神話・狂気・哄笑』のガブリエルによる多元論を包括する存在論的ニヒリズムという一元論に近しい雰囲気を感じる。ただ敢えて違いを述べるのであれば、ガブリエルは客観的な空間=存在論を論じているのであり、カントは主観的な空間=存在論を論じているのだ。そのため言い換えるなら主観的-存在論的ニヒリズムがカントの多元論なのかもしれない。 4 :空間はアプリオリな直感(=非概念)として諸対象を包括する
どのような概念も、考えられるかぎりの無数の異なった像のうちに(その共通の特徴を示すものとして)含まれている像として考えることができるし、[反対に]こうした無数の像をみずからのもとに含む像と考えることができる。しかしどのような概念であっても、それが概念であるかぎりは、無数の像をみずからのうちに含むものとして考えることはできない。ところが[すでに述べたように]空間においてはこのように[無数の像をみずからのうちに含むものとして]考えることができるのであるというのは、無限に分割された空間のすべての部分は同時に存在するからである。だから空間の根源的な像はアプリオリな直観であり、概念ではない。
この文章は大変難解であるがゆえ、中山訳では補論してくれている。中山がいうには下記である。「ある概念とは、さまざまな対象を「共通の特徴を示すものとして」選びだし、抽象した一般的な観念である。動物という概念には、鳥や獣や昆虫や人間などのさまざまな種類のものが含まれ、獣の概念はさらに哺乳動物や爬虫類の概念に細分化され、哺乳動物はさらに人間や犬や猫に細分され、犬には過去、現在、未来の無限の個体が含まれうる。だから犬という概念は、こうした無数の犬の個体に共通な特徴として思い描くことができるし、逆にみずからの「もとに」無数の犬の個体を含めるものとして考えることもできる。しかし概念は共通の特徴を示すものとして、無数の個体の像のうちに抽象的に考えられたものにすぎず、その概念の「うちに」無数の個体を含めることはできないのである。小鳥や猫の個体は、犬の概念という「共通の特徴」を示していないからである。しかし空間という像は、このような共通の特徴によって抽象するという性格のものではなく、さらに無数の小さな部分に分割することができるし、すべての個体を無差別に、しかも同時に「みずからのうちに」含めることができる。だから空間は直観であって、概念ではないのである」。
上記に則するなら、「それが概念であるかぎりは、無数の像をみずからのうちに含むものとして考えることはできない」というのは、例えば「小鳥や猫の個体は、犬の概念という「共通の特徴」を示していない」ため「みずからのうち」-犬の概念-に含むことができないのだ。反証的に空間が概念であると、上の例のように含まれない像が発生してしまう。それゆえ、一元論的に諸部分を包括できるカント的空間は
(a) :
空間はだんじてなんらか物自体の性質を表示するものではなく、また物自体相互の関係を表示するものでもない。すなわち、対象そのものに付着していて、直観のあらゆる主観的条件を捨象しても残存するような、物自体の規定を表示するものではないのである。 (b)で「空間」の「もとでのみ私たちにとって外的直感が可能となる」とカントは述べるが、これで保管するとわかりやすい。つまり対象或いは物自体という外在的なものを空間が明らかにしてくれるのではなく、我々は空間そのものによって初めて対象に対して「直感」しえるのである。それゆえカントは空間を「外的経験の根底に必然的に存する」ものとするのだ。
(b) :超越論的観念論の手引き
カントはしきりに、空間とは「物自体の性質」或いは対象に付随しているものではない、としてきた。このように空間とは主観に属するものであり、それゆえ「人間の立場からのみ」可能なものなのだ。また、カントは次のようにもいう。
私たちが主張するのは、したがって(すべての可能な外的経験にかんする)空間の経験的な実在性である。もっとも同時に私たちは空間の超越論的な観念性を主張する。
これは下記のように解釈できよう。つまり「すべての可能な外的経験」は空間による「経験的な実在性」である。我々は「空間」をもってして初めて「外的経験」を可能にするのであり、また、「空間」をもってして初めて「対象」を実在的に扱えるのだ-「空間のなかで、対象の形態、大きさ、および相互の関係が規定され、あるいは規定可能である」。換言するなら「空間」によって経験することで実在性を帯びるのだ。
つぎに「超越論的な観念性」とはなんだろうか。超越論的とは「私たちが対象を認識するしかたに、その認識のしかたがア・プリオリに可能であるべきかぎりで総じてかかわる認識を、すべて超越論的と名づける」とあるように「ア・プリオリに可能である」、「空間」のことを指しているだろう。つぎに観念性とは「人間の立場からのみ」可能な「主観的」なもの、という言明から理解できる。つまりア・プリオリで主観的な-対象にそれ自体で基礎づけられない-「空間」概念を論ずるからこそ「超越論的な観念性」なのだ。
ちなみにこの「人間の立場からのみ」というのは正確にいうと適切な表現ではない。なぜならカントがこのような見解に至っている訳に対して「わたしたちは[人間以外の]他の思考する存在者による直観[がどのようなものであるか]については、まったく判断できない〜人間の直観は人間一般に妥当するものであり、人間に固有の制約をそなえているものであるが、他の存在者の直観にも、こうした同じ条件が妥当するものかどうかは、判断できないのである」とするように、あくまで「判断できない」から、という暫定的な結論なのである。更に結論部のほうでは「しかし空間と時間という直観の方法を人間の感性だけに限定する必要はない。人間ではないすべての有限な思考する存在者も、人間と同じようにこの[空間と時間という]直観方法を利用せざるをえないのである(もっともわたしたちにはこれについて決定的な見解を表明することはできないのだが)。それでもこの[空間と時間という]直観の方法が[人間だけに限られないという意味で]普遍的に妥当するものであるとしても、それが感性に基づいたものであることに変わりはない」とも語っていることから、これは確実だろう。つまり「すべての有限な思考する存在者」は空間と時間をもちいて感性的に認識するのであり、その存在者は「人間だけに限られない」が、いまのところ「人間のみ」判断可能である。くしくも人間以外のなにかが「有限な思考する存在者」であることを論ずる「決定的な見解を表明することはできない」のだ。そのため主体が「有限な思考する存在者」であること、が可能になる原理だが暫定的に「人間のみ」としている、というニュアンスが正確である。 時間
1 :時間のア・プリオリ(=非経験的)な性質
なんらかの経験から抽きだされた経験的概念ではない。
また「時間の表象がア・プリオリに根底に存」するとも言い換えている。そして下記のようにいう。
時間の表象を前提としてだけ、いくつかのものが一箇同一の時間に(同時に)存在している、あるいはことなった時間に(継起的に)存在している、と表象することができるのである。
2 :根底に存している
さまざまな現象を時間から外して考えることはできるが、現象一般から時間そのものを取り去ることはできない。だから時間はアプリオリに与えられているのである。さまざまな現象が現実性をもつのは、時間においてのみ可能なことである。
3 :一次元性
時間には一つの次元しかない。だから複数の異なる時間が存在する場合には、それは同時に存在することはできず、継起して存在するしかない(空間については[時間とは対照的に]、複数の異なる空間が存在するときには、継起して存在することはなく、同時に存在するしかないのである)。
これを5と空間論の3によって補論する。多次元的時間或いは多層的時間という表象は、それらを包括する時間という表象によって説明できるのであり、それがいわゆる「時間の根源的表象」である。つまり多次元的時間或いは多層的時間にみえるものは単一時間の単なる「部分的な時間」にすぎないのだ。
それゆえ複数の時間を規定した場合は、ある「部分的な時間」の前後に秩序づけられるのであり、それを「同時に存在することはできず、継起して存在する」と言い表しているのだ。また、その意味で「(空間については[時間とは対照的に]、複数の異なる空間が存在するときには、継起して存在することはなく、同時に存在するしかないのである)」というのは複数人の表象を表してると解釈できる。つまり集団では、成員のそれぞれ「主観に属する」空間と時間が並列的に存在していることになるのだ。
4 :純粋な直感(=非概念)
異なった時間とは、同じ時間の異なった部分にすぎない~「さまざまに異なる時間は、同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念からは導くことができないだろう。この命題は総合的なものであり、概念だけからは導けないのである。
これを5によって補論すると
5 :時間の根源的表象の無制約性
時間の無限性が意味するのは、一定の大きさの時間はすべて、根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能である
中山訳では「時間が無限であるということはたんに、時間の長さを規定するためには、その土台となっている単一の時間に制約を加えることが必要であるということを意味するにすぎない」と表現されている。それゆえ「時間の根源的表象は、何によっても制約されていないものとして与えられていなければならない」というのだ。つまり「部分的な時間」を規定するには「時間の根源的表象」を制約することによって指定できるため、「時間の根源的表象」それ自体は無規定/無制約なものでなければならないのである。「時間の根源的表象」が規定されたもの或いは制約されたものである場合は、それは「部分的な時間」にすぎないのだ。それゆえ下記のように論じるのだ。
そして部分的な時間も、ある対象のもつそれぞれの時間的な長さも、このような[単一の時間に加えられた]制約によって生まれたものとしてしか、心のうちで思い描くことはできないのである。だから[時間の]全体的な像はたんに概念によって与えられるものではなく(というのは概念は、部分的な時間の像だけを含むものであるから)、直接的な直観として、部分的な時間の像の土台となるものでなければならない
(a) :時間の主観的実在性(=非客観)
時間はそれ自身だけで存立する或るものではなく、また事物に客観的な規定として付属していて、かくてまた事物の直観にかかわる、いっさいの主観的条件を捨象しても残存する或るものでもない。
こうしてカントは時間を「主観に所属するもの」として「客観」的或いは外在的なものではないとするのだが、そうした見解に対する対抗馬も予測し次のように論ずる。
時間に経験的実在性はみとめるいっぽう絶対的で超越論的な実在性を拒むこの理論に対して、聡明なひとびとが異口同音にひとつの反論を唱えているのを耳にした。そのような事情から私は、こうした考察に不慣れな読者各位にも、当然そうした反論がおこるにちがいないと想像している。反論とは、こうである。変化は現実にある(この件は、私たち自身の表象の変移が証明しているのであって、あらゆる外的現象ならびにその変化を否認しようとしても、事情はなんらかわらない)。ところで変化はただ時間のなかでだけ可能であり、したがって時間は現実的ななにかなのである。これに答えることはむずかしくない。私は、この議論のすべてを承認する。時間はたしかに現実的ななにかである。つまり内的直観の現実的な形式なのである。時間は、こうして内的経験にかんして主観的な実在性をそなえている。すなわち私は、時間の表象と、時間における私のさまざまな規定の表象を現実に有している。時間は、したがって現実的なものとみなされうるけれども、そうみなされるのは客観としてではない。私自身を客観として表象するしかたとしてなのである。もしもしかし、私自身が、あるいは他の存在者が、感性にぞくする〔時間という〕この条件を外して私を直観できるものとすれば、いま変化として表象されているそのおなじ規定がべつの認識を与えて、そこでは時間の表象も、かくてまた変化すらもまったく現前しないことだろう。こうして時間については、私たちの経験いっさいの条件として経験的実在性がのこることになる。絶対的な実在性だけが、右に述べたところからして、時間にはみとめられえないだけである。時間とは私たちの内的直観の形式にほかならない。時間から私たちの感性の特殊な条件を取りさるなら、時間の概念も消失する。だから時間は対象そのものに付属するものではない。たんに対象を直観する主観に所属するのである。
つまり“主観的に現実的な時間のなかでの表象の変化”がカント的な変化の説明なのであり、時間を客観的なもの或いは「対象そのものに付随する」という外在的なものとすることを拒むのである。
(b) :直線のアナロジー〔表象〕
時間は非概念であるため「いかなる形態も与え」ることができない。それ故あるアナロジーで「時間」を補完的に考えうる対象にしようと試みる。それが「時間系列を無限に進行する直線」である。中山訳では下記のように表現される。
この内的な直観そのものは、どのような形態も作りださないため、この欠陥を補うためにわたしたちは、アナロジーに頼ることになる。そして時間の継起を無限につづく一本の直線のアナロジーで考えようとするのである。多様なものはこの一直線のうちに連なる系列を作りだすのであり、この系列には一つの次元しかない。そしてこの直線のさまざまな性質から、時間のさまざまな性質を推論しようとするのである。
また「ただし[時間と直線のアナロジーには]一つの違いがある」としてその差異を下記のように論ずる。
直線のさまざまな部分は同時に存在するが、時間のさまざまな部分は[同時に存在することはなく]つねに継起するということである。
(c) :空間論との交差と超越論観念論の手引き
時間はすべての現象一般にそなわるアプリオリな形式的な条件である。空間もまたすべての外的な[事物のための]直観の純粋な形式であるが、[時間とは違って、人間の]外部の現象だけにそなわるアプリオリな条件であるという制限がある。ところで人間が心で思い描く像はすべて、それが外部の物を対象とするかどうかを問わず、すべて人間の心の規定であるために、心の内的な状態に属する。しかし[すでに述べたように]この心の内的な状態というものは、内的な直観の形式的な条件にしたがうものであり、そのため時間[という条件]にしたがうのである。こうして、時間はすべての現象一般にそなわるアプリオリな形式的な条件である[と結論することができる]。さらに時間は、(わたしたちの魂の)内的な現象の直接的な条件であり、そのことによって、外的な現象の間接的な条件でもある。 わたしがアプリオリに、すべての外的な現象は空間のうちにあり、空間の諸関係によってアプリオリに規定されていると語ることができるならば、同じように内的な感覚能力の原理にしたがって一般的に、すべての現象一般、すなわち感覚能力のすべての対象は時間のうちにあり、必然的に時間との関係のうちにあると語ることができるのである。
つまり空間を外部に表象するのは内的な原理なのであるがゆえに「さらに時間は、(わたしたちの魂の)内的な現象の直接的な条件であり、そのことによって、外的な現象の間接的な条件でもある」というふうに、空間を時間が基礎づけていると論ずるのだ。逆はありえない。その意味でカントの下記を理解することである。
[わたしたちの認識方法を反省してみるならば]わたしたちはまず自分自身を内的に直観するのであり、次にこの内的な直観を媒介として、像を思い描く能力によって、すべての[事物を]外的な直観として把握するのである。
ただこの双方は経験的実在性/超越論的観念論という点で共通した性質をもつ。
また空間と同様に下記のように結論づける。つまり「主体」が認識して初めて「すべての事物は、時間のうちにある」といえるのであり、繰り返すが空間も同様に論ずることができる。
わたしたちは、「すべての事物が時間のうちにある」と語ることはできない。〜[「すべての事物」という主語の]概念に条件をつけ加えて、「現象としての(すなわち感覚能力による直観の対象としての)すべての事物は、時間のうちにある」と語った場合には、この原則は客観的に正しいものであり、アプリオリな普遍性をそなえているのである。
また空間と同様、経験的実在性と超越論的観念論を論じる。経験的実在性については「内的な直観の現実的な形式なのである[という意味で現実的なものである]。だから時間は、内的な経験については、主観的な実在性をそなえている。すなわちわたしは時間についての像と、わたしが時間のうちで[生きていて、]さまざまに規定されているという像を現実的にもっている。だから時間は客体として現実的なのではなく、わたし自身を客体として心に像を思い描く方法にかんして、現実的なのである」とカントが補論している。
最後に下記のように空間との差異を論ずる。これは恐らく、「空間」によって表象されるまえの物自体は、外部の絶対的実在性をもった対象である、が時間はそうではないということだろう。
しかし空間の場合と同じように時間には、観念性がそなわるということは、そこに感覚の錯誤があることだと考えてはならない。感覚の錯誤の場合には、感覚にかかわる述語を伴って語られる現象が、客観的な実在性をそなえたものと想定されているのである。しかしこの[時間の]場合には、このような客観的な実在性はまったく存在していないのである。ただし時間にも経験的な実在性は存在するとみなされているのであり、その場合には対象そのものはたんなる現象と見なされることになる。
そしてカントは対抗する「空間と時間の絶対的実在性」への反駁をおこなう。
空間と時間の絶対的実在性を主張するひとびとは、両者を実体として自存するものと考えようと、たんに実体に内属するものと考えようと、経験そのものの原理と不整合をきたさざるをえない。
空間と時間を「実体として自存するもの」と捉える絶対的実在論者への反駁
(これは通常、数学的自然研究者が与する立場である)〜かれらは、ふたつの、永遠で無限な、それだけで存立する不可解な事物(空間と時間)を想定せざるをえない。
これを「すべての現実的なものをじぶんのうちに包括するためにのみ存在する」という論ずるのはそこにある種の自己言及のパラドクスが生じるゆえである。なぜなら「すべての現実的なもの」を包括する空間や時間は、それ自体を「現実的なもの」を包括するのだから、みずから包括しえないことになり、それは逆説的にみずからを「現実的なもの」でないと認めることなのである。
つまり全能のパラドクスが、みずからの全能性を示す代わりに非全能性を示す論理を提示したように、「実体として自存する」空間と時間は、「すべての現実的なもの」を包括するかわりに、みずからを包括しえない非「現実的なもの」と認めることになるのだ。これは矛盾した神学的形而上学に至るのである。 空間と時間を「たんに実体に内属するもの」と捉える絶対的実在論者への反駁
(若干の形而上学的自然学者の立場である)、空間と時間はその者たちにとって、経験から抽象された-ただし分離のさいに混乱して表象されている-、現象の(併存し、あるいは継起する)諸関係とみなされることになる。
それに対して「現実に(たとえば空間の中に)存在する事物にたいして、アプリオリな数学の理論が妥当することを否定しなければならなくなる」と論じているが、これはなぜだろうか。私の解釈としては、諸事物に内在する空間/時間は、それぞれ自立的で関係的でピースミールに接続されている、ということでありそれだと「アプリオリな数学の理論」が通用しなくなるということではなかろうか。それゆえ事物のほうではなく人間の方に、アプリオリな数学の適応可能性を求めたのである。
超越論的感性論に対する一般的註解
Ⅰ :ライプニッツ=ヴォルフ学派の認識論への批判
そこでまず改めて物自体を論ずる。
私たちが語ろうとしたのは、私たちのいっさいの直感は、現象の表象にほかならないことである。つまり、私たちの直観する事物はそれ自体そのものとしては、じぶんがそれを直観するとおりのものではなく、その諸関係もそれ自体そのものとしては、私たちに現象するがままのありかたをしてはいないということである。〜対象自体そのものがなんであるかは、対象の現象-これが私たちに与えられる唯一のものである-をどれほど明瞭に認識しても、やはり私たちにはけっして知られることがないだろう。私たちの全感性は事物の混乱した表象にほかならず、この表象は物自体そのものに帰属するものをことごとくふくんでいるけれども、ただ、私たちが意識的には分離していない、徴表や部分表象の寄せあつめという状態でこれをふくんでいるにすぎない、といわれる。 こうした「(現象)がその根底にいたるまで直観しとおされたとしても、対象自体そのものの認識とはいぜんとして天と地ほどにもことなっているのである」という主張からライプニッツ=ヴォルフ学派のとある試みを次のように批判する。 ライプニッツーヴォルフ哲学は、だから、私たちの認識の本性ならびに起源にかんするいっさいの探究に対して、まったく不当な視点を示していたことになる。その哲学は、感性と知性的なものとの区別をたんに論理的なものとみなしていたからである。当の区別はあきらかに超越論的なものであって、たんに認識の判明性と非判明性といった形式にかかわるのではなく、その起源と内容にかかわるものなのである。それはつまり、私たちは、感性によっては物自体そのものの性状をただ判明ではなく認識するというにとどまらず、およそまったく認識しないということだ。さらには、私たちの主観的な性状を取りさるとただちに、表象された客観は感性的な直観がそれに付与した性質とともにまったくどこにも見いだされず、また見いだされることもありえない、ということである。
そしてそうした見地の元にライプニッツ=ヴォルフ学派を「[知性は]判明に認識し、[感性は]判明でなく認識するという違いではなく、認識の起源と内容についての違いなのである」(中山訳)と批判する。繰り返すと、カントの主張からして、どちらも-それがたとえ「知性」であっても-判明な認識には至らず(物自体には到達せず)、あくまで超越論的区別としての起源が感性であり、内容が知性であるに過ぎない。ここで感性を起源に位置付けているのは「すべての思考が手段としてもとめるものは直感である」(ちなみに感性によって生じるのが直感であり)という言明があるように、感性があらゆる諸思考の素材を提供するからであろう。そしてそれらによって構成されるのが認識の内容であるから、それを知性と位置付けているのではなかろうか。
Ⅱ :関係の表象と統覚
外的な感覚能力が知覚したものと、内的な感覚能力が知覚したものが、どちらも〈観念的なもの〉であること、そして感覚能力が知覚した客体は、たんなる〈現象〉にすぎない観念的なものであることを主張するわたしたちの理論を確実なものとするためには、次の指摘が役立つだろう。わたしたちの認識において〈直観〉とみなされるすべてのものには(これには快と不快の感情や意志は含まれない。これらは認識ではないからである)、[対象との]関係しか含まれず、〜人間にはその外的な感覚能力を通じて、関係の表象が与えられるにすぎないのだから、外的な感覚能力がこの関係についてもつ表象には、[認識する]主観とその対象との関係しか含まない。
つまり主体と客体との関係の表象が直感として現れるのである。それゆえ「客体そのものに内在する内的なものが含まれない」のだ。「そしてこのことは、[外的な対象の直観だけでなく]内的な直観についてもあてはまる」。
ここですべての困難を生んでいるのは、主観がどのようにして自己を内的に直観することができるかという問題であるが、この難問はどのような理論にも内在しているものである。この自己についての意識(自己統合の意識[=統覚])は、〈わたし〉についての単純な像である。この像のみによって、主観におけるすべての多様なものが自発的な活動として与えられるのであり、そのとき、この内的な直観は〈知的な直観〉となるのである。しかし人間が自己についてのこのような意識をもつためには、前もって主観にたいして多様なものの内的な知覚が与えられている必要がある。そして心のうちでの自発的な活動なしで、このような多様なものが与えられる方法は、[知的直観と]区別して、感性と呼ばねばならないのである。 この自己を意識する能力は、わたしたちの心のうちに潜んでいるものを探索する(これを〈把握する〉と呼ぶ)はずであるから、この能力は心を触発しなければならない。そしてこのような方法によらないかぎり、みずからを直観することはできないのである。しかしこの直観の形式は、あらかじめ心のうちに土台として存在しているものであって、多様なものが心のうちで一緒に存在するための方法を、時間の像によって規定するのである。自己を意識する能力はこのようにしてみずからを直観するのだが、その際にみずからの像を自発的に直接に思い描くのではなく、みずからがその内部から触発される方法にしたがうのである。だからみずからを、その〈あるがままに〉ではなく、〈みずからに現れるがままに〉直観するのである。
Ⅲ :表象は仮象ではない
わたしはこれまで、外的な客体を直観する場合も、心がみずからを直観する場合も、どちらも空間と時間において、わたしたちの感覚能力が対象に触発されるとおりに、すなわち現象するとおりに、心のうちに像を思い描くのだと指摘してきた。しかしこれは、こうした対象がたんなる仮象にすぎないという意味ではない。
これまでカントが論じてきたように「主観そのものが与えた現象としての対象と、客体そのものとしての対象とは区別される」。だが「それは「物体はわたしの外部に存在するようにみえるだけ[の仮象]である」とか、「わたしの魂はわたしの自己意識の内部だけに存在するようにみえるだけ[の仮象]である」と言いたいわけではない。」というのだ。それはなぜか。
つねに客体と主体との関係において語られ、客体の像から分離することができないものは、現象である。〜[現象としての土星に二本の〈柄〉があると語っても]ここには仮象は存在しない。しかしそうではなく、わたしが薔薇そのものに赤さがあると語り、土星そのものに二本の〈柄〉があると語る場合、あるいはすべての外的な対象には〈広がり〉そのものがあると語る場合には、すなわちこれらの対象と主観との関係を規定されたものとして検討せず、わたしの判断を、この対象と主観との関係だけに制限しない場合に、初めて仮象が発生するのである。
つまり物自体の性質を恣意的に特定するのは仮象であるといえるが、「客体と主体との関係において語られ」る現象はカント的には仮象ではないのだ。つまり物自体は認識できないことを理解したうえで関係論的な表象を論ずるのは、決して仮象ではないのである。そこで「わたしの魂はわたしの自己意識の内部だけに存在するようにみえるだけ[の仮象]である」という従来的な実在論的テーゼを拒むのである。なぜならそれはライプニッツ=ヴォルフ学派同様、客体のみに属した物自体を語っていることになり、その語り手が人間なのであれば認識から逃れることはできないため、脱-関係論的に論じれないからだ。それゆえ実在と接続された観念とは内的な客観性による現象であるとして「仮象」ではないとするのだ。
同時にこうした意味で「物体をたんなる仮象に貶めたバークリ」とは異なる。バークリは『人知原理論』にて「精神すなわち知覚するもののほかにはいかなる実体もない」と語り、「物体が私によって現実に知覚されないとき〜、それら物体は全く存在しないか、もしくは或る永遠な精神の心のうちに存立する」と主張していた。つまりカント的にバークリを解釈すると、物自体は知覚できないため、万物が「全く存在しないか、もしくは或る永遠な精神の心のうちに存立する」仮象となってしまうのだ。だがカントにとって「主体と客体」或いは認識と物自体-観念と実在と言い換えてもいいかもしれない-などといった双方の関係論的な相互準拠が重要なのであり、その点でカントは観念論と実在論をアウフヘーベンしたようにもみえる。それゆえカントは「それは「物体はわたしの外部に存在するようにみえるだけ[の仮象]である」というバークリ的見地を拒むのであり、カント的パースペクティヴとしての超越論的観念論は「外的対象はたんなる仮象でありうる」という従来的な観念論テーゼとは異なるのである。こうして、観念と接続された実在とは不可侵であるが、「物自体そのものに帰属するもの」が我々の観念を制約するために「仮象」ではないとするのだ。 Ⅳ :超越論的感性論による自然神学解釈
空間と時間がすべての存在一般の条件であるならば、それは神の存在の条件でもなければならないだろう[これは神が時間と空間のうちに存在することを意味するのである]。
だが伝統的な「自然神学において考えられている対象[神]は〜空間と時間という条件を慎重に排除されてきた」のである。なぜなら、自然神学とは聖書に示された啓示によってではなく、人間に自然にそなわる理性によって、神について考察しようとする学であり、そのため「自然神学において考えられている対象[神]は、わたしたちの直観の対象とならないばかりではなく、この対象そのものが人間の感覚能力による直観の対象とはなりえないものである」とカントは論じるのだ。
ライプニッツ=ヴォルフ学派を拒んだことからも伝統的な自然神学と相入れない思想であることが上記にてわかるだろう。
超越論的論理学
まず感性論(感性)と論理学(悟性)の相互的な連結と差異について論じている。
感性的直感の対象を思考する能力が悟性である。このふたつの性質のいずれにしても他方よりすぐれていることなどありえない。感性がなければ私たちにはどのような対象も与えられないであろうし、悟性を欠くならいかなる対象も思考されはしないことだろう。内容を欠いた思考は空虚であり、概念を欠いた直観は方向を見うしなっている。だから、対象の概念を感性化する(つまり、概念に直観の対象を付けくわえる)ことも、対象の直観を悟性化する(すなわち、直観を概念のもとにもたらす)こともどちらも同様に必要なのである。〜悟性はなにものも直観しえず、感官はなにごとも思考することがかなわない。両者がひとつになることからのみ認識は生じうるのである。だからこそ他方ではたがいの持ち分を混同してはならないのであって、それぞれをもう一方から注意ぶかく切りはなし区別するべき、重大な理由がある。それゆえに私たちは、感性の規則一般の学つまり感性論と、悟性の規則一般の学すなわち論理学とを区分することになる。
こうしてカントは広義の論理学と超越論論理学、後者に超越論的分析論(真理の論理学)と超越論的弁証論、前者に一般論理学(基礎論理学)と特殊な論理学を分類する。そして一般論理学を純粋論理学と応用論理学に分類する。また更にあらゆる論理学の分析論的営みを誤用すると弁証論(仮象の論理学)になるという。そこでまずはじめに広義の論理学から論じ、つぎに超越論的論理学を述べるとしよう。
広義の論理学
論理学は、さてまた、ふたとおりの意図によってくわだてられることができる。つまり、一般的な悟性使用の論理学としてか、特殊な悟性使用の論理学としてか、のいずれかである。前者ならば思考の端的に必然的な規則をふくみ、そうした規則を欠いては悟性のどのような使用も生じることがない。だからそれは悟性が向けられる対象の相違とはかかわりなく、悟性使用に関係する。特殊な悟性使用の論理学は、或る(特定の〕種類の対象について正しく思考するための規則をふくむことになる。前者は基礎論理学、後者はあれこれの学のための機関と名づけることができるだろう。
基礎論理学(一般論理学)と特殊な論理学の差異はわかりやすい。前者は「思考に絶対に必要な規則だけ、すなわちそれなしでは知性を働かせることができない規則」であるがゆえ「基礎」なのであり、「思考の端的に必然的な規則」なのである。また、後者は「特定の種類の対象を正しく思考するために知性が利用されるようにする規則」であるがゆえに「思考の道具オルガノン」と呼ばれる。つまり極めて実用的なものなのだ。それゆえ「学校」で優先される或いは「学のための機関」と呼称されるのだ。つぎに一般論理学について詳しく論じる。 一般論理学はところで、純粋論理学であるか、応用論理学である。前者にあっては私たちの悟性がそのもとで行使される経験的条件のすべてが捨象される。たとえば、感官の影響、想像のたわむれ、記憶の法則、習慣の力、傾向性などがそれである。かくてまた先入見の源泉や、そればかりか、総じて或る種の認識がそこから私たちに生じたり、あるいはすり替えられたりもする原因のいっさいも捨象されるのである。なぜなら、そうしたものはたんに悟性が適用されるさいの或る種の事情のもとで悟性にかかわるにすぎず、そうした事情を見知るには経験が必要となるからである。一般的で、しかも純粋な論理学が問題とするのは、だからア・プリオリな原理だけであって、この論理学は悟性の、また理性の基準である。けれどもその論理学が関係するのは、内容がどのようなものであってもよい(経験的であれ、超越論的であれ)、悟性と理性の使用にさいしての形式的なことがらにすぎない。
上記に重要な区別が存在する。つまり一般論理学の純粋論理学は、認識の「内容がどのようなものであってもよい(経験的であれ、超越論的であれ)」のだ。これはのちに展開する超越論的論理学との明示的な違いである。繰り返すが、純粋論理学は経験的な原理はないが、その「認識の内容は、それが経験的なものであるか、超越論的なものであるかを問わず、まったく考察しないのである」。
一般論理学はたほう、心理学が私たちに教えるような主観的で経験的な条件のもとで、悟性使用の規則にそれがむかう場合には応用論理学と呼ばれる。応用論理学は、したがって対象を区別せずに悟性使用にかかわるかぎり、たしかに一般的であるいっぽう経験的な原理を有している。それゆえ応用論理学は悟性一般の基準でも、特殊な学の機関でもない。通常の悟性(常識)を純化するものにすぎないのである。
上記にもあるように、特殊な論理学でないことを注意しなければならない。「個々の特殊な学の道具でもない」のはなぜか。これは純粋論理学とは異なり経験的なものを含める。が、重要なのは経験的なもので明らかにしようとする対象自体が「思考に絶対に必要な規則」なのだ。それゆえ応用論理学は一般論理学に位置するのである。
そしてカントは純粋論理学のみが、「本来はただ学の名にあたいする」とする。それは無味乾燥だとしても「悟性の原理論の学術的な叙述」のために必要なのである。そこで論理学者にとって不可欠な「ふたつの規則」を提示する。
1
一般論理学であるかぎりでこの学〜で問題とされるのは、思考のたんなる形式以外のものであってはならない。
逆説的に論ずるなら、経験的であろうと超越論的であろうと「表象がどこから生じるものであれ」、それは関係なく、ただ単に「表象に与えられうる悟性形式だけを論じる」のだ。
2
純粋論理学であるかぎりこの学はいかなる経験的原理もふくまず、かくしてまた(しばしばそう信じられてきたのとは逆に)心理学からなにも汲みとることがない。〜そこではまったくア・プリオリに確実でなければならない
一般論理学の誤用と限界
ここでは上記で論じた一般論理学の限界と誤用を紹介したい。
古くから有名な問いがある。それは「真理とは何か?」という問いであり、論理学者にこの問いを投げ掛けることで、論理学者を窮地に立たせることができると考えられてきた。この問いに直面した論理学者は、みじめな循環論法のうちに陥らざるをえないことを認めさせられるか、自分は無知であり、すべての技巧が空しいものであることを認めさせられるかのどちらかになるというのである。ここで真理とは、認識がその対象と一致することであるという定義はあらかじめ認められ、前提されている。しかしわたしたちが知りたいのは、個々の認識が真理であることを示す普遍的で確実な基準は何かということなのである。
そこで一般論理学の限界を示すべく、「個々の認識が真理であることを示す普遍的で確実な基準」について、一般論理学が基準たりえるか、認識の「内容」と論理的な「形式」の両側面から検討する。第一に、一般論理学における認識の「内容」の側面から、真理基準の不可能性を論じる。
真理とは、認識がその対象と一致することであるならば、その[認識の]対象は、他の対象から区別されるべきである。ある認識が、別の対象には妥当するかもしれないものを含んでいたとしても、その[認識が]関連づけられている当の対象と一致しなければ、その認識は虚偽だからである。ところで真理の普遍的な基準は、認識の対象の違いにかかわりなく、すべての認識に妥当するものでなければならない。だからここで明らかなのは、これ[すなわち真理の普遍的な基準]においては、認識のすべての内容が(すなわち客体とのすべての関係が)無視されるということであり、しかも真理とは内容そのものにかかわるのであるから、こうした認識の内容について、真理の特徴は何かと尋ねるのは、まったく不適切であり、不可能なことだということである。このため普遍的で、かつ十分な真理の特徴を示すことができないことは、明らかである。すでに認識の内容とは認識の素材であることを指摘しておいたので、次のように語らねばならない。認識の素材という側面から、認識の真理の普遍的な特徴を要求することはできない
これは物自体というパースペクティヴからもわかるだろう。わたしたちの認識はあくまで主体と客体の関係的な表象にすぎないのだ。そして次に、一般論理学における、論理的な「形式」としての側面から、真理基準の可能性について論じる。
しかし[認識の]すべての内容を無視して、たんなる形式という側面から認識をみれば、論理学が知性[=悟性]の普遍的で必然的な規則を提示するものであるかぎりは、この規則において真理の基準が提示されねばならないこともまた明白なことである。この規則に反するものはすべて虚偽である。というのは、知性がこの規則に違反するならば、思考にかんしてみずから定めた普遍的な規則に反することになり、自己矛盾に陥るからである。だから真理の基準というものが存在するならば、それは真理の〈形式〉だけに妥当するもの、すなわち思考一般の〈形式〉だけに妥当するものでなければならない。
ただ勿論「ある認識が論理的な形式には完全に適合していて、自己矛盾を含まないとしても、その対象にかんしては矛盾することがありうる」ため、十分に真理たりえるとはいえない。言い換えるなら「認識のたんなる形式は、それが論理的な法則とどれほど一致していようとも、認識の素材についての(客観的な)真理を示すには、まだ不十分である。だから誰も、あえて論理学だけで対象を判断したり、対象について何ごとかを主張したりすることはできないのである」。まとめると形式のみに限った話でいえば真理基準として用いれるが、対象を含む話になった途端に不完全なものとなるのだ。
上記で示した限界がまさに一般論理学そのものの限界なのであり、誤用の起源なのだ。なぜなら「一般論理学は、悟性と理性による認識の〈形式〉にかかわるすべての作業をさまざまな要素に分解し、こうした要素を人間の認識のすべての論理的な判断の原理として提示する」ことを生業として「論理学のこの部分は、〈分析論〉と呼ぶことができるのであり、これは少なくとも真理の消極的な試金石となるものである」などといった思惑のもとに真理の基準を形式的に示そうとしてきたのだ。が、上で述べたように、やはりそれが客体としての対象を指し示すことは決してなしえないのだ。その惨状をカントは下記のように揶揄する。
つまり一般論理学とは「形式的」な「真理基準」に基づいて「判断を下す」ための公理に過ぎない。だが、そうした一般的論理学の実状とは異なり「内容」としての「客観的な」真理を示す「学問の道具」として仮象を振り撒いてきたのだ。こうした「学問の道具と思い込まれた一般論理学」としての「弁証論」を「弁証論的仮象」であるとして、それをもちいた代表格としてソフィストをあげて下記のように論ずる。 古代の哲学者たちはこのディアレクティークという名称を、[現在とは異なる]学や[対話術という]技術のために使っていたが、それは別としても、これまでに実際に利用されてきた歴史を考えると、この呼び名が古代の哲学者たちにとっても仮象の論理学にほかならなかったことは、確実に推定できる。これはソフィストの技術であり、ソフィストたちの無知を示すものだった。これは故意に作りあげた〈まやかし〉に、真理という見掛けを与える営みだったのである。このディアレクティークはまた、そもそも論理学にそなわっている〈徹底性〉という方法論的な強みを真似して、ソフィストたちのあらゆる空虚な振舞いを飾り立てるために、論理学の推論の方法としてのトポス論を利用したものだったのである。 そのためにここで確実で有益な警告を示しておきたい─一般論理学を思考の道具とみなしたならば、この論理学はつねに仮象の論理学に、すなわち弁証論になってしまうのである。一般論理学はわたしたちに認識の内容についてはまったく何も教えてくれるものではなく、知性と一致するための形式的な条件を教えるだけであり、いずれにしても対象とはまったく無関係なことしか教えてくれないのである。だからこの一般論理学を、少なくともみずからの知識を拡大し、拡張するという目的を称えながら、思考の道具として利用しようとするのは不当な要求であり、[このような形で利用した場合には]つねに〈おしゃべり〉に堕してしまうのである。この〈おしゃべり〉は何につけても、もっともらしく主張したり、恣意的にこれに反論したりするのである。
「意図してつくり出した幻影にさえ真理らしい外見を与えるソフィストの技術」を代表格とした「一般論理学」の「誤用」は、その論理を「仮象の論理学」或いは「弁証論的」なものに貶めてしまうのだ。ソフィストらは一般論理学を「空虚な言い分を飾りつくろうために利用している」のだ。また、そうした「ソフィスト的幻影」が「さまざまな形而上学的な手品として大いに流行している技術なのだ」と論ずる。それゆえカントは「このような教えは、どのみち哲学の尊厳にはふさわしくない」と論ずるのだ。 一言でまとめると、形式の「分析論」としての一般論理学、が限界であり、決して内容には到達しえない。そしてそれを内容に到達する、完全な真理基準して誤用すると「仮象の論理学」としての「弁証論」に陥ってしまうのだ。
超越論的論理学
形式だけに関わることで「正しさ」に到達した一般論理学は、「真理」を得るためには内容を「一般論理学」の外に求めなくてはならない。下記はその意味で理解できるだろう。
一般論理学は、私たちの示したところによれば、認識のすべての内容、つまり客観に対する認識のいっさいの関連を捨象し、ひたすら認識相互の関係において論理的形式のみを、すなわち思考一般の形式だけを考察する。
そこで、そのような「認識のすべての内容」或いは「客観に対する認識のいっさいの関連」に関わる論理学として「超越論的論理学」が示唆されるのだ。それゆえ一般論理学と区別して「認識のすべての内容が捨象されるわけではない論理学」を超越論的論理学の定義とするのだ。
さてたほう(超越論的感性論が証示したように)直観には純粋直観と経験的直観があるのだから、対象にかんする思考にも、純粋な思考と経験的な思考の区別が見いだされよう。その場合には、認識のすべての内容を捨象するわけではない、ひとつの論理学があることになるだろう。対象についての純粋な思考の規則だけをふくむ論理学は、経験的な内容をそなえた認識のいっさいを排除するだろうからである。そうした論理学はまた、対象にかんする私たちの認識の起源を、その起源が対象に帰されることが不可能であるかぎりで問題とするはこびとなるだろう。これに対して一般論理学は、認識のこうした起源についてはすこしも論じるところがない。一般論理学は表象を―それがもともとア・プリオリに私たち自身のうちに与えられていようと、たんに経験的に与えられてと―悟性が思考するばあい表象をたがいに関係づけるさいに使用する法則のみにしたがながって、表象がどこから生じるものであれ、表象に与えられうる悟性形式だけを論じるのである。
つまり起源に関与しない論理的形式のみの「一般論理学」、経験的な起源に関与する「応用論理学」、超越論的な起源に関与する「超越論的論理学」という分類なのだ。こうした区分によって「超越論的論理学」を上記にて「アプリオリにだけ可能である」、「対象についての純粋な思考の規則だけをふくむ論理学」として「経験的な内容をそなえた認識のいっさいを排除する」ゆえ「そうした論理学はまた、対象にかんする私たちの認識の起源を、その起源が対象に帰されることが不可能である」と論ずるのだ。なぜなら「対象に帰される」ことが可能である場合は、空間と時間を通じた「経験的な内容」(外的経験)になってしまう。そのため対象に帰すことは応用論理学の領域となるのだ。それ故に下記のようにまとめる。
対象をかんぜんにア・プリオリに思考する、純粋悟性認識と理性認識にかかわる学の理念にほかならない。そうした認識の起源、範囲および客観的妥当性を規定するこの学は、超越論的論理学と名づけられなければならないだろう。その学が論じるのは悟性と理性の法則だけであり、しかもひとえにこれらの法則が対象にア・プリオリに関係するかぎりにおいてであって、一般論理学のように、経験的な理性認識にも純粋な理性認識にも区別なく関係するものではないからである。 そして超越論的論理学から「純粋悟性認識の諸要素を提示し、それなくしては一才の対象が考えられない諸原理を提示する部門」として唯一の「真理の論理学」たりえる「超越論的分析論」を展開する。また、そうしたあらゆる論理学を誤用して「経験の限界」を超えた「超自然的」―魂、世界、神などの超越論的な―仮象が生み出される一連を批判検討するのが「超越論的弁償論」である。
超越論的分析論
この分析論では、わたしたちのアプリオリな認識の全体を、純粋な知性[=悟性]による認識の要素に分割する。この分割にあたっては次の四点に留意する必要がある。㈠[ここで検討する]概念は純粋な概念であり、経験的な概念ではないこと。㈡これらの概念は直観や感性に属するものではなく、思考と悟性に属するものであること。㈢これらの概念は基本的な概念であり、派生的な概念とも、派生的な概念の組み合わせとも、まったく異なること。㈣これらの概念の全体を示した〈表〉は完璧なものであり、純粋な知性の全体の領域を完全に包括するものであること。
ここでいう(一)は非応用論理学であることを示し、(二)と(三)で超越論的論理学の純粋さ?を論じている。
純粋悟性はすべての経験的なものから分離されているだけではなく、すべての感性からも完全に分離されている。だから純粋悟性というものは、それだけで自立し、自足した統一体であり、外部から何かがつけ加えられることで、増えたりすることのないものである。それゆえ純粋悟性による認識の全体は、一つの理念のもとに包括できるものであり、この理念によって規定された体系を構成するものであろう。
それゆえ(四)で論じたように「アプリオリな悟性の認識の全体という理念が必要であり、この理念の規定に基づいて、この認識の全体を構成する諸概念を適切に分類する必要がある。さらにこれらの概念を一つの体系にまとめあげねばならないのである」。
概念の分析論
悟性・概念・判断
概念の分析論のもとに理解されているのは、概念の分析、あるいは、与えられた概念をその内容にしたがって分解し、明瞭にするという哲学的探求の通常の手つづきではない。概念の分析論とはこれまでほとんどこころみられてこなかった。悟性能力そのものの分解であって、〜このことのみが超越論的哲学に特有な仕事であり、そのほかのことは哲学全般における概念の論理的な取りあつかいにすぎないからである。私たちはしたがって純粋概念を、人間悟性におけるその最初の萌芽と素質-純粋概念はそうした萌芽と素質のうちであらかじめ準備されている-にいたるまで追いもとめることになるだろう。
ではこの「概念」とはなんなのか。概念とは下記引用あるように「認識」に関係するものである。ただ、それは感性による「直観」のような「外官」又は「内官」に基礎づけられた「受動的な」認識とは異なる。悟性による「概念」とは「思考の自発性」に基礎づけられた「能動的」で「推論的」な認識なのである。
[認識には、直観による認識と概念による認識の二種類しか存在せず]直観の能力によらない認識としては、ほかには概念による認識があるだけである。だからすべての知性による認識は、少なくとも人間においては、概念による認識であり、[直観による]直観的な認識ではなく、[論証による]推論的な認識である。すべての直観は、感覚的なものであって、[受動的な]触発によって生まれるが、[悟性による]概念は、[直観のように受動的ではなく、能動的な]機能によって生まれる。わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通な像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、[悟性による]概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。悟性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。
また続けて「ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる表象も、対象に直接にかかわるものではない。これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。概念が直接に関係するのは、対象についての表象であり、これは対象とは異なるものである」と述べている見解は「内容なき思考は空虚」であるというカントの有名なテーゼに帰着するのだ。つまり「直観」に基づく「概念」は 間接的に対象に関与している、と言えるが「概念」それ自体が対象に直接的に関与することは不可能であるし、「直観」なき「概念」は対象に間接的にも関わってないのだ。では次に「判断」とはなにか。 いっさいの判断とは、こうして私たちの表象のあいだで統一を与える可能にほかならない。つまり、直接的な表象にかわって、その表情とならんで他の多くの表象をみずからのうちに包括する、より高次の表象が対象の認識のためにもちいられ、多くの可能な認識がそのことをつうじて、ひとつの認識へと総括されるからである。
また、続けて「判断一般の内容のいっさいを捨象して、判断における悟性の形式のみに注目することにしよう」として思考の機能について論じていることから、判断とは-概念だけに関わらず-「直観」の表象と「概念」の表象を「ひとつの認識へと総括」することであり、下記表現はその意味で理解できるであろう。
人間が認識能力を働かせると、さまざまな機会にさまざまな概念が生まれる。わたしたちが認識能力を把握できるのは、これらの概念のおかげである。長いあいだこうした概念を観察していると、あるいは鋭い洞察によって考察するならば、これらのさまざまな概念は多かれ少なかれ統一のある全体へとまとまってくるものである。〜またこのように、偶然の機会にまかせて概念を集めただけでは、秩序も体系的な統一もみいだすことはできない。たんに類似した要素に基づいて組み合わせるなり、単純なものから複雑なものへと、内容の豊かさに基づいて配列するしかないのである。こうした配列は、ある程度は何らかの方法に基づいたものではあっても、体系的なものとは言えない
この判断は「複合的」であるが「体系的」ではないことは大変重要である。判断を客観的に「体系的」行為だと理解してしまうと、弁証論的になってしまうからだ。次に、先ほどあったように、判断のなかでの「悟性の形式」のみを検討して論じる。
悟性の論理的機能
カントは「判断における悟性の形式」を四つの標題にまとめる(引用)。 table:論理的機能のマトリクス
A B C
1. 判断の量 全称的 特称的 単称的
2. 質 肯定的 否定的 無限的
3. 関係 定言的 仮言的 選言的
4. 様相 蓋然的 断定的 必当然的
1 :判断の量
まず単称判断と全称判断の違いを下記のように論ずる。
論理学者たちは、理性推論[=三段論法]においては、単称判断を全称判断と同じように利用できと主張しており、これには正当な根拠がある。単称判断には、[判断の対象が一つだけであるから]外延が[あたかも一つしか]存在しないために、この判断の述語が、その判断の主語の概念に含まれるいくつかの概念だけに関連して、他のいくつかの概念には関連しないという事態が発生することがない。だから単称判断の述語は、主語の概念に例外なく妥当する。外延をもつ全称判断の主語の概念の場合にも、述語のすべての意味がその外延に妥当する[のであるから、単称判断は全称判断として利用できる]。
論理学では概念は外延と内包で分けて考える。「人間は動物である」という判断で人間という概念の外延は、人間の集合(クラス)を示し、内包は「理性的な生き物」とか「言語を使う動物」などの属性(共通の性質)を含む。「このカラスは黒い」という単称判断では、カラスという概念の外延は、そのカラス一羽であるが、「カラスは黒い」と言い替えると、「すべてのカラスは黒い」という全称判断と同じことを意味する。ある論理学の教科書は次のように述べている。「単称命題は一種の全称命題とみることもできる。それの主語は唯一個の成員をもつ外延の全体に論及するとも解釈できるからである」。ただこれは形式的な一般論理学のみ適応可能であるとカントはいう。
ところが[判断が適用される対象の数という外延の]量の観点から、たんなる認識として単称判断と全称判断を比較してみると、単称判断は単一性を示し、全称判断は無限性を示すのであり、そこには本質的な違いがある。だから[最初に考察した点である]内的な妥当性についてだけではなく、認識一般として、[判断の適用される対象の数という]量の観点から他の認識と比較した場合には、単称判断は全称判断とは異なるのである。だから思考一般のさまざまな要素を完全に示す[判断]表においては、単称判断は[全称判断と異なる]固有の位置を占める意味がある。
ここでいう「無限性」を指す全称性は「質」を読むことによって理解できよう。
2 :質
おなじように、一般論理学では無限判断が肯定判断のうちに数えいれられることは正当であって、だから区分上も格別な分肢をかたちづくることはない。
これも「判断の量」同様、「正当な根拠がある」。「一般論理学では、述語のすべての内容を無視し(述語が否定的なものであるかどうかも無視する)、たんに述語が主語につけ加えられる[主語を肯定する]か、それとも述語が主語と対立する[主語を否定する]かどうかだけに注目するのである」。ただ、またまた「判断の量」と同様に「超越論的論理学にあってはそれでも、無限判断は肯定判断から区別されなければならない」。
たとえば魂について「魂は〈死すべきもの〉ではない」と主張したとしよう。これは否定的な判断であり、これによって少なくとも[霊魂が死滅すると考える]一つの誤謬を防ぐことができることになるだろう。ところが「魂は〈死なない〉ものである」と主張したとしよう。これは論理的な形式からは肯定的な[無限]判断であり、わたしは魂を死なない[不滅な]ものという無限な外延の一つに数えることになる。ところで〈存在しうるすべてのもの〉という[大きな]外延で考えると、〈死すべきもの〉という外延はその一部を占め、〈死なないもの〉という外延はその別の一部を占める。そうだとすると、わたしが示した第二の命題[すなわち「魂は死なないものである」]は、〈存在しうるすべてのもの〉の外延のうちから、すべての〈死すべきもの〉を除去したあとに残る無限のもののうちに、魂が含まれるということにほかならない。そのとき、〈存在しうるすべてのもの〉という無限の領域は、そこから〈死すべきもの〉が除外されたという意味では制約されたのであり、そのあとに残された外延の空間の中に、魂が含められる。しかしこの空間は、こうして[〈死すべきもの〉が]除外されたあとでもまだ無限であり、なお多くの部分がそこから除外されうる。とはいえ、それによって魂という概念がいくらかでも豊かになったわけではないし、肯定的な命題として規定されたわけでもない。このように論理的な外延という観点からは、無限判断は認識一般の内容を制限するものであり、判断における思考のすべての要素を列挙しようとする超越論的な[論理学の]判断表においては、無限判断を見落としてはならないのである。知性がこの判断において行使する機能は、知性のアプリオリな純粋認識の場において、重要な役割をはたすかもしれないからである。 そこで「第二の命題」を引き合いにだす。一見「魂は〈死なない〉ものである」という命題は肯定的なものにみえる。ただこれは単に肯定しているのではなく「否定的な述語を使って論理的に肯定している」、無限判断である-否定的な述語が〈死なない〉、論理的に肯定とは「魂は〜ものである」を指している。なぜなら上記命題が肯定判断なのであれば「述語が主語につけ加えられ」て魂という概念が豊かになるはずであるが、上記命題は魂という概念を豊かにしていないのだ。
より具体的な例に落とすなら、全存在集合を人類にあてはめてみよう。ここでいう人類は現存に限らず過去の人類も未来の人類も含むとする。そうしたときに「Aという概念は日本人ではないものである」とするなら、Aとは、日本人をすべてとりさったあとで残存する、無限に多くのもののひとつであるということにほかならない。それは「無限の領圏」を残したままなのだ。それゆえ無限判断は概念を豊かにしないと言えるだろう。
3 :関係
判断における思考の〈関係〉は次の三つの判断類型に分類できる。(a)主語と述語の関係、(b)原因と結果の関係、(c)個々の分割された認識に含められるすべての選言的な認識[選言肢]のあいだの相互的な関係である。第一の判断類型では、[主語と述語の]二つの概念だけが考察され、第二の判断類型では〈[原因を述べる判断と結果を述べる判断の]二つの判断〉だけが考察され、第三の判断類型では〈たがいに対立した関係にある複数の判断〉が考察される。
この(a)の定言判断は「単称と全称、肯定と否定という側面から検討した」ものである。定言判断は仮言判断と相対化するとわかりやすい。そこで仮言判断から論ずるとする。
「完全な正義というものがあるならば、悪事をなしつづける人は罰せられる」という仮言的な判断を考えてみよう。この判断では二つの命題「完全な正義がある」と「悪事をなしつづける人は罰せられる」という命題が関連づけられている。この二つの命題がそれ自体として真であるかどうかは、ここでは決定されていない。この判断で考えられているのは、[(b)の原因と結果の関係における]一つの結果だけなのである。
こうした仮言的な判断は分解すると、「二つの命題「完全な正義がある」と「悪事をなしつづける人は罰せられる」という命題が関連づけられている」。前者が原因或いは条件であり、後者が前者に基礎づけられた結果としての命題なのである。こうした「前者」がない判断が定言判断なのである。またこうした仮言的「判断によって思考されるのは、一貫性だけなのである」、として「それ自体として真であるかどうかは、ここでは決定されない」とする点も重要である。そして最後に「選言的判断」を論ずる。
最後に選言的判断は、ふたつないしはそれ以上の命題の相互関係をふくんでいる。ふくまれているのは、とはいえ継起の関係ではない。ひとつの命題の領圏が他の命題の領圏を排除するかぎりでは、論理的対立関係であり、他方それでも―それらの命題が合体することで、もともとの認識領圏を充たすかぎりで―同時に相互作用の関係なのである。選言的判断はしたがって或る認識領圏の部分のあいだの関係であり、そこではそれぞれの部分の領圏は他の部分の領圏を補完して、分割された認識の全総括をあわせてかたちづくることになる。たとえば、「世界が存在するのは、方向をもたない偶然によるか、内的必然性によるか、外的原因によるかのいずれかである」といった場合がそうである。これらの命題はそれぞれ世界の現存在一般について可能な認識にぞくする領圏の、その一部分を占めており、すべてが合体するとその領圏の全体となる。認識をこれらの領圏のひとつから除去するとは、他の領圏のひとつに認識を位置づけることであり、これに対して認識を或る領圏に位置づけることは他の領圏から認識を除去することなのだ。選言的判断にあっては、だから認識のあいだに或る種の相互作用が存在し、これらの認識は相互にあいてを排除しあう一方、そのことでなお全体といては、真なる認識を規定する。それらの認識が総括されると、与えられた唯一の認識の有する内容全体をかたちづくることになるからである。 複数的な命題は、一方、相互的な補完関係があり、他方、他の命題を排除しながらも、それらが集まって一つの全体を構成する。そうした判断が選言的判断なのである。
4 :様相
判断の様相は、判断のまったく特殊な機能であって、その機能は、判断の内容についてなにごとも寄与しで(量、質、関係以外には、判断の内容をかたちづくるものはないからである)、きわだった特徴をそれ自体そなえている。〜蓋然的判断は、肯定あるいは否定がたんに可能的なもの(任意なもの)として想定されるような判断である。断定的判断では、肯定あるいは否定が現実的なもの(真なるもの)として考察される。必当然的判断では、肯定あるいは否定が必然的なものとみなされるのである。
こうした定義から、さきの仮言判断の様相が、蓋然的な断定的帰結であることを明らかにする。
かくてふたつの判断について、その関係が仮言的(前件 antecedensと後件consequens)をかたちづくるか、あるいは同様にその交互作用において選言的判断(区分のの分肢)がなりたつ場合は、そのふたつの判断は総じて蓋然的なものにすぎない。さきの例でいえば、「完全な正義が存在する」という命題は、断定的に語られているのではない。それは、だれもがそう想定するのが可能な恣意的な判断と考えられているにすぎず、ひとり帰結のみが断定的なのである。世界はだからこのような命題は明らかに偽であることもありうるが、可能な命題として考えれば、真理の認識のための条件となりうるものである。
また同様に選言的判断で述べられていた諸命題も蓋然的であるという。そして仮言判断も選言的判断も単なる「[可能判断で語られる]可能的な命題は、客観的な可能性ではなく、論理的な可能性を表現するものにすぎない」というのだ。ただ、厳密に言えば「仮言的な三段論法では、大前提において示される先行命題を可能的なものとして示し、小前提において示される先行命題を現実的なものとして示すのである」。それゆえ先行命題或いは小前提においては断定的なものとしてあらわれるのだ。
[最後に必然判断で語られる]必然的な命題では、現実的な命題を、悟性のこれらの法則によって規定されたもの、アプリオリに主張するものとみなすのであり、このような形で論理的な必然性を示すのである
純粋悟性概念すなわちカテゴリー
空間と時間は、ところでア・プリオリな純粋直観が有する多様なものをふくむけれども、それでもしかし私たちのこころの受容性という条件にぞくしている。その条件のもとでのみこころは対象の表象を受けとることができるのであって、かくてまた、この条件はつねに対象の概念を触発するものでなければならない。だがしかし、私たちの思考の自発性は、この多様なものがまずなんらかのしかたで通覧され、受容され、結合されて、そこから一箇の認識がつくり出されることを要求する。こうしたはたらきを、総合と名づけることにする。
こうした総合を「構想力のたんなるはたらき」とする(構造については「いずれ検討する」とのこと)。「そして[構想力の働きによる]この総合を概念へともたらすのは悟性の働きであり、悟性はこれによってわたしたちにほんらいの意味での認識を作りだすのである」。また、総合を下記のようにも論ずる。
私が、とはいえ、総合のもとでもっとも一般的な意義で解しているのは、さまざまな表象をたがいにくわえてゆき、その多様性を一箇の認識として把握するはたらきのことである。こうした総合は、多様なものが経験的にではなく、(空間と時間においてそうであるように)ア・プリオリに与えられている場合は、純粋である。私たちの表象の分析のすべてに先だって、表象がまず与えられていなければならず、どのような概念であれ、内容的にいえば分析的に生じることはありえない。多様なものの総合によって、いっぽう(それが経験的に与えられようとア・プリオリに与えられようと)まずひとつの認識が生みだされる。その認識は、たしかにはじめはなお粗雑で混乱している場合もあり、したがって分析を必要とする。とはいえ総合は、ほんらい要素をあつめて認識とし、或る一定の内容へ結合するものである。
こうした総合をもとに「すべての対象をアプリオリに認識する」手順を述べる。
すべての対象をアプリオリに認識するために必要とされるものが三つある。第一に必要なのは、純粋な直観において[表象の]多様なものが与えられていることである。第二に必要なのは、この多様なものを構想力が総合することである。しかしこれではまだ認識は生まれない。ここで対象を認識するために必要な第三のものは、この純粋な総合に統一性を与える諸概念[純粋知性概念]である。これらの諸概念は、必然的で総合的な統一を作りだすものなのである。これらの諸概念を与えるのが悟性の仕事なのである。表象を認識するために必要な第三のものは、この純粋な総合に統一性を与える諸概念[純粋知性概念]である。これらの諸概念は、必然的で総合的な統一を作りだすものなのである。これらの諸概念を与えるのが悟性の仕事なのである。さまざまな表象を統一して一つの判断を作りだすこの[悟性の]機能は同時に、直観に含まれるさまざまな表象のたんなる総合に、一つの統一性を与えるものである。この統一性を一般的に表現すると、純粋悟性概念と呼ばれる。だから同じ悟性が、しかも同じ操作において、二つのことを同時に実現するのである。第一に悟性は概念において、分析的に統一することで、判断の論理的な形式を成立させる。同時に直観一般において、多様なものを総合的に統一することで、[悟性に与えられた]像や観念に超越論的な内容を与えるのである。だからこそ、こうした[悟性に与えられた]表象や観念は純粋悟性概念と呼ばれるのである。これはアプリオリな形で客体と結びつくのであり、これは一般論理学にはなしえないことである。
これがなぜ「一般論理学にはなしえないこと」と論ずることができるのだろうか。それは純粋直観が客体の多様なものを受容し、
table:論理的機能のマトリクス
A B C
1. 量 単一性 数多性 総体性
2. 質 実在性 否定性 制限性
3. 関係 内属と自存(実体と偶有性) 原因性と依存性(原因と結果) 相互性(能動者と受動者のあいだの交互作用)
4. 様相 可能性-不可能性 現存在-非存在 必然性-偶然性
原則の分析
フェノメノンとヌーメノン
カテゴリーは、その起源からすれば、直観形式つまり空間と時間のように、感性にもとづいているものではない。カテゴリーには、だから、あらゆる感官の対象を超えて拡張された適用がゆるされているかにみえる。しかしながらカテゴリーは、そのものとしてはふたたびたんなる思考形式にすぎず、その思考形式は、直観において与えられた多様なものをひとつの認識のうちへとアプリオリに統合する論理的能力をふくむだけである。
このように、直観もカテゴリーもこうした主観的な「思考形式」にすぎず客観的な対象をそのまま示唆することはできない-例えカテゴリーであっても物自体には到達しない-と改めて示すが、直観とカテゴリーには大きな違いがある。
カテゴリーから私たちにとってのみ可能な直観が除去されるならば、かの純粋な感性的形式ほどの意義も有さないことになる。感性的形式によってなら、それでもすくなくとも或る客観は与えられるのに対して、私たちの悟性に固有な、多様なものを結合するしかたは、多様なものがそこにおいてだけ与えられることのできる直観が付けくわわってこないかぎりは、なにも意味しないからである。
「感性的形式」による「表象は物自体そのものに帰属するものをことごとくふくんでいる」。が、悟性が物自体そのものに関与する方法は、直感を通じた間接的なものでしかあり得ない。それゆえ「直観が除去」された悟性は「なにも意味しない」のである。そうした物自体に間接的に基づく思考対象を感性体(フェノメノン)として、「直観が除去」された悟性のみでなされる思考対象を叡智体(ヌーメノン)と呼ぶ(勿論ヌーメナルな対象は、実在論的には仮象である)。
現象としてのなんらかの対象を感性体(フェノメノン)と呼び〜たんに悟性によって思考された対象である―を感性体といわば対立させて、叡智体(ヌーメノン)〜それを思考するにさいして私はいっさいの形式を捨象しているのである。 ここで現象が仮象ではないという論調が重要になってくる。カントは物自体の性質を恣意的に特定するのは仮象であるといえるが、「客体と主体との関係において語られ」る現象は仮象ではないとする。つまり物自体は認識できないことを理解したうえで関係論的な表象を論ずるのは、決して仮象ではないのである。そうした主体と客体の関係論的な表象を現象と呼ぶのである。そしてこうした「現象としてのなんらかの対象を感性体(フェノメノン)」と呼ぶのである。 現象の概念は超越論的感性論をつうじて制限されたけれども、その概念はすでにおのずから、ヌーメノンが客観的に実在することを示唆している。さらに対象をフェノメノンとヌーメノンに区分すること、したがってまた世界を感性界と叡智界(mundus sensibilis et intelligibilis)に区分することもみとめられているのである。 ここで現象の「概念はすでにおのずから、ヌーメノンが客観的に実在することを示唆している」という論説は非常に重要である。そして上記で「また」と述べられているのはプラトン的世界区分の回帰ゆえである。プラトンはイデアの住まう領域として叡智界を論じたのであり、それが復古する意味で「また」なのである。他にも、次章で述べられる「理念」(Idee)という語は、カント哲学に於いては「理性概念」(Vernunftbegriff)(つまり、理性がもつ概念)を表す語として使用される。このIdeeという表現も、プラトンの「イデア」(ἰδέα)に由来することを意識しているのだ(引用)。なぜなら理念こそ叡智界に最も寄与する対象であるからだ。
超越論的弁証論
超越論的仮象は理性に基づく
そこで超越論的仮象が生じるメカニズムについて感性「ただそれだけ」或いは悟性「ただそれだけ」の問題とすることを否定する。
主体の感官はただ無垢な素材を受容するだけであり、その意味で「感官はあやまらない」或いは「感官の表象のうちにも(感官の表象にはなんら判断がふくまれていないのだから)、誤謬はまったく存在していない」のだ。その意味で感官に仮象の起源を置くのは間違いである。ただ悟性それだけに仮象の起源を置くのも間違いであると論ずる。それはなぜか。
悟性があやまらないのは、悟性がみずからの法則にしたがってはたらくかぎり、その結果(判断)は当の法則と必然的に一致するはずであるからだ。悟性の法則と一致するところにこそ、ところでいっさいの真理についてその形式的な側面がある。
つまり悟性の形式は論理学的真理を法則に則って必然的に提供するものであるゆえ「悟性があやまらない」とするのだ。そこで仮象が生じる所以について下記のように帰結する。
私たちには、さて、悟性と感官というこのふたつの認識源泉以外にほかの源泉はまったくないのだから、ここから帰結するのは、誤謬とは感性が気づかれないしかたで悟性に対して影響することによってのみ惹きおこされる、というしだいである。そうした影響によって、判断の主観的根拠が客観的根拠と混同されて、客観的根拠がその規定から逸脱するといったことが起こるのである。それはちょうど、運動させられている物体が、それだけであれば、つねに同一方向に直線運動しつづけるはずであるのに、他の方向に向かうべつの力が同時に物体に対して影響を与える場合には直線運動が曲線運動に転換するのと似ている。 「誤謬とは感性が気づかれないしかたで悟性に対して影響することによってのみ惹きおこされる」のだが、こうした「影響」を及ぼす正体が「理性」なのである。
その原因はこうである。つまり、(主観的に、人間の認識能力として見られた)私たちの理性のうちには、理性を使用するさいの根本規則や準則がふくまれているけれども、それらはまったく客観的原則であるかのような見かけをしている。そのために、私たちの概念のある種の結合、すなわち悟性のためになされる結合が有する主観的な必然性が、物自体そのものを規定する客観的必然性であるかのように見なされることがおこってしまう、というしだいなのである。これはまったく避けがたい錯覚なのであって、それはちょうど私たちが海を見るとき、岸辺よりも沖合のほうを高い光線をとおして見るために、岸辺よりも沖合が高く見えるのを避けがたいのとおなじである。あるいはさらに例を挙げるなら、天文学者であっても、昇りはじめの月が大きく見えるのが不可避であることと同様なのである。もっとも天文学者ならこうした仮象に欺かれはしない。〜私たちが取りあつかっているものは、自然的で避けることのできない錯覚であるからであって、この錯覚はそれじしん主観的な原則にもとづいていながら、その原則を変造して客観的な原則とみなすのである。〜それはたとえば愚かな者が、知識が足りないがゆえにおのずと巻きこまれるようなものではない。あるいはまた、だれかソフィストめいた者が理性的なひとびとを混乱させようとして、人為的に考えだしたものでもない。かえってこの弁証論は人間理性に追いはらいようもなくまとわりついて、私たちがその迷妄を露呈したのちにさえもなお人間理性を巧みに欺瞞し、たえず一時的な混乱へと理性を突きおとすのをやめないものである。かくして、この混乱はそのつど除去される必要があるのである。
こうした意味で上記で明らかにしようとする理性に基づく超越論的仮象は、経験的仮象とも異なるし論理的仮象とも異なるのである。
まず「経験的仮象は、正しい悟性規則を経験的に使用する場合に生じる」誤謬であり、真理の当否を吟味すべき規準「だけ」は持ち合わせている。従って、我々は、悟性規則に基づけば、経験的仮象を除去しうるであろう。
虚偽の推論の解決にあたる論理的弁証論なら、たんに原則にしたがうさいのあやまりとか、あるいは原則を模倣することで人為的につくり出された仮象を問題とするにすぎない。
この意味で理性に基づく超越論的仮象と経験的仮象は異なるのだ。
カントは「弁証論」を「仮象の倫理学」と名づけ、その目的を理性によって生み出される理念が「仮象」として「人を欺く」 ことを防ぐことにあるとしたが、その目的に覆い隠されるようにしてもう一つ、別の個所でそうした理念は何事かの「役に立つ」ことがあるということを示唆する。
ところで、たとえわれわれが超越論的理念について、それはたんに理念にすぎない、と言わなければならないにしても、だからといってわれわれは、決して超越論的理性概念を余計で無用のもの(uberflissigund nichtig) とみなしてはいけないだろう。というのは、超越論的理性概念によっていかなる客観も規定されることができないとしても、それでもこの理性概念は悟性に対して、それと気づかれず根本的に(imGrunde und unbemerkt) 、悟性の調和のとれた拡張的使用の規準として役立う(dienen)ことができるのである。悟性はこの規準によって、なるほど自己の概念によって認識する以上に対象を認識することはないが、しかしそれでもこの対象の認識のために、よりいっそう適切にそしていっそう遠くまで導かれるのである。 ここで要点として挙げたいのは、カントはまず一方では理念(理性概念)に「客観を規定」する役割を否定し(それゆえ仮象として扱い)つつも、しかしなお他方では理性概念が「それと気づかれず根本的に」何らかの「役に立つ」ことを認めている、ということである。
超越論的弁証論は、超越的判断の仮象を発見すること、そしてそれと同時に、この仮象が欺く(betrigen)ことがないように予防にすること、こうしたことで満足するであろう。
「弁証論」をたんなる「仮象の論理学」として捉えるならば、このような仮象によって理性が誤謬に陥ることを防ぐことだけが「弁証論」を論じる唯一の目的であると考えられうるだろう。(引用) 経験的仮象/論理的仮象/超越論的仮象
超越論的仮象とは「それ自身が主観的諸原則に基づきながら、そうした諸原則を客観的諸原則として押し付けるような、自然的で不可避な錯覚」であり、それが「判断の主観的諸根拠と客観的諸根拠の混同」を惹きおこすのだ。ここで「自然的で不可避な錯覚」とするのは超越論的仮象が人間理性の本性(Natur)に基づいて生み出される「自然的」で「不可避」な誤謬だからである。
内在的諸法則/超越的原則
超越論的は前経験的なものと言い換えられるし、超越的は経験を超出したものと言い換えられる。
超越論的理念は超越的であって一切の経験の限界を超出する、それだからこれらの理念に完全に合致するような対象は、経験においては決して現われ得ないのである。
付録
理念の統制的使用
(超越論的神学にかんして)つぎのように問われたとしよう。すなわち、第一に、「世界秩序と、普遍的法則にしたがうその連関との根拠をふくむ、世界から区別された或るものが存在するか?」と問われるなら、答えは「疑いもなく〔存在する〕」、である。なぜならば、世界は現象の総和であり、したがってそうした総和についてのなんらかの超越論的な根拠が、つまり純粋悟性にとってのみ思考可能な根拠が存在しなければならないからである。第二に、「この存在者は実体であり、最大の実在性を有し、必然的なものであるか」が問題であるとすれば、私は「この問いはまったく意義をもたない」と応える。というのも、私がそれをもちいて、そのような対象について概念を形成しようとこころみるあらゆるカテゴリーは、経験的に使用される以外には使用されることがなく、そういったカテゴリーは可能な経験の客観に、すなわち感性界に適用されるのでなければまったくどのような意味も有さないからなのだ。感性界という領野の外部では、カテゴリーは概念に対するたんなる標題にすぎず、そうした標題は許容されうるとはいえ、その標題をつうじてはまたなにごとも理解されえない。
第一に問われているのはつまり「アプリオリ」な世界の超越論的根拠が存在するということであり(それがこれまでのカントの超越論的哲学である)、それを現象それ自体が証明しているのである。ただ「存在する」のに「実体」に関する第二の問いについては、なぜ「この問いはまったく意義をもたない」とするのか。これは上記で「感性界に適用されるのでなければまったくどのような意味も有さない」としているところにヒントが有る。カントは「対象によって触発される主観的な条件をはなれるならば、空間の表象はまったくなにも意味しない」或いは「直観が付けくわわってこないかぎりは、なにも意味しない」と超越論的感性論で繰り返してきた。この意味で「まったく意義をもたない」のだ。 最後に第三に、「私たちにはすくなくとも、世界とは区別されたこの存在者を経験の諸対象との類推にしたがい思考することがゆるされないか」と問われたとしよう。その場合の回答は「もちろん〔ゆるされるが〕、ただし理念における対象としてのみであって、実在性における対象としてではない」ということになる。すなわち、この対象が世界の配備の体系的統一、秩序、ならびに合目的性が有する、私たちには知られていない基体であって、これらを理性が、その自然研究の統制的原理としなければならないかぎりにあってのことなのである。それだけではなくさらに私たちはこの理念のうちに、いま挙げた統制的原理を促進する或る種の擬人観をおそれ憚ることなく容認することができる。それというのも、理念はつねにただ、世界とは区別された存在者に直截に関係づけられるのではまったくなく、世界の体系的な統一という統制的原理に―しかも、ひたすらその統一の図式を介してだけ、つまり智慧ある意図にしたがって世界の創造者である最上位の叡智を介してのみ―関係づけられるからである。世界統一のこの根源的根拠がそれ自体そのものとしてなんであるかは、この理念をつうじて思考されていたはずはない。私たちがいかにして当の根源的根拠を、あるいはむしろその理念を世界の事物にかんする理性の体系的使用との関係で使用すべきか、が思考されていたはずなのである。
「理念における対象としてのみであって、実在性における対象としてではない」と言われるように、理念の「統制的使用」のみが、理念を「経験の諸対象との類推にしたがい思考すること」がゆるされるのだ。「私たちはこの理念のうちに、いま挙げた統制的原理を促進する或る種の擬人観をおそれ憚ることなく容認することができる」というのは、まさに「統制的原理」のもとにおいて「神」が許されるということなのである。
私の主張するところは、かくて以下のとおりである。すなわち超越論的理念はだんじて、或る種の対象の概念がその使用によって与えられるであろうようなしかたで、構成的に使用されることがない。だから超越論的理念がそのように理解される場合は、それはたんに詭弁的(弁証論的)概念であるにすぎない、ということである。これに対してたほう超越論的理念には、或る卓越し不可欠の、かつ必然的な統制的使用がある。つまりは悟性を或る目標に向かわせるということであり、この目標をめざして悟性のあらゆる規則の有する方向線は一点に帰着する。この一点はたしかにたんなる理念(虚焦点 focus imaginarius)すぎない。すなわち、それはまったくのところ可能な経験の限界の外部に存するのだから、問題の一点は悟性概念がそこから現実に発する点ではない。にもかかわらずその一点は、悟性概念に対して、最大の統一ならびに最大の拡大を与えるのに役だつ一点なのである。
超越論的方法論
実践的なものと実用的なもの
本書の「超越論的方法論」の「純粋理性の規準」を説くところで、カントは、実用的法則(das pragmatische Gesetz,怜悧の規則 Klugheitsregel)と実践的法則(das praktische Gesetz,道徳的法則 das moralische Gesetz ,Sittengesetz)とを区別してする。
わたしは,幸福という動因にもとづく実践的法則を実用的法則(怜悧の規則)と名づける。これに反して,幸福に値いするということだけを動因とするような実践的法則を道徳的法則と名づける。第一の法則は,われわれが幸福を得ようと欲するならば,われわれは何をなすべきかということを勧告する。これに反して,第二の法則は,われわれが幸福に値いするためには,われわれはいかに身を処すべきかということを命令する。第一の法則は,経験的原理を基礎とする。わたしは経験によらなければ,満足を欲する傾向がなんであるかを知らないし,また傾向の満足を生ぜしめる自然原因がどのようなものであるかも,知らないからである。ところが,第二の法則は,傾向を満足させる自然的手段を無視して,ひたすら理性的存在者一般の自由と,この自由と幸福にあずかることとを原理的に合致させるための必然的条件とを考察する。したがって,この法則は,少なくとも,純粋理性の理念のみを基礎とするものであるから,先天的に認識されうるはずである。 /icons/hr.icon
ブルデューは、カントの「趣味」概念に対して社会的契機への洞察が欠けていると批判する。つまり「趣味」に対して「社会的関係」は明らかに関与しているのにも関わらず、「社会的関係」は「身体化され自然化される」ために、趣味は人間の自然本性に基づくものであるかのような錯覚を生み出すのだ。
汝の意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ
汝の人格と他者の人格の内なる人間性を手段としてのみではなく常に同時に目的として扱うように行為せよ
自由とは欲求の克服によって獲得する。人間は傾向性からは自由ではありえない。したがって道徳的な行為が可能となるために、自由が要請されなければならない。
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導入
純粋理性批判と実践理性批判の位置
「すなわち自然概念と自由概念がそれにほかならない」。つまり理論哲学=自然概念で、実践哲学=自由概念である。「前者[自然概念]はア・プリオリな原理にしたがう理論的認識を可能とする。後者[自由概念]は、〜意志規定にかんしては拡張的な原則を、それゆえに実践的なものと呼ばれる原則を樹立するのである」。つまり「自然哲学としての理論哲学と、道徳哲学としての〜実践哲学とに区別されるということだ」。まとめると理論=自然、実践=道徳=自由として表現する。
前者[技術的に実践的な原理]は(自然理論としての)理論哲学にぞくするだろうし、後者[道徳的に実践的な原理]なら他方、まったくそれだけで第二の部門を、すなわち(倫理理論として)実践哲学をかたちづくることになるだろう。
上記で言われている「技術的に」という表現は機械論的因果関係のこと(なぜなら「技術的に実践的なものである規則のみを含むのであり、それらが生みだすことになる結果は、原因と結果という自然概念に従って可能となる」)。「実践的規則は(たとえば自然的法則のように)法則と称されることはなく、ひたすら指令と呼ばれるにすぎない」とあるように、理論哲学の「法則」概念の対にあるのが、定言命法のような実践哲学の「指令」である。 判断力概念
自然概念はあらゆるア・プリオリな理論的認識のための根拠をふくんでおり、悟性の立法にもとづいていた。―自由概念は、感性的に条件づけられていない、ア・プリオリな実践的指令のいっさいに対して、その根拠をふくんでいたが、こちらの側は理性の立方にもとづいていたのである。〜この立方によって、哲学を理論哲学と実践哲学とに区分することが正当化されるのだ。
上記のような区分に際して「判断力は、私たちの認識能力の秩序のなかで悟性と理性とのあいだに位置して、その中間項をかたちづくっている」として、「哲学の第二部門を一箇の全体へと結合する手段としての判断力」を論ずる。繰り返すと、悟性にもとづく理論哲学と理性のもとづく実践哲学を「悟性と理性とのあいだに位置して、その中間項をかたちづくっている」判断力によって結合できるのだ。それは下記言明にも現れている。
上級認識能力の同族のうちには、そのうえさらに悟性と理性とのあいだの中間項が存在する。それが判断力であって、〜判断力には、みずからに固有の立法ではないにしても、〔悟性と理性と〕おなじように法則を探求するじぶんに固有な原理を―おそらくはたんに主観的な原理を―ア・プリオリにみずからのうちにふくむことが許される、ということである。
この「ア・プリオリにみずからのうちにふくむ」とは下記言明と紐付けることによって明らかとなる。
他に適応可能な客観的普遍性をもちあわせず、かといって経験的なものでもない。つまり特殊=主観的に普遍的なア・プリオリなものが「反省的判断力」なのであり、その意味で「ア・プリオリにみずからのうちにふくむ」というのだ。そしてカントはこの反省的判断力を二つに区分する。
自然にかんする反省的判断力の批判は、こうして、ふたつの部門からなる。すなわち、自然の事物の直感的な判定能力の批判と、自然の事物の目的論的な判定能力の批判とからなりたつのである。
そして以後前者の直感的判断力と、後者の目的論的判断力を批判する。
三批判書の区分
table:マトリクス
こころの能力 上級認識能力 ア・プリオリな原理 所産
/icons/白.icon
美しいもの
第一帰結=無関心さ
或るものが美しいか否かを区別するために、私たちは表象を、悟性をつうじて認識のために客観に関係づけるのではない。むしろ(おそらく悟性とむすびついている)構想力によって、主観と、主観の快あるいは不快の感情へと関係づける。趣味判断は、かくて何ら認識判断ではなく、かくてまた論理的なものでもなく、直感的のなものである。〜「趣味とは美しいものを判定する能力である」〜或る対象を美しいと呼ぶためになにが必要とされるのか。まさしくこの件を、趣味の判断の分析は発見しなければならない。〜趣味判断のうちには、依然としてやはり悟性への関係がふくまれているからである)。
理論哲学「とは逆に、しかしながら与えられた表象がまったく合理的なものであったとしても、いっぽうそれらの表象が判断にあってひたすら主観(その感情)に関係づけられているならば、くだんの判断はそのかぎりでつねに直感的なものなのである」。則、「合理的」帰結だとしても「主観(その感情)に関係づけられている」かぎりで「つねに直感的」というのは、前合理段階でまず快不快を直感的に感じているが故、直感の判断に関連づけて合理的帰結を導き出しているのであるということ。
関心と呼ばれる適意は、私たちが或る対象の現実存在の表象とむすびつけるような適意のことである。そうした適意は、したがってつねに同時に欲求能力との関係を有しており〜ひとが知ろうと思うのは「私たちにとって、あるいは他のだれにとってであれ、その事象の現実存在がなにか関心事であるかどうか、もしくはまた関心事となりうるのかどうか」ではない。〜この事象をたんなる観察(直感あるいは反省)にあって判定するのか」なのである。
趣味判断はひとえに観照的なものであって、それはいいかえるなら、対象の現存在にかんしては無関心に、ひたすら対象の性状のみを快不快の感情と引きくらべる判断である。
別訳だと「趣味判断は単に観想的である。すなわちそれは対象の存在に対しては無関心に、ただ対象の性状を快と不快の感情に引き比べて見る判断なのである」。つまり対象を関心を持って見ていては美的なものではなく、「ただ見ている(リンゴはどうこうしようとせず、ただ見ている、見るために見ている)」という関心なく見続ける見方を「観照(観想)」という。そしてそうした適意こそ「美しいものに対する趣味の適意」である。そこで「第一の契機から帰結する、美しいものの解明」という題目の元であるテーゼを帰結する
第二帰結=主観的な普遍妥当性
「美しいものは、概念を欠いて、普遍的な適意の客体として表象されるものである」という題目について下記のように述べる。
概念にもとづくことによっては、この普遍性もまた生じることができない。なぜなら概念からは、どのようにしても快あるいは不快の感情へと移行することがありえないからである〜したがって、趣味判断にはいっさいの関心から分離しているという意識が、みずからの判断においてともなっているかぎり、その判断には、万人に対する妥当性への要求が、客観にもとづいた普遍性を有することなく付随していなければならない。いいかえるなら、趣味判断には主観にかかわる普遍性への要求がむすびあっていなければならないのである。
つまり、概念(≒イデア的なもの?)から快不快には至らないということであり、「みずからの判断」は「いっさいの関心が欠けている」と認識しているかぎり、「客観にもとづいた普遍性を有する事なく」〔=本来的な客観的普遍性ではないが、それを万人にとっても普遍的だと、主観的に要求している〕、「万人に対する」普遍性を要求している。それを「主観にかかわる普遍性への要求」と言い換えている。 そしてカントはぶどう酒の例を出しながら、それは「各人はみずからに固有の(感官の)趣味をもつ」とし、「美しいものについてならば、事情はまったくことなっている」という。
だれかみずからの趣味を自負するところのある者が「この対象(私たちが目にしている建物、その者が身に着けている衣服、じぶんたちが耳にしているコンサート、批評をもとめて提出されている詩)は、私にとって美しい」と語って、じぶんが正当であることを示しうると考える場合である。なぜなら或るものがただ当人の意にかなうというだけなら、それを美いいと称してはならないからだ。かれにとって多くのものが魅力的であり、 快適であるかもしれないが、そのようなしだいはだれひとり気にかけるところではない。その者がいっぽうなにかを美しいと呼ぶならば、かれは他者たちにもおなじ適意を期待している。つまり当人は、ひとりじぶんに対して判断しているのではない。むしろ万人に代わって判断しているのであって、その場合かれは美について、それがあたかも事物の性質であるかのように語っているのである。その者は、それゆえ「そのものが美しい」と言うけれども、かといってその場合、かれが適意にかんするじぶんの判断に他者たちも一致することを見こむのは、 他者たちがかれの判断と一致してきたのを、たびたびみとめてきたという理由からではない。その者はむしろ、 他者たちにこの判断を要求するのである。かれは、他者たちがべつの判断をするならば、かれらを批難し、その 者たちが趣味をそなえていることをみとめない。 つまり「私にとって美しい」というものはカント的美ではないのであり、「他者たちにもおなじ適意を期待して」しまうもの。より明瞭にいうなら、それは主観的美が客観的普遍性としての美を保証するという意味で言っているのではなく、主観的に“これは普遍的だ!”と思い「他者たちにこの判断を要求」してしまうものがカント的美なのである。それ故下記のように語る。これは決して「要請するのではない」。下記も同様の主張を繰り返す。
〔第一に〕(美しいものをめぐる)趣味判断によって、対象に対する適意があらゆるひとにあえて要求されるが、それでもこの適意は概念にもとづくものではない〜〔第二に〕普遍妥当性へのこのような要求は、私たちが或るものを美いいと宣言する判断に本質的にぞくしているのであって、その結果、この普遍性をその判断にさいして思考することがなければ、だれも美しいという表現を使用することすら思いつかないほどだろう。〜普遍性というものは、それが (たとえたんに経験的な概念であっても)客観についての概念にもとづいていない場合であれば、まったく論理的なものでなく、直感的なものである、ということである。〜(ひとは他方またおなじ表現を、判断の論理的な量に対しても用いることができるけれども、それはただ、客観的な普遍妥当性というように付加する場合なのであり、そのことでつねに直感的なものである、たんに主観的な普遍妥当性と区別されることになる。)さて、客観的に普遍妥当的な判断は、またつねに主観的〔に普遍妥当的〕でもある。いいかえるなら、判断が、或る与えられた概念のもとにふくまれているすべてのものについて妥当する場合にはその判断はまた、或る対象を当の概念をつうじて表象するあらゆるひとに対しても妥当する。しかし、主観的な普過妥当性、すなわちいかなる概念にももとづいていない直感的な普遍妥当性から、論理的な普遍妥当性へと推論されることはできない。 くだんの種類の〔直感的〕判断は、まったく客観にかかるところがないからである。 「第二の契機から帰結する、美しいものの解明」として下記テーゼに至る。
第三帰結=目的なき合目的性
「ある概念の客観にかんする原因性が合目的性」であるので「合目的性は、それゆえ目的を欠いて存在することができる」。なぜなら目的とは「或る目的の表象に適合して行為するよう規定されうるかぎりでは、意志であることになるだろう」とあるように行為と目的の適合が必要。「カントによれば、概念が原因となってなんらかの対象が実在せしめられるばあい、つまり概念が対象を可能にする実在根拠であるばあい、原因としてのこの概念が「目的」といわれる。そしてそうした目的にしたがってのみ可能であるような性状に対象がふさわしく合致しているばあいに、その合致したあり方が対象の形式の合目的性(目的形相 forma finalis)と呼ばれるのである。たとえば人工物であるナイフの例を考えてみよう。ナイフという対象は、切断するためのものであり、そのばあい切断という概念がナイフの実在性の根拠をなしている。このとき切断という目的概念を原因としてのみ可能であるような形状に合致していること、いいかえれば切断するためのものとしての形のふさわしさ、適合性が合目的性と呼ばれる。ナイフは、切断という目的にふさわしい合目的的な形状をしていなければならないだろう」という論文から説明するなら「ナイフという対象」は、切断という概念によって「ナイフという対象」として可能になる。つまり「ナイフという対象」を可能にする概念が切断なのであるということは、切断という概念がナイフをナイフたらしめる原因であると言えよう。この「原因としての〜概念が「目的」といわれる」もの。この目的に合致する「ナイフという対象」が合目的性を帯びている。この場合は「客観的合目的性」である。なぜなら「有用性」(「このものは何のために存在しているか」)を意味するものと「完全性」(「このものは本来どうあるべきか」)が合目的だからだ。 趣味判断についていえば、その根底にはどのような主観的目的も存することができない。〜客観的目的のいかなる表象も、つまり目的結合の原理にしたがった対象そのものの可能性についてのどのような表象も、かくてまた善いものをめぐるいかなる概念も、趣味判断を規定することはできないのである。なぜなら趣味判断とは直感的判断であって、なんら認識判断ではなく〜そうした表象する力相互の連関にかかわるものにすぎない。
目的然り合目的然りどちらも非「直感的判断」であるゆえ、趣味判断には「どのような主観的目的も存する事ができない」。また目的然り合目的然り概念を媒介としているため「なにごとも、概念を欠いたまま普遍的に伝達可能なものと判定される適意を形成することができず、かくてまた 趣味判断を規定する根拠をかたちづくることもできないのである」。ただ「目的を欠いた主観的合目的性」に限った話では「直感的判断」になるためこれに限って趣味判断と言える。それは先ほどの例で言えば、切断という概念(=目的)がなくても、対象を美的だと思えるので合目的だということ。なぜならア・プリオリな趣味判断と対象との合目的性を判断するので、目的が不要でなのである。
快は〜じぶんのうちに原因性を、すなわち表象そのものの状態と、認識するさまざまな力のいとなみを、それ以上の意図をともなうことなく保持しようとする原因性を有している。私たちは美しいものを観察するさいに目をとどめるが、それはこの観察がそれ自身を強めて、じぶん自身を再生産するからである。
「これが快あるいは不快の感情が、結果として、その結果の原因である」という言明の、結果であると同時に原因でもある快の両義性こそ「じぶん自身を再生産する」という意味そのものなのではないか。こうしたある種の因果連関をカントは下記のように述べる。「この結合は一箇の因果連関ということになるだろうが、そういった因果連関は(経験と対象のあいだで)つねにただア・ポステリオリにのみ、すなわち経験そのものを介してだけ認識されうるからである」。更に「直感的判断は、理論的(論理的)判断と同様に、経験的判断と純粋判断に区別されうる。前者は、或る対象やその対象の表象様式にかんして、快適さあるいは不快的さを言明し、後者の場合ならば、それらについて美を言明する。前者は感官判断(実質的な直感的判断)であり、後者のみが(形式的なそれとして)本来の趣味判断にほかならない」とあるように、言い換えるなら快不快はア・ポステリオリな「経験的判断」としての「実質的」な「直感的判断」であり、趣味判断はア・プリオリな「純粋判断」としての「形式的」な「直感的判断」である(ちなみにここから可笑しくなるw)。
他方、「感官判断」は人によって異なる、主観的な普遍妥当性に則るという。つまり「経験的判断」は主観的な美を、「純粋判断」は普遍的な美を導くというのだ。カントが「いっさいの単純な色は、それが純粋であるかぎりで美しい」というのは、逆に「混合した色はこの特徴を有さないが〜それらの色が単純でない以上、ひとはそれを純粋と呼ぶべきか不純と称するべきかを判定する」というように形式を美化するのである。さらに「絵画や彫刻、否そればかりかおよそすべての造形芸術、さらには建築術や造園術にあっても、それらが芸術であるかぎりでは、構図こそが本質的なものである」というように形式至上主義であるw(やっぱカントは理論哲学まではいいけど実践哲学はクソだなあ、統制的理念はいいけど定言命法はクソで、本書で言えば直感的判断を精微しようとすると極論展開しだしたりw)。そのまとめが次の言明にある。「趣味判断とは直感的判断であって、つまり主観的な根拠にもとづく判断である。かくてその判断を規定する根拠はどのような概念でもありえず、かくてまた或る規定された目的の概念でもありえない。したがって、美は、形式的な主観的合目的性なのであるから〜客観的でもあるような合目的性はけっして思考されない。〜[客観にかんする認識]はひとえに、論理的判断をつうじてのみ生起するものなのである。〜[直感的判断]は、これに反して、或る客観がそれをつうじて与えられる表象をひとえに主観へと関係づける」。
美にはふたとおりの種類がある。すなわち、自由な美であるか、たんなる付随的な美であるか、である。前者は、「対象がなんであるべきか」についての概念を前提としていない。いっぽう後者はそうした概念を前提とし、その概念にしたがった対象の完全性を前提としている。前者の種類の美は、あれこれの事物の(それだけで存立する)美と呼ばれ、他方の美は、ある概念に付随するもの (条件づけられた美)として、客観に対して、それが或る特殊な目的の概念のもとにある場合に附与される。
カントは「花」、「多くの鳥」、「海の多数の貝殻」、「ギリシア風の線描」、「唐草模様」、「(テーマを欠いた)幻想曲」、「歌詞をともなわない音楽のぜんぶ」を前者として、「男性の美」、「女性の美」、「子どもの美」、「馬の美」、「建物」、「刺青」を後者とする。そして後者は「趣味判断の純粋性を毀損する」ものであり「一方は自由な美に、他方は付随的な美に固執し、前者は純粋な趣味判断を、後者は応用的な趣味判断をくだしている」のだ(ここで前者「美」として区分するのは、前者は目的なき合目的性であって、後者は合目的なものだからである)。そしてここで美の理想について論じる。
第一にじゅうぶん注意しておくべき点は、美は、それについて理想が求められるべき場台には、無規定な美ではなく、客観的合目的性の概念によって固定された美でなければならない、ということである。くだんの美は、したがって、まったく純粋な趣味判断の客観にぞくするのではない。〜 美しい花、美しい家具、美しい風景といったものの理想を考えることはできない。たほうまた、なんらかの規定された目的に付随する美、たとえば美しい住宅、美しい樹木、美しい庭園などをめぐっても、およそどのような理想も表象されることができない。〜人間のみが、理性によって、みずからにじぶんの目的そのものを規定することができる。〜本質的で普遍的な目的へとむすびあわせ、しかもそのさいまた前者[理性の目的]との一致を直感的に判定することができる。この人間こそ、かくて美の理想をそなえうるのだ。それは、人間の人格における人間性が、叡知者として、世界のうちのすべての対象のなかで、ひとり完全性の理想を有することができるのと同様なのである。〜第二の要因は理性理念である。この理念は人間性の目的を、それが感性的には表象されることができないかぎりで、人間の形態を判定するさいの原理とするものである。形態は、目的が現象のうちにあらわれた、その結果であるから、人間の形態をつうじて人間性の目的があらわとなるのである。
そこから第三の帰結を提示する。
美とは或る対象の合目的性の形式であるが、それは当の合目的性が目的の表象を欠きながらその対象について知覚されるかぎりでのことである。
第四帰結=主観的必然性
美しいものをめぐっては、しかしながら「それが適意に対して必然的な関係を有している」と考えられている。この必然性は、ところで、特殊な種類の必然性なのである。それは理論的な客観的必然性ではない。そのような必然性であるならば、「だれもがこの適意を、私が美しいと呼ぶ対象について感ずるであろう」ということが、ア・プリオリに認識されうることだろう。
この「特殊な種類の必然性」とは、「理論的な客観的必然性ではない」という言明で明らかになるだろう。つまり主観的必然性(?)のようなものであって、それゆえ「ア・プリオリ」な認識にはなり得ないのだ。「或る普遍的規則の実例とみなされる判断に対して、万人が同意することの必然性なのである」というのは「主観的な普遍妥当性」における「要求」と同じようなものである。
私たちが趣味判断に附与する主観的必然性は条件づけられている。趣味判断は、あらゆるひとに同意をあえて要求する。だから、或るものを美しいと宣言する者が欲するところは、だれであれ目のまえの対象に賛意を与え、その対象をおなじように美しいと宣言すべきである、ということである。直感的判断におけるこの「べし」は、それゆえ、判定に要求されるいっさいの所与(Data)にしたがう場合であっても、それでも条件づけられたしかたでのみ表明される。ひとはすべての他者の同意をもとめようとするが、それは、ひとがそのための根拠を有しているからであって、その根拠はあらゆる者に共通なのである。 そのような同意を当てにすることができるのは、ただ、当面の事例が賛意の規則としてのくだんの根拠のもとに包摂されるのが正当であるしだいを、つねに確信している場合にかぎられるはずである。
ここでいう主観的必然性の「条件づけ」は自信の「正当」性を「確信している」ことである。そうでなければ「他者の同意」に至れないと言うこと(なぜならその「確信」が「根拠」であるため)。
則、感情に基づく―概念はそこにない―主観的な「普遍妥当的に、なにが意にかない、なにが意にかなわないかを規定する」ものが共通感官である。
じぶんが或るものを美しいと宣言するいっさいの判断にあって、私たちはだれに対してであれ、べつの意見であることを許さない。その場合、それにもかかわらず私たちの判断は概念にもとづいているのではない。ひとえに感情にもとづいているのであり、この感情がそれゆえ個人的感情としてではなく、一箇の共通の感情として根底に置かれるのである。
それゆえ下記のような第四起結になるのだ。
美しいものとは、概念を欠いたまま、必然的な適意の対象として認識されるものである。
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崇高なもの
美しいものと崇高なもの
美しいものが崇高なものと一致するのは、両者ともに、それ自身だけで意にかなうという点においてである。さらにまたふたつながら、いかなる感官判断も、論理的に規定的な判断も前提とすることなく、反省判断を前提としている点でも一致している。
table:区別
【美しいもの】 【崇高なもの】
「対象の形式」 「形式を欠いた」
「質」 「量」
「直接」 「間接」
「感動」 「厳粛」或いは「賛嘆あるいは尊敬」
「惹きつけられる」 「突きはなされる」
「積極的な快」 「一箇の不快」で或る故「消極的な快」
「合目的的」 「反目的的」
自然美はコスモス 崇高の自然はカオス
自然美は外部の根拠 崇高の自然は内部の根拠
無区分 数学的なものと力学的なもの
自然の美しいものは対象の形式にかかわっており、その形式は境界づけられていることのうちでなりたっている。崇高なものは、これに対して、形式を欠いた対象についても見いだされうるのであって、それは、当の対象において、あるいはその対象を機縁として、境界づけられていないありかたが表象され、しかもそのありかたの全体性が〔問題の対象に〕付けくわえて思考されるかぎりにおいてのことである。
これはプラトン主義者の非一は一から際立つ、といったように美たる対象は対象の境界線が画定していると言えるのではないか?とするならその対として崇高も理解できる。 崇高なものに対する適意は、積極的な快というよりは、むしろ賛嘆あるいは尊敬をふくんでおり、すなわち消極的な快と名づけられるのがふさわしい。 自然美が私たちに開示するのは、自然の技術である。この技術によって自然は、その原理を私たちが自分の悟性能力の全体のうちにも見いだすことができない法則にしたがう一箇の体系として表象される。当の法則とはつまり、合目的性の法則のことであって、その法則は現象にかんする判断力の使用にかかわっている。〜しかし、私たちが自然において崇高なものと呼ぶのをつねとしているものにあっては、自然の特殊な客観的原理や、それらの原理に適合した自然の形式へとみちびくものはひとつとして存在しない。そのけっか自然はむしろそのカオスにおいて、あるいはそのきわめて野性的で、まったく無規則な無秩序と荒廃とにあって、かつひとえに「端的に」大きなものや勢力が目撃される場合、崇高なものの理念をもっとも多く喚起することになる。
下記で自然美が「外部」とされるのは、主体にとって美的な対象はアルチュセール流に言うなら「主観的な普遍妥当性」に呼びかけるからである。なぜなら無関心でないといけないゆえである。 自然の美しいものに対して、私たちはその根拠をじぶんの外部に探さなければならないいっぽう、崇高なものについては、それをただ私たちの内部に、つまり思考様式のうちに求めなけ ればならない。
そして美しいものの分析と違い、「崇高な者の分析には、一つの区分が必要となる」として「数学的に崇高なものと力学的に崇高なものとの区分にほかならない」とする。そこで続けてカントはこの両者を論じる。
数学的崇高
ただカントは「或る対象について「大である」と端的に語る場合ならば、これは数学的に規定的な判断ではなく、たんなる反省判断である」ともいう。これは下記の言明を引用することによって理解かのである。
私たちがたほう、或るものをたんに大と名ざすのではなく、端的に、絶対的に、あらゆる観点において(比較のいっさいを超えて)大である、すなわち崇高である
つまり「たんに大」と単数を主観的に判断することが数学的崇高ではなく反省判断なのであり、「端的に、絶対的に、あらゆる観点において(比較のいっさいを超えて)大」という比較可能性のもとに絶対的な大なものが「数学的崇高」なのである。勿論これは「反省的判断力をはたらかせる、ある種の表象をつうじてもたらされる場合に、崇高と呼ばれるのであって、しかし客観がそう称されるのではない」と言われるように、これは客観的な数学的規定ではない。それは下記言明にも現れている。 数の概念(あるいは代数学におけるその記号)による大きさの評価は数学的であって、いっぽうたんなる直感における(目測にしたがう)大きさの評価は直感的なものである。さて私たちが「或るものがどれほど大きいか」にかんする一定の概念を、ひとえに数(いずれにしても、無限に進行する数系列による接近)をつうじてのみ手にすることはたしかであるが、そのさい数の単位が尺度となっている。そのかぎりでは、大きさの論理的な評価はすべて数学的なものである。しかしながら、尺度の大きさはそれでも既知のものと想定されていなければならないのであるから、その大きさはこれもふたたび数によって、すなわちその単位がべつの尺度であるほかはない数によってのみ評価され、かくてまた数学的にだけ評価されるはずである。そうであるなら、私たちはだんじて最初の尺度もしくは基本尺度を有することはできず、したがってまた、与えられた大きさをめぐってなんら一定の概念をもつこともかなわないことになる。かくて、基本尺度の大きさの評価がなりたつとすれば、それはひたすら、その基本尺度の大きさが直観にあって直接的に把握されて、構想力をつうじて数概念の呈示のために用いられることができる、という事情のうちになりたつはずである。いいかえるなら、自然の対象の大きさの評価はことごとく、最終的には直感的なものなのである(すなわち主観的に規定され、客観的に規定されるのではない)。
ではこの直感的に数学的な評価はどういったものなのか。そこで「無限」の原理を持つ論理的な数学的評価は崇高による感動を惹きおこさないという。なぜなら論理的な数学的評価はたんなる「相対的な大きさ」に過ぎないからなのである。
さて、大きさの数学的評価にかんしては、最大の大きさはまったく存在しないことはたしかである(数の力は無限にすすんでゆくからだ)。いっぽう、大きさの直感的評価に対しては、もちろん最大の大きさが存在する。 その最大の大きさについて私は、それが絶対的尺度として判定され、その大きさを超えるほど大きなどのような尺度も、主観的には(つまり判定する主観にとっては)不可能な場合、「そのものは崇高なものの理念をともない、感動を生みだす」と語る。そうした感動は、数をつうじた大きさの数学的評価であれば、それがどのようなものであっても(くだんの直感的基本尺度がそのさい、構想力のうちに生き生きと保持されていないかぎりは)惹きおこすことのかなわないものなのである。というのも、数学的評価が呈示するものは、つねにひとえに他の同種のものとの比較を介した相対的な大きさであるにすぎないが、直感的評価はたほう、大きさを端的に、こころがその大きさを直観において把握しうるかぎりで呈示するからで或る。
「このことから、サヴァリがエジプトにかんするその報告のなかで述べているところが説明される。かれによれば、ピラミッドの大きさから完全な感動を得るためには、それにあまり近寄りすぎてはならないし、おなじようにひどく遠ざかってもならない」とするのはこの意味で理解できるのである。こうした数学的直感的評価をカントは「総括(Zusammenfassung / comprehensio aesthetica)」として、数学的論理的評価を「把捉(Auffassung /apprehensio)」とする。こうした概念的区分をもってピラミッドを下記のように論じる。 後者の場合は、把捉される諸部分(重畳しているピラミッドの石)があいまいに表象されるだけであって、それらの表象は主観の直感的判断に対してなんら効果を与えない〜いっぽう前者の場合だと、眼はいくらかの時間を要して、底部から尖端までを把捉しおえることになる。この把捉にあっては、とはいえ、構想力が後続する部分を受けいれてしまうまえに、先行する部分の一部がいつでも消滅してしまって、総括がけっして完璧なものとはならない、ということなのだ。
力学的崇高
勢力とは、大きな障害を凌駕している能力である。そのおなじ勢力が一箇の威力と呼ばれるのは、それじしん勢力を所持しているものの抵抗をも凌駕する場合である。自然が直感的判断にあって、私たちに対してどのような威力をも有さない勢力と見られるとき、その自然は力学的に崇高なのである。 私たちが自然を力学的にみて崇高なものと判定するとされる場合には、この自然は恐れを惹きおこすものとして表象されなければならない
つまり崇高的な対象は、私たちの所持している「抵抗をも凌駕する」自然として、恐れを惹きおこすものなのである。カントの他の言明を借り受けるなら「私たちが抵抗しようとつとめているものはなんらかの災厄であり、じぶんの能力ではその災厄におよばないとみとめられる場合には、それは恐れの対象となる」。その意味で「力学的に崇高なものとみなされることができるのは、ひとえに自然が恐れの対象と考えられるかぎりにおいてのことなのである」。そこで下記のような例を列挙する。
絶壁をなして張りでている、いわば威嚇するような岸壁、天空にえたつ雷雲が、閃光と雷鳴とともに近づいてくるさま、破壊的な威力のかぎりをつくす火山、荒廃をのこして吹きすぎる暴風、怒濤さかまく、果てしない大洋、勢いのよい流れにかかる高い落流、こういったものは、私たちの抵抗する能力を、それらの勢力と比較して取るに足らないほど微小なものとしてしまう。しかしながら、これらの眺めは、それが恐るべきものであればあるほど、 かえってそれだけ〔こころを〕引きつけるものとなるけれども、それも私たちが安全な状態に置かれていればこそのことなのだ。
また「私たちが安全な状態に置かれていればこそ」人は恐るというのは、「人間はじっさい恐れをいだいている場合には、じぶんのなかにその恐れの原因を見いだしているものである」ということであり、それ故、下記のように言うのだ。
したがって崇高さは、自然のいかなる事物のなかにでもなく、ひとり私たちのこころのうちにのみふくまれているのであり、それは、私たちがじぶんの内なる自然を凌駕しているのを意識することができ、さらにそのことをつうじて私たちの外なる自然をも(それがじぶんに影響をおよぼすかぎりで)凌駕していることを意識しうるかぎりにあってのことである。
芸術について
技巧:一般訳ではKunstを技術、Technikを技巧としているが、熊野訳ではTechnikを技巧、Kunstを技術としている。
1 :Kunstは人為的な生産活動であって、その点で「自然」から区別される。
技巧が自然から区別されるのは、なすこと(facere)がはたらきや作用一般(agre)から区別されるのと同様である。さらに前者の産物あるいは帰結は作品(opus)として、後者のそれである結果(effectus)から区別されるのである。 精確に語るなら、自由をつうじた産出、すなわち選択意志がそのはたらきの根底に理性を置いているさいの、 その選択意志による産出のみが、技巧と名づけられるべきであろう。
また技巧のもとに産出されたものは「人間の作品」である必要がある。それは上記の「自由をつうじた産出、すなわち選択意志がそのはたらきの根底に理性を置いている」という文脈で「理性」と「自由」の概念を紐づけていることからも理解できる。
或るものが端的に技巧作品と名づけられて、その或るものが自然結果から区別されるときには、どのような場合であれ、そのもののもとでは人間の作品が理解されて いるのである。
2 :Kunstは実践的な営みであって、その点「学問」(理論的営み)から区別される。
ひとり、たとえそれをきめて完全なしかたで知っていたとしても、だからといってそれを制作する技能をただちに手にしているわけではないようなことがらだけが、そのかぎりで技巧にぞくするのである。カンペルは「最良の靴はどのような性状のものでなければならないか」を、きわめて詳細に記述している。しかし、かれがそのような靴を一足として制作することができなかったのは、あきらかなところである。
またカントは備考にて「私の地方では、一般のひとはこんなことを言うものである。つまり、たとえばコロンブスの卵のような課題を課せられたとき、「それはいかなる技巧でもない、たんに知識にすぎない」といったことである。すなわち、知っているならば、それをなしうるということである。まさにこれとおなじことを一般のひとは、手品師が自称するあらゆる技巧にかんして口にするのだ。網渡りの技巧については、これに対して、一般のひとであれ、それを技巧と名づけることをめぐって、まったく反対することはないだろう」ともあるように、「なしうる」ことが重要なのだ。つまり「学問」的な理論的営みとして「完全なしかた」を理解しているだけでは技巧とは言わない。それゆえ冒頭に下記というのだ。 3 :Kunstは自由な技巧であって、その点労働的な「手仕事」から区別される。
技巧はまた、手仕事から区別される。前者は自由な技巧と称され、後者については賃金技術とも呼ばれることができる。ひとは前者を、あたかもそれがたんなる遊戯としてのみ、つまりそのもの自身として快適な仕事としてだけ、合目的的に成果をあげる(成功する)ことができるものであるかのように見なしている。いっぽう後者は労働、すなわちそのもの自身としては快適ではなく(労苦をともない)、ひとりその結果(たとえば賃金) をつうじてのみ魅力をもつ仕事、かくてまた強制によって[だけ]課することができるものと見なされているのである。
「芸術」概念
美しいものの学といったものはない。かえって批判が存在するにすぎない。また美しい学というものもなく、存在するのはむしろただ芸術だけである。なぜなら、前者については〔もしそうしたものがあるとすれば〕、その学のうちで学問的なしかたで、すなわち証明根拠によって「或るものが美しいと見なされるかどうか」が決定されなければならないだろうからである。
上記のようにカントは美学は存在せず芸術だけ、というのは下記にあるように「学問であるかぎり」、「根拠や証明が問われる」からこそ主観的な普遍妥当性とは異なってしまうのである。それ故「美しいものの学といったものはない」というのだ。
美をめぐる判断は〔その場合には〕、したがって学に所属するものであるとすると、それはいかなる趣味判断でもないことになるだろう。後者にかんしていうなら、それ自身として美しくなければならないような学は、およそ不可解なものである。というのも、学問であるかぎりでのそのような学にあって根拠や証明が問われるとして、その場合ひとは趣味ゆたかな表現(しゃれたことば Bonmots)で片づけられてしまうであろうからだ。
また技巧を機械的技巧と直感的技巧に区別し、さらに後者を「快適な技巧」と「美しい技巧」にわける。この美しい技巧こそが「芸術」であるのだ。ちなみに機械的技巧については「勤勉と学習とによる技巧」としている。
技巧が、なんらかの可能な対象の認識に適合したかたちで、たんにその対象を現実のものとするために、それに必要な行為を遂行するにすぎない場合は、その技巧は機械的なものである。いっぽう、快の感情を直接に意図しているときには、それは直感的な技巧と呼ばれるのである。後者の技巧は、快適な技巧であるか、美しい技巧[芸術]であるかの、いずれかとなる。前者であるのは、その技巧の目的がたんなる感覚としての表象に快がともなうことにあるときであって、たほう後者であるのは、その目的が、認識様式としての表象に快がともなうことにある場合にほかならない。
また「快適な技巧」と「美しい技巧」を下記のように論ずる。換言するなら目的を有する合目的性が前者なのであり、「美しいもの」の「第三帰結」で論じた目的なき合目的性が後者なのである。
快適な技巧とは、ひたすら享受のみが目的とされるものである。たとえば、食卓をかこむ仲間を満足させうる刺戟のすべてがそのようなものなのである。つまりは、ひとを愉しませるように物語るとか、仲間を打ちとけて生き生きとした雑談に引きいれるとか、冗談と哄笑で仲間をある種の陽気な気分にさせるとかいったことがそれである。〜芸術とは、これに対して、それ自身だけで合目的的な表象様式である。それはしかも、目的を欠いているにもかかわらず
芸術の産物について意識されていなければならないのは、それが技巧であって、自然ではないということがらである。〜技巧が美しい[芸術である]と称されうるのはひとえに、それが技巧であることを私たちが意識していながら、その技巧が私たちにはそれでも自然のように見える場合にかぎられる。なぜなら、私たちは一般に、自然美についてであれ、芸術美にかんしてであれ、こう語ることができるからである。すなわち、美しいとは、たんなる判定にあって(つまり、感官感覚においてではなく、概念をつうじてでもなく)意にかなうものである、ということにほかならない。
また「芸術」からは「苦渋の跡がみられることがない」或いは「芸術家のこころが有するさまざまな力に束縛をくわえた痕跡をひとつ示していない」という。これは「芸術家」が実際に「苦渋」や「束縛」を経験してつくった作品か否か、という意味ではなく、「芸術」それ自体にそのけが感じられないことが重要なのである。この論に即してわかりやすく論ずるなら「建物」などの「苦渋」や「束縛」を感じる作品は非美的で、「唐草模様」は自然に受容できるため美的なのだ。
カントは芸術を「ことばによる芸術」「造形芸術」「感覚のたわむれの芸術」の「ただ三とおり」と区分する。
「天才」概念
芸術はひとえに天才の産物としてのみ可能なのである。
そしてこの天才の特性を下記の四つに論じる。
①天才とは「なんらかの規則にしたがって学ばれうることがらにかんする、技能の性質ではない」。その意味で「独創性が天才の第一の性質」である。②「天才の産物は同時に模範でなければならない。すなわち範例的なものであるはずである」。これは先ほどの「独創性」によって基礎づけられている。なぜなら独創的であるがゆえに範例とされるのである。③「天才は、どのようにしてみずからの産物を仕上げるのかを、じぶんでは記述したり、あるいは学問的に示したりすることはできない」。それゆえ「理念を随意に、もしくは計画的に案出して、他者たちに対して、同様な産物を産出するにいたるような指令のかたちで伝達することも、その者の権能のうちにはない」というのだ。④「技巧のいっさいは規則を前提とし、その規則が基礎に置かれることではじめて〜可能なものとして表象される」。だが「芸術は、芸術がそれにしたがってみずからの産物を完成させるべき規則をじぶん自身で案出することはできない。ところがそれにもかかわらず、先行する規則が存在しなければ、とある産物はだんじて技巧〔の産物〕と称されることができない」。それゆえ天才が要請されるのだ。「天才とは、こころの生得的な素質(ingenium)であり、この素質をつうじて自然は技巧に規則を与える」のであり、「天才とは、技巧に規則を与える才能(天賦)である」のである。それゆえ「自然は天才をつうじて、知識にではなく技巧に規則を指令」することが天才の特性とされるのだ。またこの規則を下記のようにも論じる。
天分が技巧(芸術としてのそれ)に規則を与えなければならないとするなら、その規則はいったいどのような種類の規則ということになるのだろうか。問題の規則は、およそ定式にまとめられて指令に役だつといったものではありえない。そうなると、美しいものをめぐる判断が、概念にしたがって規定可能であることになるだろうからである。むしろ規則は、なされたところから、つまり産物から抽象されなければならない。〜いかにしてこのことが可能となるのかは、説明するのが困難である。芸術家の理念のさまざまは類似した理念をその弟子に喚びおこすけれども、それは、弟子に自然が、類似したつり合いでこころのさまざまな力を配分していた場合にほかならない。芸術の模範は、こうして、 芸術を後代に伝える唯一の伝達手段である。そういった伝達は、たんなる記述によってはなされえないところであろう(とりわけ、ことばによる芸術の分野ではそのとおりである)。
天才によってつくられた産物から「弟子」が「模範」として規則を「抽象」することによって、唯一伝達されうるのである。
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自然目的と有機的存在者
一本の樹木をとり上げてみる、それは第一に他の樹木を、よく知られた自然法則にしたがい産出する。産出される樹木は、しかも同一の類にぞくする樹木である。かくして樹木は、類からすればみずから自身を産出するが、この類にあって樹木は一面では結果として、他面では原因として、じぶん自身からたえず生みだされ、同様にじぶん自身をくりかえし生みだしながら、みずからを類として不断に維持している。
またこうした自己産出的な性格を「自然の有機的産物とは、そのものにおいてはすべてが目的であり、相互にまた手段でもある産物である、ということである。なにものもこの産物にあってはむだで無目的であるということがなく、あるいは方向をもたない自然のメカニズムに帰せられることもできない」とも言い換える。この意味で「自然の目的は、自然の産物のうちに存しているあらゆるものにまで拡張されなければならない」として、カントは自然それ自体に内在する「内的合目的性」を明らかにするのだ。例えば「外的に合目的な関係」として「草が家畜に、家畜が人間に、その生存のための手段として必要である」などといった場合には「ひとはおよそいかなる定言的な目的にも到達すること」ができないという。
たとえば河川は、それが内陸で民族のあいだの交流を促進するがゆえに、小岳は、それが河川のために水源を、また水源の維持のために乾季にそなえて雪を蓄えているという理由から、ならびに土地の傾斜が、この水をはこんで、かつ土地を乾燥させるけれども、だからといって、これらすべてがすぐさま自然目的と見なされるわけではない。なぜならば、地球の表面のこうした形態が、植物界や動物界の成立とその維持のためにきわめて必要なものであったにせよ、こうした形態はそれでも、それが可能となるために目的にしたがう原因性を想定しなければならない、とみとめられるようなものを、それ自体としてはなにひとつそなえていないからである。ほかならないこの件が、人間が、みずからの必要や楽しみのために利用する植物にも当てはまるし、人間が―一部分はじぶんの食糧のために、一部分は使役のために―いろいろと使用できるうえに、その大部分はまったく欠くことのできない動物、たとえばラクダ、牛、馬、犬などについても妥当する。さまざまな事物にかんして、それがひとつとして、それだけで目的と見なされる理由がない場合、外的関係はひとえに仮言的にのみ合目的的と判定されうるにすぎない。
この意味で「仮言的合目的」なものは「定言的合目的」な「自然的-目的論的な世界観察のまったくの外部に存ずる」のである。その意味でこの内在的目的論は、神学的な外在的目的論に対する批判と共存する。つまり人間は外在的に目的論的ではないが内在的に目的論的であると言えるのである。
第二に一本の樹木は、じぶん自身をまた個体として産出する。この種の作用を、私たちはたんに生長と呼んでいるとはいえ、この生長ということがらは、以下のような意味で考えられなければならない。つまり、生長は、機械的な法則にしたがう他のあらゆる量の増大からまったく区別されたものであって、〔生長という〕別簡の名称を有するものであるにもかかわらず、生殖と同等なものと見なされなければならない、ということである。物質をじぶんに付けくわえる場合に、この〔樹木という〕植物はそれをあらかじめ種別的に特有な質へと加工するが、 その質は、自然メカニズムがこの樹木の外部では提供しえないものであって、かくてこの植物がみずから自身をさらに形成してゆくのは、その配合からすればじぶん自身の産物であるような素材を介してのことなのである。というのも、樹木は、その成分についていえば、それらをみずからの外部にある自然から受けとるのはたしかなところであるから、たんなる抽出物と見られなければならないにせよ、それでもこの生まの素材を分解し、あらたに合成することにおいて、この種の自然的存在者にぞくする分解能力や形成能力については、なんらかの独創性が見いだされうるからである。その独創性は、どのような技巧であれそれには遠くおよばないものであって、 この種の自然的存在者を分解して手にした要素から、あるいはまた自然がその要素の養分として提供する素材をもとに、植物界におけるこのような産物をふたたび組みたてようとこころみても、いっさいの技巧は、くだんの独創性とは無限の隔たりを残すものなのである。 「機械的な法則にしたがう他のあらゆる量の増大からまったく区別されたもの」として「みずからを産出する」非機械論的な樹木の説明は下記の引用からも解釈できる。
第三に、この被造物「樹木」の一部分もまたみずから自身を生産するが、そのさい一つの部分の保存は他のすべての部分の保存に互酬的に依存している。ある樹葉の芽は、べつの樹葉の生えている枝に接がれると、ことなった株にじぶん自身の種とおなじ植物を産出し、このことはべつの樹幹への接ぎ木の場合も同様である。したがって同一の樹木についても、それぞれの枝や葉は、ただこの樹木に接ぎ木され、接ぎ芽されただけのものと見なされることができる。かくてまたそれらはおのおの、それぞれ自身が独立した、たんに或るべつの樹木に付着して、寄生して生育するにすぎない樹木として見なされうるのである。葉が、同時に樹木の産物であることはたしかであるとはいえ、樹木をそれでもまた互恵的に維持している。落葉が繰りかえされるならば樹木は枯死し、樹木の生長は、葉が幹におよぼす作用に依存しているからである。この被造物[樹木]が毀損される場合には、自然の自助がみられる。そこではつまり、隣接した部分の維持に必要であった一部分の欠損が、のこりの部分によって補完される。また植物には生まれ損ないや奇形も生じる。すなわち、ある部分が、欠損や妨害があらわれたことにより、みずからをまったくあらたなしかたで形成して、現に存在している部分を維持したり、異例な被造物を産出したりすることがある。これらについて、私はここではついでに言及しておくにとどめるけれども、それらは有機的被造物のきわめてふしぎな性質にぞくするものなのである。 https://scrapbox.io/files/64b22c8256bb82001bf706fb.png
付録二:〔公法を成立させる条件という概念に基づいた道徳と政治の一致について〕
法の公示性
上記のように国法や国際法に含まれる経験的なものを全て無視すると、法的で倫理的でア・プリオリな公式が導出できる。
「他の人たちの権利に関係する行為で、その格率が公開を認めていない行為は、すべて不正である」
具体例の言及
公表すると私の意図していたことも同時に駄目になってしまう格率の公表を私が禁じるとしよう。私の意図していたことを成功させるには、絶対に内緒にしておく必要があり、私の思惑を公にするとみんなの反発を招くことが避けられないからだ。しかしそういう格率のせいで私は、必然的に、みんなから、ということはア・プリオリにわかることだが、批判されることになる。批判の根拠はほかでもない、それが明らかに正義に反するからだ。
カントは,本書の序文でみずから分類しているように,人間学を,自然学的人間学(physiologische-thropologie, Anthropologie inphysiologischer Hinsicht) と実用的人間学 (pragmatische Anthropologie, Anthropologie in pragmatischer Hin-sicht)とに分けている。前者は自然から人間への営みかけのなかでの人間の身体的・生理的な構造を説明するものであるが,これにたいして後者は,人間の自由にもとづく自己形成を探究するものであるとされる。(引用) 自然学的人間知は,自然が人間をどのようなものにしようとしているかという,その当のものの探究をめざし,実用的人間知は,人間が自由に行為する存在者として,自分自身をどんなものにしようとし,あるいはすることができ,またすべきであるかという,その当のものの探究をめざしている。 「わたしは,幸福という動因にもとづく実践的法則を実用的法則(怜悧の規則)と名づける。これに反して,幸福に値いするということだけを動因とするような実践的法則を道徳的法則と名づける。第一の法則は,われわれが幸福を得ようと欲するならば,われわれは何をなすべきかということを勧告する。これに反して,第二の法則は,われわれが幸福に値いするためには,われわれはいかに身を処すべきかということを命令する。第一の法則は,経験的原理を基礎とする。わたしは経験によらなければ,満足を欲する傾向がなんであるかを知らないし,また傾向の満足を生ぜしめる自然原因がどのようなものであるかも,知らないからである。ところが,第二の法則は,傾向を満足させる自然的手段を無視して,ひたすら理性的存在者一般の自由と,この自由と幸福にあずかることとを原理的に合致させるための必然的条件とを考察する。したがって,この法則は,少なくとも,純粋理性の理念のみを基礎とするものであるから,先天的に認識されうるはずである」。この基礎づけから導出すると、「われわれが幸福を得ようと欲するならば,われわれは何をなすべきか」の探求なのである。
さて,われわれの諸認識の起源と根拠とについていえば,諸認識はすべて,純粋理性か,または経験―それはさらに理性の指図を受けるものであるが―から汲み取られる。純粋な理性的認識は,われわれの理性によってわれわれにあたえられる。これにたいして,経験的認識は,感覚を通じて得られる。〜ところが,われわれには,二重の感覚,すなわち外的感覚と内的感覚が存するのであるから,経験的認識の総体としての世界を,この二つの方向にしたがって,考察することができる。すなわち,外的感覚の対象としての世界は自然であり,これにたいして,内的感覚の対象としての世界は,心ないし人間である。自然と人間との諸経験は,あわせて世界認識となる〜それゆえ,あれこれのことについて,世界を知っているといわれる場合,それは人間と自然を知っているということを意味する。