柄谷行人
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要するに、われわれがふつう夢と呼んでいるのはすべて「事後の観察」である。夢の世界ではわれわれは文字通り夢中に生きているのであって、しかも生きていることとそれを眺めることとに何の乖離もなく生きているのだ。そこでは「在りさうもない事だけ」が起っているが、しかもそれを何の疑いもなく受け入れている。「本当のリアリティはつねにリアリスティックではない」とカフカがいうのは、この意味においてである。 島尾敏雄、庄野潤三の作品を論じているが、そこでは「夢のような世界」をいかに小説化するかについてが語られる。夢を自由奔放な幻想の世界として、外面的な奇怪さを追求するのは虚しいと柄谷は語り、代わりに、夢とは「距離の喪失」なのだと定義づける。
われわれは夢を見るという、こういう表現は正しくないので、われわれは夢のなかでは何も見ていない。見るとは「距離を置く」ことだが、距離がないということが『夢の世界』の特徴なのである。しかし、われわれは眼ざめたとたん距離を置いて『夢の世界』を見る、つまり外側から見る〜ロブ=グリエがいうように、カフカの小説に夢の雰囲気を与えているのは、事物の精細な描写と明瞭な現前性である。カフカは夢を書いたのではない。ただ「距離」を奪いとられた現実を書いたのである」。 ここで言われる「「距離」を奪いとられた現実」とは何と秀逸な表現か。この的確な説明にしびれるような快感があった。それは別の言い方でいえば、カフカの作品を通して、読者は「「意味」によって汚染されている現実世界を原型的に感受している」のだと柄谷は説明する。たしかにわれわれは、どうがんばっても「現実世界を原型的に感受」することはできないし、そこに意味を紐付けてしまう。意味を通してしか世界を「見る」ことはできないからこそ、カフカの作品は読者を驚かせるのだ。 生の中心に座る物語概念
われわれの思考にはつねに《物語化》というものがつきまとっているからである。われわれの記憶は物語のかたちをとり、たとえば夢とは想起される瞬間につくられる物語である。重要なことは、この物語化がそれ自身の力をもっていて、われわれに不本意な嘘をつかせるということである。歴史観は、いかに科学的な外見をもっていようと、一種の物語である。つまりわれわれの経験の《物語化》である。小説が衰退したのは物語を忘れたからだというような説は、あやまっている。なぜなら、小説は物語の上にきずかれた物語の自意識というべきものであって物語そのものはけっして衰退していないどころかわれわれの生の最も基本的な場所に位置しているからである。「物語の回復」などというのは、人間の経験が基本的に一種の《物語化》の上にあるという事実を没却しているのである。この場合、物語を神話といいかえてもさしつかえない。ところで、この《物語化》とは、いいかえればものの運動のなかに整合性、合目的性をもちこむことである。これは。必ずしも物事を観念として整理して見るというようなことではなく、われわれの日常的な思考そのもののなかにある性質である。
@デューク大学講演
アルチュセールは、歴史が主体のないものであることを主張しました。それは、全体を透過するような超越的視点がないことを意味します。主体とは、たえず多方向的に組み替えられていく諸関係と交通の網目に対して、それを透過しうるようにみなされる「想像的なもの」です。彼は、これをフロイトあるいはラカンを借りて述べたのですが、いうまでもなく、これもスピノザの考え方なのです。フーコーは、このことを別のレベルでやりました。アルチュセールは、思考を支配しているシステムを問題系と呼んだのですが、これは科学哲学者コイレに負うもので、アメリカではクーンがそれを「パラダイム」と呼んだわけです。フーコーは、それを思考がその中で組織されるような「エピステーメー」と呼びました。しかし、特に違ったことがいわれたわけではありません。彼は、全体を見通すような視点、あるいはそのような主体、精神、理念、といった「想像的なもの」が、言説の非方向的な出来事と網目を隠蔽することを示そうとしたのです。フーコーが「人間は死」と書いたのは、そのような主体が想像物でしかないということが露わになった、というにほかなりません。 https://scrapbox.io/files/65278655041319001b7259db.png
そしてカントとマルクスの総合、アナーキズムとマルクス主義の総合を、実践的レベルで追求するための試みとしてNew Associationist Movement(NAM) また、柄谷は自身の「トランスクリティーク」という言葉はスピヴァクの「プラネタリー」という言葉と親和性が高いとしている。プラネタリー(惑星的)とはスピヴァクによると グローバリゼーション(地球全域化)という言葉への「重ね書き」として提案された。 /icons/hr.icon
2004 デリダ追悼シンポジウム
柄谷自身が上記のように語っている。
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下記引用で語っている通り宗教性を帯びてしまったという
/icons/wikipedia.icon「本来この運動はアソシエーションのアソシエーションであり、運動開始に先行して幾つかのアソシエーションが存在していなければならなかったが、NAM自体が個人からなる一つのアソシエーションに過ぎなかった」『政治と思想』「ファンクラブを集めてしまった」『近代文学の終り』 序論
資本と国家を揚棄することを課題とする運動はすでに二世紀に近い歴史をもっている。それはユートピア社会主義と呼ばれたり、共産主義と呼ばれたり、アナーキズムと呼ばれたりした。しかし、二〇世紀の末に、それらが最終的に無惨な結果に終わったことを認めなければならない。もちろん、資本主義のイデオローグが何といおう、資本と国家が存続するかぎり、それらに対抗する運動が不可避的に生じる。だが、それが真に新しく、有効な運動であるためには、過去の革命運動への根本的な反省が不可欠である。
資本と国家。これらは本来的に、別々のもので、それぞれ別の原理、簡単にいえば、資本は交換の原理に、国家は奪取と再分配の原理に根ざしている。絶対主義王権国家の段階で、それらが結合された。国家は自らを強化するために、資本制経済の発展を必要とし、他方、資本制経済は、すべての生産を資本制化することができないし、逆に、資本主義化しえない生産(たとえば、人間と自然の生産) に依拠するがゆえに、国家を必要とする。産業資本主義と国家のブルジョア革命ののちに、それらは不可分離に癒着した。しかし、それらが原理的に別のものであり、それぞれ自律性をもっていることを忘れてはならない。
これまでの失敗の歴史を下記のように語る。
したがって、われわれは、資本への対抗と国家への対抗を、つねに同時的に考えておかねばならな い。エンゲルス以後のマルクス主義者は、資本主義を克服するために、国家権力をもってしようとし た。そのことは暴力革命を通してであれ、議会制を通してであれ、同じことである。彼らが国家固有 の「力」に対して鈍感であったことは、否定しようがない。一方、空想的社会主義者、アナーキストは、国家の「力」に対してすぐれて敏感であったにもかかわらず、資本制経済の「力」について 鈍感であった。彼らは国家さえなくなれば、民衆の自発的な能力によってアソシエーション的な社会 が形成されると考えていた。〜われわれのいうアソシエーショニズムは、根本的にユートピアとアナーキズムに由来するものであるがゆえに、なおさら、その批判が不可欠である。 そしてよくある地域共同体=ゲマインシャフト回帰ではないことを告げる。
現在、NPOや地域通貨、教育制度の自由化などが国家の手で推進されている。それは、アソシエーショニズムの可能性を与えるかのように見える。しかし、それが国家によって推進されるのは、資本主義のグローバリゼーションの結果、国家が地域経済や社会福祉や教育の負担を削減するために、それらを民間に任せようとしているからである。したがって、こうした非資本制経済が拡大してやがて資本主義的市場経済にとって代わるだろうというような期待は、幻想である。また、それが国家を希薄化すると考えることもまちがっている。これらはむしろ、資本と国家が生き延びるためにとる方策だからである。とはいえ、われわれは、このような変化を国家と資本への対抗の手段として活用することができる。付け加えていえば、資本主義のグローバリゼーションに対して、ナショナル或いは地域的な経済や文化を保護しようとする運動が反射的に起こっている。それは反資本主義的な動機をもっている。しかし、それはわれわれが考える資本と国家への対抗とは異質である。
下記のように続ける。
資本と国家への対抗を考える者が陥りやすい罠は、閉鎖的な共同体への回帰を志向することである。真のアソシエーションは、一度、伝統的な共同体の靭帯から切れた個人によってしか形成されない。したがって、資本と国家への対抗は、同時に伝統的共同体への対抗を含むものでなければならない。
そこで「学生、女性、マイノリティ、消費者などの反システム運動(ウォーラーステイン)」などのアナーキズム=アソシエーショニズム的反動があったが、あまりにも中央集権を拒むばかりに「つねに離散的で断片的でしかありえなかった」という。 今重要なのは、資本と国家の揚棄に関して、いかに明瞭な見通しをもつか、そして、そうした多様で分散的な運動をいかに統合するかということである。New Associationist Movementは、そのような課題に挑戦する。
NAMの組織原則
(1)
一定数以上のメンバーがいれば、NAM**(地域名ほか随意)と名乗ることができる。それは組織的にも財政的にも独立したものである。しかし、各人は必ず、少なくとも三つのカテゴリーに所属することが必要である。それは、第一に、地域(外国も含む)による区分である。第二に、現在の職業などの社会的階層(学生、サラリーマン、主婦、中小企業経営者、文筆業など)による区分である。第三に、各人の関心対象による区分である。どのカテゴリーも、それ自体アソシエーションとして自律的である。
以下に、関心対象による区分を示す。これらは、資本制経済における内在的な対抗運動と、超出的な対抗運動に大別することができる。むろん、ここに列挙した区分は一例にすぎず、会員の関心によっていつでも変更可能である。
内在的な対抗運動に関して
環境 労働運動 消費者運動 福祉 出版 メディア マイノリティ フェミニズム レズビアン・ゲイ⋯⋯
超出的な対抗運動に関して
生産・消費協同組合 LETS 企業組合 NPO フリー・スクール 第三世界援助⋯⋯
(2)
地域はそれぞれ事務局をもち、代表者をもつ。むろん、地域系だけでなく、関心系、階層系もまた同様である。ただし、一つの代表者は、他の区分の代表者を兼ねることはできない。地域・関心・ 階層のすべての代表者たちで構成するのが、「アソシエーションのアソシエーション」としてのセンター(代表者評議会)である。
さらに、「センター」においても、代表者が選出される。どのレベルでも代表者は、無記名投票(三名連記)で三人を選んだ後、くじ引きによって決められる。残りを副代表とする。代表者の任期は二年とするが、その間に要求があればリコールされる。
センター代表者評議会は、センター事務局をもつ。事務局長は評議会によって選ばれる。それらと別に、監査委員会をおく。監査委員会は、センターの経理、運営を監査し、全員に報告する。また、 各支部、あるいはその間での、対立やリコールなどに対して公平に対処する。監査委員は、各代表や事務局長を経験した者の中から選ばれる。 会員のほかに賛助会員がいる。賛助会員は、大会や通信に参加し自由に発言することができる。ただし、代表選出などの決定には参加できない。
NAMは秘密をもたない。ゆえに、重要な議題や争点がすべてのメンバーに知らされる。
(3)
NAMは、その内部において、LETS(地域交換取引制度)方式の地域通貨を使用する。NAM会員・賛助会員の献金、労働、サービスの提供に対しては、LETSの通貨(nam)で支払われる。 このことは、ボランティア的な活動を、たんに一方的贈与・自己犠牲的な奉仕としてでなく、自主的で開かれた互酬的交換として見なすことである。NAMは、この意味でも、倫理的−経済的な運動である。同時に、内部においてLETSを採用するのは、それを狭義の物理的な地域における通貨にとどまらず、関心系としての「地域」における通貨として普及させるためである。
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プログラム
1
NAMは、倫理的−経済的な運動である。カントの言葉をもじっていえば、倫理なき経済はブラインドであり、経済なき倫理は空虚であるがゆえに。
倫理について下記のように定義する。
社会主義はその出発点において倫理的であった。それはたんに経済的な平等や豊かさを追求するものではなかった。「倫理的」であるとは、国家や共同体が強いる他律的な道徳とは逆である。それは、 カントが述べたように、自由な主体であること、そして、他者を手段としてのみならず同時に自由な主体として扱うことである。だが、そのことは、他者をたんに手段としてのみ扱う資本制経済を揚棄することなくしてありえない。〜もちろん、倫理だけによって資本主義を克服することはできない。しかし、われわれはむしろ、 倫理的な契機をあらためて重視しなければならない。マルクス主義者にはそれが失われていたからで ある。 そこでマルクスの『資本論』における序文を援用する。 次に他者の範疇について述べる。
ところで、この場合、他者は、生きている他者だけでなく、死者、そしてまだ生まれていない未来の他者をも含まなければならない。現在の資本制経済がこのまま続けば、地球温暖化など通して、早晩「人類」の危機を招来することは疑いない。もしわれわれが生きている者たちの公共的合意によっ て、現在の「幸福」のために彼らを犠牲にするのであれば、それは他者を自由な主体としてでなくたんに手段として扱うことである。倫理的であろうとするなら、資本のとめどない蓄積運動を制止しな ければならない。ゆえに、われわれの運動は政治的-経済的である。だが、われわれが人類の危機を 止めるために何かをするのは、けっして未来の他者のためではなく、われわれ自身の「自由」のためである。その意味で、われわれの運動は根本的に、倫理的である。
NAMはリアルと融和する。
NAMは諸個人のアソシエーションであり、個人の倫理性に根ざしている。というより、倫理性は個人の問題である。国家はいうまでもなく、反国家的組織であろうと、階級的組織であろうと、「組織」には倫理性はない。諸個人はさまざまな組織(官庁、会社、組合、市民運動団体、政治団体、村落共同体など)に属している。NAMは、それらと並び立つような組織ではない。NAMに参加することは、それらの組織を離脱して、新たな組織に属することではない。NAMは、現実に組みしながら、同時に、倫理的であろうとする諸個人のアソシエーションである。いいかえれば、NAMの運動とは組織に閉ざされた人たちをアソシエートすることである。 NAMは媒介項であること。
NAMが新たな運動を始める、というべきではない。資本制経済の現実的展開の中から、すでに、それに対抗するさまざまな運動が生じている。NAMの役割は、相互に孤立し対立しさえするさまざまな運動や組織をアリシエートする媒体となることであり、それを担うのは諸個人である。NAMの会員は、あらゆる組織がアソシエーショニズムの理念に沿った形態になるように運動するだろうが、 そのことは、それらの組織をNAMの下におくことを意味しない。たとえば、ある組織のメンバーが全員NAMに入っているとしても、それはNAMとは別である。また、ある組織がNAMと無関係であっても、その組織形態や理念がNAM的であるならば、それは歓迎すべきことである。われわれが目指すのは、たんにNAMの組織的拡大ではなく、NAM的なものの拡大であるから。
2
NAMは、資本と国家への対抗運動を組織する。それはトランスナショナルな「消費者としての労働者」の運動である。それは資本制経済の内側と外側でなされる。もちろん、資本制経済の外部に立つことはできない。ゆえに、外側とは、非資本制的な生産と消費のアソシエーションを組織するということ、内側とは、資本への対抗の場を、流通(消費)過程におくということを意味する。
柄谷は「資本制市場経済」を拒む
市場経済という語は現在、それが資本の活動であることを隠蔽するために用いられている。資本とは、M(貨幣) − C(商品) − M'という運動であるが、それは裏面において、C − MやM' − C'という交換である。市場経済は価格の調整において効率的であるというとき、その背後に、資本の運動が隠さ れてしまうのである。正確にいえば、資本制市場経済と市場経済一般とは区別されるべきである。資本制市場経済の廃棄は、市場経済あるいは貨幣の廃棄ではない。たとえば、消費−生産協同組合のグローバルなネットワークは、自給自足的な共同体への回帰ではなく、「自由な独立生産者」のために 開かれた市場経済である。そして、その際、貨幣は、利子をもたず、資本に転化しない地域通貨(LETS)のようなものになるだろう。しかし、これはある段階、つまり国家権力をとった段階で、実 現されるべき事柄ではない。資本制経済の中で、それに対抗しつつ成長すべきものである。
そして資本制市場経済の怪物たる所以を下記のように述べる。
ポランニーは、資本制市場経済を、共同体と共同体の間に発生した寄生的存在が共同体を侵食するという意味で、ガンにたとえたが、NAMの運動はいわば対抗ガン的なものである。すなわち、それは、資本 制経済につきまとい、いつのまにか、それを侵食してしまうというような運動である。 資本制の欲動(ドライブ)は、資本が存続すること、いいかえれば、自己増殖的であることにある。 資本主義は、けっして止むことのない自己増殖運動である。それがいかに無駄で有害なことをもたら すことがわかっていても、止むことはない。それは人々の考え方が変わっても、国家によって管理し ても、終わることはない。資本主義は欲望の産物ではなく、欲望こそ資本主義によって喚起されたも のだ。にもかかわらず、資本は剰余価値を獲得することができなければ終焉するほかない。NAMは資本制を「打倒」したりはしない。たんに、それが静かに死滅するようにするだけである。 そんなガンの主体的、能動的に侵食=増殖する性質を下記のように示す。
マルクス主義者は、一般に、資本制経済を封建的支配の欺瞞的変形として見てきた。つまり、資本は労働者から剰余労働を騙しとるのだ、と。しかし、これはマルクス以前のリカード派社会主義者 (チャーチスト運動)の考えにすぎない。マルクスが重視したのは、資本が本質的に商人資本であること、すなわち、空間的な価値体系の差額から剰余価値が得られるということである。一方、産業資本が得るのは、技術革新によって時間的に新たな価値体系を創出することから得られる「相対的剰余価 値」である。かくして資本はたえず技術革新を迫られる。とはいえ、そのことは、産業資本が商人資本のように空間的な差異から剰余価値を得ることを妨げるものではない。たとえば、資本はより安い 労働力を求めて海外に移動する。要するに、産業資本が獲得する剰余価値は、総体としての労働者が 作ったものを労働者が買いもどすことによる差額である。したがって、剰余価値は、個別的企業ある いは個別的国家だけで考えることはできない。それは世界資本主義における総剰余価値として考えら れなければならない。ゆえに、剰余価値は、個別的な企業あるいは個別国家のレベルにおいて不可視 であり、ブラック・ボックスの中にある。ひとが経験的に知るのは利潤のみである。 資本と賃労働という関係は、主人と奴隷の関係とは根本的に違っている。それは、貨幣形態(一般的等価形態)と商品形態(相対的価値形態)におかれた諸個人がとる関係である。資本は貨幣-商品― 貨幣(M–C–M')という運動としてのみ存在する。つまり、資本はたえず「変態」することによっ てのみ自己増殖する。この運動において、資本は主体的(能動的)である。 そんな能動的に喰らい続ける怪物に、唯一われわれが主体的、能動的に介入し得る観点を見出す
ところが、資本はこの過程において、一度は、相対的価値形態、つまり売る立場に立たざるをえない。そして、ここに、労働 者が能動的な主体としてあらわれる場(ポジション)がある。それは資本制生産による生産物が売られる場、つまり、「消費」の場である。マルクスはいう。 資本を支配(隷属)関係から区別するのは、まさに、労働者が消費者および交換価値措定者として 資本に相対するのであり、貨幣所持者の形態、貨幣の形態で流通の単純な起点――流通の無限に多く 点の一つ―ーになる、ということなのであって、ここでは労働者の労働者としての去られるのである(『経済学草稿』第二巻、三五頁)。 資本にとって、消費は、剰余価値が最終的に実現される場であり、消費者(労働者)の意志に従属 させられる唯一の場である。 売りと買い、あるいは、生産と消費は貨幣経済において分離している。この分離が、労働者と消費 者を切り離し、あたかも企業と消費者が経済主体であるかのように見えさせている。また、それは労働運動と消費者運動を分離させている。労働運動が形骸化するにつれて、消費者運動はさまざまな形 で盛り上がってきた。それは環境保護、フェミニズム、マイノリティなどの運動を含んでいる。一般 に、それらは「市民運動」という形をとっており、労働運動とのつながりをもたないか、否定的であ る。しかし、消費者運動は、実は立場を換えた労働者の運動なのであり、またそのかぎりで重要なの だ。逆に、労働運動は消費者の運動であるかぎりにおいて、その局地的な限界を超えて普遍的となりうる。われわれがいうのは〜労働力の再生産過程を、資本が自己実現するために通過せねばならない流通過程として、そして、そこにおいて労働者が主体的であるよう な場としてとらえなおすことなのだ。 そこで介入における手法論を二つ提示する。
しかし、資本制経済の無窮の運動を止めるには、二つの方法がある。一つは、資本制経済における内在的闘争である。もう一つは、非資本制的な市場経済(生産−消費協同組合と地域通貨)を拡大することである。われわれはこれを超出的闘争と呼ぶ。資本のM-C-という運動において、資本 が出会う二つの危機的契機(モメント)がある。それは、労働力商品を買うことと、労働者に生産物 を売ることである。もしこのいずれかにおいて失敗するならば、資本は剰余価値を獲得できない、いいかえれば、資本たりえない。労働者はこの二つの場において、資本に対抗しうる。一つはネグリがいったように、「働くな」ということだ。むろん、それは「労働力を売るな(資本制 の下で賃労働をするな)」ということでなければ、意味をなさない。もう一つは、ガンディーいったように、「資本制生産物を買うな」ということである。それらは、労働者が「主体」となりうる場(ポジション)においてなされる。しかし、労働者=消費者にとって、「働かないこと」と「買わないこと」を可能にするためには、同時に、働いたり買うことができる受け皿がなければならない。 それこそ、生産−消費協同組合にほかならない。したがって、超出的な闘争(生産−消費協同組合や地域通貨経済の形成)は、資本制経済における内在的闘争にとって不可欠である。逆に、後者(不買運動を中心とする内在的闘争)は、資本制企業を非資本制的企業形態に組み替えていくことを促すだろう。NAMは、内在的闘争と超出的闘争を、同時的に組織するものである。 内在的闘争として歴史的にストライキを誤って選択してきたと柄谷は述べる。
繰り返すが、これまでマルクス主義者の間では、資本制経済への闘争は、労働者のストライキによる権利奪取が中心であると考えられてきた。しかし、われわれが「消費者としての労働者」の運動を重視するのは、けっして労働運動が衰退したからではない。〜この原理は、現在や将来においてだけでなく、過去に関しても妥当する。一九世紀末に、ベルンシュタインやカウツキーの議会主義に対して、ローザ・ルクセンブルクやレーニンが労働者の政治的ゼネラル・ストライキと蜂起を中心とする戦術を唱えた。しかし、それらはいずれも帝国主義戦争を阻止することさえできなかった。〜だが、「もし」ということが許されるなら、このとき、命を賭けた、それゆえに困難な政治的ストライキのかわりに、労働者が通常どおり働き、かつ、資本制の生産物―どの国のものであれ―を買わないという運動を行なったとすれば、どうだろうか。〜(general boycott)が第二インターナショナルの下で各国で同時に行なわれたなら、資本や国家はなすすべがなかったはずである。要するに、一九世紀末以来のマルクス主義の運動を総括するとき、われわれはその誤謬が資本制経済と国家への無理解にあったと結論することができる。その経験を踏まえることによってのみ、新たなトランスナショナルなアソシエーショニストの運動が可能となるだろう。 グラムシを基礎づけに内在的闘争は「生産過程=ストライキ」ではなく「流通過程=ボイコット」に転回すべきだと唱える。 "アナルコ・サンディカリズム"は内在的闘争をゼネスト等の「生産過程」に取り違えてしまった。だがNAMはマルクスの「下部構造が上部構造を規定する」を「交換様式が社会構成体を規定する」と読み替えることによって「流通過程」の重要性を説き、そこから「超出的闘争」という相互補完的な領域の重要性を導出した??
上記だとすると抜本的思想としてのNAM!よりかは「アナルコ・サンディカリズム再考」という感覚がしてしまって、いまいち気持ち悪さが拭てない...
3
NAMは「非暴力的」である。それはいわゆる暴力革命を否定するだけでなく、議会による国家権力の獲得とその行使を志向しないという意味である。なぜなら、NAMが目指すのは、国家権力によっては廃棄することができないような、資本制貨幣経済の廃棄であり、国家そのものの廃棄であるから。
いわゆるマルクス主義者は、経済的なものが土台的下部構造で、国家やネーションは上部構造であるという見方をしてきた。その場合、上部構造には相対的自律性があり、それ自体の形式を探るべきだという批判がなされたりもした。しかし、そのような「史的唯物論」の見方は、少しもマルクス的ではない。たとえば、資本主義的経済は下部構造であろうか。貨幣や信用の世界は、経済的とい うよりも、宗教的な幻想的な構造ではないのか。われわれは今もそれにふりまわされている。逆にい えば、国家やネーションも宗教的な幻想であるとしても、それらが不可避的に存在するのは、資本と 同じように、現実的に不可避的な基盤があるからではないのか。したがって、それをたんに幻想だと いっても、けっしてそれを解消できないのである。 そもそも上部構造・下部構造という言い方は、マルクスが『経済学批判』の序文で述べた一節から きているだけで、マルクスは特にそれを強調したわけではないし、それは彼の主著である『資本論』 から見れば、大した認識ではない。史的唯物論は、エンゲルスがマルクスより早くもっていた認識で あり、後に、マルクス死後、エンゲルスがマルクスが最初にそれをいったと主張したために、「マル クス主義」の核心ということになっただけである。もしそのようなものがマルクス主義なら、マルク スがいなくても、マルクス主義は成立したといえる。しかし、『資本論』のような作品は絶対に、マ ルクスなしに存在しなかった。史的唯物論は、資本制経済以前の歴史を、資本制経済が実現したもの から遡行的に理解するものであって、マルクスの言葉でいえば、「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」 ということである。資本主義社会はそれ以前の歴史を経済的な視点から見ることを可能にするが、そ の逆に、後者によっては、資本主義を理解することはできない。資本としての貨幣は、国家やネーションと同じく、共同的な幻想であり、同時に、この上なく、現実的なものである。 柄谷は下部から上部と安易にとらえず「資本と国家とネーションは、それぞれ違った「交換」の原理にもとづくものだと考えられるべきである。それらが区別されないのは、ブルジョア的な近代国家において、それらがトリニティ(三位一体)になっているからである。先ず、それらの「交換」の原理を区別するところから始めよう。」として下記のように続ける。
b(交換様式A)
第一に、共同体のなかの交換である。これは贈与-お返しという互酬的交換であって、 相互的扶助だが、お返しに応じなければ村八分になるというふうに、共同体の拘束が強くあり、また、排他的なものである。
a(交換様式B)
第二のタイプは、強奪することである。むしろ、交換は、互いに強奪することを断念するところから始まる。しかし、強奪も交換の一種と見なしてよい。というのは、持続的に強奪するためには、相 手を別の敵から保護したり、産業を育成したりする必要があるからだ。それが国家の原型である。 国家は、より多く収奪し続けるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、 むしろ、農民は領主の保護に対するお返しとして年貢を払うかのように考える。ゆえに、国家は一面 において、超階級的で、「理性的」であるかのように表象される。したがって、収奪と再分配も「交 換」の一種なのである。人間の関係に暴力の可能性があるかぎり、このような形態は不可避的である。
c(交換様式C)
第三に、マルクスのいうように、共同体と共同体の間での交易がある。この交換は、相互の合意によるものである。しかし、それはすでに国家と法が存在するところでしかありえない。ところで、す でに述べたように、この交換には剰余価値、すなわち資本が発生する。商人資本は古典経済学者が非 難したような詐欺にもとづくものではない。価値体系の異なる地域の間での交換、たとえばある地点で安く買ったものを別の地点で高く売ったとしても、それぞれは等価交 換なのに、差額(剰余価値)が発生する。産業資本も原理的には同じで ある。商人資本の場合は空間的な差異にもとづくが、産業資本における 剰余価値は、時間的に、技術革新によって価値体系を変えてしまうこと による差額(相対的剰余価値)にもとづいている。つまり、それは「搾 取」ではあるが、封建的国家における収奪と似ているように見えて、根 本的に違う。しかし、交換(交易)が一見して等価交換であるにもかか わらず、不平等換あるいは富の不平等をもたらすこと、このことは事実 によって示されている。 以上、交換には、この三つの型がある。(下図参照)
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d
実は、さらに、 もう一つの交換のタイプがあり、それがわれわれのいうアソシエーションやLETSである。それは、以上の三原理とは違った原理にもとづくものである。というのは、そこでの交換は、国家や資本と違って非搾取的であり、また、農業共同体と違って、その互酬性は、自発的であり、 かつ非排他的(開放的)であるから。
封建国家崩壊に背景にあった、二つの「国家との結婚」
ベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートが、本来異質であるネーションとステートの「結婚」であったといっている。これは大事な指摘であるが、その前に、やはり根本的に異質な二つのものの 「結婚」があったことを忘れてはならない。国家と資本の「結婚」である。国家、資本、ネーションは、封建時代においては、明瞭に区別されていた。すなわち、封建国家 (領主、王、皇帝)、都市、そして、農業共同体である。それらは、異なった「交換」の原理にもとづ いている。第一に、国家は、収奪と再分配の原理にもとづく。第二に、そのような国家機構によって支配され、相互に孤立した農業共同体は、その内部においては自律的であり、相互扶助的、互酬的交換を原理にしている。第三に、そうした共同体と共同体の「間」に、市場、すなわち都市が成立する。 それは相互的合意による貨幣的交換である。封建的体制を崩壊させたのは、この資本主義的市場経済の浸透である。一方で、それは、絶対主義的王権国家を生み出す。それは、商人階級と結託し、多数の封建国家(貴族)を倒すことによって暴力を独占し、封建的支配(経済外的支配)を廃棄する。それこそ、国家と資本の「結婚」である。 そこでは、封建地代は国税となり、官僚と常備軍が国家的な装置となる。絶対主義王権の下で、そ れまでさまざまな部族や身分にあった人びとは、すべて王の臣下となることで、のちの国民的同一性の基盤を築く。商人資本(ブルジョアジー)は、この絶対主義的王権国家のなかで成長し、また、 統一的な市場形成のために国民の同一性を形成した、ということができる。しかし、それだけでは、 ナショナリズムの感情的基盤はできない。ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都 市的な啓蒙主義とともに、解体されていった農業共同体がある。それまで、自律的で自給自足的で あった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬性)を、ネーション(民族)のなかに想像的に回復するわけである。 >アンダーソンは、宗教が衰退した後に、ネーションがその原理をはたすと指摘しているが、その場合、宗教が具体的に農業共同体としてあったことが重要である。宗教の衰退とは、共同体の衰退と同じことを指す。というのは、宗教はプロテスタンティズムのような形では、少しも衰退していないからだ。ネーションは、悟性的な(ホッブズ的)国家と違って、農業共同体に根ざす相互扶助的感情に基盤をおいており、また、ナショナリズムにおいてそれが喚起される。同じ民族だか いら、友愛の感情である。それが、いわば、国家とネーションの「結婚」である。もちろん、それは農業共同体と同様に排他的である。 「それらが本当に「結婚」するのは、ブルジョア革命において」として、どれか1つを改革=革命=対抗しても揺らがない強固なものであり、綜合的な試みの必要性を述べる。
フランス革命で自由、平等、友愛というトリニティ(三位一体)が唱えられたように、資本、国家、ネーションは切り離せないものとして統合される。だから、近代国家は、資本=ネーション=ステートと呼ばれるべきである。それらは相互に補完し合い、補強し合う〜たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって越え、国家によって規制し富を再分配する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとすると、国家的な管理を強化することになるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。この三つの「交換」原理のなかで、近代において、Cタイプの交換が深化し、他を圧倒したということができる。しかし、それは全面化することはできない。たとえば、それは家族を解体できないし、それに依存するほかない。また、農業などは資本主義化が完全にはできない。資本は、 人間と自然の生産に関しては、家族や共同体に依拠するほかないし、非資本制生産を前提している。同様に国家もまた、資本主義的市場経済によって消えるわけではない。むしろ、資本主義の危機(恐慌)におい 国家が露骨に登場する。また、絶対主義的な王(主権者)は、ブルジョア革命によって消えるが、国家そのものは残る。それは、国民主権による代表者=政府に解消されてしまうものではない。国家 0国家に対して主権者として存在するのであって、したがって、その危機(戦争)においては、強力な指導者(決断する主体)が要請される。ボナパルティズムやファシズムにおいてそうであったように。 現在、資本主義のグローバリゼーションによって、国民国家が解体されるだろうという見通しが 語られることがある。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。たとえ ば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再分配)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かう。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは、三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しても、結局、この環のなかに回収されてしまうほかない。それは、それらがたんなる幻想ではなくて、それぞれ異なった「交換」原理に根ざしているからである。アソシエーションによる交換がそれらにとって代わらないかぎり、いかなる啓蒙主義的批判によっても、それは消えない。
そういったトリニティが形成されているか否かで、国民国家の成熟具合を図るべきであるとして、グラムシを再考する。
先に述べたように、グラムシは、ロシアでは国家がすべてであり、市民社会は原生的でゼラチン状であったのに、西欧では市民社会が成熟しているということ、ゆえに、その戦略を「機動戦」から「陣地戦」に変えなければならないということを指摘した。しかし、この市民社会の成熟とは、むしろ、資本=ネーション=ステートが確立しているかどうかで見られるべきである。イタリアにおいてグラムシが指導したレーニン主義的な工場占拠の闘争がファシストによって粉砕されたのは、後者がナショナリズムに訴えたからである。一方、ロシアでは、国家、資本、ネーションは統合されていなかった。つまり、そこでは、戦争は皇帝のためのもので、ネーションのためのものではなかったから、 むしろ、社会主義革命がナショナリズムを喚起しえたのである。
そして上記から柄谷が敢えて、革命ではなく「対抗」と呼ぶ理由、そして非暴力である理由を明らかにする。則、NAMとは暴力的革命ではなく、非暴力的対抗なのである。 「マルクスは、最も先進国であるイギリスでこそ社会主義革命が可能であると考えていた」が「普通選挙制が確立され労働組合が強いところで、かえって革命は遠のいたように見えた 。しかし、このとき遠のいたのは、ブルジョア革命に由来する「革命」」であるとし、「一八四八年革命以後「機動戦」から「陣地戦」への移行があったということは、すでに『資本論』 が書かれた時期において、労働者階級の闘争が生産過程中心から流通過程中心、つまりストライキかボイコットへ移行したこと」から「『資本論』はこの意味での「陣地戦」のための論理を与えるものとして読まれるべきである。」という2での主張を繰り返す。ただその意志とは反対に、皮肉なことに暴力的革命の方向へ進む。
高度にブルジョア化した社会において、社会主義革命はいかにして可能か。この問いに、マルクスは直接に答えていない。〜 マルクスの死後、エンゲルスは、〜議会による革命が可能であると考えるようになった。だが、これは根本的にブルジョア革命(暴力革命)の延長である。議会制によろうと、国家権力の行使はそれ自体暴力的である。なぜなら、国家権力は根本的に独占された暴力にもとづいているからだ。ウェーバーは次のようにいっている。国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である(『職業としての政治』)。 強制でなくて同意によろうと、権力の行使は暴力にもとづいている。だから、ウェーバーは、政治に関わる者は、「すべての暴力の中に潜む悪魔の力と関係を結ぶのだ」といっている。この意味で、 社会民主主義はless violentではあろうが、non-violentではない。それは、議会制の多数決原理によって掌握した国家権力によって、資本から課税によって収奪したものを労働者に再分配することをめざす。二〇世紀になって以来、マルクス主義はいわば、カウツキー派(社会民主主義)とレーニン派に分かれた。しかし、極端な自由主義者のハイエクのような観点から見れば、それらの差異は見かけほど大きくはない。一方はソフトな国家主義であり、他方はハードな国家主義である。いずれも国家権力に訴えるがゆえに「暴力的」である。そして、いずれも、「労働力商品」つまり賃労働の廃棄を目指していない。 「エンゲルスの弟子であったベルンシュタインは、エンゲルスにまだ残っていた「革命」幻想の残滓を取り除いた」が「レーニンやローザ・ルクセンブルクがそれを批判した」「彼らはまた、社会主義革命が、資本主義経済が発展しブルジョア的な市民社会が確立した段階でのみ可能であるという考えを否定し、そのような段階の「飛び越え」が可能であると主張した」が「実のところ、それはブルジョア革命の変型にすぎない」と暴力的革命主義者らはブルジョワ革命主義者と同じ環境要因の成功だと述べた。「二〇世紀における社会主義革命の多くが、「民族独立・解放」、すなわち、ネーショ ン=ステートそのものの確立をめざしていたこと、それゆえにまた、成功した」ということなのであり、「だ から、問題は、それ以後に「飛び越え」が可能かどうか、である。」 この問題に関して、最も早く鋭い 洞察をもっていたのは、トロツキーであった。一九〇五年の第一次ロシア革命のあとに、彼は段階の 「飛び越え」は可能である、と考えた。なぜなら、後進国においては、ブルジョア市民社会は脆弱で、 国家権力を打倒すればよかったから。しかし、彼は、同時に、「飛び越え」は不可能であるとも考えた。権力をもった労働者階級の政府は、資本の手でなされた「原始的蓄積」(農民収奪)を自らやらねばならず、そのような体制を保持するためには、絶対主義的な独裁体制を強行することになるだろうから。彼はこのパラドックスを「永続革命」によって乗り越えることができると考えたが、実際の事態は、彼自身の予見を二つとも証明した。 先進国の左翼は、後進国の革命に特徴的な英雄的暴力性を賞賛し、羨望し、模倣さえしたが、自ら に固有な困難に取り組まなかった。また、彼らは、後進国における革命を、市場の封鎖によって先進国の資本を追いつめるという観点から重視した。しかし、実際には、そのような封鎖は、社会主義的国家を経済的に停滞させただけで、世界資本主義の発展を阻止する力にはならなかった。そして、皮 肉にも、飛び越えたはずの「ブルジョア革命」がそこに起こった。その結果、左翼は、一世紀を経て、 ベルンシュタイン的観点に立ち帰ったのである。いうまでもなく、それは資本と国家を揚棄という課題をまったく見らしなっている。そして、そのような社会民主主義はかつて帝国主義戦争を止めえなかったばかりか、その熱狂のなかに呑みこまれたように、今後においてそのような可能性をもっている。にもかかわらず、もはやそれをレーニン主義的に批判することはできない。では、それ以外のオルタナティブはないだろうか。それを、マルクスと別のところに求める試みは、ありふれており、かつ、つねに欺瞞的である。それは、マルクスが革命の可能性がますます色あせたイギリスにとどまって専念していた『資本論』に求められねばならない。すでに述べたように、資本 =ネーション=ステートはは、人間の「交換」がとる必然的な形態に根ざしている。容易に、この環を出ることはできない。マルクスがその出口を見いだしたのは、第四の交換のタイプ、すなわち、アソシエーションにおいてである。 しかし、同時に彼は「アソシエーショニズムの限界と困難を見ていたことを指摘することである。それが彼の態度を両義的にしたのだし、また、マルクス主義者が一般に消費-生産協同組合を軽視した理由でもある。」「その限界とは、消費-生産協同組合が資本との競争の下に置かれている」ため「局所的(資本制をとりにくい生産領域)に成立するか、自ら株式会社になってしまうか、または資本との競争に敗れて崩壊してしまうしたがって、 マルクスは「国家権力を生産者自身に移す」ことが不可欠だと考えた」
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NAMは、その組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する。すなわち、それは、選挙のみならず、くじ引きを導入することによって、代表制の官僚的固定化を阻み、参加的民主主義を保証する。
現代の「マルクス主義者は、マルクスの「プロレタリア独裁」という概念を否定するか、もしくはそれについて沈黙している。」が「忘れられるべきどころか、積極的に再考さるべき問題」とする。
一九世紀末、ドイツの社会民主党が議会で躍進したとき、すでにエンゲルスは「プロレタリア独裁」を放棄している。のちに、レーニンがそれを復活させたが、それは党-官僚独裁に終わり、今やマルクス主義者は誰もそれについて言及しない。
そこで「パリ・コミューン」を再評価するとともに限界を示す。
「プロレタリア独裁」は、いうまでもなく「ブルジョア独裁」に対応する概念である。その場合、「ブルジョア独裁」は代表制(議会)民主主義を意味している。絶対主義的専制を打倒してできた民主的議会制が、すなわちブルジョア独裁である。である なら、マルクスがいう「プロレタリア独裁」が、ブルジョア独裁以前の封建的専制や絶対主義的独裁のようなものに戻ることであるはずがない(事実はそうなってしまったが)。マルクスはパリ・コミューンに「プロレタリア独裁」の具体的なイメージを見いだしている。パリ・コミューンは、アナーキスト(プルードン派)によってなされたもので、いわゆる「マルクス主義的」ではない。しかし、マルクスがそれを高く評価したのは唐突ではない。それは初期マルクスの国家論の必然的な延長である。マルクスはその仕事を、ヘーゲルの『法の哲学』の批判から開始している。彼がそこに見いだした 、近代国家における市民社会と政治的国家、私人と公人の分離である。各人は、公人としては対等であるが、私人としては資本制経済のもたらす階級的生産関係に属している。そして、公人として、各人がもつのは立法権、というより、代表者を選ぶ参政権だけであって、行政権をもたない。たんに選挙に投票できるというだけが、「国民主権」の実体である。たとえば、民主主義国家において、企業や官庁のなかに民主主義があるかどうか考えてみればよい。それに対して、パリ・コミューンは立法機関であると同時に行政機関であった。そこでは、すべての司法官と行政官僚を選挙するとともに解任できる制度があった。その意味で、これは近代国家における市民社会と政治的国家の二重性の揚棄である。 しかし、問題は、このことがいかにして永続的に保証されるかということにある。選挙やリコールを秘密投票によって行なう、というのは、一つのアイデアである。しかし、それによって官僚制化を阻むことはできない。ウェーバーがいったように、官僚制は、分業の高度に発展した社会においては不可避的であり、また不可欠でもある。それをただちに否定することはできない。マルクスは将来のコミュニズムにおいては分業がなくなると考えたが、それに向かう「過渡期」において、分業としての官僚制なしにすますことはできない。たとえば、ロシア革命のソヴィエト(労農評議会)もパリ・コンミューンと同じようなものであったが、なぜそれがまもなく党独裁、官僚支配になっていったのか。それをボルシェヴィキによる策動と裏切りということですますことはできない。 敗戦後の経済的混乱の下で、彼らはどうしても官僚を必要としたのだ。パリ・コンミューンは二カ月で潰されたが、もし長続きしたとしたら、同じような結果に終わっただろう。 「官僚制の弊害は、権力の固定化」だが「官僚制や中央権力をたんに一般的に否定するのではなく、その弊害を避けるにはどうすればよいか」と問い、その答えを「無記名選挙によって選んだ複数の候補者の中からくじ引きで代表者を選ぶというシステム」という「権力が集中する場に偶然性を導入すること」であるとし、「議会制民主主義がブルジョア的な独裁であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリアート独裁だ」と述べる。その意味でアテネを再評価する。 そしてこの偶然性ガバナンスの汎用性を述べる。
そして、このことは別に、将来の課題ではない。 現在の企業や官庁、その他の組織においても実現可能なことだ。企業などで多くの人びとが悩んでい るのは、賃金や労働時間よりも、労働現場における官僚的固定化なのである。 そして、これは、労働組合代表の経営参加によっても解消されない。労働組合そのものが官僚的だからである。たとえば、労働者の自主管理を実現した旧ユーゴスラヴィアにおいても、官僚制化は避けられなかった。一方、資本制企業であろうと、マネージメントが選挙とくじ引きによってなされるならば、労働者の自主管理なのである。それができないのは、株主の多数決支配があるからだ。一方、 生産協同組合においては、経営に関して、株所有の多寡にかかわらず、決定権は各自対等である。 にもかかわらず、ここでも、権力の固定化は避けられない。したがって、くじ引きの導入が不可欠である。
最後にNAMに紐づけて当意を述べる。
国家と資本に対抗する運動は、それ自身において、権力の集中する場に偶然性を導入するというシステムを導入していなければならない。そうでなければ、こうした運動は、それが対抗するものと似たようなものになるほかない。他方、集権主義的なピラミッド型組織を否定するところから始まった、さまざまな市民運動は、逆に、離散的で断片的なままの離合集散に留まっている。そして、結局、議会政党の票田となるだけである。そうであるかぎり、それらが資本と国家に対して、有効な対抗をなしうるとは思えない。しかるに、もしこのような政治的技術を導入すれば、中心化を少しも恐れる必要はない。NAMは、参加的民主主義の実現を目標とするだけでなく、その運動形態において、それを具現していなければならない。したがって、組織原則の項において明らかなように、NAMは、二つのシステムを採用する。 一つが、代表選出のくじ引き制であり、もう一つが、個人の多次元的所属である。
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NAMは、現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり、それは現実的な諸前提から生まれる。いいかえれば、それは、情報資本主義的段階への移行がもたらす社会的諸矛盾を、他方でそれがもたらした社会的諸能力によって超えることである。したがって、この運動には、歴史的な経験の吟味と同時に、未知のものへの創造的な挑戟が不可欠である。
資本制経済の発展段階は、重商主義、自由主義、帝国主義、後期資本主義、などといった諸段階として区別されている。このことを具体的に理解するためには、世界商品の交替という観点から見ればよい。たとえば、重商主義時代の世界商品は毛織物であり、自由主義時代のそれは綿製品であった。つまり、一九世紀前半まで世界を制覇した大英帝国を支えた資本制生産とは、繊維工業にほかならなかったのである。それは巨大資本を必要としない。マルクスは『資本論』において、株式会社と並んで競い合うものとして生産協同組合を考えていたが、それはまもなく急激に色あせてしまった。しかし、それはたんに株式会社に敗北したためではない。イギリスの株式会社もまた、重工業化の段階で、 国家的な巨大資本にもとづくドイツとの競争において沈下していったのである。基本的に繊維産業が中心であった段階では、生産協同組合は株式会社にある程度拮抗できたのだ。この後、エンゲルスやドイツ社会民主党は、資本の巨大化をむしろ歓迎し、それを社会化(国有化)すればすなわち社会主義だと考えるようになったため、生産協同組合を軽視し始めた。
一九世紀後半の重工業段階への移行は、慢性的な不況と失業を生み出した。それは政治的には帝国主義をもたらし、第一次大戦においてそれが爆発した。第二次大戦はその延長として生じたが、同時に、一九三〇年代にそれ以前とは異質なものが生じたことを見落とすべきではない。それは〜国家が経済過程にケィンズ主義的な介入を始めたことである。それは、世界商品という観点から見れば、耐久財(自動車・電気製品)への移行である。以来、大量生産・ 大量消費(フォーディズム)の時代が続いてきた。それが世界的に飽和点に達したのが一九八〇年代である。以後、資本は、狭義の生産過程における発展よりも、流通過程あるいはコミュニケーションの圧縮(デジタル化)によって剰余価値を確保することを目指すようになった。かくして、世界商品 は、いわば「情報」に移行している。いわゆるデジタル化は、旧来の生産関係や産業構成における激烈な変化をもたらしている。とりわけ、旧来の生産関係が解体されるのは、これまで流通において中間搾取してきたギルド的な商業資本(取次、問屋、配給会社など)の分野においてである。生産者と消費者が直接的に交換し合うシステムがそれにとって代わる。このような変化が、大量の失業と労働の再編成を招来することは不可避的である。
同時に、現在の変化は、その時期に形成されたプロシャ型の国家資本主義やコーポラティズムに代表されるような現代資本主義の形態をディコンストラクト(脱構築)するものである。「新自由主義」と呼ばれる事態は、その点で、経済的・軍事的にイギリスの圧倒的優位のもとにあった「自由主義」段階に類似するといってよい。たとえば、一八七〇年以後に重工業化=巨大資本化が生じたとしたら、現在の「情報資本主義」への移行がもたらすのは、その逆に、国際的資本を別にして、国家的なコーポラティズムに依存した巨大企業の解体であり、(ベンチャー企業に見られるように)中小企業の興隆である。この場合、中小企業を協同組合やLETSを用いて、非資本制的なアソシエーションとして組織することが可能である。その意味で、現在はむしろ、マルクスがイギリスで生産協同組合に注目した時期に類似してきたといえる。 われわれは、世界資本主義の発展がもたらす状況に対して、楽観的ではないが、悲観的でもない。というのは、資本制経済の深化は、同時に、自らを滅ぼすための諸条件をつくりだすからである。 この弁証法は、近年の例でいえば、インターネットに見いだせる。それは、冷戦時代にアメリカの軍事的な防衛策として生まれ、また、資本によって活用されている。だが、それは国家と資本に対抗する運動にとっても不可欠な手段である。New Associationist Movementは、根本的に、サイバースペースなしには不可能である。したがって、資本主義への対抗は、ロマン主義的な回帰やノスタルジーとは無縁であって、資本主義によって生じた世界的な交通の中でしかありえない。
電子的地域通貨Q(「円」に対抗して「球」と命名された)の問題をきっかけにして、NAMがもつ問題性が危機的なかたちで奔出した。その結果、さまざまな改革案が出されたが、たんなる改革では、NAMを蘇生させることはできないという結論に達した。NAMの代表団は協議の結果、NAMを解散することを提案した。私はそれに賛成し、代表団の英断に敬意を表する。この提案の論旨はきわめて明快である。しかし、これは、NAM外の人びとにとって、唐突に見えるだろう。だから、私は、この提案の背景を説明するとともに、今後の展望について、私見を述べておきたい。
そして下記のように解散理由を述べる
本来、「NAM原理」は、さまざまな運動体(アソシエーション)をアソシエートする原理として考えられたものである。つまり、そうした運動体が先にあることを前提している。そして、それらが、ばらばらにあるために孤立したり低迷してしまう状態を脱するために、NAMを形成する、というのが、あるべき順序であった。しかし、実際には、そのような個々の運動体がほとんどない状態で、NAMが始められた。というより、むしろ、運動を生み出すためにNAMが始められたように見える。にもかかわらず、運動といえるほどのものがほとんど起こらなかった。そのため、NAMの組織機構の維持と運営が運動と取り違えられ、また、Qのように非現実的な空想にふけることが運動と取り違えられることになったのである。それは、すでにそれぞれ個々の超出的な運動体に参加していた人たちを疎外してしまった。
超出的な対抗運動だけでなく、内在的な対抗運動も起こらなかった。内在的な対抗運動が起こらないのはNAMの責任ではない。日本全体がそういう状態にあるからだ。たとえば、アメリカ合衆国によるイラク侵攻が近づいているのにデモもろくに起こらない所は、日本だけだろう。しかし、そのような政治的風土をわずかでも変えることができなかったことには、NAMも責任がある。超出的な運動を唱えて、内在的な対抗運動、政治的な運動を回避したからである。
どんなに今のNAMの組織機構や運営の仕方をいじくっても、プロジェクトも運動も、起こるはずがない。それゆえ、NAMを一度解散し、会員が自由な個人free agentとして、あらためてアソシエーションを形成することから始めるほかない。そうして、さまざまなプロジェクトや地域運動がそれぞれのアソシエーションとして成長したのちに、その必要があれば、あらためて、「アソシエーションのアソシエーション」としてのNAMを結成すればいい。NAMほどの規模の組織が解散することは異例であり、もったいないと思う人がいるだろうが、そのようなことを平然とできるということが、アソシエーショニストの面目である。その意味でNAMは解散することにおいて、まさにNAM的たらんとしている。むしろ、NAM的なものが存続するのは、現実のNAM組織を解消することによってである。具体的にいえば、NAMの解散とは、現在のNAMから、事務局、評議会などのすべての上部機構をとりさることである。現在の関心系(注:協同組合やホームレス支援など多様な個別プロジェクトのこと)や地域系(注:地域メンバーのアッシエーション)の諸組織は、それぞれ独立したアソシエーションを形成する。もしくは、消滅する。入会手続きや運営などの仕事は、それらが独自にやることになる。次に、それらの連絡会議Free Associationsが作られる。これはゆるやかな相互連絡の機構であって、NAMの評議会や事務局のようなものではない。また、FAは、「NAM原理」のようなプログラムを共有しない。したがって、これまでNA」と関係のなかった団体も加入してよい。FAはホームページをもつ。しかし、それはこのNAMのサイトのようなものではない。FAは、参加したアソシエーションがそれぞれもつホームページへのリンクと案内、また、運動や相互連絡の掲示板をもつだけである。それらの編集は、参加するアリシエーションが交代で担当する。
NAMとFAの違いの一つは、次の点にある。NAMにおいては、参加する者は個人だけであったがFree Associationsには、団体のみが参加する。また、NAMがカントのいう統覚をもつものであるとすれば、FAは、それをもたない自由連想Free Associationのようなものである。もしここから「統覚」を求める動きが起こってくれば、NAMのような組織を再結成してもよい。しかし、けっしてそれを急いではならない。私自身は、協同組合をはじめ、いくつかのプロジェクトに参加するつもりである。なお「NAM原理」は、もはや現実の組織と無縁となる以上、私の著作として自由に書き直すということにさせていただく。
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マルクスを読み直す変遷
カントの萌芽
私は一九八四年ごろから、雑誌『群像』で、「探究」と題してエッセイを連載していました。「探究」という題は、ウィトゲンシュタインから〜でウィトゲンシュタインを論じています。〜 それが『探究Ⅰ』です。そのあと、一九八〇年代後半に書いた『探究Ⅱ』では、スピノザを中心に〜『探究Ⅲ』は、実質的にカント論です。それを一九九三年に開始したのは、一九九〇年のソ連崩壊後の世界状況があったからですね。〜ソ連圏が崩壊したことは、当時一般に、ロシア革命に始まる社会主義の理念が失墜したということとして受けとられました。しかし、実際は、そうではなかった〜ソ連邦が崩壊したとき、もうそこに社会主義的なものが存在すると考えている人は、ほと んどいなかったからです。 そもそも一九五六年(ハンガリー革命)以来、新左翼はソ連邦的な社会主義を疑い、否定するところから始めています。さらに八〇年代には、左翼の理念そのものが終わったと目された。たとえば、 リオタールは「大きな物語」が終わった、といった。それがいわゆるポストモダニズムですね。ただ、そのときでも、誰もソ連が崩壊するとは考えていなかった。 ソ連崩壊の契機
私も、ソ連はあんなかたちで、長く続くだろうと思っていました。ところが、現にソ連が崩壊した。普通、これは旧左翼の崩壊ですから、新左翼にとって感激すべきことです。しかし、そうではなかった。むしろ、ソ連があるおかげで、新左翼もポストモダン派も、存在する意義をもちえたのです。それを批判しているだけで、存在する価値があるように見えたら。ソ連がなくなったら、どうなるか。自ら、積極的なものを提示しなければならないはずです。冷戦時代では、何か積極的なことをいうと、米ソのどちらかに帰着してしまう。それらに対抗してやろうとすると、どちらでもない「第三の道」をとる、ということになります。たとえば、日本の場合、新左翼は、どちらをも否定して、「反帝反スタ」(黒田寛一)とか「自立」(吉本隆明)とかいったわけです。フランスでも、サルトルの実存主義は「第三の道」として説かれました。その後さらに二項対立そのものを自壊させようとする考えが出てきた。デリダが脱構築〜と呼んだのは、そのようなものです。 サルトル以後のフランス哲学が特別の意味を帯びたことも、そこから説明できます。米ソの二元構造の下で、「第三世界」と呼ばれるものが生まれたのですが、それとは別の意味で、ド・ゴール以来フランスが、米ソに対する「第三の道」を代表してきたといえます。 物語や歴史の終わりをカントが先取りしていたことに気づき、読み直しを始めたという。
九〇年以後に、このように大きな変化があった。それまで曲がりなりにも存在した「社会主義」が消えたわけですから。フランスでは、デリダもドゥルーズもそれにすばやく対応しました。たとえば、 彼らは逆に、自分はマルクス主義だというようになったのです。また、ネグリ=ハートのように、新たな革命運動を提唱する人たちが出てきた。しかし、大半の人たちは元のままで、一切の理念は幻想だったという、ポストモダニズムが基調となったわけです。たとえば、マルクス主義という「大きな物語」が終わった、という主張がありました。しかし、実際には、別の物語が出てきただけです。 「歴史の終焉」(フクヤマ)という、まさにヘーゲル主義的な「理念」あるいは「物語」が流行したのだから。 この時点で、私が考えたのは、歴史に関する「理念」の問題です。たとえば、理念は幻想だ、仮象だという。しかし、理念は仮象だということは、すでにカントが明言していることです。そこで、私はカントの読みなおしを試みたのです。そして、それを一九九三年ごろから〜連載しました。〜 「探究」は一九九八年に『トランスクリティーク』という題に変えました。そして、この本を書き上げてまもなく、NAMを開始した。だから、九〇年代前半に、カントについて考えようとしたことが、すべての発端になっています。 カント論
ここで、カントがいう仮象について簡単に説明します。むろん、仮象とは幻想であり、理性によって批判されるべき錯誤です。しかし、彼は仮象を二つのタイプに分けた。感覚による仮象と理性による仮象です。感覚にもとづく仮象は理性的な反省によってとりのぞけますが、理性にもとづく仮象は、理性ではとりのぞけない。なぜなら、理性こそがそれを必要とするからです。そのような仮象をカントは超越論的仮象と名づけました。 カント以前の哲学ではギリシア以来、仮象を感覚によって生じるまちがい、あるいは、 論理的な誤りであると見なしてきました。つまり、理性的に考えれば、われわれは仮象(ドクサ)を離れて正しい認識 (エピステーメー)に達する、と考えてきた。一方、カントが考えた超越論的仮象とは、感覚や推理の誤謬によって生じる仮象ではなく、理性そのものが必要とする仮象です。これは理性よってはとりのぞけない。それをとりのぞくと、理性、というか、人間の存在が危うくなるようなタイプの仮象です。たとえば、神や自由がそういう仮象です。この問題に関しては、神・自由というようなことよりも、魂のような問題を例にとるとわかりやすいでしょう。魂が存在するかどうか、という問題。魂というのは、同一の自己を意味します。魂の不死、つまり、死後にも自己があるということは、 そもそも同一の自己がなければありえない。ところが、ヒュームがいったように、同一の自己なるものは仮象です。たとえば、自己は、昨日と今日でも違う。すると、多数の自己があることになる。が、 それでは困ったことになります。そこで、ヒュームは考えた。同一の自己なるものは存在しない、ただ、社会的な約束として想定されるだけだ、と。このような懐疑論は、「我しか存在しない」という独我論と同様に、反駁するのが厄介なものです。 それに対して、カントはそれら多数の自己の根底に一つの自己がある、と考えて、それを「統覚」と呼んだ。もちろん、これも仮象です。しかし、超越論的な仮象である。これがないと困ったことに なるのです。たとえば、分裂病(統合失調症)がそうです。自己同一性を疑ったヒューム自身、それをたんなる理論として主張していたわけではなくほとんど狂気の寸前にありました。したがって、自己同一性は仮象であるとしても、むしろ不可欠な仮象です。カントのいう理念とは、そのような仮象です。今日、人びとがいう理念とは、歴史に関する理念です。カントは、人間の歴史は機械論的な因果性によって決定されるものであるが、同時に、そこに目的がある「かのように」見なしてよい、と考えた。だから、歴史に目的があるという理念は、超越論的な仮象です。ついでにいうと、彼は「自然史」についてもそう考えた。自然界は機械論的であって目的論的ではないが、結果的に目的論的なものであるかのようになっているというのです。その意味で、彼はダーウィン的進化論を先取りしています。人間の社会についても、同じです。カントは、これまでの人類の歴史をふりかえって、それが道徳法則の実現される社会に向かって漸進してきた以上、今後もそうである「かのように」見なしてよい、というのです。それがカントの「世界市民的見地における普遍史」の理念です。むろん、それは超越論的仮象です。 ところで、これまでの歴史過程をふりかえって見いだされる目的論と、それを未来に適用することは別の話です。未来に関して、われわれはたんに予想すること、あるいは、信じることができるだけです。未来についての憶測は仮象にきまっている。しかし、われわれは、将来に関して盲滅法にやるわけではない。これまでの事例から見て、将来にどうなるかを、ある程度想定することができるし、 また、そのような想定なしには何もできません。したがって、カントは、過去の経験から事後的に想定される目的論的なものあるいは法則性を、未来に適用してよいと考えたのです。ただ、彼は、それは根本的には仮象であると考えていた。それがカントにおける歴史の「理念」です。 いいかえれば、カントはあくまで物事を「事前」から見る立場に立っていた。
ヘーゲル論(問題定期:マルクス主義のパラドックス)
このような理念の見方に反撥したのがヘーゲルです。ヘーゲルにとって、理念はカントにおけるように未来に実現されるべき何かではない。また、それは仮象ではない。ヘーゲルにとって、理念は現実に存在する。というより、現実こそ理念的である。だからまた、彼にとって、歴史は終わっているのです。カントに対して、彼の立場はいわば「事後」の立場です。 ヘーゲルの態度の背景には、フランス革命があります。カントがフランス革命的なものをいっそう徹底化しようとしていたのに対して、ヘーゲルはそのようなラディカリズムを斥け、現実を受けいれることを説いたといえます。近代ブルジョア国家が成立した以上、今後、根本的な変化はない。ゆえに、歴史はここで終わった、ということになる。 ドイツでは、ヘーゲル以後、彼の思想を受け継ぐ者は、大きくいえば、二つに分かれました。右派は、保守的な国家主義者。これはブルジョア革命を認めない。他方、ドイツではまだ近代ブルジョア革命も起こっていない、だから、ヘーゲルが批判したものをむしろ先ず実現すべきだ、と考える人たちが出てきた。それがヘーゲル左派です。その中から出てきたのがマルクスやエンゲルスです。彼らは、ヘーゲルが歴史の最後の段階と見なしたブルジョア社会に、今や資本家と賃労働者という階級、そして、彼らの階級闘争が出現していることを見いだしたわけです。 そして柄谷はマルクス主義はヘーゲルを継承しているように見えて、カント的に志向していると考える。
マルクス主義再考へ
しかし、このような見方は、歴史を「終わり」から見ることにならないだろうか。つまり、ヘーゲルを否定しながら、彼もまた「事後」の立場に立っているのではないか。ヘーゲルの場合、現在が最後の段階であって、この先に本質的な革命はありえない。「歴史の終焉」を説く今日のヘーゲル派と同様です。ところが、マルクスは違う。彼は未来について語らなかった。彼はいわば、未来は過去にあるというのです。人間の社会史の中に共産主義をもたらす必然的な契機があるとしたら、それは何なのか。私はそれを考えることを可能にするものとして、交換様式を見いだした。生産様式(生産力と生産関係)ではなく。
未来あるいは社会主義について語ったのは、もっぱらエンゲルスです。そもそも「史的唯物論」自体が若いエンゲルスが最初に提起した理論なのですが、彼は特にマルクスの死後、彼は「科学的社会主義」を強調するようになった。そして、"マルクス主義"を作ったわけです。マルクス主義では人間の社会史は共産主義にいたる目的論的なものとなります。それは、歴史を唯物論的に見ると称しながら、実際は、観念論的(目的論的)な観点をとることです。そこから、「終わり」を先取し、歴史の必然性という観念によって人びとを強制するような政治体制が生じた。それがソ連邦です。そして、一九九〇年においてそれが崩壊した。そして、マルクス主義は終わった
歴史の理念は物語にすぎないという大合唱の中で、私はそれに反撥しながら、どうしても積極的な考えを見いだせなかった。共産主義とは未来にある何かではなく、「現状を止揚する現実の運動」 とマルクスがいったことを繰り返すほかなかったのです。ところが、一九九八年になって、突然、そ れまでの態度の根本的な変更が生じた。具体的にいえば、それは、マルクス主義が社会の歴史を生産 様式から考えているのに対して、交換様式から考えるようになったということですね。それによって、 短時日の間に、最終章の骨格ができた。 交換という考えにいたらなければ、『トランスクリティーク』はおそらく、昔ながらの私の考えかたにもとづくものになったと思います。積極的に理念を提示することなく、ただ現状の認識・批判・ 闘争に終始するのがマルクスだ、という見方を繰り返したことでしょう。それはたんなる理論的な転換ではなかったのです。実際、その後まもなくNAMの実践を始めたわけですから。 /icons/白.icon
読み直したマルクス
マルクスの考えた交換
彼が『資本論』で「交換」を重視していたことは確かです。これは「経済学批判」という副題をもつ著作ですが、その「経済学」とはアダム・スミス以来の古典派です。スミスらは、商品の価値はそれを生産するために要した労働、そして、労働時間であると考えた。マルクスはそれを受け継いだのですが、同時に、それを批判したのです。そのとき、彼は生産だけでなく、むしろ交換を重視した。その点で、実は、スイスのワルラスが考えた新古典派経済学と共通する問題意識があるのです。ワルラスは社会主義者でしたしね。 たとえば、マルクスは『資本論』で、生産関係(資本家と労働者)から始めるかわりに、商品交換、そしてそこから生じる貨幣と商品の関係から始めています。資本主義における生産関係(資本家と賃労働者)は、実際は、資本家(貨幣)と賃労働者(労働力商品)の交換関係から生まれるものであり、そのような交換様式が産業資本主義に固有の生産関係を作りだしているのです。
マルクスの交換の限界と交換様式たち
ただマルクスが『資本論』で扱ったのは、商品交換、つまり、交換様式Cが支配的となった段階だけです。 前の社会に関しては、ほとんど論じていない。資本制以前の社会については、社会構成体の歴史を生産様式(生産力と生産関係)から見るという、おおまかな史的唯物論(唯物史観)の公式に任せていたのです。彼自身は『資本論』に専念したわけですから。 私の考えでは、資本主義以前の社会では、Cが萌芽的にあったけれども、それは異なる交換様式が支配的であった。だから、C以外の交換様式を考慮しなければならない。しかし、史的唯物論では、 前資本主義社会を「生産力と生産関係」という観点から説明しようとする。それがうまくいかないのは当然です。たとえば、氏族社会に関しては、何もいえない。たんに未開で、生産力が低いというほかないのです。 このような氏族社会の性格は、生産様式を見ていてもわかりません。この社会が今もって模範的と見えるような特性は、その交換様式にあるからです。つまり、互酬交換ですが、私はそれを交換様式Aと呼んでいます。これは原始の遊動民の時代にはなく、彼らが定住した後に生まれたものです。互酬交換は物の交換に限られない。たとえば、首長制は互酬交換にもとづくものです。首長は権力をもつけれども、その役割を果たせなかったら、辞めさせられたり殺されたりする。 さらに、交換様式Bがある。これは、支配−保護という交換です。つまり、支配する側は、被支配者を保護する義務がある。そして、被支配者は自発的に服従する。ここに国家権力の秘密があります。 国家の「力」はたんに武力によるものではなく、自発的な服従にもとづいているのです。 次に現在、人びとが普通にそう考えているような交換、つまり、商品交換があります。これ、交換様式Cです。これは萌芽としては早くからあるのですが、優位に立つのは、近代のブルジョア社会の段階です。 重要なのは、社会構成体が、このような複数の交換様式の接合としてあるということです。たとえば、ブルジョア社会ではCが支配的となりますが、AやBが消えてしまうわけではない。Bは近代国家として残り、Aは「『想像の共同体』」(ベネディクト・アンダーソン)としてのネーションとして残ります。だから、近代では、資本=ネーション=国家となるわけです。 まとめると「資本:交換様式C」「ネーション:交換様式A」「国家:交換様式B」という図式である。
交換様式Dの地平
次に、いっておくべきなのは、交換様式Dです。具体的にいえば、これは、古代に帝国が成立した時点で普遍宗教としてあらわれたものです。これは、交換様式A・B、Cの複合体に対抗して、 抑圧された原遊動性が回帰したものだといえます。マルクスは、共産主義は「氏族社会の高次」であるといいました。その言い方を借りていえば、Dは交換様式Aの高次元での回復です。したがって、それは、古代に帝国が成立した時点、つまりBが決定的に支配的となった時点で、普遍宗教としてあらわれた。それはまた、資本制経済、つまり、Cが決定的に優位になった時点で、共産主義という理念としてあらわれたわけです。 実は、交換様式Aは、BやCが強くなった時点でも残っています。たとえば、家や共同体として。それはAにもとづくとはいえ、すでに変容しています。だから、家や共同体として残っているようなAをそのまま拡張しようとするなら、BやCを超えるどころか、それらを補強することにしかなりません。たとえば、資本主義社会を中世や共同体のロマン主義的な回復によって乗り越えることはでき ない。それはファシズムになってしまうだけです。だから、Aの回復は"高次元での回復"でなければならない。交換様式Dはそのようなものです。 あらためていうと、大事なのは次の点です。交換様式DはBやCを超克するものですが、人が積極 的に、意識的に構成するようなものではない、ということです。カント的にいえば、それは構成的理念ではなく、統制的理念です。つまり、人間の願望・意志によって綿密に計画されるようなものというより、逆にそれに反して"向こうから"(強迫的に)到来するものだ、ということです。したがって、それは歴史的には最初、普遍宗教として出てきたといえます。つけ加えれば、普遍宗教は観念ではなく、広い意味で経済的な交換様式に根ざしているものです。 DはAの高次元の回帰である。私はこのようなAの「回帰」を、フロイトの「抑圧されたものの回帰」という見方によって説明できると思います。つまり、定住以前の人類がもっていた「原遊動性」 は定住以後に抑圧されたが、それが反復強迫的に回帰した、と。 しかし、一九九八年あるいはNAMの段階では、まだ「原遊動性」という観点がなかったので、見方が不十分だったと思います。とはいえ、すでにこの時点で私は、宗教的観点、あるいはそれを隠しもつような観点をとることなく、唯物論的に、共産主義あるいは未来社会の必然性をいうことができると思ったのです。それが九〇年代末に起こった、私の「態度の変更」です。
交換様式から考える自由の倫理
ただし自由というものは、カントの場合、他人の自由をふくみます。彼がいう道徳法則は、「他人を手段としてのみならず、同時に目的(自由な存在者)として扱え」というものです。だから、「自由であれ」ということが、道徳的な義務となりうるのです。それ以前、私は大体、スピノザの線で考えてい たので、積極的な態度をもてなかった。それをもてるようになったのは、「自由であれ」という義務。 命令に従うことによってのみ、自由がある、ということに気づいて以来です。 人間には自由はない、自由だと思うのはイデオロギーでしかない。確かにそうですが、それだけでは足りません。積極的なものが出てこない。「自由であれ」という命令があるからこそ、自由が生じる。
問題は、では、その命令は、どこから来るのかということです。カントはそれを、神の命令では なく、理性の奥に内在する道徳法則だと考えていました。が、そうではない。それは人間の理性に内在するものでもない。それはやはり「外から」来るのです。しかし、それを「神」という必要はない。 私は、交換様式からそのことを説明できると考えました。 ―交換様式の観点から見ると、積極的な倫理性が、宗教によらずに唯物的に裏づけられる、ということですね。
あらためていうと、理念(統整的理念)は義務としてやってくる。それはたんなる観念ではなくて、反復強迫的なものである。ヘーゲルは、理念はカントがいうのとは違って、現実的であると、いいかえれば、歴史的な現実においてあるといった。しかし、 別の意味で、カントのいう理念もリアルなのです。歴史的現実を通して迫ってくるのだから。
史的唯物論の再構築
以後、柄谷の仕事は、史的唯物論の否定から、それを生産様式の観点に立つ旧来の見方に対して、交換様式の観点から再構築する立場に立ったという。
マルクスは、『資本論』に結実する仕事を始めたとき、こういうことをいった。自分は、 史的唯物論を「導きの糸」としながら、それと違った観点から資本主義経済を解明する、と。それは、 生産ではなく、商品交換から見ることでした。私はそこから、交換様式を考えるようになった。だから、その後の私はたんに史的唯物論を否定したのではない。いわば、『資本論』を導きの糸として、 史的唯物論を再構築しようとしたのです。 史的唯物論では、歴史を経済的下部構造から見ます。そして、それが生産様式(生産関係)です。 国家、宗教、哲学などは政治的・観念的上部構造であり、経済的下部構造によって規定されるということになる。しかし、そうすると、先に述べたように、理論的に多くの困難が生じます。
そこで、観念的上部構造の相対的自律性を唱え、そのあげく、経済的下部構造を事実上無視するようになる。それに対して、私は交換様式を、経済的下部構造と見なす。その意味では、私は断固として「経済決定論」者なのです。 交換様式が経済的下部構造だとすると、観念的上部構造がそれによって規定されていることははっ きりわかります。たとえば、いわゆる未開社会を特徴づけるのは、低い生産力ではなく、交換様式A、 すなわち贈与とお返しという互酬性によって規定された社会だということです。すると、そのような社会の宗教が呪術であることは、経済的下部構造から説明できるのです。呪術とは、人が神に贈与してそのお返しを迫ることですから。 交換様式Cも同様に、最初から観念的な要素をもっています。マルクスは『資本論』の最初に、商品物神ということをいっています。それは、商品はたんなる物ではなく、そこに一種の霊が付着していうことです。それは、モースが互酬交換Aについていったように、贈与に霊が付いているということと同じです。その結果、お返しをしなければならない。商品交換Cについても、それがあてはまります。つまり、商品の価値なるものは、商品に付着した霊(フェティッシュ)であり、ゆえに、交換する「力」をもつということです。 たとえば、信用というのは、決済を後に延期することですが、これは市場経済の発展から生じたものではない。そもそも、共同体の間での交換は、信用によってのみ可能です。そして、それを可能にするのが商品物神なのです。マルクスはいう。貨幣物神の謎は、商品物神の謎の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない。さらに、資本もそうです。『資本論』では、商品物神が資本物神として、最終的に全社会を牛耳るにいたる過程が書かれているのです。 したがって、これは経済的下部構造などというものではありません。また、その上に、観念的上部構造を見いだす必要などありません。資本主義経済そのものがすでに観念的上部構造なのですから。そして、そのことを理解するためには、経済的下部構造を生産様式ではなく、交換様式において見る必要があるのです。実際、生産様式は交換様式に規定されています。たとえば、資本家と労働者という生産関係は、労働力商品の売買、つまり、交換様式Cにもとづいて形成されたものです。Cが浸透しなければ、それは成立しない。 [[]]
マルクスは『資本論』序文で、自分は「ヘーゲルの弟子」であると名乗り、ただ、ヘーゲルにおいて観念論的に逆立ちしているので、それを逆転する、と書いています。それはどういう意味なのか。 実は、これは誤解されやすい発言です。というのは、マルクスは若いときから、ヘーゲルの観念論を唯物論的に転倒することをやってきたからです。たとえば、初期には、『ヘーゲル法哲学批判序説』 や『経済学哲学草稿』(一八四四年)などで、ヘーゲルの観念論的な構えを批判した。しかし、それは 根本的にフォイエルバッハに負うものであり、この唯物論にはヘーゲルの弁証法が欠けていました。 次に、『ドイツ・イデオロギー』で示された史的唯物論も同様です。それはへーゲルの観念論的な歴史(そこでは理念あるいは精神が自らを実現する過程として歴史が把握される)に対して、人間の自然および人間との関係にもとづく歴史、そして、生産関係から生じる階級闘争の産物として歴史を見る観点でした。しかし、これらの「転倒」は、唯物論的に見えるけれども、ヘーゲルの目的論的視点を暗黙に前提しています。また、この見方はエンゲルスの主導によるものであって、経済学に向かった時点では、マルクスにとって「導きの糸」として役立つ以上のものではなかったのです。 一方、『資本論』におけるマルクスのヘーゲル批判は、それまでと違っており、また彼独自のものです。そこでは、マルクスはヘーゲルを転倒するというより、むしろ忠実にヘーゲルに従ったので す。つまり、ヘーゲルにおいて、精神が自然的な形態から絶対精神に発展するように、『資本論』では、商品物神が資本物神に発展するところで終わる。そして、マルクスは、ヘーゲルの『論理学』に合わせて、『資本論』の叙述を構成した。 では、どこがヘーゲルの「転倒」なのか。ただ、ヘーゲルがいう精神が物神になっているところです。つまり、ヘーゲルが絶対精神と呼ぶような段階は、資本主義経済が完成した段階でしかない、ということになる。 マルクスは、資本家の起源に、守銭奴(貨幣蓄蔵者)を見いだします。守銭奴が欲望するのは、物(使用価値)そのものではなく、交換価値、いいかえれば、いつでも使用価値を得る権限(力)なのです。守銭奴が禁欲的に貯め込むのに対して、商人は貨幣で何かを買いそれを売ってより多くの貨幣を得ようとする。マルクスの言葉でいえば、資本家は合理的な守銭奴であり、守銭奴は気の狂った資本家で ある。すなわち、資本の欲動は、根本的に倒錯的なのです。 したがって、資本そのものが観念的な世界です。それは「信用」にもとづくものであり、そうであるがゆえに「恐慌」も生じるのです。
こうして、経済的下部構造=交換様式という観点をとると、これまで、観念的上部構造とされてきた国家、宗教、ネーションなどを、下部構造からとらえることが できます。
交換様式Dの精微化
Dが普遍宗教としてあらわれたとはどういうことか、下記のように述べる。
普遍宗教は、呪術などの原始的宗教とは異なるといわれます。では、どう違うのか。いろいろいわれていますが、それは何よりも交換様式から見ると明らかになります。呪術は、神に贈与して、そのお返しを強いることです。つまり、交換様式Aです。普遍宗教はそのような宗教とは違います。しかし、やはり交換様式に根ざしています。それが交換様式Dです。普遍宗教は交換様式Dである。というより、交換様式Dは、普遍宗教としてあらわれたのです。
それは、交換様式BとCが十分に発展した古代の世界帝国において、初めて出現しました。その場合、 それは人間の願望や計画ではなく、神の意志であるとして到来した。もしそれが人間の祈願によるのであれば、それは呪術(神強制)と同じものになります。今日「世界宗教」といわれる宗教も、事実上、祈願=神強制にもとづいています。あるいは、人間が考え作った制度を神の考えとして強制する。 私が普遍宗教と呼ぶのは、そのような考えを拒否することです。いいかえれば、普遍宗教は、AやB やCを斥けるDとしてあらわれた、ということです。
とはいえ、普遍宗教も、出現して拡大すると、まもなくBやAが混在するかたちをとります。たとえば、キリスト教はローマ帝国の国教になってしまった。しかし、その根底にあるDが消えてしまうことはなかったのです。それがのちに、千年王国運動や異端の運動としてあらわれた。一九世紀前半でも、ヨーロッパの社会主義運動はほとんどすべて、千年王国のような宗教的な社会運動の伝統に根ざしていました。 最初にそれと手を切ろうとしたのがプルードンです。「科学的社会主義」ということを最初にいったのは、彼です。そして、「経済学」に基盤を求めた。マルクスはそれを受け継いだわけです。彼らは社会主義が宗教的な基盤をもっていることを熟知していたので、あえてそれから離れようとした。 そこで、「経済学」、つまり、現在の資本主義の中に社会主義の根拠を求めたのです。しかし、実践的には、そうはいきません。社会主義はたんなる合理的な社会設計だけではありえない。宗教的と見なされるような動因を必要とするのです。 マルクス主義の運動も事実上、宗教的でした。マルクス主義の理論では、最初に原始共産社会があり、それが階級社会に転落し、資本主義の後に、共産主義社会が到来することになっています。実は、これは聖書のエデンの園、失楽園、楽園回帰という神話(物語)と同形です。だから、マルクス主義者はそれをいわないようにしている。そのかわりに、歴史を生産力の発展と生産関係の変化から説明しようとする。実際には、人を動かすのは宗教的な原理あるいは終末論なのですが、だからこそ、あえて宗教的なものを否定し、経済的な観点をとろうとしてきたのです。
しかし、これを交換様式Dとして見ると、困難は解消されます。なぜなら、Dはあくまで経済的なもの(交換)であり、宗教ないし上部構造ではないからです。DはAの高次元での回復である。その場合、先にいったように、この回帰は、人間主体の意志や願望によって生じるのではない。つまりAが回帰するのは、それを人が望むからではない。この回帰は、フロイトが強泊神経症に関して、「抑圧されたものの回帰」と述べたものと同じです。抑圧されたものが回帰するとき、それは必ず、強迫的なかたちで到来するのです。〜交換様式D〜それはAの高次元での回復ですが、Aと同様に、人間が意志的に作るものない。いわば神の意志として生じる。また、それはただの過去の回復ではなく、未来というかたちをとります。このように、交換様式Dという見方をとれば、宗教的な的な神をもってくることも、理性に内在する道徳法則(カント)をもってくることも不要となります。交換様式という見方が大事なのは、それが資本や国家を解明するということだけではないのです。むしろ、それらを 揚棄する道を、たんなる「理念」としてではなく、示しうるということです。
交換様式が社会構成体を規定する:そしてNAMへ
歴史的に見て、どんな社会構成体もそれぞれ、交換様式A・B・Cが接合されたものです。ただ、どの交換様式がドミナントであるかによって、違うものになる。たとえば、前近代の社会(旧帝国あるいは封建国家)では、交換様式Bが支配的です。AもCもあるが、それらは根本的にBにある。一方、近代の社会構成体では、Cが支配的です。BもAも残りますが、Cの下に変形される。たとえば、Bは近代主権国家となり、Aは想像の共同体、つまりネーションとなる。ですから近代の社会構成体は、三つの交換様式の接合体である、ゆえに、資本=ネーション=国家となるわけ です。
これは次のように機能します。資本主義経済は、不可避的に貧富の格差、階級的分解をもたらす。しかし、それは、人民の平等を要求するネーションを通し、国家による課税=再分配を通して、解消される。いいかえれば、資本主義を揚棄する革命は起こらない。大騒ぎはあるとしても、もう「革命」はない。資本=ネーション=国家がまだ成立しないところでは革命があるだろうが、いったんそれができあがったら、もはや革命はない。
フクヤマの「歴史の終焉」論にはいろんな批判がありましたが、私はその考えは、ある意味で正しいと思います。なぜなら、今日資本主義の批判者がいうのは、せいぜい国家による規制、 課税=再分配によって、資本主義を是正する社会民主主義でしかないからです。だが、そのような考えこそ「資本=ネーション=国家」の復元作用にもとづくものです。現在でも、ベーシック・インカムなどの福祉政策によって、国民経済を再建しようという理屈を唱える人たちがいます。 しかし、それは資本制経済を揚棄することではありません。したがって、革命ではない。その意味では、歴史は終わったといえます。むろん、終わってはいない。しかし、もし「歴史の終焉」を否定するのであれば、「資本=ネーション=国家」を超えることを目指さねばならないはずです。あらた めて、ケインズ主義、福祉国家などを唱えるのは、不毛の極みです。もう資本主義にそのような余裕はないのです。そこで、私が考えたのが「NAMの原理」です。 /icons/白.icon
神の国へ
そして続けて神の国と地の国の境界について述べる。
アウグスティヌスの指摘で大事なのは、神の国が地の国とともに、あるいは混じり合って、存在する、ということです。神の国は地の国に従属することもなければ、依存することもない。とはいえ、地の国が拡大されて全体が神の国になるというわけではない。全世界が神の国となることは、人間の意志によってではなく、神の意志による「終末」によって実現される、ということになっています。この場合、神による終末がいずれ来るから、今、人が神の国を各地に作ろうとすることは無駄ではないか、という考えがあるかもしれませんが、そうではない。人が「神の国」を作ろうとするからこそ、神から助けが来るのです。同様のことが「超出的運動」についてあてはまると思います。先ほど、協同組合と株式会社の相似性についていいましたが、それも神の国と地の国に対応していますね。つまり、両方が同時に混ざりあって存在するのです。そして、株式会社を協同組合に変えるのは、実は簡単です。社員が一人一票の資格で、社長を選ぶようにすればいいだけですから。もちろん、「地の国」の法の下では、それはない。多数株主が経営権を握り、利潤獲得を至上とする。しかし、それを「神の国」に変えるのは、案外簡単なことだということを知っておいてもらいたい。もちろん、それが全面的に成就されるのは、資本主義の「終末」のときになるでしょうが。
協同組合では、労働力商品が廃棄されます。労働者自身が経営するのだから。ゆえに、協同組合には資本主義を超える可能性はあります。それは国有化とはまったく異なるものです。協同組合は共同所有であり、私有の否定ですが、国有化は私有財産の原理にもとづいているからです。たとえば、リーマン・ショック(2008年世界的金融危機)で倒産した大企業が一時事実上国有化されたことを想起して下さい。超出的な運動とは、資本制経済の下で、非資本主義的な経済圏を作ることです。それが広がって、資本主義を圧倒するようになるかというと、それはない。しかし、それでもなお、超出的な運動は必要です。たとえば、世界経済が破綻したとき、以前にも起こったことですが、物資不足、食糧危機になって困窮することがあります。しかし、資本制市場経済とは別の「市場」があるなら、何とかやっていける。 来たるディストピア
とはいっても、超出的な運動は、たんにセーフティ・ネットのためにおこなうわけではありません。それは、資本主義的な市場経済の中にいながら、その中にないような感覚を喚起するのです。つまりそれは、Dあるいは「神の国」を感受させる。そのような感覚がないと、「社会主義」といっても、国家主義のようなものにしかなりません。すでに一九七〇年代に、世界資本主義は一般的利潤率の低下によって危機に陥った。そのため、グローバルに市場を広げ、非資本主義的であった経済を巻き込むことによって、危機から遁れようとしました。それが新自由主義的政策であり、九〇年代ソ連崩壊後に、それがグローバライズされたわけです。しかし、それによる経済成長はまもなく終わります。再び、一般的利潤率の低下に陥るに決まっている。すなわち、世界資本主義は早晩資本の増殖ができなくなって「終末」を迎えます。しかし、その結果、社会主義になるわけではない。交換様式Cがその限界に達したとき、社会はDではなく、Bに向かうでしょう。つまり、戦争、暴力的支配、侵略に。だから、それに対抗できるようにしておかないといけない。繰り返すと、その鍵は、非資本主義的な経済圏を確保しておくことにあります。 NAMのアナーキー性
私は一九六〇年代の初めに政治運動に参加して以来「党」を目指すようなマルクス主義者の運動が嫌だったし、かといって、マルクスを斥けるようなタイプの美的アナーキストも嫌でした。そのどちらでもないようなものを考えていた。いいかえると、マルクス主義とアナーキズムを綜合するようなことを考えていました。実は、私の著書『トランスクリティーク』は、そのような試みだったのです。だから、フレドリック・ジェイムソンが『トランスクリティーク』英語版(二〇〇三年)の帯に「マルクスとカントの綜合であるとともに、マルクス主義とアナーキズムの綜合である」と書いてくれたのは、我が意を得たり、という感じでしたね。 双方のアポリア
マルクス主義の場合、先ず国家によって資本主義を抑える、そうすれば自然に国家が死滅すると考える。しかし、そうはなりません。国家が強大化することになる。一方、アナーキズムは国家権力に対しては敏感ですが、資本主義経済への認識が欠けているので、それに対抗できない。アナーキストにも、ロシアのクロポトキンのように共産主義を掲げた人がいました。無政府共産主義ですね。むろん、これはボルシェビズムに負けてしまったのですが。資本への対抗運動は、ふつう国家による規制ということになります。しかし、資本への対抗運動が同時に国家への対抗であるようなことがいかにして可能か。それは理論的にはアポリア(難問)です。
私が「NAM原理」に関して考えたのは、このアポリアです。これらについてはあとで説明しますが、私はその手がかりを、アソシエーションに見いだしたのです。アソシエーショニズムというと、通常、アナーキスト的なものです。しかし、マルクスも実に頻繁にアソシエーションに言及しています。だから、マルクス主義者もアソシエーションと無縁ではないです。〜たとえば、マルクスは、労働者が自発的に協働する場合、そのような協働をアソシエーションと呼び、資本家が労働者を雇って協働させる場合を、コンビネーション(結合)と呼んでいます。『資本論』でも、マルクスは、アソシエーション、すなわち、生産−消費協同組合について多く言及しています。彼は共産主義を協同組合の延長上に見たのであって、それは国有化とは無縁です。国有化経済において、労働力商品は廃棄されない。労働者は国家公務員になるだけです。つまり、資本も国家も残ります。一般に、マルクス主義者は集権的組織を志向し、アナーキストは集権的な組織を否定する。
しかし、実際の運動において見ると、そう簡単ではありません。そもそも中央集権的な運動は成り立たない。運動が盛り上がるときというのは、実はきわめてアナーキーな状態なのです。それはアナーキストが主導しているからではありません。それが運動の現実なのです。アソシエーションは、マルクス主義とアナーキズムという長年の問題を綜合できるものだと私は思います。実は、私はそれに関して、カントからヒントを得たのです。ヒュームは、自己同一性はないといいました。先に述べたように、"自己"は自由連想の束のようなもので、たえず変動し、とりとめもないものになります。それに対して、カントは、そのようなものを統合するものがあると考えた。それが「統覚」ですね。それによって,自己が成立する。むろん、この自己は(超越論的)仮象なのですが。 〜私がそれをNAMと呼んだ理由は、むしろ先にNAMという名称を考えたからかもしれませんね。NAMは「南無(任せる、帰依)」に通じますし、語感がいいと思った。〜ただ、私がNAMを考えたのは、アソシエーションが望ましいというより、むしろ、もうそうするほかない状況になったと思ったからですね。それについて説明します。一九九〇年代には、中間勢力(労働組合、自治会、政党)などが弱体化してしまった。それまでは、そのような集団は、同時に個々人を拘束するものでした。だから一九八〇年代までは、そのような共同体から出て、個人(単独者)として闘うというような考えが有効であったし、必要でもあったでしょう。また、会社は永久雇用がふつうでしたから、転職や脱サラを称賛する雰囲気がありました。しかし、九〇年代には、むしろ契約社員・派遣社員が増加した。これは自由・独立を意味しません。逆に、資本への無抵抗な従属となった。労働組合は事実上無くなった。新自由主義の下で「中産階級」が消滅したといわれます。九〇年代初期の日本人は九割が中産階級に属するという意識をもっていたのに、少数のリッチと多数のプアに分解してしまった。このことは資本に抵抗してきた「中間勢力」が消滅したこととつながっています。こうして、古い共同体はいうまでもなく、企業、組合、その他にあった共同体的な組織が骨抜きにされて、その中の個人は相互に孤立してしまった。その場合、個人が無力となる。個人がしっかりと存在するためには、他の個人とつながることが必要です。それがアソシエーションですね。アトム化した個人では何もできません。労働運動だけでなく、市民運動もできない。 FA宣言についてのインタビュー
それは日本のプロ野球で流行っていたFA(フリー・エージェント)宣言という言葉と、ヒュームのいう自由連想(フリー・アソシエーション)を引っかけたものです。たとえば、ヒュームは、「自己」は存在しない、自由連想の束しかないといったのですが、カントは、自己は超越論的統覚としてあるといった。NAMはそのような「統覚」である、と私は考えていましたが、現実に、それが硬直したものになってしまうなら、自由連想に戻ってやりなおすべきだと考えたわけです。個々のアソシエーションに戻れ、ということです。 ただ、このFA宣言において私がいいたかったのは、むしろ、次のようなことです。NAMは解散する、それによって、NAMは固有名詞ではなく、一般名詞になるということです。それは「新しいアソシエーショニストの運動」といら意味ですから、そもそも一般名記です。そのようにいったとき、実は、私は『共産党宣言』のことを念頭に置いていました。これは、マルクスとエンゲルスが一八四七年に結成された共産主義者同盟の綱領として大急ぎで書いたものです。実は、「共産党」は存在していなかったのです。しかも、彼らはそれを創ろうとしたわけでもない。十九世紀ヨーロッパに共産党という政党は存在しなかった。共産党が生まれたのはロシア革命以後です。また、「党」はレーニン主義的な前衛党を意味するようになった。マルクス・エンゲルスのいう「共産党」(共産主義者同盟)は、そういうものとは異質です。それはいわば「新しいアソシエーショニスト運動」であった。 『NAM原理』に関しても、同様のことがいえます。NAMはその解散後には、一組織から、New Associationist Manifest(ニュー・アソシエーショニスト宣言)という意味になったのです。といっても、『NAM原理』の中で修正すべき点があるかといえば、あまりありません。〜NAM的運動が目指すのは、「アソシエーションのアソシエーション」です。そのベースは小さいローカルなアソシエーションです。それは地域、関心、階層などによって形成されます。そこでは、成員の間に直接的コミュニケーションがあることが必要です。これらのアソシエーションが「アソシエーションのアソシエーション」を形成する。後者は、各アソシエーションの代表者たちの協議によって運営される。おわかりのように、これは「FA宣言」を理論化したものです。 インターネットは、アソシエーションを生み出さない
アソシエーションは原理的に、人びとが直接に出会い共食する−これは人類学の用語で、一緒に食事する、という意味です−というような感性的なスペースにもとづいているからです。インターネットは連絡手段として役立ちますが、それがアソシエーションを作り出すことは決してない、もし人が実際に出会うのでなければ。よくSNSによって、人びとのネットワークができるといわれていますが、これが生み出すのはアソシエーションではなく、その逆です。つまり排外主義、ポピュリズム、怨恨・憎悪による連帯のスペースです。それは、交換Cがもたらす空間であり、また交換Bが作り出す擬似的な共同体です。したがって、資本と国家を揚棄しようとするアソシエーションの運動にとって、障害となるものです。
デモこそがアセンブリ(議会)である
なぜ日本では、デモをしないのか。そのとき、私は、かつて和辻哲郎や丸山眞男が指摘していた問題に気づきました。ヨーロッパでは都市の市民社会は、さまざまなギルドが集まってできたものです。孤立した個人が集まったものではない。つまり、中世以来、都市は、アソシエーションのアソシエーションとして生まれたのです。日本でも、一六世紀の堺がそうでした。その伝統は、徳川時代の大阪に多少残ったが、江戸にはありません。したがって、明治以後の東京にもなかった。日本には市民社会がない。それはアソシエーションの伝統がないということです。したがって、デモをやるのは、労働組合や学生組織だけだということになる。 英語でいうと、デモを表す言い方はいろいろありますが、正式にはassemblyです。それは日本語で、集会と訳されています。日本の憲法には「集会、結社、及び言論、出版その他一切の表現の自由」とあるけど〜デモはassemblyであり、「集会の自由」が「デモの自由」を意味している。ちなみに、「結社の自由」とは「アソシエーションの自由」です。
ところが、議会もassemblyです。だから議会とデモは類縁的です。たとえばルソーが「権力は民衆のアセンブリを嫌う」と書いたとき、議会と集会・デモの区別がありません。歴史的には絶対王政に対するassembly(集会・デモ)がだんだん強くなってassembly(議会)として認められたのであって、議会の起源はデモにあるのです。 私は、デモは社交だといったことがあります。実際、一人でデモに行くのは難しいし、億劫です。誰か知り合いと一緒に、ということになります。で、終わったら飲みに行く。ドイツ人の学生から聞いた話では、終わってから酒を飲みに行くのは普通ですが、問題は酒を飲んでからデモに来る連中が多いことだ(笑)という。アソシエーションとは、いうならば、こういう「社交」です。
かつてデモがあったのは、労働組合があったからです。今はない。デモを行うには、アソシエーションが必要です。大きなデモは、大きな組織や政党が作るものではない。大きなデモは、多くのアソシエーションが集まったときに成立する。つまり、それは「アソシエーションのアソシエーション」です。
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交換様式Dは「向こうからやってくる」
Dは、われわれが意識的に計画したりして、実現できるものではない。われわれにできるのは、交換様式Aを意識的にひろげること〜これは一九世紀のオーウェンやプルードンのようなユートピアンがやろうとしたことです。もちろん、それは小規模なもので、国家に対抗できるものではありません。しかし、たとえば、生活クラブ生協のような交換様式Aに立脚できる組織がたくさんありますから、意識的に、それらを選ぶことができるわけです。〜「国連システム」も、主としてかかわるのは、交換様式Aにもとづく社会ですね。〜一方、交換様式Dは、われわれが選んだり計画したりすることができるようなものではありません。それは、いわば「向こうからやってくる」ものです。そして、それが到来する時、国家と資本、つまり、 BとCの霊たちは消滅することになる。いつそうなるかはわかりません。しかし、必ずそうなるだろうと思う。〜無理にやろうとしてもできないけれど、無理やりやってきたことが破綻した後に、自然に姿を現すのだ、と.....。 そして出来するものを下記とする。
「新しい資本主義」は、むしろ「新しい国家主義」ですね。資本は交換様式Cで、国家は交換様式Bですが、いずれも交換からくる観念的な力にもとづいている。マルクスがいう「物神」、ホッブズがいう「怪獣」です。それらが人間の頭に深く入っている。だからそう意図したからといって取り去ることはできない。しかし、他のところから別の観念が到来すれば、違ってくる。それが交換様式Dです。 ウェーバー・デュルケーム・フロイト、そしてフーコー
力の研究の重要性と困難
〜続いて、「Dの研究」という論文を書いた。それは一言でいえば、普遍宗教、あるいは「神の力」に関する考察です。それを交換様式Dから見るものです。たた、それを書いている間に、「力」をDだけでなく、他の交換様式A・B ・Cについても、もっと考えなければいけない、と思ったのです。そこで、「力と交換様式」と題して論文を書き始めました。この「力」については、これから説明していきますが、簡単にいうと、感覚的・物理的な力ではなく、人を強いるような観念的な力です。それは交換から来るものであり、どの交換から来るかによって、力も違ってきます。 交換において働いている力を見極めるにあたって、困難が二つあります。第一に、交換様式は、経験的に見出されるようなものではない。むしろそれは観念的な力が発現したときに、そこから推測されるような何かです。それはフロイトなら「無意識」と呼ぶようなものです。〜第二の困難は、交換様式が単独で存在することはめったにないということです。それらは複数共存し、競争したり相互に支えあったりします。〜そこから交換様式を読み取るのは容易ではありません。
私が交換様式という言葉を考えたのは、一九九〇年代後半、史的唯物論に関して、根本的に考え直そうとしたときです。これまで、オーッドックスなマルクス主義(史的唯物論)では、社会構成体の歴史は、建築的なメタファーにもとづいて、こう考えられていました。それは、観念的・政治的な上部構造と経済的台(ベース)または下部構造からなっており、上部構造は下部構造によって規定される、というものです。 〜このような史的唯物論の規定の中に、すでに「力」という言葉が出ています。生産力がそうです。生産力は科学技術をふくめて多様なものですが、物質的な力といっていいでし ょう。一方、上部構造は政治的・イデオロギー的なものです。いわば、観念的な力です。 そして、史的唯物論とは、観念的な力は物質的な力によって規定されるという唯物論です。 したがって、国家・宗教・芸術などの「上部構造」は、経済的下部構造に規定されることになる。 しかし、このような見方は「経済的決定論」として、さまざまな批判にさらされてきました。 「国家・宗教・芸術」が「経済的下部構造に影響を及ぼすこと」を最初に指摘した人物としてウェーバーを挙げる。 彼は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、近世西洋における宗教改革が「資本主義の精神」をもたらしたことを指摘しました。つまり、宗教的観念が産業資本主義を始動させたということは、政治的・観念上部構造が下部構造から自律しており、且つむしろ下部構造を変える 「力」を持つことを意味します。 むろん、ヴェーバーは、そのような宗教改革がそれ自体、経済的下部構造によって規定されていたことを否定したわけではありません。たとえば、生産力でいえば、グーテンベルクによる印刷革命がなければ、ルターが翻訳したドィッ語聖書が普及することはありえなかったでしょう。生産関係でいえば、独立自営農民の出現が大きかった。彼らの中から、 産業資本家と産業労働者の両方が出てきたのです。そして、彼らがプロテスタンティズムを支えた、といえます。したがって、ヴェーバーはむしろ、政治的・観念的上部構造と経済的下部構造の相互規定性を主張したといったほうがいいでしょう。 他方で、エミール・デュルケームは、経済的下部構造に還元されないような上部構造がもつ力を「社会」に見いだしたといえます。彼はそれを「社会的事実」あるいは「集合表象」と呼びました。それは、個人の意識・心理を越えたものであり、また、それらの総和以上のものです。たとえば、デュルケームは、神と呼ばれているものは、実は社会であるという。つまり、彼は神のように働く「力」を、ヴェーバーのように宗教を持ち出すことなく、説明しようとしたといってよいでしょう。 「力」として強迫的に出来する無意識概念を考えた人物として、フロイトを挙げる。
つぎに挙げておきたい例は、ジーグムント・フロイトです。デュルケームと同様に、彼も力を「社会」に見いだした、といえます。ただし、その社会は、個人が意識するような外在的対象ではありません。いわばフロイトは社会を「無意識」と呼んだのです。無意識について考えた者は、彼の前にも後にもいます。しかし、彼の場合、無意識とは強迫的な力にかかわるもので、社会と切り離せない。 最後に国家独自の「力」の理論を提唱したフーコーを挙げる。 文学という妖怪
今世紀に入って、韓国社会は全面的に資本主義経済に浸透されたように見えます。しかし、それと同時に、全面的に文官支配の社会になったように見えるのです。いわば誰もが科挙を目指すような社会に。つまり、交換様式で言えば、CとBの下で、Aが逼塞してしまったように見えます。その意味で、文学が終わった、という感じがする。もちろん、程度の差はあっても、日本においても基本的に同じです。たぶん、世界的にどこでも同じ状態になりつつある。しかし、それによって文学は消滅する、と私は思いません。 Aは別の形で強迫的に回帰してくる、すなわち、Dとして。昨日の「近代文学の終わり」を巡る会議で、イギリスの批評家、アンドリュー・ギブソン教授はこういいました。文学は死んでも、終わらない、それは妖怪のように付きまとう(haunt)、と。私も、文学は必ず何らかのかたちで回帰してくる、と思います。「全世界に妖怪が徘徊している、文学という妖怪が」というべき事態が来る、と。