デュルケーム
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社会進化論的潮流に従って探求した、社会の連帯組織もしくは統合原理に関する一種の発展段階説(引用) /icons/白.icon
伝統が行動を規定する社会の基底となっている所では、集合意識が個人意識を「完全に包摂」しているので、諸個人間の同一性が想定できる。このような社会は究極を言えば各人の個性がゼロ(機械的)で、同じ部位が連結した環形動物を連想させるため[環節型社会だと名付けている。(ゲマインシャフト) ある行為は、それが集合意識の強力かつ明確な状態を犯すとき犯罪的である
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近代社会
自由な個人として相違・多様性が前提であり、それ即ち分業の発展が新たな連帯になる。それは自立化と並列に密接な相互依存関係となり有機的安定状態を獲得する 諸信念の共同性から生ずる社会(※伝統社会)と、協働を基礎とする社会(※近代社会)とを対置し、前者をもっぱら道徳的特徴だけを持つものと認め、後者を経済的集合体としてだけみる考え方は、誤っている。現実に、協働もまた自らの内在的道徳性をもっているのだ(引用) ある行為は、犯罪的であるから共同意識を傷つけるのではなく、それが共同意識をそこなうから犯罪的だといわなければならない。われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである
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分業をできるかぎり推進することが望ましいというのではなく、必要な限りこれを推進するのが望ましいということ(『自殺論』にて均衡が大事という主張に同じく) /icons/白.icon
道徳が経験の到達しえない何らかの超越的目的をもつことはありうるであろう。この目的に専心することは、形而上学者の仕事である。だが、何よりもまず確実なことは、道徳が歴史において、そして歴史的諸原因の支配下に発展してい るということであり、また道徳がわれわれの現世的生活において一つの機能をもっているということである。道徳が時代によって異なっているのは、或る時代の人間の生活条件が他の道徳をもつことを許さないからである。
社会的事実とは...行動、思考および感覚の諸様式から成っていて、個人にたいしては外在し、かつ個人のうえにいやおうなく影響を課することのできる一種の強制力をもっている。したがって、それらの事実は、表象および行為から成っているという理由からして有機体現象とは混同されえないし、もっぱら個人意識の内部に、また個人意識によって存在している心理的現象とも混同されえない (ex)言語や法のような外在性と拘束性を併せ持つもの
社会的事実は心理学に囚われるべきでなく社会学的に観察すべきである
ソシュールは言語がこの「社会的事実」にほかならないと晩年の講義で語る /icons/白.icon
分類
正常的社会的事実:ある社会に普遍的に見出され、かつその社会に対して構成的な機能を営む現象であるもの 病理的社会的事実:一方「病理的」とは、ある社会にとって例外的、またはその社会の存続にとって危険な現象を指す /icons/白.icon
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昼間に自殺が起こりやすいのは~社会生活が最も激しさをしめすときだから。〜この不安は経済的貧困の増大の証人ではなく、むしろ憂慮すべき道徳的貧困の証人である。 /icons/白.icon
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原因:神父や協会によるトップダウン/各々が解釈するボトムアップ
軍人や武士道
集団としてのありようが規定され過ぎているが故に、命が軽くなり集団本位的自殺に陥る 既婚男子・未婚男子の場合
法治が厳格な国の場合、際限ない欲望が抑制されるため自殺率は減る。反対に規制が希薄な場合、欲望から苦悩へと連鎖しアノミー的自殺に繋がる 既婚女子・未婚女子の場合(男子と逆の結果である、それはなぜか)
結婚生活そのものも、彼女たちには益のあるものではない
男尊女卑が浸透したヨーロッパにて結婚は義務感であり、そこに更に厳格な国の規制が入るとそれらの圧迫感が加速し宿命的自殺に繋がる /icons/白.icon
実践的な手法の検討
この病弊を克服するために地域集団にかつてのような自治のある要素を回復させてはどうかという提案がときどきなされている。(地方分権化)ただこれは社会的諸力のいっそう強力な集中化を促す者でない限り、本当に有効なものとなることはできない。 社会のそれぞれの部分を国家に結びつけている絆を弛緩させることなく、国家の発揮しえなかった作用を多数の個人の上に及ぼすような道徳的権力を創造しなければならない。〜国家の統一を破壊せずに共同生活の中心を多元化していくことのできる唯一の分権化の方法は職業的分権化。~具体的には選挙区を地域的区分でなく、同業組合的区分とする。 アンシャン=レジーム下の同業組合の歴史が悪評として憑いている。~それらが地域的なものでなく、類似した組合が結合し一つの組織として国家に従属する形でたえず連帯感を維持していれば慣習の壟断や職業上のエゴイズムはきっと妥当な限界の中にとどめられたであろう。~国家は、それぞれの組合の個別主義に対し普遍的効用性の感覚と有機的な均衡の必要性とを相互補完する。 /icons/白.icon
社会彫刻論
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概要
オーストラリアのトーテミズム信仰関するデータから宗教の本質と、宗教の起源及び機能を論じ「現在知られているうちでもっとも原始的で単純な宗教」について考察し、「われわれの思想や行動に影響を及ぼしうる現前の人間」を明らかにすることで、「人間の宗教的性質」、「人間の本質的かつ恒久的な部分」、すなわち、原初的=基本的な人間の在り方を知る。そこで浮かび上がった人間から、相応しい道徳的秩序を演繹しようという試み。
スミスからトーテミズム、クーランジュから宗教の統合機能と聖なるものへの関心が踏襲されている。
古代宗教において教義や信条よりも儀礼や宗教的制度が中心的役割を担っており動物の犠牲と共餐によって神と人間が結ばれ、同時に共同体の連帯が強化されるというもの
フェステル・ド・クーランジュ
古代ギリシャとやローマのポリスが基本的に宗教的共同体をなしており、祖先崇拝にによって家族の統合が、 守護神崇拝によってポリスの統合がそれぞれなされていたというもの
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世界の諸事物の分類としての聖/俗
日本でいう「ハレ」と「ケ」やな
オーストラリアの未開社会では、氏族の成員達が分散して日常的な経済活動を営む時期(世俗的生活)と、一所に集合して宗教的活動(祭儀)を営む時期(宗教的生活)とが交互している。
宗教的観念が生まれるのは個人意識が高揚して集合意識へと超克し吸収され狂愚の状態にまで成員達を興奮させる後者においてである。祭儀での集合的な沸騰的興奮状態から生ずる巨大な力が成員達にも分有され日常の俗なる世界から分離された異質な聖なる世界を彼等に経験させる。これが集合的沸騰 これが天啓や超自然的な神秘体験のメカニズムなんだろうな
それは諸個人意識より合成されたものではあるが、一度集合意識となったものには、別の性質が付与され別の基体をもち、かえって個人意識に拘束を加える。(引用) 儀礼や礼拝は宗教生活を組織し、その運用を規定する
具体的には祝祭時(集合的沸騰)における聖俗の融合の様式と俗なる期間における聖俗の分離の規定である 消極的儀礼とは...聖域と俗域との間の線引きをするためのものであり、聖域にあたる宗教的祭儀に参加する際の条件として、事前及び世俗的生活に行なわれなければならない行為。 禁忌や準備儀礼など
積極的儀礼とは...宗教的祭儀において神を体感するために行なわれるもので、集合意識に包まれ集合的沸騰の状態を経験することによって、道徳的リフレ ッシュを得るために行なわれる行為。 喪などに代表される贖罪的儀礼や祝祭における行動様式の規定など https://scrapbox.io/files/64945f0a093592001b35ee6c.png
勿論上記はグラデーションである
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教育の比較論的当為論(ディプロマ・ポリシー的な)
教育の定義
生を享けた子どもは,その個人的性質しか身につけていないのである。社会はそれゆえ再び新しく構成しなければならないものとしてほとんど白紙に対するものと同じ態度で各新世代に対するものである。もっとも迅速な方法によって社会は誕生したばかりの利己的、非社会的存在に道徳的かつ社会的生活を営みうるような他の存在を添加しなければならないのである。ここにこそ教育の課題が存するのである。
生を賜れば、社会的相互作用によって成り立つ集団の共同生活にて一員としての生活様式を身につける。つまり社会化。 これを意図的、計画的にやる「方法的社会化」が教育の本質である。 /icons/白.icon
教育の意義
これらの定義はあらゆる人間にとって価値のある、理想的かつ完全な教育が存在するという仮定のもとであり、この普遍的でユニークな教育を定義することに努めていると皮肉る。
いずれの社会にも、それに相応しい固有の人間の理想像が存在していて、それらに近づけることが教育の役割。
カント的に言えばイデオロギーに対し分析判断な教育。だが演繹は多様な思想が制限される気もする。し、イデアに近づくための再記述は大事である。とするとアプリオリな総合判断的な教育が大事なのでは。 /icons/白.icon
教育の設計(カリキュラム・ポリシー的な)
教育は社会的事実のため外在的で拘束的である故、社会には私たちが否が応でも適合し、従わなければならない教育上の慣習が存在する。 つまり同質性を育む、共時的教育を施さなければならない 教育は、個人的関心とか利益をもって唯一もしくは主要な目的としているのではまったくなくて、それは何よりもまず、社会が固有の存在条件を不断に更新し再生産するための手段なのである。
その共時的教育の中で恣意的な行為に規律をおよぼし、社会のなかに連帯的秩序をもたらすものとして道徳の価値が見出されるということ 近代社会における共通価値は人格の相互承認であり、また、個人は社会的連帯に参加することによってはじめて個としての自律性をたもちうる。 /icons/白.icon
子供が社会に愛着しうるためには、個人を支配すると同時に、個人が自己のもっとも良きものをそれに負うているところの、強力な生きた実在を社会の内に感じとらねばならない
これが歴史的教育である