ミル
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第一章
冒頭
まず本書は自由意志を述べるわけではないことを示す。
本書のテーマは、いわゆる意志の自由ではない。本書で論じるのは、誤解されやすい哲学用語でいう必然にたいしての意志の自由ではなく、市民的な自由、社会的な自由についてである。逆にいえば、個人にたいして社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界を論じたい。
そこでまず「世襲或いは征服に由来する」支配者(権力)と被支配者(自由)の非対称的な関係の生成メカニズムを下記のように描く。(ちなみにここでの自由をミルは「政治的支配者の専制から身を守ること」とした。)
社会の弱者たちが無数のハゲタカの餌食になるのを防ぐには、並はずれて獰猛な一羽のハゲタカが、ほかのハゲタカたちを抑えつけてくれるとありがたい。しかし、このハゲタカの王様もやはりハゲタカであり、弱者の群れを餌食にしようとすることに変わりはない。その鋭いくちばしや爪にたいして、民衆はたえず防御の構えをとりつづけねばならない。
そしてここで「国を愛するひとびとが求めたのは、支配者が社会にたいして行使できる権力に制限を設ける」ことであり、この制限こそ先程述べた「政治的支配者の専制から身を守ること」としての自由であり、ミル自身もここで繰り返すように「この制限こそ、彼らのいう自由の中身であった」としている。だが「世の中が進歩するにつれて様子も変わった」として「支配者の権力を制限しようという従来の努力は、ほとんど過去のものとなる」。ひいては「これまでは権力を制限することばかり重視しすぎたと考える人間が出始めたのである」。そこで「支配者と国民が一体になること」換言すれば人民の意思、ここでいう「人民の意思というのは、じっさいには人民のもっとも多数の部分の意思、あるいは、もっともアクティヴな部分の意思を意味する」。つまり「人民は人民の一部分を抑圧する」ことで「多数派の専制」という"実体的には部分の意思たる全体の意思"が可能となったのだ。則、それは幻像=常識として作用するのであり「政治的な圧迫のように極端な刑罰をちらつかせたりしないが、日常生活の細部により深く浸透し、人間の魂そのものを奴隷化して、そこから逃れる手立てをほとんどなくしてしまうからである」、つまり役人の専制だけではなく「多数派の思想や感情による抑圧」が存在する世界なのだ。そこにこそ元来の一般化可能な定式としての自由があり、ミルは下記のようにまとめる。
その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる。物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、ほかの人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない。これらの理由は、人に忠告とか説得とか催促とか懇願をするときには、立派な理由となるが、人に何かを強制したり、人が逆らえば何らかの罰をくわえたりする理由にはならない。そうした干渉を正当化するには、相手の行為をやめさせなければ、ほかの人に危害が及ぶとの予測が必要である。個人の行為において、ほかの人にかかわる部分についてだけは社会に従わなければらない。しかし、本人のみにかかわる部分については、当然ながら、本人の自主性が絶対的である。自分自身にたいして、すなわち自分の身体と自分の精神にたいしては、個人が最高の主権者なのである。 /icons/白.icon
誕生してくる子供に少なくとも、望ましい人生を過ごす、ごくふつうの可能性を与えられないのであれば、この責任を引き受けること、つまり呪うことにも祝福することにもなりうる人生を開始させることは、この子どもに対する犯罪である。
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