アウグスティヌス
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第二巻
医療のメタファー
第二巻七章。ここでアウグスティヌスは本書においてはじめて、キリスト教で通奏低音が如く響く医療のメタファーを導入する。すなわち罪としての病、救済としての治療、医者としての神である。第一にアウグスティヌスは神の癒しをつぎのように謳う。
あなたが私の罪をまるで氷のように溶かしたもうたことを、私はあなたの恵みと、あなたのあわれみによるものと考えている。
そして後述されるように、こうした罪を溶かす神の恩寵を、罪人=病人、神=医師という関係に配置するのだ。
自分の弱さを気にしながらも、自分の純潔と無垢を、あえて自分の力のせいにするあまり、あなたに顔を向ける人々の罪を許したもうあなたのあわれみが、まるで自分には必要でなかったかのように、あなたを愛さなくなるような人間が誰かいるだろうか。なぜなら、あなたに召され、あなたの言われたことに従い、そうして私自身に関するこの回想と告白のなかに書かれているようなことを免れた人も、私をあざわらってはならないからである。そのような人が病気にかからないように、と言うよりむしろ軽い病気ですむように、手当てを受けたと同じ医師によって、私も病気を治してもらったからである。したがって、その人は私と同じように、いや、私よりもっとあなたを愛さなければならない。その人は私が罪の報いのはなはだしい衰弱から、医師によって救い出されたことを知っているが、自分も同じ医師のおかげで、同じような衰弱に陥らずにすむことを知っているからである。
そして、十巻第二十八章には以下のように記された。
こうしたメタファーにおいて、-第三巻にあるように-アウグスティヌスが若き頃に愛したキケロの著作群の影響を免れることはできないだろう。なぜならキケロは医師が治療する「肉体の病」に対し、「魂の病」を対置し、後者の治療の役目を哲学者に委ねた。すなわち魂の医者としての哲学者という地平を、キケロはうちたてた。まさにこれに対応するように、魂の医者としての神という地平を、アウグスティヌスは本書をもってうちたてたのだ。 第三巻
キケロの影響
人間の虚栄心を満足させるという呪うべき、はかない目的のために、私は弁論にすぐれたかった。そうして通常の学習課程で、早くも私はキケロとかいう人の書物を手にすることになった。(...)キケロのその書物の内容は哲学へのすすめであり、『ホルテンシウス』と呼ばれる。しかし、この書物は私の情念を一変し、そうして、主よ、私の祈りをあなた自身に向けさせ、私の願いと望みを改めさせた。すべてのむなしい希望は、私にとって突然つまらないものとなった。私は信じられないほど興奮して、知恵の不滅にあこがれ、あなたの御許に帰ろう(『ルカ伝』一五の一八)と立ち上りはじめた。と言うのは、そのとき私は十九歳で、父はすでに二年前に亡くなっていたので、私は母からの仕送りで弁舌を磨くための授業料を払っているように思われていたが、そんなことのためにあの書物を開いたわけではなかったし、また私が感心したのは話しぶりではなく、その内容だったからである。私の神よ、私はどんなに熱望したことだろう。地上のものからあなたのところに飛んで帰ろうと、私はどんなに熱望したことだろう。しかも私は、あなたが私をどうなさるおつもりなのか知らなかった。「知恵はあなたのもとにある」(『ヨブ記』一二の一三)からである。ところで、知恵の愛はギリシア語でフィロソフィァ(哲学)と言われる。キケロのあの書物は、このフィロソフィアで私を燃え上らせた。 愛の会衆よ、わたしたちはキリスト教徒であり、このことについていつまでも教えねばならないことはないと思う。そしてキリスト教徒であれば、むろんその名のとおりキリストに属する者であり、彼のしるしを額につけている。またこれを心の中にもつけているので、これを恥じることはない。(...)それゆえわたしたちは福音に、新約に属するのである。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(一・一七)。使徒〔パウロ〕に尋ねよう。彼はわたしたちに、わたしたちは律法の下にではなく恵みの下にあると言っている。それゆえ、「神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の下にあった者を贖い出して、わたしたちに子の相続を受け取らせるためです」(ガラ四・四一五)。見よ、キリストが来られたのは、律法の下にあった者を贖い出し、それによってわたしたちがもはや律法の下にではなく恵みの下にあるためである。ではだれが律法を与えたのか。律法のみでなく恵みをも与えたかたが、律法を与えたのである。彼は奴隷を通して律法を与えたが、自ら恵みを携えて降りて来られたのである。では人々はどのようにして律法の下におかれたのか。それは律法を満たすことによってではない。律法を満たしたかたは律法の下にはなく、律法と共にあるからである。だが律法の下にある者は律法によって軽くされるのではなく、圧迫されるのである。こうして律法は、律法の下におかれたすべての人を罪人とする。そしてその罪を取り去るのではなくむしろ明らかにするために、律法は彼らの頭上にある。こうして律法は命じ、その律法を与える者〔神〕は律法を命じる役〔モーセ〕を憐れむ。律法の要求を自らの力でもって満たそうとする人々は、軽率で向こう見ずなうぬぼれによって倒れてしまった。彼らは律法をもったためではなく、律法の下で罪人となったのである。彼らは自分の力で律法を満たすことができず、律法の下で罪人とされたので、解放者の助けを求めた。しかし律法の下での罪が高慢の病気をはなはだしくした。その高慢な人の病気の重さが謙虚な人の告白となった。今や病人は自分が病気であることを告白する。医者が来てこの病人をいやしてくれるように。 医者はだれか。わたしたちの主イエス・キリストである。わたしたちの主イエス・キリストはだれか。彼は、彼らのために十字架にかけられたその彼らによって見られたかたである。彼は捕えられ、叩かれ、答で打たれ、唾され、いばらの冠をかぶせられ、十字架につけられ、死に、槍で突かれ、十字架から下ろされ、墓に横たえられたのである。このかたがわたしたちの主イエス・キリストである。彼は全くこのようなかたであり、わたしたちの傷の完全な医者である。彼は十字架につけられて嘲られ、彼を苦しめた人々は罵って言った、「もし神の子ならば十字架から下りてみよ」(マタ二七・四〇)と。彼はわたしたちの完全な医者であり、全くそのようなかたである。それでは彼はなぜ、嘲る者に向かって自分が神の子であることを示さなかったのか。もし十字架に上げられることを自ら認めたのであれば、人々が「神の子ならば下りてみよ」と言ったとき、平気で嘲った連中に対し、自分が神の子であることを示すために下りることができたのではないか。しかし彼はそれを拒みたもうた。なぜ拒みたもうたのか。できなかったからだろうか。いや明らかにできたのである。しかし、十字架から下りることと墓から甦ることとでは、どちらがより大きいわざであろうか。彼は嘲笑に耐えたもうた。十字架は彼の力を証明するためではなく、むしろ苦難の模範として引き受けられたのである。彼はじっと自分の傷に耐えたそのところで、あなたの傷をいやしたもうた。彼は時間の中で死に定められたそのところで、あなたを永遠の死から救いたもうた。彼は死んだ。いやむしろ彼において死が死んだのではないか。死を殺す死とはどんな死であろうか。 高慢という大病、そして医神キリスト
アウグスティヌスは一八篇にて最大の過ちとは何たるかを考察する。そこで訴えられるは「高慢」に他ならない。
詩篇作者は言う。「もしそれらがわたしを支配しなかったら、そのとき、わたしは一点のしみもないものとなるだろう。また大きな過ちから清められるだろう」(一八・十四)と。どのような過ちを念頭に置いているのだろうか。その大きな過ちとはどんなものだろうか。わたしが言おうとしているものとは違っているかもしれないが、思っていることを隠さないことにしよう。大きな過ちは高慢だとわたしは考える。このことはまた、「大きな過ちから清められるだろう」と言うところで、別の仕方で示されているかもしれない。天使を堕落させ、その天使から悪魔を造り、それを永遠に天の王国から閉め出したこの過ちがどんなに重大かを、あなたたちは尋ねるのか。この過ちは重大であり、あらゆる過ちの頭であり、源なのだ。実際、「あらゆる罪の始めは高慢である」(シラ一〇・一三〔一五〕)と記されている。またあなたが何か世細なものと軽視しないように、「人の高慢の始めは主から離れること」(同一〇・一二〔一四〕)という。兄弟たちよ。この悪は些細な悪ではないのだ。あなたたちが立派だと見ているこれらの人々の高慢にとってはキリスト教の謙遜は気に入らない。この悪徳のゆえに、彼らは首をキリストのくびきで押えることを蔑み、しかも罪のくびきで、よりがんじがらめに縛られているのだ。実際、何かに仕えないでいるということは、彼らにはありえないからだ。なぜなら、彼らは仕えるたくはないのだが、仕えることは彼らに益をもたらすからである。彼らは仕えることを斥けながら、しかもやっているのは善き神には仕えないが、しかし何かに仕えないわけにはいかない、ということだ。愛に仕えることを拒否する者は、必然的に悪魔に仕えることになるからである。 もしかすると、これはグリゴリオス一世へつながる重要な文献かもしれない。グレゴリオス以前悪徳の類型は八であった。そして、それはエヴァグリオスによって成立する。エヴァグリオスは『修行論』において、隠修士を襲う「想念」を列挙し、それぞれの特徴と対処法を示している。あげられているのは順に、貪食、色欲、強欲、悲しみ、怒り、倦怠、虚栄、高慢の八つである。そして、この考えを西方にもたらしたのは、エヴァグリオスの弟子ヨハネス・カッシアヌス(360頃~430頃)であった。彼は師に基づき『共住修道制規約』と『霊的談話集(師父たちとの問答集)』で「八つの根源的悪徳(octo principalia vitia)」を列挙する。これが原初の悪徳の類型である。しかし、グレゴリオスにおいてその類型は変容する。彼は八つの根源的悪徳のなかから高慢を抽出し、それを発端にしてすべての悪徳が生まれるとして「諸々の悪徳の女王(vitiorum regina)」などど、高慢を傑出した地位におくのである。ゆえに、もしかするとその起源とは本詩編注解だったのかもしれない。 そしてそれは頂点にして、原点である。なぜならばアウグスティヌスは高慢を、失落の所以と位置づけるのだ。それは三五篇にて言及される。
「高慢の足がわたしに来らぬように」(三五・一二)。詩編作者はすでに次のように語った。すなわち「あなたの翼の蔭で人の子たちは希望し、あなたの家の豊かさによって酔わせられる」(三五・ハー九)。誰であれこの泉からめたかに生気を与えられ始めるとき、その人は高慢にならぬよう用心すべきである。なぜなら、最初の人間たるアダムはこの危険から免れてはいなかったからである。高慢の足が彼に来り、罪の手いつまり悪魔の高慢な手が彼を動かした。彼を誘惑した者は、「わたしはわたしの座を北風の方へ置こう」(イザー四・一三)と言ったが、それと同様、アダムを誘って、「食べよ、そうすればあなたは神のようになるだろう」(創三・五)と言うのだ。かくしてわたしたちは高慢によって滑り落ち、そうした死の性に行き着くであろう。 またアダムの原罪を引き起こした高慢について、百十八編で再びアウグスティヌスは言及する。失落した我々は悲惨に満ちたこの現世を歩むことを宿命づけられた。その所以たるは高慢であることを「アダムよ、お前はどこにいるのか」と今一度読者に歓喜するのだ。
この詩編の考察すべき言葉は、わたしたちに、自分の惨めさの原因を想起するよう促している。(...)「あなたは高慢な者を咎めました。あなたの命令から迷い出る呪われるべき者を」(一一八・二一)(...)。見よ、これが死すべき人間の苦しく不幸な悲惨さの全体であり、どのようにしてかはわからないが、高慢な者に対する叱責として、〔その子孫へと〕受け継がれているのである。神が、「アダムよ、お前はどこにいるのか」(同三・九)と言ったのは、アダムがどこにいるかを知らなかったからではなく、高慢な者を叱責したのである。そのときアダムがいた場所とは、アダムが陥った悲惨な状態であり、神はそれを知ろうとしたのではなく、反対に尋ねることによってアダムを咎め、アダムに〔悲惨な状態に堕ちたことを〕教えようとしたのである。
再び三五篇に戻るとしよう。アウグスティヌスはこうした高慢を癒す存在としての、キリストの到来を訴える。九三篇によれば「彼は説教という外科医の刃物でもって装備した真に信頼できる医者であって、あらゆる傷を切開する」。
そして高慢がわたしたちを傷つけたがゆえに、謙遜がわたしたちを癒す。神は、高慢によるこれほどの傷から人間を癒すために、謙って到来した。神が到来したのは、「言葉(ロゴス)は肉となって、わたしたちのうちに宿った」(ヨハー・一四)からである。キリストはユダヤ人によって捕らえられ、侮辱を受けた。福音書が読まれたとき、彼らが何を、そして誰に語ったかをあなたは聞いた。「あなた(キリスト)は悪霊を持っている」(ヨハ八・四八)と彼らは言うのだ。しかしキリストは、「あなたたちこそ悪霊を持っている。あなたたちは自らの罪のうちにあり、悪魔があなたたちの心を所有しているからだ」などとは答えなかった。そのように言ったなら真実を語ったことになったであろうが、キリストはそう言わなかった。そう言うべきときではなかったのだ。それは、キリストが真理を説かず、ただ侮辱に返報したなどと思われてはならないためである。キリストは、聞いたことをまるで聞かなかったかのように放置した。なぜなら、彼は医者であって、狂乱した者を癒すために来たからである。すなわち医者は病人の言うままに処置するのではなく、病人が回復し健康になるようにする。また病人から打撃を受けても何ら顧慮せず、彼に新たな傷をつけてでも、古い熱を癒す。それと同様、神は、自らが聞いたり蒙ったりするであろうことは蔑ろにして、病人のところ、正気を失った人のところにやってきた。かくして彼らに謙遜を教えたのだが、それは、彼らが謙遜を学んで、高慢から癒されんがためである。詩編作者はそうした高慢から解放されて、次のように嘆願する。「高慢の足がわたしに来らず、罪人の手がわたしを動かさぬように」(三五・一二)。なぜなら、高慢の足が来れば、罪人の手が動くからである。では罪人の手とは何か。それは悪しく説得する者のわざである。あなたは高慢な者となったか。悪しく説得する者はすぐにあなたを腐敗させるだろう。謙って神に固着するがよい。そうすれば、あなたに語られることに、あなたは殊更気を回さないだろう。他の箇所ではまた、次のように言われている。「わたしの隠れた罪からわたしを浄め、他人の罪からあなたのしもべを守りたまえ」(一八・一三ー一四)。「わたしの隠れた罪から」とは何か。「高慢の足がわたしに来らないように」。「他人の罪からあなたのしもべを守りたまえ」とは何か。「そして罪人の手がわたしを動かさないように」。内にあるものを守るがよい。そうすればあなたは外なるものを恐れないだろう。しかし、なぜあなたは、外なるものを甚だ恐れるのか。「不正を為す者はすべてそこに落ちた」(三五・一三)と言われているかのように。つまり彼らは深淵に陥るだろう。それについては、「あなたの裁きは大きな深淵だ」(三五・七)と語られている。彼らは、侮る罪人が落ち込むような深みに至った。「彼らは落ち込んだ」。どこにまず落ちたのか。高慢の足にである。高慢の足に注意せよ。すなわち「彼らは神を知っていたが、神を神として崇めなかった」。それゆえ高慢の足が彼らに来り、彼らは深淵に落ちたのだ。つまり「神は彼らがその心の欲望のままに、ふさわしくないことを為すに任せた」(ロマー・二一、二四)。「高慢の足がわたしに来らぬように」と言う者は、罪の根元、罪の頭を恐れたのである。詩編作者はなぜそれを足と言ったのか。傲ることによって神を捨て、神から遠ざかってしまうからである。彼の足はその情愛を語っている。「高慢の足がわたしに来らぬように。罪人の手がわたしを動かさぬように」(三五・一二)。すなわち、罪人の行為が、それらに倣うようにわたしを促して、わたしをあなた(神)から引き離さぬように。しかし、なぜ詩編作者は高慢というものに抗して、「不正を為す者はそこに落ちた」と言うのか。不正な者となったとたん高慢へと落ち込んでしまっているからである。それゆえ、主は教会に管告して言う。「彼女はあなたの頭を見、あなたは彼女のかかとを見るだろう」(創三・一五)。蛇は、高慢の足があなたに近づくとき、あなたが滑るとき攻撃しよう、と観察している。あなたは彼の頭を見よ。つまり、「高慢はすべての罪の端緒である」(シラ一〇・一三)。「不正を為す者はそこに落ちた。彼らは捕らえられ、起き上がることができなかった」(三五・一三)。まず真理のうちに立たぬ者、次に彼の行いを通して神が楽園から追放した者たちがそうである。それゆえ、自分が(主なるキリストの〕靴の紐を解くにも値しないと語る謙遜な人は、追放されずに固く立ち、主に聴従し、自分の声によってではなく、花婿の声によって喜ぶ。それは、微慢の足が彼のもとに来て、追放されたり、固く立つことができぬことのないようにである。 ゆえに八五篇。使徒パウロの願いはある時、神に聞き入れられることがなかった。その理由は「彼は医者であって、狂乱した者を癒すために来たからである。すなわち医者は病人の言うままに処置するのではなく、病人が回復し健康になるようにする」からに他ならない。アウグスティヌスは以下のように答える。
神は自らが断罪しようと配剤していた者の願いを聞き入れ、自らが癒しを与えようと望んでいた者の願いを開き入れなかった。というのは、病人もまた医師に多くのことを懇願するものであるが、医師は懇願されたものを与えはしないのである。医師は病人の意志をかなえることを目指しては聞き入れないのであるが、それは病人の癒しを実現することを目指して聞き入れるためのことであるそれゆえ、あなたの医師として神を設定しなさい。神から健康〔救い〕(salus)を懇願しなさい。そうすれば、神自身があなたの救いとなるだろう。あなたは決して神から救いを外的な仕方で懇願してはならない。そうではなく、神自身が救いとなるように懇願しなければならない。さらにまた、神自身以外の救いをあなたが愛することのないようにと懇願しなければならない。そうではなく、詩編においてあなたが救いを持つような仕方で懇願しなければならない。すなわち「わたしの魂に言いたまえ。「わたしこそあなたの救いである」と」(三四・一)と言われているような救いを。 アウグスティヌスは『告白』にて、「私は私の傷を隠しはしない。あなたは医師であり、私は病人である」として、神にその罪を、傷を告白すること。そしてただ待つことを訴えた。本節でも同じように綴る。
わたしが「天」と言うとき、おそらく、わたしは事柄を十分には言い足りえていない。天を創った神自身を神は取って置いていると言うべきである。天は美しい。けれども、天を構築した方はもっと美しい。けれども、わたしは天を見ることはあるが、その方を見たことはない〔とあなたは言うだろう〕。実際、あなたは天を見るための目を持ってはいるが、天を構築した方を見るための心をいまだ持ってはいないのである。その方が天から地へと到来したのは何のためかというと、わたしたちの心を清らかにすることによって、その心によって、天と地を創った方が見られるようにするためである。けれども、まぎれもなく忍耐して、あなたはあなたの救い〔健康〕を待ち望みなさい。いかなる医薬によってあなたを癒せばよいのかを、その方は知っている。いかなる切除によって、また、いかなる焼きごてを当てることによってあなたを癒せばよいのかを、その方は知っている。あなたはというと、罪を犯すことによって、あなた自身のために病を用意してしまった。その方はただ単にあなたの病の手当てをするためだけに到来したのではなく、切除して、焼きごてを当てるためにも到来したのである。医師も人間である限りは不権かな希望をしか約束できないものなのに、いかに多くの人々が医師たちの手にゆだねられて甘受しているのかをあなたは見ないのだろうか。「あなたは直るでしょう」と医師は言う。「もしもわたしが切除してしまうなら、あなたは直るでしょう」。このとき、人がそう言うのであり、人にそう言うのである。そして、このとき、そう言う人も確かではないし、そう聞く人も確かではない。というのも、人にそう言う人は、決して、その人を創らなかったので、人において何がなされるべきであるのかを完全には知らないからである。そして、それにもかかわらず、人において何がなされるべきかをさらに知らない人の言葉のままに人は肩じて、その五体を任せて、自分が縛られるのを甘受したり、または、たいていの場合には縛られもせずに、切除されたり、焼きごてを当てられたりする。そして、おそらくは、数日間の健康〔救い〕を受け取っても、癒された後、いったいいつ死ぬことになるのかを知らないままである。またおそらくは、癒されている過程で、彼は死ぬこともあるし、またおそらくは、癒され得ないであろう。けれども、神はいったい誰に対して何事かを約束した上で、その約束を反故にしたことがあっただろう。
De patientia
医療のメタファー
Se dunque un’anima sopporta tanti disagi per possedere cose che la portano alla rovina, quanti non ne dovrà sopportare per possedere ciò che la sottrae alla rovina? E ora dirò una cosa dove non vi è questione di colpa: se uno soffre tanto per la propria salute fisica quando capita in mano ai medici che lo tagliano o bruciano, quanto non dovrà soffrire per la sua salute [eterna] attaccata da nemici furiosi, qualunque essi siano? I medici infatti facendo soffrire il corpo tentano di sottrarre il corpo alla morte; i nemici minacciando pene e morte al corpo sospingono l’anima e il corpo ad essere uccisi nella geenna.
Vien da pensare a un medico buono, che insieme odia e ama il malato: odia il fatto che sia malato, ama la persona da cui vuol allontanare la malattia.