グリゴリオス一世
ローマ教皇
アンブロジウス・ヒエロニムス・アウグスティヌスに並ぶ四大ラテン教父
578-595 "Moralia in Job"
七つの大罪の起源
グレゴリオス以前、悪徳の類型は八であった。そして、それはエヴァグリオスによって成立する。エヴァグリオスは『修行論』において、隠修士を襲う「想念」を列挙し、それぞれの特徴と対処法を示している。あげられているのは順に、貪食、色欲、強欲、悲しみ、怒り、倦怠、虚栄、高慢の八つである。そして、この考えを西方にもたらしたのは、エヴァグリオスの弟子ヨハネス・カッシアヌス(360頃~430頃)であった。彼は師に基づき『共住修道制規約』と『霊的談話集(師父たちとの問答集)』で「八つの根源的悪徳(octo principalia vitia)」を列挙する。これが原初の悪徳の類型である。しかし、グレゴリオスにおいてその類型は変容する。彼は八つの根源的悪徳のなかから高慢を抽出し、それを発端にしてすべての悪徳が生まれるとして「諸々の悪徳の女王(vitiorum regina)」などど、高慢を傑出した地位におくのである。
すべての悪の根は高慢である。それについて聖書の証言では「すべての罪の始めは高慢」〔シラ書10,13〕と言われている。そしてこの有毒な根から、その最初の芽が七つの根源的悪徳として生み出される。すなわち、虚栄,嫉妬、怒り、悲しみ、強欲、腹の食食、色欲がそうである。
グレゴリウスのリストは、1150年頃に書かれたペトルス・ロンバルドゥス(1100頃~60)の『命題集』に採録されたことで、その影響力をさらに強めた。13世紀なかば以降、聖書に加えて神学教育の標準的教科書になったロンバルドウス「命題集』の影響力は大きい。彼はグレゴリウスが principalia vitia(根源的悪徳)と呼んでいたのに対して、 vitia capitalia vel principalia(頭首的あるいは根源的悪徳)という言葉を用いて、次のように言う。「グレゴリウスが『出エジプト記』に註解して言うように、七つの頭首的悪徳あるいは根源的悪徳があることを知らねばならない。すなわち、虚栄、怒り、嫉妬、倦ないし悲しみ、強欲、食食、色欲である。クリュソストムスが言う通り、これらはイスラエルに約束された約束の地を占領していた七つの民のうちに示されている。いわば七つの泉から水がわき出るように、魂に死をもたらすあらゆる腐敗がこれらの悪徳から流れ出す。頭首的と呼ばれるのは、すべての悪がそれらから生じるからであり、実際、これらのうちのどこにも起源をたどれないような悪はない」。
さらにこれはトマス・アクィナスの七つの枢要悪に受け継がれ、歴史に確固たるものとして刻印される。『神学大全』における罪源の原理的考察でも、特定の悪徳が罪源かどうかを論じる箇所でも、反対異論(Sed contra)の典拠として示されるのは、例外なくグレゴリウス『道徳論』の先に引用した一節であり、悪徳を枚挙する際にもトマスはグレゴリウスの一覧に忠実である。個々の論点に関する頻繁な言及からも、罪源の思想系譜の中でトマスが最も重視した権威はグレゴリウスだと言ってよい。
こうして西方ラテン語圏で罪源の一覧の定着に決定的役割を果たしたのは大グレゴリウスだったことが帰結される。彼以降は数として七つの列挙が定着し、安定した用語と順序を保ちつつ数百年にわたり思想の型が継承された。これを背景にしてダンテ(1265~1321)も『神曲』で、魂が生前の罪をつぐない浄められる道のりを描きだした。こうしてかの有名な七つの大罪が成立したのだ。