キケロ
『トゥスクルム荘対談集』
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第三巻
魂の治療としての哲学
ブルータスよ、我々は魂と肉体からできていて、肉体を健康に保つためには医術が考案され、その効用は神聖化されて不死なる神々の発明と見られるまでになっているが、魂の治療は、それが発見される以前は特に必要とは考えられておらず、発見されたのちも、さして研究されていない。魂の治療をありがたく思う人も推薦する人も少なく、さらに多くの人はそれに対して嫌悪と憎しみのまなざしを向けている。それはなぜであろうか。
その理由としてキケロは魂と肉体の非対称性を訴える。肉体の病は魂が感知するが、魂の病は肉体が感知し得ないのであり、魂が魂を診断するとき既に病んでしまっているのであれば、それは正常な診断を成さないのである。ゆえに魂の治療は日の目を浴びることはなかった。こうしてキケロは魂の治療が隠蔽されてきた理由を説明した訳だが、問題はそれだけでない。「発見されたのちも、さして研究されていない」のだ。それはなぜか。「魂の病は肉体の病より害が少ないというのであろうか。あるいは、肉体は治療できても、魂を治療する術はないというのであろうか」。
魂の病は肉体の病よりも危険で種類も多い。魂の病は、魂に影響を与え、魂を攪乱するという事実そのものゆえにおぞましい。エンニウスの言うようにした「病んだ魂は常に過ちを犯す。我慢や忍耐ができず、決して欲望を抑えることができない」のである。他の魂の病は措くとして、肉体の病の中に悲しみと欲望という二つの心の病より深刻な病があるだろうか。さらに、魂は自らを治療しえないと、どうして証明できるだろうか。というのは、肉体の治療法そのものを見出したのは魂であり、また、肉体の回復には生まれつきの体質が大いに関係しており、さらには、治療を受けた人のすべてがすぐさま健康になるわけではないのに対し、魂の場合は、癒されることを欲し、賢者の処方箋に従う人が癒されることは疑いがないからである。魂の治療法は確かに存在する。それは哲学である。その治療は、肉体の病のように外部から行われるのではなく、我々自身が全身全霊を込めて我々自身を癒すために行うべきものである。
ゆえに次のように結論づける。
魂が癒されない限り、不幸は終わらない。そして、魂が癒されるには哲学が不可欠である。