ジジェク
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ポスト・マルクス主義について
ポスト・マルクス主義は、個別の闘争の還元不能な複数性を強調し、それら個別の闘争が一連の等式において表現されることは社会的・歴史的過程の根源的偶然性によるのだと主張するが、ラカン派の精神分析はこの複数性そのものを、同じ不可能な-真の核に対する複数の反応として捉える そしてヘーゲルこそポスト・マルクス主義の萌芽であるという。
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症候を患った社会的現実
本稿は極めて有機的な読解が必要、まさにメビウスの環wなので全部読もう!
形態分析から導出した精神分析的症候―意味ではなく形態
ラカンは「症候なる概念を考え出したのは誰あろうカール・マルクスであった」というが、ジジェクは「商品の世界を分析したマルクスが、夢とかヒステリー現象とかの分析にも使えるような概念を生み出すなんて」と問いかけると同時に答えを提示する。それは下記言明である。 マルクスとフロイトの解釈技法、より正確にいえば商品の分析と夢の分析とは、根本的に同じものなのだ そこで対応関係を示す。ますはフロイトのテクストである。
―第一に、夢など単純で無意味な混沌にすぎず、生理的過程によって引き起こされた異常であり、したがって意味作用シグニフィケーションとはいっさい何の関係もない、といった皮相的な見方とは縁を切らなければならない。言い換えると、われわれは解釈学的なアプローチへの決定的な一歩を踏み出し、夢を意味ある現象と、つまり、解釈という手続きによってのみ発見可能な抑圧されたメッセージを伝えるものと、捉えなければならない。 つぎに対応するマルクスのテキストである。
第一に、商品の価値はまったくの偶然によって―たとえば需要と供給の間の偶発的な相互作用によって―決定される、といった皮相的な見方と縁を切らねばならない。決定的な一歩を踏み出し、商品形態の背後に隠された「意味」、つまり商品形態によって「表現」された意味作用を捉えなければならない。すなわち、商品の価値の「秘密」を掘り当てなければならない。
すなわち第一に背後の意味を探る点において対応しているのである。そしてもう一度フロイトのテクストに戻る。
次に、この意味の核、夢の「隠された意味」─夢という形態の背後に隠蔽された内容─の魅惑をしりぞけ、この形態そのものに、つまり「潜在的な夢思考」にたいしてほどこされる夢作業に、関心を集中しなければならない。 さらにマルクスにも戻る。マルクスは先ほど論じたような「秘密を発見すること」、「それによって、決定のなされ方が変わるわけではない」とするのだ。
マルクスが指摘しているように、ある種の「しかしながら」がある。つまり、秘密を暴くだけでは充分でないのだ。ブルジョワ的古典経済学だってすでに商品形態の「秘密」を発見していた。そうした経済学の限界は、商品形態の背後に隠された秘密のもつ魅力から逃れられず、〜言い換えれば、古典経済学は商品形態の背後に隠蔽された内容にばかり気をとられている。そのために、真の秘密、すなわち形態の背後にある秘密ではなく、形態そのものの秘密を説明できないのだ。〜したがって、さらにもう一歩踏み出し、商品形態そのものの起源を分析しなければならない。形態を本質に、つまり隠された核に還元するだけでは充分でない。隠蔽された内容がそのような形態をとる過程―「夢作業」と同じことだ―をも検討しなければならないのだ。なぜなら、マルクスが指摘する通り、「では、労働の生産物が、商品という形態をとるやいなや、謎めいた性格をおびるのはなぜなのか。明らかにそれはその形態そのもののせいである」 つまり意味の次元を了承しながら、形態そのものを明らかにする姿勢が、ジジェクがマルクスとフロイトの手法論を「根本的に同じ」とする所以なのだ。これは換言すると本書の冒頭付近の下記引用の意味が理解できるだろう。
どちらの場合も、肝心なのは、形態の背後に隠されているとされる「内容」の、まったくもって物神的ファスティシスティックな魅惑の虜になってはならないということだ。分析によって明らかにすべき「秘密」とは、形態(商品の形態、夢の形態)の後ろに隠されている内容などではなく、形態そのものの「秘密」である。夢の形態を理論的に考察することは、顕在内容からその「隠された核」すなわち潜在的な夢思考を掘り起こすことではなく、どうして潜在的な夢思考がそのような形態をとったのか、どうして夢という形態に翻訳されたのか、という問いに答えることである。商品の場合も同じだ。重要なことは商品の「隠された核」──つまり、それを生産するのに使われた労働量によって商品の価値が決定されるということ──を掘り起こすことではなくて、どうして労働が商品価値という形態をとったのか、どうして労働はそれが生産した物の商品形態を通じてしかおのれの社会的性格を確証できないのか、を説明することである 「社会科学全般にこれほど大きな影響をあたえ」、「哲学者・社会学者・芸術史家その他を、幾世代にもわたって魅了してきた」のだ。「商品形態の弁証法はわれわれに、あるメカニズムの純粋な─いわば蒸留された─形をあたえてくれる。それは、一見すると経済学の分野とはおよそ何の関係もなさそうな現象(法、宗教その他)を理論的に把握するための鍵をあたえてくれるのだ。商品形態の中には明らかに商品形態そのものより以上のものがある。そしてこの「より以上」が、われわれを引きつける魅力を発散しているのだ」。とジジェクにいわしめたのは「形態」という構造の分析によって「症候なる概念」をあみだしたからである。 そこでフランク・フルト学派のゾーン=レーテルの主張を紹介する。下記でいわれてるのはフッサール的な補足をするなら超越論的主体=主観性は究極的には間主観性なのであり、そう考えるとわかりやすいだろう。つまり「「客観的な」科学的認識」なアプリオリな地点としての間主観性が、「商品形態の中」に見出されるということである。 商品形態の分析は、古典経済学批判のための鍵となるだけでなく、抽象的・概念的思考と、それとともに生まれた知的労働と肉体労働の分割を、歴史的に説明するための鍵ともなる。(1978)言い換えると、商品形態の中には超越論的な主体が見出されるのである。つまり商品形態は、カントのいう超越論的主体―すなわち「客観的な」科学的認識の先験的な枠組みを構成している、超越論的範疇の網―の骨格の解剖図をあらわしているのだ。 そして下記で説明する、この厄介な事実(商品形態の中の超越論的主体)は「形態的起源からして」病理学的であることが明らかになる。それは「商品交換というきわめて現実的な過程」に相反し「形式的・超越論的なアプリオリは、その定義からして、いっさいの実体的内容からは独立している」ことが条件づけられることである。つまり商品形態という実体的なものの中に、超越論的主体という形式的・超越論的なアプリオリが存在することが病理的なのである。
このようにして、超越論的主体、すなわち先験的範疇の網の土台は、次のような厄介な事実に直面する。すなわち超越論的主体は、そのまさに形態的起源からして、ある内的な「病理学的」過程に依拠しているということである。超越論的な見地からすれば、これはまさにスキャンダルであり、とてもありえそうにない馬鹿げたことだ。なぜなら形式的・超越論的な先験性は、その定義からして、いっさいの実体的内容からは独立しているはずだからだ。このスキャンダルはちょうど、フロイトのいう無意識の「スキャンダラスな」性格に相当する。フロイト的無意識もまた、超越論的・哲学的見地からは到底容認できないものだ。ということはつまり、ゾーン=レーテルのいう「現実的抽象」[das reale Abstraktion](すなわち、商品交換というきわめて現実的な過程の中で働いている抽象作用)の存在論的位置を詳しくみてみれば、その位置と、「もう一つの光景」に固執する意味作用の連鎖である無意識の存在論的位置との親近性は明らかだ。「現実的抽象」とは、超越論的主体の無意識であり、客観的・普遍的な科学的認識の土台なのである。 そして「参加者が「現実的抽象」の次元に気づいたとしたら、「現実的効果をもつ」交換行為はもはや成立しないだろう」とする。これは貨幣を想定するとわかりやすい
こうした「崇高な物質」として、われわれ、、、、が貨幣をもちいることによって、交換行為が成立しているのであって、繰り返すが「参加者が「現実的抽象」の次元に気づいたとしたら、「現実的効果をもつ」交換行為はもはや成立しないだろう」。 そしてこうした「主体側のある種の非知を前提」としたものとして、イデオロギーと症候の原理の一つを明らかにする。
「マルクス的な症候」について、「どうやって」症候なる概念をみつけだしたか、或いはマルクス的な症候とはどう定義すればいいのかを述べる。
つまり―例にあげた自由をもって論じるとする―自由にとって、それ自信の特定の部分集合が自由を解体してしまうのだ。換言すれば、それこそが「それ自身の普遍的基盤を崩してしまうような特定の要素、いわばおのれが属している類を滅亡させてしまう」ことであり、「イデオロギー的普遍概念は、その統一を破壊し虚偽を暴くような特殊例を必然的に含んでいる」ことなのである。これはもう一つの定義とも組み込める。すなわち「おのれが属している類を滅亡させてしまう」からこそ「主体の側のある種の非知を前提とする」のだ。この次に等価交換についても述べているが割愛し重要テーゼだけ引用するとする。
物神性による補足
商品Aが自分の価値を表現するには、自分を別の商品Bと関係づけなければならない。すると、商品Bは商品Aと等価になる。価値関係において、商品Bの自然形態(その使用価値、実際の経験的特性)は、商品Aの価値形態として機能する。言い換えると、商品Bの本体はAにとって、自分の価値を映し出す鏡となる。こうした考察に、マルクスは次のような注釈を加えている──このことは商品の場合と同じように人間の場合にもある程度あてはまる。人間は手に鏡をもって生まれてくるわけではない。また、フィヒテ流の哲学者として「私は私である」と言って生まれてくるわけでもない。人間はまず他の人間の中に自分自身を見、認めるのである。ペーターという人間は、パウルという人間にたいして、自分と同じ種類の存在として関係したときに初めて、自分自身の同一性を確立するのである。このようにしてパウルは、ペーターにとって、そのパウル的肉体性のままで、ヒトという属の形象形態と考えられるのである(Marx)。この短い注はラカンの鏡像段階理論をある意味で先取りしている。別の人間の中に映し出されることによってのみ──この他人がその全体像を提供してくれればの話だが──、自我はその自己同一性に到達できる。自己同一性と疎外とは緊密に相関している。マルクスはこの相関性を追求する。別の商品(B)は、Aが、自分自身の価値の外観形態に関係するかのように、Bに関係するときにのみ、この関係の中においてのみ、Aの等価物となりうる。しかし、外観──その中に物神性独特の倒錯の効果があるのだが──は正反対である。Aは、あたかもBにとってAの等価物となることがAの「反照規定」(マルクス)にならないかのように、すなわちBそれ自体がすでにAの等価物であるかのように、Bに関係するように見える。「等価物である」という属性は、Aとの関係の外側に、つまりその使用価値を構成する他の実際の「自然な」属性と同じレベルに、位置しているようにすら見える。以上の考察について、またもやマルクスはひじょうに興味深い注を付している─ヘーゲルが反省的範疇と呼んだ、こうした関係表現の全体が、ひじょうに興味深い階級を形成している。たとえば、ある人間が王であるのは、他の人間たちが彼にたいして臣下として相対するからに他ならない。ところが一方、彼らは、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思い込んでいる(Marx)。「王であること」は、「王」と「臣下」との社会的諸関係の網の効果である。だが──ここに物神的な誤認があるのだが──この社会的絆の参加者たちの目には、この関係がかならず反対に見える。彼らはこんなふうに考えている──自分たちが王に仕える臣下であるのは、王自身がすでに、臣下との関係とは無縁に、王だからである、と。あたかも、「王であること」を決定するのが、王である人物の「自然な」属性であるかのように。ここで、ラカンの有名な言葉を思い出さずにいられようか──自分を王だと思い込んでいる狂人は、自分を王だと思い込んでいる王以上に狂っているわけではない。 「「王であること」は、「王」と「臣下」との社会的諸関係の網の効果である」ように、「商品Aが自分の価値を表現するには、自分を別の商品Bと関係づけなければならない。すると、商品Bは商品Aと等価になる」のであって、「Bそれ自体がすでにAの等価物であるかのように」捉えることや「王自信がすでに、臣下との関係とは無縁に、王だからである」と捉えるようなことをジジェクは「物神的な誤認」或いは「物神性独特の倒錯」というのだ。これが下記引用の意味なのである。 物神性とは~構造化された網とその一要素との関係にかかわる、ある種の誤認にある。つまり、真に構造的な効果、すなわち要素どうしの関係の網の効果は、一要素の直接的な属性としてあらわれる。あたかもその特性が、他の要素との関係とは無縁に、その要素に属しているかのように。このような誤認は、「人間どうしの関係」においてのみならず、「物どうしの関係」においても起きうる。
いわゆる商品の物神性についてのマルクスの古典的な例を取り上げよう。貨幣は実際には社会的諸関係の網の具現化、凝縮、物質化にすぎない。それがあらゆる商品の普遍的等価物として機能するという事実は、社会的諸関係の組織構造におけるその位置によって条件づけられている。ところが個々人にとっては、貨幣の─富の具現化であるという─この機能は、貨幣という名の物体の直接的で自然な属性であるようにみえる。あたかも貨幣が、それ自体で、その直接的・物質的現実性において、富の具現化であるかのように。私たちはここで、「物象化」という古典的マルクス主義のモチーフに触れたのである。物や物どうしの関係の背後に、私たちは社会的諸関係、人間主体どうしの関係を探りあてなければならないのである。しかし、マルクスの公式にたいしてそのような読み方をすると、ある幻想を見落としてしまう。その幻想とは、社会的現実そのものの中に、すなわち人びとは自分が何をしていると思っているのか、あるいは知っているのか、といったことだけではなく、何をしているのかというレベルに、すでにひそんでいる誤謬、歪曲である。人は貨幣を使うとき、そこには魔術的なところなど何一つないことをよく知っている。貨幣はその物質性において社会的諸関係の表現に他ならないのだ、と。日常的な自然発生的イデオロギーは、貨幣を、「それを所有する者は社会的産物のある一定部分にたいして権利がある」ということを示すたんなる記号に還元してしまう。それで、日常的なレベルでは、人は、物どうしの関係の背後には人間どうしの関係があるのだということをよく知っている。問題は、彼らの社会的活動そのものにおいて、つまり彼らがやっていることにおいて、彼らは、まるで貨幣がその物質的現実性において富そのものの直接的具現化であるかのように活動しているということである。彼らは、理論上ではなく実際的に、物神崇拝者なのである。彼らが「知らない」こと、彼らが誤認していることは、かれらの社会的現実そのもの、つまり社会的活動──商品の交換という行為──において、彼らが物神的な幻想に導かれているということである。 つまり「貨幣は実際には社会的諸関係の網の具現化、凝縮、物質化」にすぎなく「物や物どうしの関係の背後に」ある「社会的諸関係、人間主体どうしの関係を探りあてなければならない」という古典的解釈は、まさに「背後に隠された「意味」」を探ろうとするものである。そうではなく形態、すなわち「社会的活動そのもの」に着目するのであり、第一に古典的解釈と異なり「そこには魔術的なところなど何一つないことをよく知っている。貨幣はその物質性において社会的諸関係の表現に他ならないのだ、と。」とする。そしてそれなのに貨幣は自己言及的であると「誤認」してしまい、「まるで貨幣がその物質的現実性において富そのものの直接的具現化であるかのように活動」し始めるという「物神崇拝者」になるのだ。重要なので繰り返すと「貨幣はその物質性において社会的諸関係の表現」であることを認識しているはずが「貨幣がその物質的現実性において富そのものの直接的具現化」であるように行為するのだ。これこそまさにゾーン=レーテルがいった「この誤認が、「実用的」意識と「理論的」意識への意識の分裂をもたらす。交換行為に参加する所有者は「実用的唯我論者」として振る舞う」ことであり、すなわち理論的意識が「貨幣はその物質性において社会的諸関係の表現」であること、実用的意識が「貨幣がその物質的現実性において富そのものの直接的具現化である」という意識なのである。とすると「交換の間、人は「実用的唯我論者」として振る舞い、交換の社会統合的機能を誤認する」という言明の「社会統合的機能」とは相互言及による「社会諸関係の網」のことである。そうした理由から下記テーゼに至る。 これで私たちは確実に一歩前進した。「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをやっている」というマルクスの公式の新しい読み方を確立したのだ。幻想は認識のほうにあるのではなく、すでに現実そのものの側、つまり人間がやっていることの中にあるのだ。彼らが知らないのは、彼らの社会的現実そのもの、つまり彼らの活動が、ある幻想、すなわち物神崇拝的な転倒によって導かれているということである。彼らが見落とし、誤認しているのは、現実ではなく、彼らの現実を、つまり彼らの現実の社会的活動を構造化している幻想である。彼らは事物の現実の姿をよく知っているのに、知らないかのように振る舞う。したがって、ここには二重の幻想があるのだ。現実にたいする私たちの現実的・実際的な関係を構造化している幻想を見落としているということ。そしてこの見落とされた無意識的な幻想が、イデオロギー的空想とでも呼びうるものである。~「彼らは、自分たちがその活動においてある幻想に従っているということをよく知っている。それでも彼らはそれをやっている」。たとえば彼らは、自分たちの自由の理念が搾取の特定の形態を隠蔽していることを知っているが、それでも依然としてこの自由の理念に従いつづける、というふうに。 つまり現実そのものが「イデオロギー的」なのであって「官僚制が全能でないことをよく知っているが、それにもかかわらず、官僚的な機械装置を前にしたわれわれの行動は、官僚性は全能だという信念によってすでに規定されている」ので「その信念~が失われるやいなや、社会的領域の全体構造そのものが崩壊してしまう」のはまさに信念自体が「人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されている」外的なもの、ということなのである。すなわち通貨の話で言えば「貨幣がその物質的現実性において富そのものの直接的具現化であるかのように活動」していれば、あとは何を思っていようとなんら問題ないのである。それゆえ「信念は絶対に「心理的」レベルで捉えてはならない」とジジェクはいうのだ。
パスカル=アルチュセールとカフカ
パスカルの『パンセ』とカフカの『審判』の対称構造を示す。 パスカルによれば、われわれの理性の内部性は意味をもたない外的な「機械」によって決定される。その機械とはシニフィアン、すなわち主体がその中に捕らえられているところの象徴的ネットワークの、自動運動である─なぜなら、われわれは自分を誤解してはならない。われわれは精神であるのと同程度に自動機械である。〜証拠は精神しか納得させない。習慣こそが、もっとも強力な、いちばん信頼できる証拠となる。習慣は自動機械の動きを左右する。自動機械は、知らず知らずのうちに精神を引っ張っていく(Pascal)。 ここでパスカルは、無意識にたいしてきわめてラカン的な定義を下している。「無意識のうちに(sans le savoir)精神を誘導している自動機械(すなわち、死んだ、意味のない文字)」。法には本質的に意味がないというこの性質から、論理的に、次のようになる。われわれが法に従わなければならないのは、それが正しく、良く、われわれに利益をもたらすからなどではなく、たんにそれが法だからである。注目すべきことに、カフカの『審判』の、Kと僧(教誨師)の会話の終わりのところには、これとまったく同じ公式が見られる── その意見には賛成しかねます」とKは頭を振って言った。「なぜなら、もしその意見に賛成すれば、門番の言ったことをすべて真実と考えなくてはなりません。ところが、そんなことはありえないということを、あなたご自身がくわしく説明してくれたじゃないですか」。「いいや」と僧は言った。「すべてを真実だなどと考えてはいけない。必然だと考えなければいけないのだ」「気の滅入るような結論ですね」とKは言った。「虚偽が普遍原理にされているんだから」(Kafka)。 このように、「抑圧」されているのは、法の曖昧な起源などではなく、法は真理としてではなく必然的なものとして受け入れられなければならないという事実、法の権威には真理は含まれていないという事実なのである。法の中には真理がある、と人びとに信じ込ませる必然的な構造的幻想は、転移のメカニズムをそっくりあらわしている。転移とは、法という愚かで外傷的で辻褄の合わない事実の背後には「真理」「意味」があるという仮定である。言い換えれば、「転移」とは信仰の悪循環のことである。 「われわれが法に従わなければならないのは〜たんにそれが法だから」という同語反復的言明は「死んだ、意味のない文字」、換言すれば象徴としての空虚なシニフィアンなのである。 いうまでもなくアルチュセールは、国家のイデオロギー装置に関する理論(Althusser, 1976)において、このパスカルの「機械」を、より現代的で洗練されたものにした。だが、アルチュセールの理論の弱点は、アルチュセールも、また彼の一派の誰ひとりとして、国家のイデオロギー装置と、イデオロギー的呼びかけとの繋がりを解明できなかったことである。すなわち、国家のイデオロギー装置(パスカルのいう「機械」、シニフィアンの自動運動)はいかにしてみずからを「内在化」するのか。それはいかにして、ある大義へのイデオロギー的信仰〔信念〕という結果や、主体化とかみずからのイデオロギー的立場の再認識といった相互連関的な結果を生むのか。
「この「内在化」は、構造的必然から、けっして全面的には成功しない。つねに積み残し、残滓がある」とし、同時に「この残滓は、主体がイデオロギー的命令に全面的に服従するのを邪魔するどころか、それの前提条件にほかならない」。それを表している例としてカフカを挙げる。
何よりもまず、カフカの小説は呼びかけから始まる。カフカ的な主体は、神秘的で官僚的な存在(法、城)から呼びかけられる。だが、その呼びかけはいささか異様な形をしている。それはいわば、同一化/主体化抜きの呼びかけなのである。それは、われわれが自己を同一化できるような大義をあたえてくれない。カフカ的な主体は自分が同一化できるような特性を必死に探しまわる。だが、彼には、自分がなぜ「他者」に審問されるのかわからない。
ある父親が、昼夜の別なく、病に伏している子どもの看病をしていた。子どもが死んだ後、父親は隣の部屋へ行って横になったが、ドアは開けておいた。その部屋から、大きな蠟燭に囲まれて、愛児の遺骸が安置されているさまが見えるようにだ。遺骸の番をするために雇われた老人が、遺骸の横にすわって経文を誦していた。二、三時間眠ったあと、父親はこんな夢をみた──子どもがベッドの横に立っていて、彼の胸をつかみ、責めるような口調で呟きかけた。「お父さん、ぼくがやけどしているのがわからないの?」父親は目をさまし、隣室から明るい光が流れてくることに気づき、あわてて隣室に駆け込むと、番の老人が眠りこけていて、燃えた蠟燭が倒れたために、経かたびらと愛児の片腕とが焼けていた(Freud,1977,p.652)。ふつうこの夢は、夢の機能の一つはその夢をみている人の睡眠を長引かせることである、というテーゼにもとづいて解釈される──眠っている人が、突然、外部の現実からの刺激(目覚まし時計のベル、ドアをノックする音、右の例では煙の臭い)を受け、睡眠を長引かせるために、瞬間的に夢をつくる。すなわち、その刺激を要素に加えたような、ある一場面とかちょっとしたストーリーをつくりあげる。ところが、外からの刺激があまりに強くなって、目がさめる、というわけである。ラカンの解釈はその正反対である。主体は、外的な刺激が強くなりすぎたために目覚めるのではない。それとはまったく別の理由で目覚めるのである。まず彼は、現実に目覚めるのを避けるために、睡眠を長引かせるようなストーリーをもった夢をつくりあげる。ところが、彼が夢の中で出会うもの、すなわち彼の欲望の現実、ラカンのいう〈現実界(現実的なもの)〉──この場合でいえば、父親の根本的な罪悪感を暗示している「ぼくがやけどしているのがわからないの?」という子どもの父親にたいする批難の現実──は、いわゆる外的現実そのものよりも恐ろしい。だから彼は目覚めるのだ。恐ろしい夢の中で姿をあらわす、自分の欲望の〈現実界〉から逃れるために。眠り続けるため、自分の盲目を維持するため、自分の欲望の〈現実界〉へと覚めないようにと、彼はいわゆる現実の中へと逃げ込むのである。~「現実」とは、われわれが自分の欲望の〈現実界〉を見ないですむようにと、空想がつくりあげた目隠しなのである。 ここで大事な点は、夢で鉢合わせた外的現実より恐ろしい「欲望の〈現実界〉」であり、そこから逃げるために夢から「現実」に戻ろうとする、ラカン的解釈である。
ラカンはそこで、有名な荘子のパラドックスに触れている。荘子は蝶々になった夢をみて、目覚めたあと、こう自問する──自分は蝶々で、いま荘子になった夢をみているのかもしれない、果たしてそうでないと言い切れるだろうか、と。~表面的には、荘子の夢が語っていることは、いわゆる正常な視点をたんに対称的に裏返しただけのようにみえる。つまり、日常的な理解によれば、荘子は「現実の」人間であり、それが蝶々の夢をみているということになるが、ここで言っているのは、彼は「じつは」蝶々で、それが荘子になった夢をみているのだ、と。だが、ラカンが指摘したように、この関係が対称的だというのは幻想にすぎない。荘子は目ざめたときに、自分は荘子であり、その自分が蝶々になった夢をみていたのだ、と考えることができるが、彼が夢の中で蝶々になっているときには、ひょっとしたら自分は荘子で、それが蝶々になった夢をみているのではないか、と自問することはできない。こうした疑問、この弁証法的な裂け目は、われわれが覚醒しているときにだけ起こりうるのだ。言い換えれば、この幻想は対称的ではない。裏返すとちょうど重なるという関係ではないのだ。~すべては鏡に映った幻の戯れである、などといったふうには絶対に還元できないような、固い核、残滓がかならずある、というのがラカンのテーゼである。ラカンと「素朴なリアリズム」の違いは、ラカンにとっては、われわれがこの〈現実界〉の固い核に接近できる唯一の場所は夢である、ということである。夢から覚めたとき、われわれはふつう「あれはただの夢だったのだ」と独り言をいい、それによって、覚醒時の日常的な現実においてはわれわれはその夢の意識にすぎないという事実から目をそらす。われわれは夢の中においてのみ、現実そのものにおけるわれわれの活動と活動様式を決定する空想の枠組みに接近できたのだ。
つまりまずジジェクは夢と現実の非対称性を「夢の中で蝶々になっているときには、ひょっとしたら自分は荘子で、それが蝶々になった夢をみているのではないか、と自問することはできない」という言明から反証的によりわける。この意味でリアリストである。だが同時にそれは「象徴的現実界においては荘子だったが、彼の欲望の現実においては蝶々だった」というように「欲望の〈現実界〉」に接近したともいえるのであり、それこそが「ただの夢」だと「絶対に還元できないような、固い核、残滓」なのである(この意味で「素朴なリアリズム」とは一線を画す、リアリズムなのである)。すなわちその意味で「荘子はある意味で正しかった」のだ。
一九三○年代のドイツの典型的な個人を例にあげよう。彼は、ユダヤ人は悪の化身だとか、怪物だとか、陰謀家だといった反ユダヤ的なプロパガンダをさんざん聞かされている。だが、帰宅の途中で、隣に住むシュテルン氏に出会う。彼は好人物で、よく晩におしゃべりをするし、子どもどうしも友達だ。この日常体験は、イデオロギー構成物にたいして不屈の抵抗を提供するだろうか。答えはもちろん「否」である。もし日常体験がそのような抵抗を提供するとしたら、それはユダヤ人差別のイデオロギーがまだわれわれの心を捉えていないということだ。われわれがあるイデオロギーと現実との間になんの対立も感じなくなったときにはじめて、すなわち、イデオロギーが現実そのものにたいするわれわれの日常体験の様式を決定することに成功したときにはじめて、そのイデオロギーが「われわれを摑んでいる」といえるのだ。もしわれらが哀れなドイツ人が良き反ユダヤ人主義者だとしたら、彼は、イデオロギー的なユダヤ人像(陰謀家だ、策士だ、われらが善良な男を食いものにしている、等々)と、シュテルン氏という善良な隣人にたいするごくふつうの日常体験との間のギャップにたいして、どう反応するだろうか。彼の答は、このギャップそのものを反ユダヤ人主義を援護するための議論へと転化するというものだろう。すなわち、「やつらがどんなに危険か、わかっているのか。やつらの本性を見抜くのはむずかしい。やつらは日常生活では仮面をかぶり、自分の本性を隠している。そして、自分の本性を隠すというこの二重人格こそがまさにユダヤ人の本性の基本的特徴なのだ」と。イデオロギーというものは、初めは矛盾しているように見えた事実さえもが、そのイデオロギーを支持する議論として機能しはじめたときに、真の成功をおさめたといえるのだ。
「この問題には、われわれは夢の中においてのみ真の覚醒に、すなわちわれわれの欲望の〈現実界〉に接近するのである、というラカンのテーゼからアプローチしなければならない」とジジェクは述べたが、それはイデオロギー自体が「その根底的な次元において、われわれの「現実」そのものを支えるための、空想的構築物である。イデオロギーは、われわれの現実の社会的諸関係を構造化し、それによって、ある堪えがたい、現実の、あってはならない核~を覆い隠す「幻覚」なのである。イデオロギーの機能は、われわれの現実からの逃避の場を提供することではなく、ある外傷的な現実の核からの逃避として、社会的現実そのものを提供することである」というように夢と同じような性質をもっているため、そうした夢の「絶対に還元できないような、固い核、残滓」という「欲望の〈現実界〉を直視すること」によってのみ、イデオロギーを明らかにできるのだ。
ヘゲモニー的主体
本書のブレイクスルーと後退
まずジジェクはヘゲモニー理論のブレイクスルーを論じる。
『ヘゲモニーと社会主義の戦略』で示された基本的な主張-「社会は存在しない」-がラカン的公理「女は存在しない」を想起させるのは偶然ではない。『ヘゲモニーと社会主義の戦略』の真の功績は、「社会的敵対性」という概念に結晶化されている。つまりあらゆる現実をある種の言語ゲームへと還元してしまうどころか、社会的-象徴的領野はあるトラウマ的な不可能性をめぐって、つまり象徴化されえない裂け目をめぐって構造化されているというのだ。要するに、ラクラウとムフは、いわば不可能なものとしての現実界というラカン的概念を再発明し、それを社会的、イデオロギー的分析のための道具として有用なものにしているのだ。 ジジェクは「このブレイクスルーこそが新しいもの」として、大体の応答の「ほとんどはこれに気づいてさえいない」と評価する。ただ同時にヘゲモニー理論の主体の後退を述べる。そこでまずジジェクの論じたヘゲモニー理論の主体を引用する。
たとえば、フェミニズム―民主主義―平和運動―環境保護活動という連鎖を取り上げてみよう。民主主義闘争への参加者が、女性の解放なしには真の民主主義はありえないことを「経験から見出し」、環境保護の闘争への参加者が、自然に対する好戦的で男性主義的な態度を放棄することなしには自然との真の和解はありえないことを「経験から見出し」、平和運動への参加者が、ラディカルな民主化なしには真の平和はありえないことを「経験から見出す」かぎりで、つまりはここで挙げた四つの立場のアイデンティティのいずれもが、その他の三つの立場の隠喩的な剰余でもって特徴付けられるかぎりで、私たちは統一的な主体-位置が構築されていると言うことができるのである。民主主義者であることは同時にフェミニストでもあるというわけだ。
そして補足として「そのような統一がつねにラディカルに偶発的であるということ、象徴的な圧縮の結果であって、それによって先に言及した立場の利害が長い目で見て「客観的にひとつになる」ような、何らかの内的な必然性の表現ではないということである。」と補足する。そしてこの主体はラクラウの前著から「後退」しているとジジェクはいう。
主体の問題に関して言えば、『ヘゲモニー』はラクラウの以前の著作『資本主義・ファシズム・ポピュリズム』からの後退を見せている。この本のなかでは、審問という精巧に作られたアルチュセール的理論が見出されるのに対し、『ヘゲモニー』においてラクラウ=ムフは、基本的にはいまだ主体を「ポスト構造主義」に特徴的な仕方で、つまりは様々な「主体-位置」を想定するというパースペクティブから捉えているのだ。 敵対性的転換
私が私自身との同一性を獲得するのを妨げているのは外部の敵ではない。すべてのアイデンティティはそれ自体ですでに不可能性によってブロックされ、印づけられているのだ。そして外部の敵とは単なる小片、つまり私たちがそのうえに本格的で、内在的な不可能性を「投影し」、「外在化」する現実の残余なのである。
上記はつまり、アイデンティティの充足を阻害するものは外部の他者ではなく、その不可能性はまさにアイデンティティそのものにあらかじめ書き込まれている。ジジェクはこの敵対性の次元を、主体位置のあいだでの敵対関係(=外的な敵対関係)と区別して「純粋な敵対性」(=内的な敵対関係)と呼ぶ。つまり、否定的なものは「われわれ」の外部ではなく内部そのものに巣食っているということである。これがラクラウが『現代革命の新たな考察』で導入した概念でありムフの手から零れ落ちた存在論的契機なのである。 私たちはこの欲動の自己-阻害に盲目的になっているのだ。それだからこそ、私たちがそのもっともラディカルな次元において、つまり自己-妨害として敵対性を経験するのは、社会的現実における敵対的な闘争で敵に勝利する瞬間にほかならない〜主体のラカン的概念はまさに、自己-阻害、自己-妨害としての「純粋な」敵対性の経験を指しており、この内的限界こそが、象徴界がその十全なアイデンティティを実現することを妨げているのである。
この正確な意味において、主体は主体化を超えている、あるいはその手前にあるのだ。主体化は、それを通じて彼/彼女に与えられているものを意味の宇宙に統合する運動をデザインするものである―この統合が最終的にはつねに失敗するために、象徴的な字宙へと統合されえない一定の残余が、主体化に抗うひとつの対象が存在するのであって、そして主体とはまさにこの対象と相関関係にあるのだ。言い換えれば、主体はそれ自身の限界、主体化されえない要素と相関関係にあり、そのため主体とは主体化によっては埋めることのできない空虚の名なのである。つまり主体とは主体化が失敗する地点なのだ https://scrapbox.io/files/65640fd3d42591002145fdc3.png
アルチュセールの語るところ「イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける」というテーゼに代表されるように、人間個人はイデオロギーによる呼びかけに答え、それが割り当てる役割を引き受けることによって初めて「同一性/アイデンティティ」を獲得して主体として存在するようになる。主体はイデオロギーへの同一化によって構成される。だが、なぜ人間はイデオロギーに同一化するのか、そもそも同一化なるものがなぜ必要なのか?いささかハイデガー的な例を用いれば、石はもちろんのこと、動物も恐らくはそんなことはしないだろう。同一「化」が必要であること、そのことの根拠、そのようなことの「可能性の条件」は何か。恐らく答えは一つしかない。つまり、人間は何らかの仕方でそもそものはじめから同一性が壊れてしまっているということ、はじめに自己不一致があるということである。 以上の問いをより一般的に言い換えれば、なぜ人間は同一性なるものをそもそも問題とするのか、アイデンティティの確立が必要だとされ、その危機なるものが存在するのかということである。ここでもやはり自然的な同一性の解体、原初の自己不一致を想定せざるを得ない
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「史上初の普遍性の概念―デカルトのコギトでは、普遍的なものは個別性に無関心な、実定的で中性的な内容である―と第二のそれ―マルクス主義では、普遍的なものは個別のアイデンティティの歪んだ表現である―に触れた後で、彼は付け加える。」(『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』よりラクラウがまとめたもの。) しかし第三の概念があり、これはエルネスト・ラクラウが詳細に掘り下げている。《普遍》は空虚だが、しかしまさに空虚でありながら、つねにすでに満たされている。つまりその代役を演ずるなんらかの偶発的で個別の内容がそのヘゲモニーを握っている―どの《普遍》も、さまざまな個別の内容がヘゲモニーを求めて争う戦場なのだ。〜この第三の型と第一の型を区別することによって、内容がなく中立的で、だからこそあらゆる種が共有できる効果的な《普遍》が可能になる。〜《普遍》のあらゆる実定的な内容は、ヘゲモニー闘争の偶発的結果でありー《普遍》はそれ自体において絶対に空虚なものである。 https://scrapbox.io/files/654c6f96b291d1001c5d07df.jpeg
階級闘争か、ポストモダニズムか?ええ、いただきます!
バトラーの「欲望根源的な再帰性の概念と、「受苦の愛情」」とラクラウの「象徴的/構造的差異の論理とはまったく異なる敵対性の概念と〜必然的にして不可能な普遍性という空虚な場を満たそうとしておこなわれるヘゲモニー闘争」に対して「賛同するし、すばらしく生産的」だとして下記のように述べる
どちらの場合も問題は、不可能にして同時に必然的な、否認されているが避けられないもの(普遍性、「受苦の愛情」)だ。
そこで「わたしの望み」として下記のように述べる
問われているもの自体、つまり現代におけるラディカルな政治思想の(不)可能性と取り組むこと 上記のように自らの立場を明らかにして下記批判に至る。
彼らが提示しているのは、あらゆるイデオロギー-政治プロセスの形式的座標なのか。それとも彼らはただ、古典的左翼が撤退した後に出現した、現代の(ポストモダンの)特定の政治実践の理論構造を記述しているのか。前者であるようにみえるし、しばしば彼らははっきりとそう述べている〜しかし彼らはたんに、「ポストモダン左翼」という特定の歴史的契機を理論化しているだけだという議論もできよう。
上記でジジェクが述べていることは本書の下記註釈がわかりやすい
非歴史的なアプリオリというより、いわゆる「大きな歴史-イデオロギー物語の崩壊」という歴史的契機の表れなのではないだろうか。
つまり大きな物語の終焉を「理論化」しただけに過ぎなく、元来の政治モデルに台頭する「非歴史的なアプリオリ」ではないということ。そして下記のように痛烈に批判する。 「本質主義的」マルクス主義からポストモダンの偶発的な政治への移行(ラクラウ)、あるいは性の本質主義から偶発的なジェンダー形成への移行(バトラー)、あるいはさらに例をあげれば、形而上学者からアイロニストへというリチャード・ローティの移行は、ただの認識の深化ではなく、資本主義社会の性質そのものの全地球的な変化の一部である。これまでは人々は「愚かな本質主義者」であり、セクシュアリティを自然とみなして信じていたが、いまはジェンダーがパフォーマティヴに実行されると知ったというわけではない。 これは後々わかるが、彼が言いたいことはつまりグローバル資本主義に代わる普遍性を立ち上げるラディカルな立場であり、ラクラウとバトラーのラディカル・デモクラシーはそれに至っていないということである。その具体的な反論が下記である。
ラクラウ理論の評価と限界
ヘゲモニー概念の核心は、社会内差異(社会空間の内部の諸要素)と、社会そのものを非-社会(カオス、完全な頹廃、あらゆる社会的絆の崩壊)から隔てる限界との、偶発的な結びつきにある―つまり、社会的なものの限界、その外部にある非社会的なものとの境界線は、(ある特定の差異がその場所に置かれて)社会空間のなかでの諸要素間の差異としてみえてこない限り、表現されないのである。いいかえると根源的な敵対性は、制度内部にある特定の差異を通じて、歪んだかたちでしか表象されない。だからラクラウの論点は、外的差異はつねにすでに内的でもあること、しかも両者の結びつきは絶対に偶発的なものであるということだ。それはへゲモニーに向かう政治闘争の結果であって、差別化される行為体の社会存在そのものに刻みこまれているわけではない。
この外的差異=内的差異という図式はおそらく構成的外部のこと(恐らく) マルクス主義の歴史において、ヘゲモニーを規定する緊張をもっともよく表しているのは、革命のラディカルな等価性の論理と、その逆の「修正主義」的姿勢とのあいだの揺れだろう。後者は、革新的な目標を水で薄め、これを妥協によってしだいに解決されていくはずの特定の社会問題としかみなさない。前者、全世界の社会変革という普遍的な課題の実現に向かうために、さまざまな偶発的集団(労働者から植民地化された小作農まで)に頼らなくてはならなかった。〜この行き止まりの唯一の解決策は、これをそのとおり受け入れること-不可能な全体性を表す個別の要素のあいだの、終わることなき闘争こそ、われわれの運命であることを受け入れることだ。
しかし、ここで「いくつかの問題」と鉢合わせるという。そこで下記のような疑問を問いかける。
この解決法には、不可能な「十全性」への無限の接近を一種の「統制的理念」としたカントの論理がないだろうか。「失敗するのはわかっている、でも求め続けなくちゃいけないんだ」という諦念/シニシズムの態度が、ここにはないだろうかー自分が向かっている全世界的な「目標」は不可能であり、最終的に努力は潰えることを知っていながら、部分的な問題を解決するための活力を与えてくれるかけがえのない魔法の呪文として、この全世界的「亡霊」の必要性を認める行為者の態度が。しかも(同じ問題のべつな面にすぎないが)この選択肢―「社会の十全性」を達成することと、「さまざまな部分的問題」を解決することとの選択―は、あまりに限られてはいないか。「第三の道」が、ともかくここではリスク社会の理論家がいうのとは違う意味で、存在しないだろうか。「民主主義発明」のときに起こったように、社会の根本的な構造原理そのものが変わることはないのか。封建君主制から資本主義民主主義への移行は、「社会の不可能な十全性」には達さなかったとしても、「さまざまな部分的問題を解決する」より多くのことを、たしかになしとげたのではないか。 ここでジジェクは「マルクス主義的本質主義から「ポストモダン」な認識へといたるラクラウの物語」を語る。「プロレタリアートという普遍的な階級」で「唯一の「歴史の主体」」として「経済的階級闘争を特権化する」マルクス主義的本質主義から、「ポストモダンな闘争の不可避の複数性への変化」というニューレフトお決まりの物語を肯定すると同時に、疑問符を投げかける。
しかしこの物語の語り手はどうしたって、心の奥の諦念を見て見ぬふりをしている。彼らは資本主義を「街で唯一のゲーム」として受け入れ、現存する資本主義リベラル政体を乗り越えようとするどんな現実の試みも拒絶しているのだ。ウェンディ・ブラウンは、この点を明快に説明している。「現代アメリカにおけるアイデンティティの政治は、ある意味資本主義を再び自然とみなすことによって達成されている」。
そこでまずポモ政治を「脱自然化=再政治化」という契機で評価する
いわく、ポストモダン政治は、経済を脱自然化=再政治化する必要をもちろん認めるし、そもそもポストモダンの論点とはまさに、マルクスが「脱構築せずに」残した領域(性関係、言語...)を脱自然化=再政治化すべきだということなのだ...。ポストモダン政治の明らかな功績は、それまで「非政治的」とか「私的」と思われていた領域を「再政治化」していることにある。
そしてもう一度始めで問うた質問をより明瞭に投げかける。
しかし、ここで資本主義は再政治化されていないという事実は変わらない。というのも、ポストモダン政治が作用している「政治的なもの」の概念と形式は、経済の「脱政治化」にもとづいでいるからである。政治的主体化の複数性というポストモダン・ゲームでは、いくつか問わない質問があるのがゲームの決まりである(資本主義をどう倒すのか、政治的民主主義そして/あるいは民主主義国家の本質的限界とはなにか⋯⋯)。さて、ラクラウの反論はここでもはっきり予測できるだろう。彼にとって《政治》とは特定の社会領域ではなく、《社会》を基礎づける偶発的な決定のまとまりのことである。わたしの答えはこうだ。ポストモダンにおける新たに多様な政治的主体の出現は、真の政治的行為という根源のレベルに達することがけっしてない。
則、経済或いはネオリベの自然化及び脱政治化という契機のもと、ポストマルクス主義が成り立っているという反論である。これは下記言明にも現れている
つまり資本主義経済的なものを「本質主義」として禁句に貶め背景化してしまうものがヘゲモニー理論であるということ。
バトラー理論の評価と限界
「ラクラウの不可能/必然的な普遍性」と同時に「バトラーによる普遍性の肉づけ」も「そこらへんの歴史主義者に比べてはるかに洗練されている」と評価し、下記のように述べる。
こうした歴史主義者は、どの普遍性も、じつはひそかにある個別の内容を特権化し、他のものを抑圧し除外しているのだから偽りであるとして拒絶する。バトラーは普遍性が不可避であることをよくわかっていて、彼女の論ではは―もちろん、普遍性がはっきりと歴史的にかたちをとった場合は、そこに一連の包摂/排除があるのだが―普遍性は、こうした包摂/排除を疑問視する空間を開くと同時に支えてもいる。包摂/排除の限界点をめぐる「再交渉」は、終わることなく続いていくイデオロギー的-政治的ヘゲモニー闘争の一部なのである。
上記で述べられているものは、ある特定の普遍性はある特定の個別性に根差した恣意的なものでしかないという主張に留まらず、普遍性という概念体自体が「開かれ」を造るということ、そしてその開かれに基づく絶え間ない「再交渉」という-ラクラウのヘゲモニー理論でいう「終わることなき闘争」-地平に洗練したこと、である。そしてその点においてラクラウとバトラーは合流し、ともにラディカル・デモクラシーを掲げるということである。その例として普遍的人権を挙げる。
「普遍的人権」という支配観念は、ある種の性的志向と実践をあらかじめ排除している―あるいは少なくとも、それを二次的なものに貶めている。人権の概念を再定義し拡大して、あらゆる「逸脱した」実践を含みこむようにすればよいと主張するありがちのリベラルのゲームを受け入れるのは、あまりに単純だろう。標準的なリベラル・ヒューマニズムがみくびっているのは、こうした排除が人権の「中立的」普遍性を構造的に規定していること、したがってそれらを本当に「人権」に含めれば、「人権」のいう「人」がなにを意味するのか、その観念が根源から説明し直され、ひっくり返りすらすることである。にもかかわらず、普遍的人権というヘゲモニー概念に含まれる包摂/排除は、固定したものではないし、この普遍性とただ一体化しているのでもない。絶えざるイデオロギー的政治的闘争の焦点、再交渉され再定義される普遍性への言及は、まさにこうした問いかけと再交渉を活発にする道具として働く(「もし普遍的人権を認めるなら、どうしてわれわれ〔ゲイ、黒人⋯⋯〕はそこに入らないんだ?」)。
そしてバトラーの普遍性を下記のように締める。
開かれた否定性、キルケゴールなら「生成途中の普遍性」と呼びそうなものの破壊力と、確立され固定した普遍性の形式とのあいだの緊張のこと〜普遍性が「現実」になるのは、まさにその基盤をなす排除を問題としてとりあげ、それらを絶えず問いかけ、再交渉し、置換させていくことによってのみである。つまり、その形式と内容の亀裂を認め、その観念自体が達成しえないものであると考えることによってである。これこそ、「パフォーマティヴの矛盾」を政治の武器として用いるというバトラーの考えが目指すものだ。 ここでジジェクは、バトラーの理論は「これまでは人々は「豊かな本質主義者」であり、セクシュアリティを自然とみなして信じていたが、いまはジェンダーがパフォーマティヴに実行されると知った」という「非歴史的なアプリオリ」という訳ではなく、それは単なる「「大きな歴史-イデオロギー物語の崩壊」という歴史的契機の表れ」でしかない、と批判するのだ。
ラクラウ=バトラーのカント的性格
「失敗するのはわかっている、でも求め続けなくちゃいけないんだ」という「統制的理念」としてのカントの論理は下記で表現される。 ここでもラクラウの理論構造で決定的なのは、ヘゲモニーの論理という「時間を超えた」存在論的アプリオリと、漸進的な移行という歴史物語との、いかにもカント的な相互依存だろう。この歴史物語では、伝統的な「本質主義的」マルクス主義の階級闘争が、しだいに移行して、ヘゲモニー闘争の偶発性を全面的に認めるようになるのである。カントの超越論的アプリオリが、啓蒙の成熟へと向かう人類の漸進という彼の人類学的-政治的進化論の物語と相互依存しているのと同じことだ。 そして「カント的なのはバトラーとラクラウ」と、両者に範疇を広げカント的性格を指摘、その訳を述べる。
どちらの論でも、抽象的でアプリオリな形式モデル(ヘゲモニー、ジェンダー・パフォーマティヴィティ)が、その枠組みのなかで完全な偶発性を保証している(ヘゲモニーへ向かう闘争がどんな結果を生むかは保証されず、性の構成は決定的な参照先ではない...)。どちらにも「みせかけの無限性」の論理がある。最終解決はありえず、複雑で部分的な置き換えの終わることないプロセスがあるだけだ。
まずラクラウについて
ラクラウのヘケモニー論は、アプリオリで形式的な社会空間の型を提示しているという意味で、「形式主義」ではないのか。ヘケモニーの空虚なシニフィアンはつねに存在するだろう、ただ内容だけが移り変わってゆく⋯⋯。どうしても言っておきたいが、カント的形式主義とラディカルな歴史主義はじつは対立するどころか、同じコインの裏表である。どんな歴史主義も、その領野を規定する最小限の「非歴史的な」形式的枠組みに依存しており、そこで偶発的な包摂/排除、置き換え、再交渉、ずらしといった終わりなき開かれたゲームが起こる。
つぎにバトラーについて
それでは性的差異の「非歴史的」な地位をどのように考えればいいのだろうか。おそらくクロード・レヴィ=ストロースの「ゼロ制度」にたとえてみるといくらか役にたつだろう。このことばは、『構造人類学』における、湖水地方の一部族ヴィネバゴ族の建物の空間配置を論じた、いかにもレヴィ=ストロースらしい分析で使われる。この部族は二つの下位集団(「半横」)、「上からの者たち」と「下からの者たち」に分かれている。紙なり地面の上なりに、村の全体図(小屋の空間的配置)を書いてくれと頼むと、相手がどちらの集団に属しているかによって、こ種類のまったく違った答えが返ってくる。どちらも村を円として捉えているが、いっぼうではこの円のなかに中心となる家々の円がもう一つあり、村は二つの同心円として描かれる。もういっぼうの集団では、円は真っ二つに割れ、真ん中にはっきりと線が引かれる。いいかえると、第一集団のメンバー(「保守的集団主義者」と呼ぼう)は、村の全体図を、中央の神殿をほぼ左右対称に囲む家々の円環と見ている、第二の(「革命的-敵対的」)集団のメンバーは、見えない境界線によって分けられた二つの家々のまとまりとして村を見ている⋯⋯。 ここから「社会空間の認識は観察者の属する集団によって異なると主張すべきではない」とし、「これこそ、共同体が安定し、調和の取れた全体になることを拒む社会関係の不均衡」とする。この「原理的な敵対性」にわかりやすく右翼/左翼を当てはめて論じる。
左翼の人間と右翼の人間は、レヴィ=ストロースの村の対立する二つの集団とそっくり同じようにふるまっている。彼らは定まった政治空間のなかで別々の場所を占めているのではなく、それぞれ別のかたちで政治空間の配置を見ている-左翼の目には、原理的敵対性によって内的に引き裂かれた場、右翼の目には、邪魔をするのは外からの侵略者しかいない《共同体》の有機的統一。
つまり「保守的集団主義者」≒右翼的で、「革命的-敵対的」≒左翼的なのである。ただそうなると部族的な「同一性はどこかに象徴的に書き込まれているはずである」という疑問符が浮かび上がる。それが「ゼロ制度」である。そしてそれを下記のように論ずる。
これは一種制度化されたマナのようなもので、はっきりした意味を持たない空虚なシニフィアンである。これが意味するのは、意味の不在に対立する「意味」そのものの存在でしかないからだ。はっきりした実体的な機能を持たない特定の制度―その唯一の機能は、なんらかの社会制度が現実に存在しているという信号を発して、制度の不在、前社会的カオスに対立するという、完全に否定的なものである。こうしたゼロ制度を参照することで、部族のメンバー全員が、自分たちを一つの部族に属するものとして経験することができる。〜具体例をあげよう。近代的な国家の観念は、こうしたゼロ制度ではないだろうか。直接の家族や伝統的な象徴基盤に根ざした社会の紐帯が溶け去るとともに、つまり近代化の波によって、社会制度が自然な伝統ではなく「契約」の問題として経験されるようになってきたとき、近代国家は現れたのではないか。とくに重要なのは、国家のアイデンティティがとりあえず最小限に「自然」なものとして、「地と土」に根ざしたものとして経験されること、だから本来の意味での「人工的な」社会制度(国家制度、職業⋯⋯)とは対立したものとして経験されることである。前近代の諸制度は、「自然化された」象徴的実体(疑問の余地なき伝統に根ざした制度)として機能していたが、制度が人工品とみなされるようになったとたん、自然な共通の足場の役目をはたす「自然化された」ゼロ制度が必要となってきたのだ。
つまり「前社会的カオスに対立する」信号を発することによって同一性をもたらす「空虚なシニフィアン」としての「ゼロ制度」に立脚することで、我等は連帯しているということ。さらに前近代はそれが「家族や伝統的な象徴基盤」でたったが、それが極めて人工的な社会契約であったことが明らかになったことによって、土地に立脚する国民国家へと変貌を遂げた。則、「自然化された」のだ。そしてここで性的差異へ移行するし「ゼロ制度の論理は、社会の統一性にだけでなく、その敵対性の亀裂にも応用できる」とする。
性的差異は究極には、人類内部にある社会的亀裂のゼロ制度、自然化された最小限のゼロ差異、あらゆる社会的差異の記号化に先立って、この差異そのものの存在をしめす亀裂ではないだろうか。ヘゲモニーをめぐる闘争はここでも、いかにゼロ差異が他の個別の社会的差異によって重層決定されるかをめぐる闘争なのである。〜どちらの場合も―国家でも性的差異でも―「前提を措定する」ヘーゲルの論理に固執するのが大事だろう。国家も性的差異も、文化によって後から表現/「媒介」される直接的/自然な前提ではない―どちらも象徴化という「文化」プロセス自体によって設定(前提)されている(後から遡及的に措定されている)のである。
つまり国家も性的差異もゼロ地点が存在すること。これによって統一されたり引き裂かれたりするということである。
最後にラカンは非カント的或いは、その正反対とする。
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場を保つ
とうとう資本主義という大問題にやってきた。ポストモダン政治を唱える者は、資本主義を「街で唯一のゲーム」として受け入れ、既存の自由資本主義体制を打ち破ろうとする試みをいっさい断念しているというわたしの主張に、ラクラウはこう答えている
まず、この文がなにを意味しているかを強調しておこう。この文の意味は結果的には、現在、グローバル資本主義に代わりうるものは想像すらできないと言うことだ-左翼に残された唯一の選択肢は、「国家規制と民主的な経済管理を導入し、グローバル化の最悪な結果を避ける」こと、つまりことの流れに身を委ね、避けようのないものの効果が壊滅的にならないよう抑えることだけに活動を限るという、緩和療法なのである。 ユートピア論
左翼の悪党ぶりを目の当たりにしている現在、以前にもまして、グローバルなべつの可能性を開くユートピアの場を保つこと、借りものの時間を生き、その内容が満たされるのを待つことが重要なのである。〜68年のモットー、リアリストになろう、不可能を要求しよう!、こそわたしの固い信念であり、政治的-存在論的前提である。リベラル民主主義の地平にとどまって、変化と再意味づけを唱える者こそ、その努力が、結局人類の顔に資本主義を貼りつける美容手術以上のなにかになると信じている以上、真のユートピア信仰者なのである。
『思想』2004年8月号
アンチノミーとしての生産と流通
ジジェクはまず柄谷行人のカント的視点について述べる
カントの立場は、「自分の視点で見ることでも他人の視点で見ることでもなく、それらの差異(視差)から露呈してくる「現実」に直面することである。柄谷は、物自体というカントの概念を、われわれの理解を超える超越論的対象としてではなく、われわれの現実の経験における還元不可能でアンチノミカルな性質を通してのみ認識可能なものと読み取ったのである。
柄谷は上記に基づいてマルクスを解き明かす。
柄谷によれば、マルクスが、古典経済学(リカードと彼の労働価値説―哲学的合理論に対応するもの)と、新古典派による、実体を欠いた純粋に関係的に在るものへの価値の還元(ベイリー哲学的経験論に対応するもの)の対立に直面した時、彼の「経済学批判」は正に、視差的視点への同様の飛躍的な転回を遂げた。マルクスは、この対立をカント的アンチノミーとして扱った―すなわち、価値は、流通の外部、つまりは生産に由来すると同時に、流通の内部に起源をもつ。マルクス以後の「マルクス主義」社会民主主義的、共産主義的見解の両方―は、この視差的視座を失い、交換、消費といった「仮象的」領域に対して、真実の場所としての生産の一方的な昇華へと退行した。柄谷が指摘するように、若きルカーチからアドルノ、さらにはフレドリック・ジェイムソンに至るまでの最も洗練された物象化論さえも、この落とし穴に陥っている。 則、資本制経済のアンチノミカルな性質としての「生産と流通」を両者共に思考することなく、片方のみを扱ってしまっているといううこと。この双方を扱うことによってどのような導出ができるかを下記のように述べる
生産過程と流通過程の対立もまた、視差の対立である。価値は生産過程において作り出される、確かにそうだ。しかしながら価値そこで潜在的にのみ作り出される、なぜなら価値は、生産された商品が売られ、したがって、M-C-M'の円環が完結する時においてのみ、価値として実現される。価値の生産とその実現の時間的ズレは、ここで極めて重要である。たとえ価値が生産によって作り出されたとしても、流通過程の完結の成功なしには、厳密な意味で、価値は存在しえない―ここでの時間性とは、前未来のそれである、すなわち、価値は即座に「ある」ことはない、それは唯一、「あるであろう」。それは遡及的に実現され、遂行的に成立するのである。価値は、生産において即自的に生み出されるが、その一方で価値は、完結した流通過程をとおしてのみ対自的に価値となる。これが、柄谷が、生産過程において生み出されると同時に生み出されない価値のカント的アンチノミーを解決する仕方である。この即自と対自のズレゆえに、資本主義は形式的な民主主義と平等を必要とするのである。
上記の意味で本論考の冒頭(下記引用)の言明の意義が浮上してくるはずだ
現代英語において、pigは、農民が扱う動物を指し、一方でporkは、われわれが消費する食肉である。ここでの階級的特微は明らかだ、pigは古サクソン語であり、サクソン人は貧農であったが、一方で、porkは、フランス語のporqueに由来し、農民が育てたpigをほとんど消費していたノルマン人の征服者が用いていた。消費から生産を隔てるズレを示竣するこの二重性こそが、柄谷行人が、彼の恐るべき『トランスクリティーク』において、「視差的」次元として言及する状況である。 https://scrapbox.io/files/65702e46ec5e800024abda0f.png