ラクラウ
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多元化社会の実態
今日ますます他者への「排除=不寛容」が蔓延することを下記のように述べる
主体(=主体位置)の形成段階:グラムシを乗り越える ラクラウ=ムフは自らのヘゲモニー概念を練り上げるにあたって、グラムシのヘゲモニー概念の限界を乗り越えなければならない、と主張する。たしかに、グラムシはロシア・マルクス主義とは異なり、「集団的意志」を経済決定論的に捉えるのではなく、それが道徳的・知的な指導というヘゲモニー的実践によってはじめて構成されるものだと考える点で優れている。つまり、グラムシは政治的な主体が経済構造によって必然的に規定されて予め存在しているとは考えない。それはあくまで道徳的・知的な実践の結果として形成される。
つまりラクラウ=ムフによれば、にもかかわらずグラムシはこの偶発的なへゲモニー的実践の中心点として階級を設定してしまっている、という。グラムシのヘゲモニー論における偶発性は階級を前提してしまっているが、本来は階級あるいはそれが依拠するところの経済構造じたいがへゲモニー的実践の結果なのである。そこで固定的アイデンティティを拒み不安定な諸要素を基礎づけとする
「主体」というカテゴリーを使うときにはいつも、私たちはなんらかの言説構造の内部での主体位置という意味で、それを使っている
また、ここで「主体位置」と呼ばれているものは、ラクラウの本質主義批判に起因している。つまり個人のアイデンティティは、例えば階級に応じて「客観的に」決定されるものではありえず、あるいは自由に選択されたりするものでもない。むしろそれは、個人が「構造的に階層社会的、文化的、政治的、経済システムに位置づけられている」ことを指しており、「各々の主体位置は、他の主体位置との示差的な関係を通じて構築される」とされる。
イデオロギー的諸要素の意味や社会的行為者アイデンテイティがア・プリオリに決定されているのではなく、つねにすでに未決定な状態、もしくは不完全な状態であることを示したのである。
上記提言が、グラムシが基盤=土台にした階級還元論(=本質主義)を乗り越えることなのである。則、アイデンティティが階級や経済的土台によって決定されるとするア・プリオリ論を放棄し、むしろ主体がある言説内でどのような位置を占めるか、あるいは社会におけるどのような諸要素と節合されるかによって偶発的に決定されるという、非本質主義的ア・ポステリオリ論を示したということである。
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上記主体位置について論じた観点から「第一の政治問題が導出される」
「境界効果」の産出~はかくして、明確か所写の分離のうえに、また、最終的に獲得された参照枠組みのなかに、基礎を置くことをやめるのである。この枠組みの産出、そして、相互に敵対的に対決するようになるであろう諸アイデンティティの構成が、いまや第一の政治問題となる。
ここで「第一の政治問題」と言われているものこそ、階級的紐帯から解放され、社会内に浮遊したアイデンティティを固定化するべく繰り広げられるヘゲモニー闘争なのである。則、ア・ポステリオリ=その位置はつねに移動する可能性に開かれているということであるからである。
それは社会が根源的な意味で「偶然的なもの」(非本質主義的ア・ポステリオリ=言説の全般的エコノミー)であることを引き受けながら、それでもなおそこに「必然的なもの」の網をかけようとする不可能な実践を試みるものなのである。これがヘゲモニー闘争の内実である。 基礎づけ
私たちが節合(articulation)と呼ぶのは、節合的実践の結果としてそのアイデンティティが変更されるような諸要素のあいだに、関係を打ち立てるような一切の実践である。節合的実践から生じる、構造化された全体性を、私たちは言説と呼びたい。示唆的な諸位置は、言説のなかで節合されているかぎりで、契機と呼ばれる。それとは対照的に、要素とは、言説的に節合されていないすべての差異である。こうした区別は、正しく理解されるためには、言説的編成の特徴的な一貫性に関して、言説的なものの次元と広がりに関して、そして言説的編成によってされる開放性ないしは、閉鎖性に関して、三つの主要なタイプの特定化を必要とする。
言説的編成は、その諸要素の論理的一貫性においても、超越論的主体のア・プリオリ性においても、フッサール風の意味付与的主体においても、さらには、経験の統一性においても、統一されてはいない。言説的編成に私たちが付与するタイプの一貫性とは−のちに指摘するような差異を伴いはするが−フーコーが定式化した「言説的編成」の概念を特徴づけている、分散する規則性に近い。 節合
節合された言説的全体性においては、一切の要素が示差的な位置を占めるのであり。私たちの用語でいうなら、一切の要素がそうした全体性の契機に還元されている。この全体性においては、すべてのアイデンティティは関係的で、すべての関係が必然的な性格をもっている。〜いかなる関係も偶発的あるいは外的ではない。
下記にて物質的諸要素が関係的アイデンティティを構成することを示す。ここでは非言語的=物質的なものが“使用”を内在していることを言語ゲームを用いて説明する。
示した通りラクラウ=ムフによれば、社会内の諸要素のアイデンティティは階級によって・プリオリに決定されるのではなく、節合実践を通じた言語的/非言語的な他の諸要素との関係において、重層決定されるものである。それでは、いかに社会的言説の場は縫合され、システム内で浮遊する諸アイデンティティの差異の戯れは固定化されるのだろうか。
ここでラカンが言語分析に導入した「クッションの綴じ目」を導入する。ラクラウ=ムフはこのロジックをアイデンテイテイのレヴェルで応用したのである。つまり浮遊するシニフィアン連鎖にシニフィエを紐付けること。 則、アイデンテイティは「クッションの綴じ目」によって縫合されることで、このような節合関係を通じて遡及的に生み出されるのである。それゆえヘゲモニー闘争とはこのアイデンテイティ構築に関わる結節点をめぐる闘争なのである。
敵対
社会的なものは社会対象的で閉ざされた差異システム―を構築しようとする部分的努力としてのみ存在するので、最終的縫合の不可能性を証言する敵対性は、社会的なものの「経験」である。厳密にいうなら、敵対性は社会にとって内的ではなく、外的である。というより、それは社会の限界を構成しており、社会がみずからを完全に構成することの不可能性を構成している。
このように敵対性はシステムの「外部」から、「内部」の縫合を妨げるものとしてある。したがってラクラウ=ムフの「社会は存在しない」という有名なテーゼはこの意味において理解する必要がある。 ここまでわれわれはラクラウのラディカル・デモクラシーを支える概念装置を見てきたが、それではこれらの理論的構成でもって、いかなる民主主義的展望が描かれるのだろうか。ラクラウ=ムフは彼らの「戦略」を次のように述べている。
私たちの中心的課題は、不平等に対する戦いと服従関係への挑戦とに向けられた共同行動を出現させるための、言説的諸条件を確定することである。私たちの課題は、服従関係が抑圧関係になり、それによって敵対性の場になる条件をつきとめることだといってもよい。
ラクラウ=ムフによれば、閉じたシステムのうちで自明視された服従関係―それゆえそこではいかなる敵対性も不可視である―を、敵対性が噴出する抑圧関係へと変容させるためにこそ、民主主義的言説は要請される。
根源的
「調和した社会」というビジョンを不可能であると叩きつけ、むしろ不調和としての社会的敵対性をこそ、デモクラシーに必須なものとすること。 Kioupkiolisは「ラディカル・デモクラシーの現代的概念を他の民主主義的パラダイムから区別しているのは、それが偶発性、敵対性、対立、そして開示性を強く打ち出していること」という。
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民主主義の政治体は排除によって構成されており、その不在に依拠して成り立っている政治体はつねに回帰して、それに憑依するというものである。
そしてこの政治体制は下記前提によって有効であると語る
この排除されたものの回帰の例がポピュリスト・モーメントなのであり、ポピュリズムこそが民主主義の民主制を補うものなのである。 /icons/hr.icon
主体位置について
私が自身のアイデンテイテイを獲得することを妨げるものは外部の敵ではない。すべてのアイデンティテイはそれ自体すでに遮られ、不可能性を運命付けられており、そして外的な敵とは単なる小片、つまりわれわれが本来的で内在的な不可能性を「投影」、あるいは「外在化した」現実の残余に他ならない。
主体が「切断線」を引かれることで成立するものであり、外的な敵は内在するものの投影に過ぎない。独立=閉鎖的でありながら緊密に社会と関わりあい自己社会化する様がルーマン的だなと。 /icons/hr.icon
/icons/bard.icon 山本圭解釈
ラクラウ説明
「クッションの綴じ目pointsde capitor」呼ばれる〜結節点を中心にして、そこから放射状に諸要素(諸契機)を配備し、意味のシステムを構築しているのである。ここで例をひとつ参照してみよう。たとえば「共産主義」が結節点として機能する場合、民主主義はブルジョア民主主義とは異なる「真の民主主義」として、フェミニズムは分業の結果としての女性搾取への抵抗として、エコロジー主義は資本主義的生産様式がもたらす自然破壊への反対として、そして平和運動は反帝国主義として縫合されるだろう。ここでは主人のシニフィアンとしての「共産主義」が、浮遊する意味の流れを引き留め、それを固定する役割を担っているのである。 そして下記のように続ける
言説内の意味の流れが完全には固定しきれないこと、このことは同時にシステム内の諸要素、つまりは個々のアイデンティティの不安定性を意味している。これらは少なくとも部分的には「浮遊するシニフィアン」という性格を免れられず、したがって完全に充溢したアイデンティティの獲得は不可能となる。しかしながらこの不可能性はラクラウにとってなにも悲観することではない。むしろ言説空間が不完全にしか縫合されないことで、不安定な諸要素を新しい等価性の連鎖へとつなぎとめる余地が開かれるのであり、言説実践を通じて等価性の連鎖を拡張するゲームにラクラウが与えた名が「ヘゲモニー」である。ラクラウはこの概念をアントニオ・グラムシから継承したうえで、それを独自に展開しており、それによって、差異の関係として投錨されたアイデンティティの揺らぎから、そこに現れる不安定な諸要素を節合していく政治的プロジェクトが可能になる。〜別言すれば、節合はたえず横滑りする意味空間のなかで結節点を構築し、浮遊するアイデンティティを捕まえ、維持しようとする一連の実践 ネグリ=ハートと分つこと
一方ネグリ=ハートにおいては、いかなる媒介もなくマルチチュードが自生的に出来するかぎりで、いずれも自発性にもとづくアソシエーションの形態を提示している。〜しかしながらラクラウの認識からすれば、社会空間における諸要素のアイデンティティが所与でありえず、それはむしろ言説実践のなかでかろうじて獲得されたものにすぎないとすれば、前述のような実定的なアソシエーションには懐疑的にならざるをえない。このような不安定なアイデンティティの連帯のためには、「関係の肯定性」とは異なる理路が必要となるのであって、すなわちそれこそ肯定性(positivity)ではなく否定性(negativity)の、アソシエーションではなくアーティキュレーション(節合)の理論なのである。 上記の引用からネグリ=ハートとラクラウ=ムフの差異を明らかにする。
ここでホールが繰り返し説く「新しさ」とは、まさに危機がもたらした可能性にほかならない。サッチャーはこのような危機を背景にして浮遊した諸要素、ないしアイデンティティを新しい構成体へと節合したのである。節合は放っておけば自然に生じる何かではなく、ホールが適切にも述べているように、それは「現れる」のではなく「構築されねばならない」のである。このことはアソシエーションとアーティキュレーション(節合)のあいだの差異を浮き彫りにする。すでに議論したように、リベラル・ナショナリズムおよびマルチチュードのアソシエーションが、アソシエートの単位を自立した個人、もしくは独立した特異性として捉え、それら個別的な諸要素のあいだに関係を打ち立てる試みであるとすれば、節合はそれらアイデンティティが節合実践そのもののなかで「事後的に」構築されることを前提としている。 異なる理論的-政治的介入の意義
ラクラウは「ポスト・マルクス主義」の契機を精神分析などを筆頭にした「多様な理論的-政治的介入の帰結」であると論じ、それをハイデガー流に解釈する。 この新しい領野はおそらく「ポスト・マルクス主義」と特徴付けられるものであり、それは多様な理論的-政治的介入の帰結であって、古典的マルクス主義のカテゴリーとの関連においてそれがもつ累積効果は、ハイデガーが「存在論史の解体」(de-struction of the histry of ontology」と呼んだものと同様である。ハイデガーにとってこの「解-体」は、伝統を拒絶するという純粋に否定的な作用ではなく、まさしくその反対のものを示している。この伝統というカテゴリーの原初的な意味(それは長い間淀んでいて矮小化されてきた)が回復されうるのは、この伝統を超えた―しかしそれは伝統との関係でのみ可能である―ラディカルな問いかけによってなのである。この意味において、マルクス主義の歴史の「解-体」は、「階級」や「資本」などの概念の欺瞞的な根拠を乗り越え、そのような概念が打ち立てようとした原初的綜合の意味、それとの関係でそれら諸概念が限定的な選択肢のみを表象していた理論的オルタナティブの全体的システム、そして暴力的に抑圧されてはいるけれども、様々な言説的表層においてあちこちで現れている、構成それ自体に固有の両義性―デリダ的な意味での「イメーヌ」―、これらを再創造することを意味しているのである。 ハイデガーは「存在論史の解体」を「硬くなった伝統を和らげたり、伝統によって重く垂れた遮りを取り除いたりすること」<dann bedarf es der Auflockerung der verhaerteten Tradition und der Abloesung der durch sie gezeitigten Verdeckungen>とも述べたとのこと(引用)。これで補論するに、精神分析などを筆頭にした「伝統を超えた―しかしそれは伝統との関係でのみ可能である」、「多様な理論的-政治的介入」の「ラディカルな問いかけ」が、「硬くなった伝統を和らげたり、伝統によって重く垂れた遮りを取り除いたりすること」を可能にし「打ち立てようとした原初的綜合の意味」を「再創造」することに繋がるのだ。 ポストモダニズムの始まりは3つの意識への到達と見なすことができる。第1に認識論的な気づきであり、科学的進歩をアルゴリズム的な確実性に基づくものではない、移行や再配置のパラダイムの連続として捉えるということである。第2に倫理的な気づきであり、価値の防御や断定を論争的な動きの中に位置づけるということである(ローティによれば、保護主義的な運動)。それはいかなる完全な原理にも立ち戻らないということである。そして第3に政治的な気づきであり、歴史的な到達とは常に反転可能なヘゲモニックで偶発的な接合の産物と見なすことであり、歴史の内在的原則の結果とみないということである。 https://scrapbox.io/files/654ca79101692b002112dde9.png
偶発性・構成的外部
敵対性とはあらゆる客観性の限界である〜すなわち、敵対性は客観的な意味をもつのではなく、客観性それ自体の構成を妨げる〜敵対性の概念においては、われわれは「構成的外部」に直面しており、それこそ「内部」のアイデンティティをブロックする「外部」にほかならない(にもかかわらずそれは、アイデンティティを構成するための必要条件である)。敵対性にあっては、否定はアイデンティティそれ自体の「内部」からではなく、そのもっともラディカルな意味において、外部から生じるのである。
本書では上記とされている点は、敵対性とはあらゆる対象性/客観性の不可能性、その不可避の不安定さを象徴する「私の外部」であるということ。しかしここで敵対性はただアイデンティティを阻害するだけではない。ラクラウによればこの外部はアイデンティティを可能にする「構成的外部」でもある。 ラクラウはこの逆説的な関係を敵対関係のうちに見出すのである。それゆえアイデンティティにとって敵対的な他者は、次のような「二つの決定的で矛盾した役割を同時に遂行している」ことであるという。
一方でそれは、対立しているアイデンティティの十全な構成を「ブロック」し、それゆえその偶発性を示すものである。しかし他方ですべてのアイデンティティがそうであるように、この後者のアイデンティティが関係的なものであり、したがってそれに敵対している勢力との関係にとって外的なものでないとすれば、この敵対者はそのアイデンティティの存在条件でもある。サン=ジュストが述べたように、「共和国を構成するものは、それに対立するものの徹底的破壊である」 外部の敵対性の構成的役割、つまりはいかなるアイデンティティもしくはシステムの存立も外部に依存しているがゆえに、そこにはつねに消去不可能な曖味さが付きまとう。アイデンテイティないしはシステムは外部の他者がいるために不完全なのではない。むしろその可能性を外部に依存しているのであって、そのかぎりでそれは初めから脱臼しているのである。
上記で述べた偶発性とは「敵対性に特有の外部についての定義」に用いるものとして述べ、その種差性をアリストテレスの『形而上学』における「付帯性」の一般的領野のなかに位置づけ、下記のように結論づける。 偶発的なものとは、その本質が実在を含み込んでいないようなもののことである。したがって、本質と実在が一致する唯一必然的な存在は神である。〜それゆえ何かが根源的に偶発的であり、その本質が実在を意味していないということを認めることは、ある実体の存在条件が外部にあるというに等しい。〜偶発性とは、アイデンティティのあいだの外的で偶発的な一連の諸関係ではなく、その関係であれアイデンティティであれ、それらを正確に固定することの不可能性なのである。
そしてそれは構成的外部と下記のような関係で成り立つ
アイデンティティをブロックすることと肯定することのあいだの結びつきこそ、われわれが「偶発性」と呼ぶものなのであり、それは客観性の構造のなかにラディカルな決定不可能性の要素を導入するのである。
転位
『ヘゲモニーと社会主義の戦略』では敵対的な他者の現前がアイデンティティないしはシステムの安定化を妨げるとしていたのに対し、(ジジェクの純粋な敵対性の指摘によって)主体自体のア・プリオリな縫合不可能性が強調されるようになるのだ。このために彼が新しく採用した概念こそ「転位」にほかならない。 第一に、転位は時間性(temporality)の形式である。
ここで時間性とは空間と相対するものであって、ある出来事の「空間化(spatialization)」は時間性の消去を意味している。空間化のひとつの例はフロイトの「いないいない遊び(Fort-Da)」である。 それによると子どもはトラウマ的な出来事である母親の不在をゲームによって象徴化/空間化することで、その不在をなんとかやり過ごすのだが、それが可能なのは不在が現前-不在の継起のひとつのモメントとして書き込まれるからにほかならない。この継起は、反復的な実践を通じて時間をひとつの構造として空間化しているのだ。そして転位とは、この空間化の最終的な失敗であり、いかなる構造にもあったはずの原初の時間性が衆目に曝される地点のことである。
第二の次元として転位は可能性(possibility)の形式である。
この次元において転位は、目的因に支配された単一の可能性というよりも、「語のラディカルな意味」において可能性そのものである。ラクラウは下記のように述べる
転位した構造は、強制力から解放されたもの、そして結果的にその外部にあるものに対して、複数の不確定的な再節合の諸可能性を開いている」(Laclau)
したがって転位は、構造ないしその節合様式の偶発性をもあらわにするだろう。しかしながらこれはあらゆる可能性が等しく開かれているといった、いわば「何でもあり」の状況ではないことに注意しよう。ここでは可能性もまた、部分的には構造によって規定されているのであって、相対的にはコンテクストに依存的である。
第三の次元として、転位はまさに自由(freedom)の形式である。
ここで自由とは規定の欠如を意味している。かりに私の存在が構造によって規定されるとして、その構造が転位しているとすれば、構造は私を主体として構成することに失敗するであろう。それにより私は不完全な構造的アイデンティティを受け取ることになるが、この不完全性がはからずも私に自由の余地を残すことになる。したがって自由とは逆説的にもそうあるように宿命付けられた自由にほかならない。
構造的な非決定が大きくなればなるほど、社会はより自由なものとなるであろう
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このように転位の概念は、相互に関連する三つの形式―時間性、可能性、自由―において提示されている。転位とは構造が完全に縫合されることのア・プリオリな不可能性であると同時に、新しい節合形式のための可能性であり、翻ってそれは政治的エージェントにとっては自由を担保するものなのだ。
則、主体はもはや主体位置のような構造のなかのある場所ではない。そうではなく主体は、主体化作用のプロジェクトの後に残る余り物、象徴化をすり抜けて言説化されなかった残余、或いはアイデンティティの欠如をめぐってのみ成立する。 厳密に言えば、欠如こそが主体の生まれる場所、隙間、故郷なのであり、その裂け目を何とか埋め合わせようともがいているものとしてのみ主体はある。これをラクラウは欠如の主体と呼ぶ。 脱構築解釈
政治的なものの二つの局面
最近-「社会的なもの」と対比させて-政治的なものが論争の的になっているが、脱構築というアプローチが深くかかわっているのも、政治的なものの二つの局面にほかならない。
そこでラクラウは(筆者概略)第一の局面を次のように説明する。
〔下部構造が上部構造を規定するというテーゼによって〕政治哲学の凋落を呼び込んだマルクス的経済決定論の解体され、「社会は内因として働く根底的な論理によって統一されたもの」(つまりその最たる例がマルクスの経済決定論)というパラダイムから、「制度の発生源にある政治的契機に遡る」ことによって「政治的な制度化作用」を明らかにするという「社会の制度化の契機として捉えられた政治的なもの」によって社会を解明していこうというパラダイムに移行したこと、これこそ第一の局面である。 次にラクラウは(筆者概略)第二の局面を次のように説明する。
「社会は内因として働く根底的な論理によって統一されたもの」という公理が解体されたことによって「主権的命令が発せられる場所」が不在とった。それによって「政治的な制度化作用という偶然的な性格」が立ち現れ「政治的制度化作用が不完全である」ことが明らかとなったのだ。
こうした二つの局面によって生じることとしてラクラウは次のようなアンビバレンスな効果が生まれるという。
つまり「社会は内因として働く根底的な論理によって統一されたもの」という定式の崩壊によって生じた「社会の「政治化」」という契機では「社会的なものを押さえて政治的なものが拡大され」るという政治哲学の復権と同時に、「政治化によって社会的連関が偶然の産物ともみられ、その意味で社会の脱字中心化が起こるのだ」。この二重の置換は「言い換えれば、政治的なものを可能にするもの-つまり制度化作用の偶然性-は、政治的なものを不可能にするものでもある。結局、制度化作用が完全に達成されることはないからである。」なぜならそうなってしまっては「社会は内因として働く根底的な論理によって統一されたもの」というパラダイムに回帰することに陥るからだ。
脱構築は、(a)構造的な決定不可能性の領域を拡大することによって、また(b)決定理論のための領域が決定不可能な領域に属することを明らかにすることによって、政治理論における決定的転回をもたらしている。
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アイデンティティとヘゲモニー
唯一の普遍
「わたしたちの政治的配置を記述するのにヘゲモニーは有効なカテゴリーだと、依然として皆考えているのだろうか。これは適切な出発点を示しているのか」というバトラーの問いに対して、「間違いなくイエス」とし、ヘゲモニーは有効なカテゴリーにとどまらず「政治関係が実際に形づくられる地平そのものを規定する」とする。
第一のテクスト
第二のテクスト
この両者のテクストの違いとグラムシへの系譜を導くことによって、ヘゲモニー概念を精微していく 二つの文を比べてみると、いくつか際立った違いがあることがわかる。最初の例では、解放は「社会の根源的な解体」の結果だが、二番目の例では、解放は、市民社会のある一部分が「一般的な支配」を達成することの帰結である。つまり、前者ではあらゆる個別性が溶け去るが、後者では、個別性をくぐることこそあらゆる普遍的な効果が出現するための条件なのだ。
第一のテクストでは「社会の重圧によって機械的に押しつぶされた大衆ではなくて社会の根源的な解体、とりわけ中間身分の解体から出現する大衆が、プロレタリアートを形成する」としてそれを「人間への解放」と読んでいる。
第二のテクストでは「ある一つの階層がすぐれて解放の階層であるためには、べつの階層が逆に公然たる抑圧の階層にならなければならない」として「部分的な、たんに政治的な革命」が「市民社会の一部分が自分を解放して一般的な支配に到達する」としている
ヘゲモニーの次元
第一の次元
ヘゲモニーを構成するのは権力の不均衡で合える。
ラクラウのヘゲモニー理論とホッブズのリヴァイアサン理論の違い ホッブズの自然状態では、権力は各個人に均等に配分され、それぞれが勝手な目的に向かうために、社会は成立しえない。全権をリヴァイアサンに委譲する契約は、敵対する複数の意思の相互作用をまったく排除しているのだから、本質的に非政治的な行為なのである。
つまり、リヴァイアサンとはヘゲモニー闘争ではなく、非政治的次元に共同体を強行させることによって束の間の休息をもたらす理論であるということ。
この逆に、もともと権力の配分が不均衡だとすれば、全権力を君主の手に委ねるのではなく、まさにこの不均衡から社会秩序を保つ可能性が生まれる。しかしこの場合、あるセクターが支配を主張できるかどうかは、その個別の目的を、共同体の現実の機能と両立するものとして提示できるかどうかによる-これこそ、ヘゲモニー作用に内在するものである。しかしこれだけでは十分ではない。政治的解放をおこなう勢力のヘゲモニーが一般的に受け入れられるかは、それが抑圧的な政体を倒せるかどうかによるのだとすると、そうした勢力が支援を得られるのは、厳密に相手を倒すときだけ
第二の次元
普遍/個別の二分法が廃棄されたときにのみヘゲモニーがある。普遍性は、なんらかの個別性に実体化される―そしてそれを覆す―ときにのみ存在するが、逆に個別性は、普遍化効果の場とならない限り政治的にはけっしてならない。
ヘゲモニーが拡大していくにつれ個別性が希薄化されていく。が、それは完全な普遍性へと至らないために、個別性という霊を祓うことはできないという。
個別のものが個別のまま、普遍を表象する機能を帯びるのである。これがヘゲモニー関係の根本にある。個別のアイデンティティが、自分自身でないなにかを表象することになる関係の存在論的可能性とはなんだろうか。〜(1)ある個別のセクターが表象する等価性の連鎖がさらに伸び、その目的がグローバルな解放の名になるにつれ、その名ともともとの個別の意味とのつながりは緩くなり、名は空虚なシニフィアンの地位にいっそう近づく(2)普遍と個別との偶発的一致が、最終的には〜不可能なのだから、個別性の残余を消し去ることはできない。
第三の次元
必要なのは空虚へと向かうシニフィアンが作られる事であり、これは普遍と個別の通約不可能性を保ったままで、後者が前者の代表=表象を引き受けられるようにする。
記号が完全に秩序化されて、レトリカルな作用がなくなった社会は全体主義化する様を下記のように述べる。
第四の次元
ヘゲモニーが拡大する地平とは、表象関係を、社会秩序を構成する条件として一般化する地平である。
下記のように続ける。
グローバル化した現代社会において、なぜヘゲモニー的な政治形態が広がっているか、これで説明できる。権力構造の脱中心化が進むにつれ、中心性が成立するには、そこを占める行為者が構造的に重層的に決定されていなければならなくなるー彼らはつねにその個別のアイデンティティ以上のなにかを表象するのである。
結論
ヘーゲル解釈
ラカン解釈
まずバトラーが疑問視していた「切断線」の機能について論じる。
シニフィエに対するシニフィアンの「解放」-これこそヘゲモニーの前提条件だ-こそ、ラカンの切断線が表現しようとしているものである。コインの裏側、偶発的に課された限界あるいは部分的な固定-これらがなければこの世界は精神病の世界になるだろう-こそ、「クッションの綴じ目」がもたらすものである。
ラカン派の「シニフィアンの物質性」について、これが「意味作用の透明なプロセスを破壊する切断線」としてなら異論の余地はないが、「音素の実質」と取り違えないことが重要であり、なぜならそうすると「ソシュールの一貫性のない立場に逆戻りしてしまうからだ」とする。そこでまずヘゲモニーとシニフィアンの関係性について述べる。
ヘゲモニーとはシニフィアンのレベルの残余であって、さもなければなにも意味しえない際限のない流動性にしょうがなく下ろす錨である、というものだからだ。〜たしかに、特権的な言説要素は錨の役割をはたすことがある-クッションの綴じ目や「主人のシニフィアン」などがそうだ-が、この錨の機能は、変化する言説のどの過程においても執拗に残る実体概念の究極の残余にあるのではない。
そこで南アフリカの例を出す
〜では「黒人」は言説の場全体を組織する〈主人のシニフィアン〉となるが、だからといって「黒人」という、あらゆる言説表現から独立した究極のシニフィエがあるわけではない。むしろ「黒人」は純粋なシニフィアンとして機能する。その意味作用の機能は、意味作用の連鎖のなかの位置で決まる。〜こうした位置すべてがまとまり、ある程度固定することによって「ヘゲモニー形成」がおこなわれる。「シニフィアンの物質性」とは、音素の実質などではなく、どんな言語要素も-音であれ概念であれ-直接にはシニフィエを指し示し得ないという意味だとわかるだろう。こうして価値は意味作用に優先し、ラカンのいうシニフィアンの下での絶えざるシニフィエの横すべりが起こる。 そして「20世紀思想のサーガ」として「直接性、「もの自体」に直接触れる可能性をめぐる三つの幻想」としての見取り図を描き、デリダと共にラカンをポスト構造主義の「決定的契機」として位置付ける。 三つの幻想とは指示対象、現象、記号であり、それぞれ分析哲学、現象学、構造主義という三つの伝統の出発点となった。これ以降、三つの伝統の歴史は驚くほど似通っている。ある段階で直接性の幻想は解体し、それにかわって言説の媒介性こそが一義的で決定的であるというかたちの思考が現れるのである。分析哲学ではウィトゲンシュタイン『哲学探究』、現象学ではハイデガーの現存在分析、構造主義では記号のポスト構造主義的批判において起こったのがこれだった(マルクス主義ではグラムシがそうだったといえよう)。この歴史の枠組みでは、言語記号の透明性への批判のもっとも重要な契機は、ラカンの「言語主義」に、すでに触れたシニフィアンの一義性という彼の考えにあったことは明らかだろう。つまりラカンはポスト構造主義者であるばかりか、ポスト構造主義の理論的地平の出現における二つの決定的契機のうちの一つなのだ。もう一つはもちろん脱構築であり、これは決定不能な擬似下部構造の領域を拡大して、結果的にラカンの「象徴秩序のよじれ」の領域をも拡大した―いくつかの点で、ラカン主義のどこよりも徹底したやりかたで。 「ジジェクの戦線は-ラカン理論において-不可能であると同時に必然的なものの必要性を主張すること」であるとし「これこそヘゲモニー論理の要」として下記のように述べる。インターテクスチュアリティとヘゲモニーを関連づける。 必然性と不可能性というこの二重の条件によって、三つの試みが可能になる。(1)二つの次元がそれぞれ互いを転倒させる際の論理を理解すること。(2)この相互転覆の政治的生産性を見るーこうしてこそ、二つの極のどちらかいっぽうだけをとることで達成されるレベルを超えた社会の働きを理解することができる。(3)この決定不能の論理の系譜、この論理がわれわれの政治と哲学の伝統の中心的テクストをいかにすでに転倒しているか、を跡づける。つねに開かれたインターテクスチュアリティこそヘゲモニーの論理が作用する究極の決定不能な地平である。 /icons/白.icon
構造、歴史、政治
ヘゲモニーと統制的理念の差異
以前は、ジジェクはもっとものがわかっていた。たとえば彼はわたしの理論について、カントの「熱狂的諦観」の概念を引いて論じている―彼も承知のように、カントのこの考えにはシニシズムなどかけらもない。この議論の二つの面、達成しえない統制的理念と、解決される問題の部分的性質とを考えてみよう。 カント的方法とわたしの方法との違いは、カントにおいて統制的理念の内容は初めから定まっていてそれきり変わらないが、わたしの視点では、心的備給の対象がたえず変化することだ。蓄積がただただ続くうちに、達成されない究極の目標に対してシニシズムが湧き起こる、といったことはけっしてない。現実の闘争にたずさわる歴史の舞台の登場人物にとって、どんな種類のシニカルな諦観もない。彼らの現実の目的こそ、彼らが生き戦っている地平を構成するのだから。究極の十全性はけっして達成されないと述べることは、宿命論や諦念を唱えることとなんの関係もない。むしろそれは人々にこう語る―自分で戦いとるものだけがそこに存在するのだ、現実の闘争はいかなる先立つ必然性にも縛られていないのだ、と。
解決される問題の部分的性質についていえば、二つの面を注意して区別すべきだろう。一つは現実に解決されるものの「実体的」内容、もう一つは、解決をもたらしていくうちに生まれてくる「存在論的」心的備給である。この意味では、問題が部分的であるといっても、それぞれを一つずつ取り上げ行政的に処理すれば―マルクスが引いたサン=シモンのことばでいえば、人を治める政府からものごとの管理への移行―それですむというわけではない。「部分的」ということばが意味するのは、ある時点で社会の十全性への願いを体現している内容と、それ自身の内容を持たない十全性自体とのあいだに、つねに亀裂があり続けるということである。一九八九年以後の東欧が市場の力に電撃的ショックを受けたとき、あるいは社会主義者が生産手段の社会化を語ったとき、彼らはこうした変化を、経済管理の問題を部分的に解決する方法などではなく、全世界の人間の解放をもたらす万能薬と考えていた―この意味で彼らは、ある個別の歴史的達成に、それ自体をはるかに超える象徴的重要性を備給していたのだ。わたしはこの意味でだけ―現に起こった変化の具体的で部分的で特異な性質と、それ抜きではへゲモニーも政治も考えられない広い期待と象徴性との、埋めようのない亀裂を強調して―「さまざまな部分的問題」の解決について語ってきた。おわかりと思うが、これは統制理念とはほとんど関係ない―統制理念の内容は最初から十全に与えられているから、具体的なものへの心的備給は起こらない―し、部分的な問題の行政的処理とも関係ない―この処理は、解決にまったくヘゲモニー的備給がなくともやれるからである。以上、わたしの政治論と、「第三の道」の理論家たちとは無関係。わたしはジジェクに負けず劣らず彼らに批判的である。
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ポピュリズムの先行研究
本書で「政治分析のカテゴリーとして」ポピュリズムを取り扱うにあたってラクラウは、「ポピュリズムに関する文献が相も変わらず示す特徴と言えば、この概念に何らかの精確な意味を与えることに対する躊躇―ないしは、困難―である。概念の明確さ―定義については言うまでもなく―が、この分野には著しく欠けている」とする。そこでまず自身の論を展開する前に「ポピュリズムという問いの見掛け上の御し難さに対処しようとした試みの幾つかを、現在流布している文献の中から考察することから始めてみたい」とする。そこで前期カノヴァンとギツァ・ヨネスクとアーネスト・ゲルナーの編集した書物収録の論文のいくつかを検討する。まずカノヴァンについて論ずる。 カノヴァンは、農民ポピュリズムと、それから、農村部で起こるとは限らないが本質的に政治的で、「人民」とエリートの関係に基づくそれとを区別するのが重要だと考える。この区別を出発点として、彼女は、以下のような類型を描き出す。 農村ポピュリズム (1)農場主の急進主義(例、アメリカ人民党) (2)小作農運動(例、東ヨーロッパの農民政党の勃興) (3)知識人主導の農民社会主義(例、ナロードニキ) 政治的ポピュリズム (4)ポピュリズム的独裁(ペロン) (5)ポピュリズム的民主主義(すなわち、国民投票や「参加」への要求) (6)反動的ポピュリズム(例、ジョージ・ウォレスやその追随者たち) (7)政治家の側からのポピュリズム(すなわち、「人民」の統一の訴え掛けに頼った、非イデオロギー的で広範な連合の形成)
ラクラウはこうした類型にたいして「区別を確立するための首尾一貫した基準がまったく欠けている」として「いかなる意味で、農民ポピュリズムは政治的でないのか?また、農民的なものとは別の政治的動員のモデルを「政治的」ポピュリズムがもたらすとして、それの社会的側面と政治的側面の関係はどのようなものか?」と問う。また別の角度として「カノヴァンが提供しているのは、語の狭義の意味における類型学ではなく、むしろ「ポピュリズム」という語の使用を統御する言語的分散の地図なのだと、そう論じられるかもしれない。ウィトゲンシュタインの「家族的類似」を彼女が持ち出すのも、ある程度、この方向を指し示すようにも思われる。だが、仮にそうだとしても、この分散を統御する論理には、カノヴァンが提供している以上の精確さが必要である」とする。
社会通念では、ポピュリズムは理性と対極のもので、激情に駆られた人々の不条理の表出そのもの、オブラートに包めば「過渡的」「逸脱」「イレギュラー」、或いは病理的なケースとされている。
ラクラウはこのような侮辱的態度の反省を請求し、〈正常なもの〉と〈病理的なもの〉という二分法を立て、ポピュリズムをつねに後者のカテゴリーへと押し込んでしまうような政治学的偏見を問題とする。(→恐らく正常的社会的事実と病理的社会的事実からとってる?? 私が試みるのは、ポピュリズムの真の指示対象を見出すことではなく、その反対である。すなわち、ポピュリズムには指示対象としての統一性が存在しないと示すことである。というのも、それは、境界画定可能な一つの現象にではなく、多くの現象を横断して効果を及ぼす一つの社会論理に帰属するものなのだから。ポピュリズムとは、きわめて単純に言えば、政治的なものを構築する一つの仕方なのである。
上記の意味でポピュリズムとは、デモクラシーの失墜ではなく、それまで相互に連絡のなかった諸要素を節合し、そこに集合的アイデンティティを編み上げる方法として与えられた名である。