ルーマン
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伝播メディア
基礎づけ
複雑性・縮減・脱パラドクス
実際に生起した出来事は、多くの潜在的可能性(及び地平)のなかから選択された現実である。この「別様であもありうる」という可能性の過剰が複雑性であり、そこから顕在化されることは採用されていないものとの差異が作りだされること。 上記は一つの出来事が二つ以上の出来事として現れることであり、自家撞着的な規定性喪失状態に陥る。われわれはこのようなパラドクスを避けるために、差異をつくりだし、差異によって脱パラドクス化している。
この世界の複雑性から何ものかを選択し、差異=区別を作り出すことを複雑性の縮減という。そしてある可能性を選択し、他の可能性を潜在下に留めておく機能を担うのが「意味」作用である。 社会システムは意味的区別、則、システムに属さないものと自らの間に差異を設けることによって意味を生産し、意味による情報加工と選択による可能性の制限によって自己を環境から区別する。
このようにして周界(周りとの環境世界)との間に内外の際を維持しつつ、その差異を安定化するところにシステムが形成される=システム/周界図式 システムは意味的境界によって周界から区別されるから、その意味では「閉じている」が、周界の情報を選択的に取り入れつつ環境に適応し、必要に応じて内的構成を再構成/緻密化させ成長してゆくという点においては「開いた」システムである。(パーソンズの構造を所与とする社会システムに対比して、本システムは選択後に保存される事後的沈澱物である。) 自己の外部を、特定の観点から単純化し、自らと区別することで、システムを存続させる意味的境界を絶えず創り出している。そして諸可能性の継続的な顕在化によって事象次元、社会次元並びに時間次元に区別されるとす 時間次元:非時間次元については社会システムの類型にて言及する(引用) 定義
時間というものはせいぜいのところ、時問の順序づけにおける取り決めであり、その時間 のなかに姿を現している時間のありとあらゆる可能性を言い表す総計概念なのである〜多数の変数を有する意味次元〜システムからみた、ものごとのあらゆる変化の総計概念の意味
上記の多数変数とは 二重地平、不可逆性、時間の単位、テンポなど。
システムが分化することの本質的契機として、システム固有の歴史が、つまりシステムの「選択作用の歴史」が形成される。こうしたシステム固有の歴史を含むようなシステムにおける「時間」の構成を、ルーマンは以下のように表現する。
システム論的分析は、時間が環境にもシステムにも与えられているということから出発する。時間はしかし、不可避的にシステムに対しても環境に対しても同様の形式や構造的関連性を有することはない。諸々のシステムの分化はまた時間次元を取り入れ、システムにとって時間であるところのものを変化させる。〜時間の諸形式は、アプリオリに、つまりそもそも時間経験が存在するという事実から帰納的に導かれ認められているものではなく、システムの発展に対し相対的なものである
批判的継承
パーソンズ批判
パーソンズの構成機能主義的システム理論では、システムの存立/秩序を保証/可能にする最終的根拠は価値である。この場合、相互依存の安定的パターンという意味での社会構造は、価値・規範(主意主義的行為理論的)、並びに(家族・地域社会等)集合体、社会的役割である。価値・規範が制度化され、個々人に内面化されて、ホメオスタシスが確立する。 上記に対し未規定な複雑性の中から、いかにして構造が生成されるかという、構造の構造化プロセスを主題にしたのがルーマンである。
ダブル・コンティージェンシーに対して、双方の欲求が適切に満足させられ、社会的行為が円滑に遂行されるためには、同一の価値・規範を内面化した結果の「期待の一致」が前提条件であるとパーソンズはいったが.... これは、あらかじめ「価値」という構造を前提としてシステム形成を正当化しようとする論理であって、構道がいかにして生成してくるかを解明するものではない。実際、共通価値を導入しても「期待の一致」を論証することはできない。行為期待が一致するためには、双方の期待を相補的なものとするための共有された価値が必要である。 ところが、その価値が共有されているのはどうしてかが新たに問われねばならない。それに対する答えが見つけられたとしても、それはまた別種の価値でしかなく、後続する新たな問いの連鎖を断ち切ることなできない。これは無限後退である。どこまで戻っても究極的な価値にはたどり着かない。構造を最終的に基礎づけるような価値を見出すことはできない。
価値はシステムの構造の一つにすぎず、システムを構成する機能によって選択され保存された事後的構成物である。それゆえ、構造がシステムを可能にしているのではない。
価値からコミュニケーションへ
ルーマン的社会システムの対面的状況における「二重の不確定性」が有する不確定性・偶有性(Kontingen)、何が起こるかわからないといった無前提的な可能性一般ではなく、ある状況下で「別様でもありうる」という意味での、前提を帯びた不確定性である。
ある範囲の可能性領域と、いくつかの期待、期待が裏切られる予想等々がある。そこからわれわれはなんらかのコミュケーションを選択的に遂行する。
端緒となる最初のコミュニケーションは「二重の不確定性」の解消にきっかけを与え、そこからコミュニケーションの連鎖が形成されてゆく。ところで、コミュニケーションはたんなる伝達行為ではない。コミュニケーションもまた縮減され、選択されるべき複雑性・不確定性を帯びたものである。相手がどう理解し解釈するかは未規定的だからである。コミュニケーションの意味を一義的に決定することはできない。自分と相手は異なった心身を有する別の個体だからである。当のコミュニケーションがどのように理解されたかは、後続するコミュニケーションを通してのみ明らかとなる。それゆえ、コミュミケーションは接続されざるをえない。応答しないということすらも一つのコミュニケーションである。
コミュニケーションは、そのつどコミュニケーションの不確定性にさらされながら(パラドクスを抱えつつ)、そのつどパラドクスを脱パラドクス化するための新たなコミュニケーションを交換し、コミュニケーションの連鎖を形成しつづける。後続するコミュニケーションは相互に選択的に遂行されるがゆえに、当のコミュニケーション・システム自身にとって制限的に作用し、その意味で、コミュニケーシュンの連鎖は一定の構造価とでもいうべきものを獲得する。このように、システムは本来的な不確定性にさらされているがゆえに存在しているのであり、このコミュニケーションはルーマン社会学を規定する根本的視点でもある。
社会システムの類型
ルーマンは社会システムをつぎのように分類している。社会システムは大きく三つに分けられる。一時的な授触による「相互作用」、恒常的小集団や制度としての「粗織」、そして「全体社会(Geselischaft)」である。まずは最小単位である「人間」から紐解く
心的システム
社会システムはさまざまな出来事によって構成されているが、もっとも延底的な構皮要素はコミュニケーションである。従来の社会学では「行為」もしくは「人間」を基本的構成要素だと考えがちであった。行為というのはいわば単純化されたコミュニケーションであって、コミュニケーション過程の方が行為よりも援雑であり根底的である。コミュニケーションは情報の選択と伝達ならびに理解という過程から成っており、それ自体は観察することができない。
コミュニケーションは行為をとおしてはじめて、ある時点におけるまぎれもない出来事であることが見定められるのである。
行為へと縮減されることによって明確に把握されるから、見かけ上、社会システムは行為システムとして構成される。だが、行為の意味はあくまでもコミュニケーションのなかで確定されるのであり、コミュニケーションの方が行為よりも感味的に基底的水達にある。
それゆえ、社会システムはコミュニケーションを要素とするコミュニケーションのネットワークとしてあり、コミュニケーションによってコミュニケーションを再生産するシステムである。
「人間」についてはどうか。ルーマンによれば、これまでの社会学は「主体」という用語で社会学を「人間化」してきた。社会的価値を内面化した主体的行為者があり、それが単位となって社会を構成しているというものである。ここでは、個々人と社会とは分かちがたく結びついている。
しかしながら、社会システムと人間(ルーマンはこれを「心的システム」とよぶ)は別個のシステムであり、個々人(の心的システム)は社会システムの周界に属する。個々人の心的システム内では、おのおのが独自の思考活動を営んでいる。これらが相互に混じりあうことはない。 われわれは相互に別個の心的システムであるからこそ相互理解を求めるのであり、そのために他者との間にコミュニケーションを開こうとするのである。個々の心的システム内での思考は個人ごとに自由であるが、社会システムは「二重の不確定性」にさらされ、コミュニケーションの選択的接続によって更新されてゆく独自の論理を有している。いる。そこでは顕在化されたコミュニケーションによってコミュニケーションが再生産されている。われわれはさまざまな出来事や役割を特定の人に帰属させはするが、社会的に生起するのはコミュニケーションや行為、役割遂行等の諸々の出来事であって、「意識の主体」ではない。
また二つ(此の数字は悪魔で説明のために用いている)の閉鎖的でありながらも自律的に運動をしているシステムが「他」のシステムの環境条件を作り出しているような関係性のことを構造的カップリングと言う。 相互作用
心的システムは個々人の思考の連続によって成立し、社会システムはコミュニケーションのネットワークとしてある。前者の要素は「思考」、後者ではコミュニケーションである。社会システムには価値・規範・役割等の社会構造が形成されるが、心的システムでは、記憶され蓄積され想起される表象の複合が構造を形成している。二つのシステムは異なった要素と構造から成り立つが、互いに周界を構成しているから、相互に独立しつつも緊密に関係しあっている。これは「相互浸添(Interpenetration)」よばれる。 社会システムと心的システムは同一の「出来事」(たとえばへ行為)を利用することで相互浸透しあっている。いわば共通の素材を用いているのである。同じ出来事という素材の共有において相互浸透し、それによって相互に自由度を制限しあい、複雑性を提供しあっている。
しかし、その素材がもつ意味はそれぞれのシステムによって異なっている。出来事としては同じであっても、それがどのように選択され接続されるかは、おのおののシステムに依存するからである。
社会と個人の相互浸透は、社会学では一般に「社会化」の問題としてとりあげられてきた。この場合には、社会が自らの構成原理で個人を社会化するのであって、社会化によって適切な価値や動機づけが内面化され、そのような個人主体から社会が構成されることになる。
だが、社会と個人が別々のシステムであるならば、このような形での社会化は不可能である。おのおのの構成原理そのものが異なるからである。それゆえ、心的システムの側は社会から相互浸透によって受け取ったものを自己流に消化し、自己の内に組み入れることによって通択的に内面化する。したがって、社会化は外からの社会化ではなく、むしろ「自己社会化」というべき内からの自己更新である。 組織と全体社会
全体社会はそのなかにいくつもの組織などの「部分システム」を包含する。それはシステムの分化によるものであり、「分節化(環節的分化社会)」による家族・部族、「階層分化( 階層的分化社会)」による身分・階級、そして近代社会に頭著な「機能分化(機能的分化社会)」にもとづくさまざまな機能システムがある。経済システム、政治システム、法システム、宗教システム、そして学間のシステムである科学システム等々。 社会システムはコミュニケーションを要素とするシステムであるが、コミュニケーションを円滑に進行させるために、「言語」以外にも、機能的システムの各領域に応じて各種のコミュニケーション・メディアが利用されることる。たとえば、経済システムでは「貨幣」が、科学システムでは「真理」が使用される。これら「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」は、おのおのの機能分野での選択を強化するとともに、コミュニケーションの受入れを動機づける働きもする。 近代社会は機能システムの分化が著しく進行した社会であり、各機能領域は特定のコミュニケーション・メディアによって統合されるなどの形をとりつつ、全体社会のなかで特定の作用(機能的オペレーション)を遂している。これらの機能領域は「二元コード」とよばれる二項対立をもとにして構成されている。二元コードとは〔真理/虚偽〕〔所有/非所有〕〔合法/不法〕などのセットである。科学システムは、ある命題が真理であるか虚偽であるかを判定することで存立しており、「真理」というコミュニケーション・メディアによって、真偽に関する複雑性の箱減を容易にし、システムの選択力を強化している。経済システムは、ある財を所有しているか所有していないかという財の所有にかかわるシステムであり、所有と移動を円滑に進行させる手段として「貨幣」というメディアが機能する。法システムでは、ある行為が合法的であるか否かを判定する。 これらの機能的に特殊化された二元コードの理論化にあたっても、ルーマン理論の基本的視点は貫徹している。「真理」「貨幣」等のメディアは、不確定性というパラドクス状況の内に差異を作り出し、脱パラドクス化の継続によってシステム形成を促進するという機能を担っている。
たとえば科学システムの場合、ある命題が真理でも虚偽でもあるというパラドクスは許容しえない。およそすべての真理規準は時代と社会の影響下にあるから、究極的真理を発見することはできず、命題の真偽を確定する絶対的規準はない。原理的には、さきに述べた相互作用場面でのコミュニケーションと同様のパラドクスがある。
それゆえ、あらゆる真偽問題には絶対的判定不能性というパラドクスが潜在している。しかしながら、いや、それだからこそ命題は真理であるか虚偽であるかのいずれかに差異化され区別されねばならないのである。判定不能性を顕在化させず、「真理」というメディアによってパラドクスを隠蔽し、脱パラドクス化せねばならない。それこそが科学システムの果たすべき機能である。その場合、「真理」はメディアにすぎず、それ自体に価値がある駅ではない。この点は言語や貨幣と同じである。
法システムにおいても同様であり、訴えた側と訴えられた側のどちらもが正当でありうるというパラドクスは脱パラドクス化されねばならない。本当は、法を根拠づける絶対的規準などないのであるが、なんらかの手段でそれを顕在化させぬようにせねばならない。
それゆえ「法」に照らして、一方は合法であり他方は不法であるとして差異化される。このような法的コミュニケーションを遂行し続けるのが法システムの役割であり、法システム自体の変更(法の改定)も法に拠らねばならない。
経済システムは「稀少性のパラドクス」という独特のパラドクスを潜在させている。財はそれが稀少な価値であるがゆえに複数の人間から求められる。本来、誰もにその財を追求する権利がある。絶対的な所有権などというものを正当化することはできない。 だが、ある財はある所有者に帰属されねばならない。そこで、誰かがその財に対して対価を支払ったから彼に所有権があるとして脱バラドクス化すれば、稀少性のパラドクスは所有・非所有に差異化され、所有権の根拠として「貨幣」による「支払い」が登場する。こうして経済システムは〔所有/非所有〕というコードにもとづいて、「貨幣」による「支払い」という行為をユニット・アクトとして再生産するシステムとなる。
社会システムでの諸運動
自律進化
ルーマンの考えるシステムは自己言及的なシステムである。「自己言及」もしくは「自己希款(Selbstreferenz)」システムが自分自身との反省的な関係にもとづいて(自分自身に言及し準拠しながら)自己を再生産する作用である。コミュニケーションのシステムは、システムの要素であるコミュニケーションがシステム自身によって再生演されるという点で自己言及的である。 コミュニケーションは後続するコミュニケーションによって接続されることで意味を確定してゆくから、コミュニケーションは当のコミュニケーションのシステム自身に言及し準拠することによってコミュニケーションを再生産している。これは、通常イメージされる〔全体/部分(要素)〕の関係とは異なる。
システムという全体のなかにコミュニケーションという要素があるのではない。コミュニケーションが生起するとき、システムが存在するのである。コミュニケーションの生起(という要素)がコミュニケーションのネットワーク(というシステム)を再生産しているのであり、要素とシステムの間に〔全体/部分(要素)〕のヒエラルヒーはない
このような意味での、要素(コミュニケーション)による要素の回帰的・循環的再生産がシステムの自己産出につながっている。コミュニケーション一般についていえるこの作用は、機能分化した部分システムにも当てはまる。
経済についてのコミュニケーションは経済システムを自己産出し、法についてのコミュニケーションは法システムを自己産出し、それぞれ、全体社会のなかで経済的・法的機能を遂行している。このような「自己産出」に、ルーマンは生物学で用いられる「オートポイエーシス(Autopoiesis)」いう用語をあてる。 システムのオートポイエシスとは、周界の情報を選択的にとりいれつつ自己の要素を自身で再生産し、要素のネットワークをつうじて「自らを構成している諸要素の選択と統一性を自分自身で決定し」、つねに新たに自己を更新する自己創出の営みである。オートポイエスティック・システムは自己の内的規準によって周界に反応し、自己の内生的メカニズムによって自己を更新してゆく。 現代社会には機能的に分化したいくつものオートポイエティク・システムが存在するが、各機能システムはそれぞれ独自のコードにもとづいてオートポイエシスを遂行している。したがって、いくつもの機能システムを横断にカバーする「スーパー・コード」は存在しない。機能分化が未成熟な段階では、宗教やモラルがスーパー・コードとして機能することもできたが、現代社会のような機能分化の進んだ社会では、各機能システムは相互に緊密に連関しつつも、相対的に完結した意味的境界を維持している。それゆえ、全体を統括するセンターも存在しない。各機能システムは特殊な機能的課題だけを遂行するがゆえに、その他の機能はすべて他のシステムに任せることになる。 各システムは独立しながらも相互に依存しあい、また、周界の変動に適切に反応する(ルーマンはこれを「共鳴」と呼んでいる)能力を有するがゆえに、全体社会はより多くの機能的課題をより効果的に遂行できる。結果として、システムは環境へのより高い適応力を発揮する(「進化」する)ことができる。 https://scrapbox.io/files/64bbfdd4259002001bfcd7cf.png
知識社会学的分析ための新たな枠組を提出しようとする 従来の知識社会学が知識の帰属において前提としてきた主―客関係ではなく、知識在庫と社会構造の相関、両者におけ る「一致した複合性」を問題にすることを示す
反省という最終的問題への処置はたぶん性急すぎたのである。最終的問題はどんな理論にとっても最終的問題である。それを定式化するためには、 それを担いうるだけの量の理論作業と経験的実証が前提とされる。知識社会学ないし歴史主義の普遍的に設定された相関主義をめぐる討論に見られるような、わずかの論評と性急な推論では、慎重な判断形成のためには十分ではない