ハーバーマス
https://scrapbox.io/files/64f1bccdfe8e8a001ce85ce5.png
メディアの影響
政治への侵入
マスメディアは大衆を消費活動へ誘うとともに、イベント化した選挙を人気投票のように演出するようになり、市民は単なるレジャーの消費者となり、国家行政のクライアントに成り下がってしまう
メディアは、一部の特権的な利益にその顕示のための機会を提供し、大衆は、 その操作的な力に無防備に曝かれ、アドルノのいう文化産業の繰り出すシンボルを唯々諾々と受け入れているにすぎない。経済的な影響力は人々の眼にふれない回路を通じた政治の場に流れ込み、人々は多彩に演出される政治的シンボルの前で、ただ、大衆的忠誠を出力するだけの受動的な立場に甘んじている。 公共性は、人々の間に形成されるものではなく、人々の前に繰り広げられるものに変容し示威的公共性の様相を再び呈する。公共性が、ディスコース(言葉による思想の伝達)の空間からスペクタクル(壮大で印象的な光景)の空間へと変容する 教育への侵入
知性の公共的使用へ教育された教養層の共鳴盤は粉砕された。公衆は、公共性なしに論議する専門家たちからなる少数派と、公共的に受容する一方の消費者たちの大衆とへ分裂し、公衆としての特有なコミュニケーション形態を喪失するのである
生活様式への侵入
かつて分離されていた政論と文学の領域、すなわち一方では情報と論議、他方では大衆文学の統合は、独特の現実転移、まさに相異なる現実次元の交錯を作り出す。いわゆる人物話題という公分母に乗せられて、事実尊重を消費適応におきかえ、理性の公的行使へ指導するよりも休養刺戟の非人格的消費へ誘惑する興味本位の娯楽記事という混合物が成立する
消費・娯楽・人気の世紀へ
ラジオ、映画、テレビは、新聞では到底できないほどの浸透的な作用をもつ。 放送は、視聴者としての公衆を制圧すると同時に、自ら語り反論する機会をも奪ってしまう。公共性は私的経歴の暴露圏になる。平凡人の偶然な運命や、計画的に作り上げられたスターたちの生活が公にされ、あるいは、公的に重要な発表 や決定が私的衣装につつまれ、人物本位の興味によって見分けのつかぬほど歪められていく。そうなると、人物に対する感傷的態度と制度に対するシニシズムが、 そこから社会心理学的に必然的に生ずるが、この態度は公権力に対する批判的論議への能力を主観的に制約する。マスメディアが作り出した世界は、もうみかけの上の公共性にすぎない。マスメディアは、個人的な身上相談の相手、生活補助の権威として推奨される
/icons/白.icon
コミュニケーション的行為の地平
互助から秩序へ
他者とは尊重すべき存在、敬意を払うべき存在であり、我々が理性を発揮して相互理解を推進し、協力と信頼を築くべき存在なのである〜人間には、暴力・抑圧に支配されず対話を交わし、相互理解に到達するコミュニケーション的理性の力が与えられている。近代社会は、人間が初めて宗教や因 習などの非理性的な力を脱し、民主的な原理が一人立ちした時代である。だが、同時にシステムの力も強大となり、計算・支配する試行、そこから生じる人間疎外も強固になり、コミュニケーション的理性の可能性は十分に実現してぃない。 人間のコミュニケーションへの信頼を保ちつつ、相互の平等な対話によって支えられた合理性の実現こそが真の秩序を生み出す
ローティへの追悼辞
ローティは、ここ何十年もの間、同僚の哲学者たち、あるいはもっと広い分野の学者たちと対決しながら、哲学の新しい見通し、新しい洞察、新しい定式化に関して、多くのことを成し遂げた。現代の哲学者のうち、その点でローティに匹敵でする人を私は知らない。彼の畏るべき創造力は、彼が、アカデミーの哲学者として身を隠すより、詩人であって、「ロマン的精神」を持っていたことによっている。この文筆家は、一度読むと忘れられないようなレトリックの能力と、完璧な文体を持っていた。それまで読んだこともないゆえに慣れていないストラテジーを使って問題点を露わにしてくるし、予想もしなかったような概念によって反論してくる。そして新しい「ボキャブラリー」で読むものにショックを与えるのだった。
このボキャブラリーとは終極の語彙を指して言っている。あたたかいなあ 生涯の最後のころ、「聖なるもの」について問われ、厳格な無神論者だった彼は、若いヘーゲルを思わせる言葉でこう答えたという「私の聖なるものについての感覚は希望と結合している。いつの日か私のずっと遠い子孫たちが、愛だけが唯一の法であるようなグローバルな文明に生きているという希望と」