バトラー
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「ジェンダーがセックスを規定する」
「ジェンダー」はフェミニズムが発明した新しい造語ではない。それはもともと言語学用語であり、中世以来、男性語・女性語の区別をさした。しかし、「フェミニズムの第2の波」のなかで、「ジェンダー」は、独自の意味をおびはじめる。「ジェンダー」は、「自然的・生物学的性差」をあらわす「セックス」sexの対語として、「文化的・社会的性差」を示す語として用いられはじめたのである。「ジェンダー」と「セックス」の関係については、ある時点で認識が完全に変化した。初期には、「セックス」と「ジェンダー」を峻別し、「セックスがジェンダーを規定する」と理解された。しかし、このような考え方は生物学的な男女二分法を前提としており、それ自体がジェンダー・バイアスにからめとられている。生物学や精神分析学の研究により、「ひと」が生物として必ずしも男女に二分されるわけではないことが明らかになったからである。そこでバトラーはこれを逆転させるのである。
It would make no sense, then, to define gender as the cultural interpretation of sex, if sex itself is a gendered category. Gender ought not to be conceived merely as the cultural inscription of meaning on a pregiven sex (a juridical conception); gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established.
竹村和子訳
ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない、ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである
須永将史訳
しかし、竹村の訳から、merelyとalsoの意味が抜けていることは、バトラーがこの一文でおこなっていることを不明瞭にしてしまう、と須永はいう。そのため彼は下記のように訳す。
ジェンダーは、たんに生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない。ジェンダーはまた、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことでもある
セックスがバトラーにとって重要なのは,それが人々の性差を理解可能にするために産出される規範だからである.
連続せず首尾一貫していない奇妙な代物は、連続性と首尾一貫性という既存の規範の関係によってのみ思考可能となるので、こういった奇妙な代物を常に禁じると同時に生み出しているのは、まさに、生物学的なセックスと、文化的に構築されるジェンダーと、セックスとジェンダー双方の「表出」つまり「結果」として性的実践をとおして表出される性的欲望、この3者のあいだに因果関係や表出関係を打ち立てようとする法なのである。
セックスを2つに切り分けるカテゴリー化を生産する戦術は、「セックス」を、性的な経験や行為や欲望の「原因」と定めることによって、その生産装置の戦略的な目的を隠蔽してしまうのである、フーコーの系譜学的な研究が暴いているのは、「原因」のようにみえるものが、じつは「結果」であるということだ。 /icons/白.icon
身体なるもの
デカルトからの脱出
ここでは、セックス/ジェンダーの前提に「身体なるもの」を置くことに対する、バトラーの批判をみる。そしてバトラーはフーコーを参照し、「身体」をデカルトに由来する観念的なものと捉え、「個々の身体」のジェンダー化へと分析を進めることを提案する。まずバトラーの、「身体なるもの」という前提の批判をみよう。 セックス/ジェンダーの区別や、セックスというカテゴリーそのものは、性別化された意味を獲得するまえの「身体なるもの」の普遍性を前提としているように思われる。こういった「身体なるもの」はたいてい受け身の媒体で、身体の「外部」と考えられている文化的要素からの書き込みによって、意味づけられるもののようである。〜サルトルとボーヴォワールの著作のなかには、「身体なるもの」を無言の事実性とみなす箇所が数多くあり、「身体なるもの」が意味を与えられるのは、デカルト的な文脈のなかで根本的な非物質性と考えられている超越意識によってであると考えられている。 まず2人の考え方に、精神/身体のデカルト的二元論(物心二元論)が見出せる。2人にとって、「身体」は「精神」によって意味づけられ、普遍的な事実として存在しているのだ。言い換えれば「身体」とは、それに対して「精神」を上位に据えるための議論の「前提」として、それ以上問われてこなかったのだ。だがこの「身体」とは、結局のところ観念的なものでしかなく、「身体なるもの」の存在を前提に、その表現としての諸性質を考察する、という思考手続きは誤りなのだ、とする。 こうしたバトラーの身体観もまた、フーコーを参照している(『性の歴史 I − 知への意思』)。フーコーが描こうとした歴史とは、すでに確立した様式をもつ「身体」の歴史ではない。フーコーは、様式が確立させられるための部品となる具体的な、生々しい身体の歴史を描こうとした。言い換えればフーコーは、言説の「まえに」あるとされる「身体」を「観念」と捉え、むしろ具体的な身体がいかにして「権力のさまざまな戦略を通して形成されてきたか」を問うのだ。バトラーは,このフーコーの認識を応用し,「身体(=The body)」/ジェンダ―化される「個々の身体(=bodies)」という枠組みを提示しているのだ。 「身体なるもの(=The body)」は、ジェンダー化された主体領域を構築している無数の「個々の身体(=bodies)」と同様に、それ自体が構築されたものである。ジェンダーのしるしが付けられる以前に、意味ある実在が個々の身体のなかにあったと言うことはできない。
物質性
1993『問題=物質となる身体』https://scrapbox.io/files/654f8b2285b760001c343d55.jpeg 序章
「統制的理想=理念」(フーコー) −「統制的理念」(カント) = 権力??
バトラーの問題意識は、身体の形成そのものが、社会的規範の行使するある種の暴力である、ということ。(下記引用は「日本語版への序文」)
女性か男性であるべきという要求は暴力的要求になり得るのであり、これは社会的規範に由来する〜二つの異なった性が存在するという主張、私たちがそれらの明確な物質的差異を知っているという主張は経験的明白さに訴えていないだろうか、或いは拘束的社会規範の押し付けの手段になっていないだろうか
そこでバトラーは、上記の規範的側面を明らかにするために「フーコーが「統制的理想=理念[regulatory ideal]」と呼んだもの」を導入する
「セックス」というカテゴリーは、そもそも最初から規範的なものだ。それは、フーコーが「統制的理想=理念[regulatory ideal]」と呼んだものなのである。従って、この意味において「セックス」は、規範として機能するだけでなく、それが統御する身体を生産するような統制的実践の一部をなしている。つまり、その統制的力は、一種の生産的権力、それが管理する身体を生産するような−すなわち境界画定し、流通させ、差異化するような−権力であることが明らかになるのだ。〜換言すれば、「セックス」とは、時を通じて強制的に物質化される理想的=理念的構築物なのである。 『監獄の誕生』においてフーコーは、「魂」は身体を訓練し、形態化し、陶冶し、備給する、規範的かつ規範化する理想=理念となる、と論じている。それは身体を効果的に物質化する、歴史的に固有の想像的理想=理念なのである フーコーは『監獄の誕生』にて魂は身体の監獄であると述べている。この理由は「統制的理想=理念」としての「魂」、則、「魂」が「身体を訓練し、形態化し、陶冶し、備給する、規範的かつ規範化する理想=理念」として機能するということは、まさしく魂が身体を規範化する仕方で生産するということ。つまり「セックス」が身体を規範化する理想=理念体であるということであり、それを到達し得ないが目指す(=まさにカントの統制的理念)権力として機能するということ。これこそ「統制的理想=理念」のシニフィエなのではないか。つまりpouvoir-savoir-plaisir+統制的理念=統制的理想=理念??? ラカン読解
主体または自我
だが上記に対して「アメリカでのフロイト受容」はこれと異なり下記認識であるとのこと とりわけ自我心理学とある種の対象関係理論では、「主体はそれ自体の外部にある対象に同一化する」と力説する文法が確認する考え方として、自我はその同一化に先立って存在する、と示唆することがおそらく通例となっている。
バトラーの整理に従えば、ラカン的な同一化とは、同一化に先立って主体があるのではなく、むしろ同一化をとおして主体が形成されるような過程である。
[これに対して]ラカン的な立場は、同一化は自我に先行するのみならず、イメージと同一化の関係が自我を確立する、と示唆している。さらに、こうした同一化の関係を通じて確立された自我は、それ自体一つの関係であり、さらには、そうした諸関係の累積の歴史なのである。その結果、自我とは自己同一的実体ではなく、想像的諸関係が堆積した歴史〜 https://scrapbox.io/files/6502c3a318b91b001c541a85.png
普遍なるものの再演
補足: 本稿では普遍性を排他的なものとして否定的に捉え、次稿でそれを改める
問題の再定義
(二)はアルチュセリアン|へーゲリアンという対立項の解釈(系譜)に弁別される。
アルチュセールの影響を受けたラクラウ=ムフの理論と、それよりもヘーゲル的な主体理論−すなわちあらゆる外在的な関係は内在的な関係に(少なくとも理念的には)変換しうるという理論−とのあいだの、基本的な相違だと思われる。 不完全な主体―つまり切断線を引かれた主体―の概念は、呼びかけのある種の不完全さを保証しているようにみえているとわたしは思う。呼びかけの不完全さとは、「あなたはわたしをこの名前で呼ぶが、どのようにわたしを言語で把捉しようとしても、わたしなるものは、その意味の範囲から擦り抜けていく」というものである。 ヘーゲルの普遍性解釈
バトラーの徹底的なヘーゲル読解は「形式的な次元で解釈して、彼をカント的な形式主義に融和させる試み―ジジェクがよくやること」という矮小化な試みではなく、「わたしのヘーゲルへのアプローチは、ヘーゲルの著作のなかで意味がいかに生成されていくかに関する、わたしの一連の文学的で修辞的な想定にもとづくもの」として実践する。
ヘーゲルは、ある党派がみずからを普遍とみなし、総体的意志を代表していると主張するときに何が起こるかを、はっきりと示している。そこでは総体的な意志は、それを構成している個人の意思に取ってかわり、事実、個人の意志を犠牲にして存在しているものである。その結果、政府によって公的に代表されている「意志」は、その代表機能から排除された個々の「意志」に憑きまとわれることになる。ゆえに政府は、代表領域から排除された個々の意志の残滓を消し去ることによって、それ自身の普遍性を主張しつづけなければならないという強迫観念的な仕組みを、その根底にもつものとなる。
上記で述べた「個々の意思の残滓を消し去る」ことを「抹殺」と言い換え、それが普遍にとって自己目的化する様を下記のように捉える。
この段階のヘーゲルの説明では、抹殺行為をおこなう擬人化された普遍は「主と従」の章の主人と似たものである。抹殺は普遍の目的となり、〜普遍はそれ自身を否定的なものとみなし〜当初の普遍の意味は、あらゆる人間にそれを同一化できるというものだったが、普遍がその圏域のすべての人間に適用されるのを拒んだ結果、その自己同一性を失うことになる。〜総体的意志の外部にいる「人間」は、その意志によって抹消されるのに甘んじなければならない。だがそれは、そこから意味を引き出しうる抹消ではない。その抹消は、虚無である。ヘーゲルの言葉で言えば、「その否定は、意味のない死であり、肯定的な内実を何も持たない否定性に対して感じる、まったき恐怖〜」なのである。
そして下記のように普遍性の自己言及のパラドクスを明らかにする。
ヘーゲルは、普遍を形式として捉えたときに虚無に帰着する様子を、鮮やかに描写している。普遍がすべての個を包摂することができないかぎり―逆に言えば、普遍が個に対する根本的な敵意から作られているかぎり―普遍は、その基盤である敵意そのものでありつづけ、またその敵意をつねにかき立てるのでもある。普遍が普遍たりえるのは、唯一、それが個別的で、具体的で、個人的なものによって汚染されていないかぎりにおいてである。〜ヘーゲルは、すべてを包摂する真実なる普遍に向かって論を組み立てているように見えるが、そうではない。むしろ彼が提示しているのは、それ自身の基盤である否定と切り離すことができない普遍なのだ。普遍という語が有する全方位的な範壊は、個を排除することで成り立っているが、まさにそのことのために、綻びが生じてくる。どのような方法であれ、排除された個を普遍のなかに引き入れてくるときには、かならずその個をます否定しなければならない。そして普遍はそれが包摂しようとするものを破壊することなく作用することができないことが、この否定によってふたたび確認されることになる。さらに言えば、個を普遍に同化させようとすれば、かならすそこには痕跡が―つまり同化しえない残余が―のこり、それが亡霊のように立ち現れて、普遍をそれに取り憑かせることになる。
ジジェクのヘーゲル読解解説
そしてジジェクは上記で論じた「ヘーゲル的な瞬間」と「クッションの綴じ目」の類似性を述べるという。 「クッションの綴じ目」において、恣意的記号は、その意味内容の本質のように見えているだけではなく、その記号のもとにモノを組織的に作っていくのである。ジジェクは彼独自のユーモアと誇張表現をつかって、このラカン的な考え方を的確に例証するものとして、スピルバーグ監督の映画『ジョーズ』に出てくる人食い鮫を挙げている。その鮫は、「自由に浮遊する気まぐれな恐怖〔バトラー注 たとえば政府や大企業の介入、移民、政治的不安定さといった、本質的に社会的な恐怖〕の共通の「受け皿」となっている」「クッションの綴じ目」つまり「受け皿」は、統御しきれない一連の社会的意味に「錨を下ろし」、それを「物象化し」、「そういった社会的意味についてのさらなる探究を阻む」ものである。 則、人喰い鮫が浮遊するシニフィアン(本質的に社会的な恐怖)の結節点として存在することによってヘゲモニーを編成し諸要素を配備するように、対象の内部の性質(人喰いザメ)は「モノの外的条件」として浮遊する歴史的条件(本質的に社会的な恐怖)によって統一化される、ということ。 ラクラウと普遍性
「ラクラウはヘゲモニーを、政治的に新しいものを社会のなかでどう位置づけるかを模索していく動的な概念だと述べた。しかし個別と普遍の問題に関する彼の姿勢には、わたしは若干の異議がある」としてラクラウに関連する普遍を再考する。
『Emancipation(s)』(1996)のなかでは、現在の政治は個別主義を必要としているという点から、普遍について粘り強く論じている。この本でラクラウが試みようとしているのは、その10年前に出版した『ヘゲモニーと社会主義の戦略』の中心概念だった等価性の連鎖から、普遍の概念を切り離すことである。『Emancipation(s)』でラクラウが述べているのは、どのような個々のアイデンティティも、自己決定をなすにあたってけっして完全ではないこと〜これらのアイデンティティのすべてに共通すると言われている構造的特徴は、その構築がつねに不完全であるということだ。個々のアイデンティティは、開かれた差異化システムのなかで相対的な位置を占めているがゆえに、アイデンティティとなる。言い換えれば、アイデンティティは無数の他のアイデンティティからの差異によって、構築されている。〜ここでラクラウが参考にしたのはヘーゲルではなくソシュールなので、アイデンティティを措定する(そしてつねにその措定に限定をつける)差異は、二項対立的な性質をもつものではなく、統合性を欠いた作動領域に属しているものである。これは、「統合化」という比喩でヘーゲル哲学を捉えることに反駁するときには都合がよいだろうし、ラクラウはここでソシュールをポスト構造主義的に読み替えていると述べることもできるだろう。しかし統合性の地位に関するこの種の論争は、たしかに重要なものではあるが、〜思うにいずれの場合も、すべての個々のアイデンティティが出現する差異の領域は無限であるべきだという了解のなかにいるように思える〜さらに言えば、個々のアイデンティティの「不完全さ」は、そのような差異化のなかでアイデンティティが出現することの直接の結果となっている。つまり個々のアイデンティティが出現するときには、いつも他者の排除が想定され、その排除が実行に移されて、この構成上の排除や敵対関係が、すべてのアイデンティティの構築に共通する平等な条件だと考えられているのである。 上記のようにアイデンティティの形成をラクラウが述べていると示し、それを基礎づけに普遍性がどのように述べられているかを下記のように続ける。
結論
つまり、権利とは何なのか、普遍とはいかなるものであるべきか、「人間」であるとはいかなるものかをどう理解すればよいのか、という問いである。大事なことは―ラクラウもジジェクもわたしも同意していることのはずだが―こういった問いに答えることではなく、そういった問いを開いておくこと、つまりそういった問いかけをつねにおこない、民主主義についてわかっていないことが、民主主義の未来に対していかなることであるべきかを示すような政治言説を喚起することである。その種の普遍は、文化の言語の外部で語られるものではなく、たとえ普遍を分節化したとしても、それは、適切な言語を手に入れたことにはならない。それが意味している事柄はただ一つ、普遍の名称を語るとき、わたしたちはわたしたちの言語から逃れられないこと、たとえその言語の境界を押し広げることができる―押し広げなければならない―としても、ということである。
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競合する複数の普遍
バトラーは民主主義の中央を下記のように示すべきだと論じる。
民主化に不可欠なこの未定性オープン・エンデッドネスが示唆しているのは、普遍はどんな個別の内容とも最終的に一致しえないこと、またこの共約不可能性〜は、民主主義的な論争の未来の可能性にとって不可欠のものであるということだ。実現可能性の新しい土台を求めることは、静態的で目的論的な結論として政治「目標」を追求することではない。ヘゲモニーに関してわたしたち三人がおそらく同意していることは、それが、あらゆる試みをその最終的実現においても超越しうる理念だということ、すなわち、その活力を、それがどんな既存の現実とも一致しないことから得ている理念だということである。この非一致性の活力を作りだしているのは、新しい可能性の領域を切り拓く可能性であり、したがって、宿命感によって政治思考がことごとく閉じてしまう恐れのある場所に、希望を吹き込む可能性なのである。 ラクラウとバトラー
しかしさまざまな社会運動が、すべての人間にとって普遍的に真実であるものの名のもとに語っているなら、そしてその良きこととは何かという実体的で規範的な問題については同意を形成していない
翻訳の政治
翻訳は、目下の状況を単に支配的な言説で再記述することであってはならない。翻訳がヘゲモニーをめぐる闘争に役立つためには、支配言説は、「見慣れぬ」語彙をそれ自身の辞書のなかに組み入れることによって、それ自身が変化しなければならないからだ。性的権利を求める性的マイノリティの運動の普遍化効果は、普遍そのものについて再考を促すものでなければならず、普遍という言葉を、その競合する意味作用や、それらが描いている多様な生の形態のなかにバラバラに分けていき、そして次にはこういった競合する語を縫い合わせて、巨大な一つの運動にすることだ。だがその一つの運動も、その「統合性」が評価されるのは、それ自身の定義を流動化させる内的差異を―馴化することなく―いかに持ちこたえられるかということによってである。ジジェクと逆にわたしが強く信じていることは、政治的に必要とされる翻訳は、多文化主義の形態に積極的に参与するものであること、また多文化主義の政治を個別性の政治に収斂していくのは間違いだということである。政治的に必要とされる翻訳は、競合し重なり合う複数の普遍主義を裁定して、一つの運動に作り上げるための、翻訳の政治として理解されなければならないとわたしは信じている。
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本書で「集会」と訳されるこの語と共に浮上させられる一連の事柄を理解するには、まずもって「否定され、見捨てられ、価値が下げられ、危険に曝され、哀悼不可能な生」が次々と生産されているという現状認識が必須である。そのような生をバトラーは「不安定な生」と呼び、それが国家権力によってさまざまな仕方で差別的に生み出されているという。
それでは、一体どのようにして、そのような生に異議を唱えることができるのか。「肯定されて、見捨てられたり価値が下げられたりせず、保護され、哀悼可能な」仕方で生きることを要求できるのか。この問いに対するバトラーの答えこそ、「生きられている身体を公の場で集めることによって」である。
諸身体が街頭や広場あるいは他のタイプの(仮想空間も含めた)公共空間に集合するとき、それら諸身体は複数的で行為遂行的な現れの権利(right to appear)〜を行使しており、その権利は、〜不安定性プレカリティという誘導された諸形式によってもはや苦しめられることのない、より生存可能な(livable)一連の経済的、社会的、政治的条件のための身体的要求を伝えるものである。
本書の特有の論点は、協調行動が、政治的なものに関する支配的な概念の不完全かつ強力な次元を疑問に付す身体的形式になる、という点にある。
バトラーの主張はシンプルです。ただ単に「集まる」(協調行動)ことが、それだけで政治的な抵抗を示すことになる。このことを全編にわたって述べたのが、『アセンブリ』です。下記でそれを「行為遂行的」という
迫害される可能性のある人が道を歩いているだけで、その場所は迫害される心配のない「公共空間」であることを示すことになります。行っているのは「歩く」というだけの行為ですが、行為遂行的にはある種の政治的メッセージを発しているのです。
現れの空間の複数性
「現れ」は、可視的現前、語られた言葉を指し示しうるが、またネットワーク化された代表や沈黙をも指し示す。さらに、私たちはそうした行為を、唯一の種類の行為、あるいは唯一の種類の主張への厳格な一致を必要としない仕方で収束的目的を行為化し、全体として唯一の種類の主体を構成しないような諸身体の複数性を想定することで、複数的行動として考えることができなければならない。
バトラーは、アーレントの政治理論と集会を結びつけながら、独自の政治運動の理論を考察している。アーレントによれば、政治の条件には自分の声が聞かれるという地平が実現されていなければならない。この地平をアーレントは「現れの空間」と名づける。現れの空間においては誰しも平等に声を聞かれなければならい。そもそも人間は誰ひとりとして同じではない。そういう意味で人間同士の関係は差異に基づいている。そして、また人間は誰に対しても優劣関係にはいない。そういう意味では、人間同士の関係は平等に基づいている。この差異と平等という二つの条件が、我々の複数性をつくっている。 私たちはお互いが違っている人間だからこそ話すのであり、またお互いが対等だから話すのである。こうした複数性が言論の世界にきちんと根付いてることが、アレントにとっては、政治の条件であった。しかし、現状の社会はどうであろうか。経済弱者やホームレスのことを「怠け者」「落伍者」とレッテルを貼ることで、この現れの空間から締め出している。あるいは、国籍や性別によって人を属性的に判断することで、差異という重要な条件をそぎ落とし、これもまた個人を現れの空間の外に放擲する。現在、世界が直面している状況は、誰が現れの空間に留まる資格があり、誰がそうでないのかという優性思想にも似た、選別である。こうした状況だからこそ、社会的に虐げられた人が集い、「なめるのもいい加減にしろ」とメッセージを発する必要があるのだ。デモや集会は、現れの空間から排除されたものたちが、現れの空間へ参入を求める闘争なのである。
そして、集会の政治的意義を唱えるバトラーが重要視しているのは、広場に集う参加者たちの身体性である。
平等の要求は、話される、あるいは聞かれるだけではなく、まさしく諸身体が共に現れる際に、あるいはむしろ、それら諸身体の行動を通してそれらが現れの空間を存在させる時になされるのである。
集会は、その身体的な示威によって「我々の話を聞け」というメッセージを発し、現れの空間のなかへの参入を企てる。
第三章「不安定プレカリアスな生と共生(cohabitation)の倫理」では、先の章で言及された他者との連携とは、空間的に遠方にいる人々との連携でありうるし、自分が共に生きることを選択したことがなく、いわんや自分を殺傷してくるような他者との連携であったとしても、なされなければならない、との主張がレヴィナスとアーレントの批判的読解を通じてなされる。レヴィナスからは、今日の新聞やスクリーンというメディアによって与えられる他者のイメージが「倫理的懇願として機能する」、という議論を引き出す。そこでレヴィナスから可傷性を引用し下記のように説明する そうした遠方のものでもありうるイメージは、「私たちが事前に予期したり準備したりできない仕方で」、「倫理的要求として」および「私たちの意志を超えた何か」として、私たちのところに到来する。それは「私たち自身の意志に反して、私たちはこの課された倫理的要求へと開かれて」いるからであり、則、共生の倫理を「可傷的であるからこそ可能になる」とする。 はじめから私たちは、あらゆる倫理的懇願に応答可能な仕方で開かれており、それは取りも直さずそうした懇願に可傷的でもあることなのだ。それゆえバトラーは、パレスチナ人は倫理的保護に値しないという意味で「いかなる顔もない」と述べたレヴィナスに疑義を呈する。つまり、そうしたパレスチナ人のような「倫理の地平に現れることができない人々、人ではない人々」とされてしまう人たちと私たちとの間にも、倫理的関係は成り立つのではないか、と。「他者の生、私たち自身のものではない生もまた、私たちの生である」のであって、自分の生が他者の要求に曝され、それに可傷的であるという仕方で、もはや自己が「脱占有」されてさえいるのではないか、と。
上記のようにバトラーが述べるとき、アーレントの「複数性」は「地球上の異種混淆性」として理解されている。それは、「選択に先立って」、つまり不自由な仕方で既に与えられている、いわば人間の条件である。そのような条件下のもとでないとならないのだ 私たちが愛していないかもしれない人々、決して愛することなく、知ることもなく、選択しなかった人々の生を保持するという義務を守らなければならない。
そうした義務を理解できないのであれば、「大量虐殺ジェノサイド政策あるいは組織的怠慢によって全住民を絶滅させる可能性」が頭をもたげてくる。実際、大量虐殺政策や組織的怠慢は、「政治的、社会的相互依存のあらゆる様態における不安定性プレカリティの条件から生じる、他者による破壊への可傷性」をそれこそ行為化してしまっている。それゆえ、「誰もが不安定である」以上、「不安定性を最小限に抑え〜服従と搾取に対するあらゆる闘い」がなされねばならない https://scrapbox.io/files/6539fa8ee7b852001cf5619a.png