サルトル
他者論
フッサールが、他者と自己とのあいだに置いた関係は、単なる〈認識〉の関係にすぎなかった。つまり他者論においてカントを乗り越えられていないのである。 存在を一連の意味に還元したために、フッサールが私の存在と他人の存在とのあいだに確立することのできた唯一の関係は、認識の関係である。したがって、フッサールは、カントと岡様に、独我論から逃れることはできないであろう
では、サルトルはいかにして独我論から逃れようとするのであろうか。そこでサルトルはヘーゲルによって乗り越えようとする。 実存主義とは、陰鬱な快楽ではなく、行動、努力、闘争、連帯の人間主義的哲学である
もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう
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実存主義は厳粛な楽観主義的ヒューマニズムである
人類の脱-連帯化という誤謬―マルクスとカトリックによる代表的非難
マルクス派もカトリック派も、われわれが「人類の連帯関係にそむき、人間を孤立したものと考える」と非難している。 つまり両者はサルトルの無神論的実存主義を反「ヒューマニズム」であるとして非難するのであるが、これを反駁しようと試みるのが本講演なのである。第一に、マルクス派のコミュニストらは下記のように論ずる。
「実存主義においてはあらゆる解決の道がとざされているから、地上における行動は全面的に不可能と考えねばならず、それゆえに、実存主義は人々を絶望的静寂主義へと誘うものであり、究極においては一種の静観哲学に帰着する。しかも静観は一つの贅沢行為であるから、それは一種のプルジョア哲学へとみちびく」という非難が実存主義にむかってなされた。これはとくにコミュニストたちからの非難である。~コミュニストによれば、われわれが人間を孤立的に考える大きな理由は、「純粋主観、すなわちデカルトの〈われ考う〉から出発しているためである。 さらにいいかえれば、人間がみずからの孤独においてみずからを捉えるその瞬間から出発しているためであり、かくては人類全体との連帯関係へたちかえることは、もはや不可能になるだろう。人類は〈われ〉のそとにあり、〈コギト〉のなかでは捉ええないからだ」というのである。 ここでコミュニストらが「解決の道がとざされている」と論ずるのは『存在と無』にある。前掲書では、人間の行動はすべて挫折するということが説かれているのだ。たとえば、 われと他人との関係において、われはあくまで主体としての自由を確保しようとするが、他人がわれの前面にあらわれ、われを見ることによってわれを客体化する。そこで、われが主体であろうとする企ては挫折せざるをえないのである。このことは、恋愛においても、一歩すすんで人間の性生活においても、全面的な挫折となってあらわれる。 また「絶望的静寂主義」とは、もともと神秘主義に属する宗教思想で、人間が自分の意志を神のなかに消滅させ、しずかに観想生活を送ることを理想としたもの。これは霊魂の救済にたいしてすら積極的態度をもたず、受身的であるので、十七世紀の末、異端としてしりぞけられたが、フランスではそうとう根づよい勢をみせた。 本文では積極的行動をすてて絶望に沈潜することをいっている。 また「静観哲学」もこの意味で理解できる。瞑想にのみふけって実際的活動をおろそかにする哲学の意で、ここではむろん悪い意味に使われている。これは東洋哲学でいうなら荘子的と言い換えることができるのではないか。 つまりコミュニスト的実存主義解釈は、「人間」が不可能性によって「絶望的静寂主義」という「静観哲学」に陥り、デカルト的脱-連帯をひきおこすのだ。次にカトリックは下記のように無神論的実存主義を非難する。
一方また、われわれは「人間の低劣さを強調し、いたるところに醜悪なもの、曖昧なもの、粘液的なものを指摘し、明朗ないくつかの美しさ、人間の本性がもつ明るい面をおろそかにしている」という非難がなされた。たとえばカトリック派の批評家メルシエ女史によれば、われわれは「幼な児の微笑を忘れている」という。~キリスト教のがわでは、われわれは「人間の試みるさまざまな企ての現実性や真摯さを否定するものだ」と非難する。われわれのように、神の戒めや、永遠のなかに規定されているさまざまの価値を廃棄すれば、あとにはもはや厳密な意味の無価値しか残らない。各人は自分の望むままを行なうことができ、自己の観点からは他人の観点や他人の行為を非難することはできないからだ、というのである。
つまりサルトルは「神の戒めや、永遠のなかに規定されているさまざまの価値」としての「人間の本性がもつ明るい面」―その代表例としての「幼な児の微笑」―を「醜悪なもの、曖昧なもの、粘液的なもの」を強調することによって隠しているという非難である。そうして自己の殻にとじこもった末路として「自己の観点からは他人の観点や他人の行為を非難することはできない」ことを論じて、それゆえに「人類の連帯関係」を瓦解するものであると論じるのだ。こうした両者の主張に対してサルトルは、実存主義をヒューマニズムであるとするのだ。
われわれが意味する実存主義とは、人間生活を万能にする教えであり、また一面、あらゆる真理、あらゆる行動は、環境と人間的主体性をうちにふくむと宣言する教えだということ
自然主義的だという誤謬
われわれにむけられる本質的な非難は、ご承知のように、人間生活の悪い面を強調するということである。近ごろ聞いたことであるが、ある婦人は、腹をたてて思わずきたない言葉を口にすると、無礼を詫びてこういうそうである。「私も実存主義者になったようです」と。したがって、人々は醜悪さを実存主義と同一視しているのであり、それゆえにこそわれわれを自然主義者だと広言してはばからないのである。
ここでいう自然主義とは文学用語である。フランス文学での自然主義文学というのは、一九世紀末に起こったもので、ふつう写実主義の延長であり、それをいっそう極端に押しすすめたもの。自然主義文学に特徴的なものは-ゾラを代表とした-醜悪なものを恐れることなく忠実にえがこうとすることである。つまり醜悪さそのものを実存主義の存在と取り違え、それゆえ自然主義と同一視する誤謬が存在するのだ。 もしわれわれが自然主義者であるとすれば、本来の意味での自然主義がこんにち人々を恐れさせ慨歎させるよりもはるか以上に、われわれが人々を恐れさせ憤慨させるというのはふしぎといってよい。たとえば『大地』というような、ゾラの小説を文句なくうけいれる人でも、実存主義の小説を読めばたちまち嫌悪の情をもよおし、日ごろ金言を利用する人は、自分がはなはだ憐れむべき人間であることを棚にあげて、われわれをいっそう憐れむべき人間だと考える。 ここで「金言」を「利用する人」を「憐れむべき人間である」とするのはなぜだろうか。処生訓や金言は、第一に、ある行動を天降り的に規定するものである。しかしサルトルに従えば、人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。したがって、処生訓を利用して行動するものは、実存主義の立場からいうときわめて哀れむべき人間である。第二に、これらの処生訓は、人間を伝統と諦めと事大主義のなかにとじこめようとする。したがって処生訓の利用者は、人間は自分をつねに超越しなければならないとする実存主義の立場からすればもっとも軽蔑すべき部類に属するわけである。こうした自然主義文学に慣れ親しんだ読者、「金言」主義者、「現実派シャンソンに飽満している人」らはこぞって「実存主義は暗すぎると非難するのである」-ここで面白いのは皆、悲観主義者よりであると言えるのにこうした見解をもっていることである(恐らくサルトルはそう思っているから下記で「楽観論に不服なのではないか」というのだ)。
彼らは、実存主義の悲観論ではなく、むしろ実存主義の楽観論に不服なのではないかと私はひそかに疑っているくらいである。けっきょく、私がこれから述べようとする主張のなかで人々を恐怖させるものは、この主張が人間にたいして選択の可能性を残しているという事実なのではあるまいか。〜この主義は人間を行動によって定義するものである以上、これを静寂主義の哲学と考えるわけにはいかない。また人間の悲観論的記述とも考えられない。人間の運命は人間自身のなかにある以上、これほど楽観的な主義はないからである。
非厳粛であるという誤謬
こうした認識として代表的なのが「流行」としての実存主義と「前衛的主張」としての実存主義である。
この言葉を使う大部分の人は、これに正当な定義をくだそうとなると手も足もでない。この言葉はいま流行となって、あの音楽家は、あの画家は実存主義だなぞと人は好んでいいふらすからである。『クラルテ』の寸評家は「実存主義者」と号している。けっきょくのところ、この言葉はいまでは非常に幅ひろくなり、拡張されているので、すでになんの意味もなくなってしまったのである。超現実主義に匹敵するような前衛的主張が現在はないために、スキャンダルや風変りな運動に飢えている人たちはこの哲学に助けを求めるらしいが、しかしこの哲学はその方面では何ものも彼らにもたらしはしない。実のところ、これはもっとも反スキャンダル的な、もっとも厳粛な主義であり、厳密に専門家むき 、哲学者むきのものである。
実存主義について
有神論的実存主義と無神論的実存主義、実存は本質に先立つ
この両者に共通なことは、「実存は本質に先立つ」と考えていることである。あるいはこれを、「主体性から出発せねばならぬ」といいかえてもよかろう。このことを正確にはどう理解すべきであろうか。たとえば書物とかペーパー・ナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭にえがいた職人によって造られたものである。職人はペーパー・ナイフの概念にたより、またこの概念にたより、またこの概念の一部をなす既存の製造技術―けっきょくは一定の製造法―にたよったわけである。したがってペーパー・ナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途をもってもいる。この物体が何に役立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を考えることはできないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフにかんしては、本質―すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製法や性質の全体―は、実存に先立つといえる。つまり私のまえにある、あるぺーパー・ナイフ、ある書物の存在は限定されているのである。すなわちこれは一種の技術的世界観であり、この世界観では生産が実存に先立つのだといえる。 こうした「実存は本質に先立つ」といったテーゼを、有神論文脈で下記のように論ずる。
われわれが創造者としての神を考えるとき、神はたいていの場合、一人のすぐれた職人と同一視せられるのが普通である。デカルト流の説にしろ、ライプニッツの説にしろ、どんな説をとって考える場合でも、〜神が創造する場合、神は自分が何を創造するかを正確に知っていることを、かならずわれわれは認めるのである。つまり人間という概念は、神の頭のなかでは、製造者の頭にあるペーパー・ナイフの概念と同一に考えてよい。神は職人が一つの定義、一つの技術に従ってペーパー・ナイフを製造するのとまったく同じように、さまざまの技術と一つの概念とに従って人間を創るのである。こうして個々の人間は、神の悟性のなかに存するある一つの概念を実現することになる。 つまりペーパー・ナイフ/人間という本質に大した、人間/神という実存が先立つのだ。換言するなら無神論的実存主義の前段階における超越論的立脚点を設置するのが有神論的実存主義なのだ。それゆえ、無神論的実存主義には「人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである」として「人間が定義不可能」であるとすると同時に「人間は最初は何ものでもない〜人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである」と論ずるのだ。これは実存主義的フェミニズムの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」に通ずるテーゼなのである。またそうした実存主義的人間観は18世紀的な無神論者たちには持ち合わせなかったという。 十八世紀になると、哲学者たちの無神論のなかで神の概念は廃棄されたが、だからといって、本質は実存に先立つという考え方は捨てられなかった。この考え方は方々にみられる。ディドロにもヴォルテールにも、カントにさえもそれはみられるのである。人間は人間としての本性をもっている。この人間性、すなわち人間なるものの概念であるが、これはすべての人間に存在している。ということは、それぞれの人間は、人間という普遍的概念の特殊な一例であるという意味である。カントの場合では、この普遍性から、蛮人や自然人もブルジョアと同様、同じ定義を強制され、同じ基本的性質をもつ結果となる。 ディドロは-現代の神経科学的に-人間精神を唯物論化(物心二元論の拒否)して、人間の「本性(自然)」〔nature〕を論じた。また、ヴォルテールは現世において幸福を欲することを「本性」として、カントは人間の認識論的な超越論的立脚点を「本性」としたと言えるだろう(カントは人間を自由の主体とはしているが、それらに対してアプリオリな認識論〔=超越論的観念論〕を展開しているのである)。 また、有神論批判は主に徹底的な立場と温和な立場が存在する。無神論的実存主義者は前者であり、後者の例として「1880年ごろ、フランスの教育者たち」のような「できうるかぎり犠牲を少なくして神を抹殺しようとする」論者を下記のように紹介し拒む。
「神は無用有害な仮説である。とはいっても、道徳が、社会が、文明世界が存在するためには、あるいくつかの価値が真剣に取り扱われ、先験的に存在するものとして考えられることが必要である。正直であること、嘘をいわないこと、妻をなぐらないこと、子供をつくること等々が、先験的に義務とならねばならぬ。したがってわれわれは、一方において神が存在しないにもかかわらず、これらの価値が明瞭な神意のなかに刻まれて、依然として存在することを示しうるような、ささやかな仕事をしようと思う。いいかえれば(思うにこれがフランスでラジカリスムと呼ばれているあらゆるものの傾向であるが)、たとえ神が存在しなくともなんの変りもないだろう。われわれは、やはり正直、進歩、ヒューマニズムなどという規準を再発見するだろう。そしてわれわれは神を無効な仮説としてしまうだろう。そしてこの仮説は静かに、自然に死んでいくだろう」と。これに反して実存主義者は、神が存在しないことは厄介千万だと考える。というのは、神がなくなると同時に、明瞭な神意のなかにさまざまの価値を発見する一切の可能性が消滅するからである。もはや先験的に善はありえない。善を思惟するための無限完全な意識が存在しないからである。善は存在するとか、正直なるべしとか、嘘をいうべからずなどということは、どこにも書かれてはいない。われわれは、ただ人間のみが存在する、そのような次元のうえにいるからである。ドストエフスキーは、「もし神が存在しないとしたら、すべてが許されるだろう」と書いたが、それこそ実存主義の出発点である。いかにも、もし神が存在しないならすべてが許される。したがって人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分のなかにも自分のそとにも見出しえないからである。人間はまず逃げ口上をみつけることができない。もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられ固定された人間性をたよりに説明することはけっしてできないだろう。いいかれえば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。 このように一般道徳、超越論的立脚点などの絶対的なものをサルトルは拒むのだ。
投企・不安・孤独
われわれがそれによって意味するのは、人間は石ころや机よりも尊厳であるということ以外にはない。というのは、われわれは人間がまず先に実存するものだということ、すなわち人間はまず、未来にむかってみずからを投げるものであり、未来のなかにみずからを投企することを意識するものであることをいおうとするのだからである。人間は苔や腐蝕物やカリフラワーではなく、まず第ーに、主体的にみずからを生きる投企なのである。この投企に先立っては何ものも存在しない。何ものも、明瞭な神意のなかに存在してはいない。人間は何よりも先に、みずからかくあろうと投企したところのものになるのである。みずからかくあろうと意志したもの、ではない。というのは、われわれがふつう意志といっているのは、意識的な決定であり、これはわれわれの大部分にとっては、みずからつくったところのもののあとにくるからである。私はある党派に加入し、書物を書き、結婚することを意志しうる。しかしそれらはすべて、いわゆる意志よりもいっそう根源的ないっそう自発的なある選択のあらわれにほかならないのである。 こうした「普遍性は与えられたものではなく、不断に築かれるものである」のだ。また「不安はわれわれを行動からへだてるカーテンではなく、行動そのものの一部なのである」として、投企に紐付けて不安概念を論ずる。
人間は不安であると実存主義は好んで主張する。それはこういう意味である。すなわち、自分をアンガジェし、自分は自分がかくあろうと選ぶところのものであるのみならず、自分自身と同時に全人類をも選ぶ立法者であることを理解する人は、全面的な、かつ深刻な責任感をのがれることはできないだろう〜多くの人々は、行動することによって自分自身をしかアンガジェしないと信じ、「もしみんながそうしたら?」といわれたら、肩をすくめて「みんながそうするわけじゃない」と答える。しかし実をいえば、人はつねに「もしみんながそうしたらどうなるか」と自問すべきであり、一種の欺瞞によってしか、人はこの不安な思考をのがれることはできない。〜人は誰しもこう自問しなければならない。「はたして私は人類が私の行為にのっとるような、そんな仕方で行動する権利をもつ人間なのか」と。
また投企・不安に基づいて「孤独」を論ずる。「本性」と「有神論」、さらに有神論に基づいて温和な「無神論」を拒んだサルトルにとって超越論的立脚点はなにもない。サルトル的実存主義理論では自らを自らで規定していくしかないのだ。それゆえ「われわれの背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上ももってはいないのである」。だからこそ「われわれは逃げ口上もなく孤独である」というのだ。それを「自由の刑」という。 私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなすこと一才について責任があるからである。実存主義者は情熱の力を信用しない。美しい情熱は破壊的奔流であって、人間を宿命的にある行為へとみちびくものであり、したがって一つの逃げ口上になる、とはけっして考えない。実存主義者は、人間は自分の情熱に責任があるのだと考える。実存主義者はまた、人間がこの地上で、自分にいくべき道を教えてくれるようなある与えられた標識のなかに助けを見出しうるとも考えていない。彼は人間がこの標識を自分の好みのままにみずから解読するのだと考えるからである。したがって実存主義者は、人間はなんのよりどころもなくなんの助けもなく、刻々に人間をつくりだすという刑罰に処せられているのだと考える。ポンジュはあるみごとな論文のなかで「人間は人間の未来である」といった。まさにそのとおりである。 こうした「自由の刑」によって「ハイデガー得意の表現」の意味で、主体は孤独なのだ。ハイデガーは、世界から隔絶され孤独化することによって、孤独化が自己存在に向き合う重要契機である、という肯定的な意味で用いている。この意味で孤独なのだ。
彼は天才を、「意のままに再び見出された幼年期」と定義した。彼にとっては、「子どもはすべてを新しさのうちに見る。子どもはいつも酔っている」。だが、彼は、この酔いがきわめて特殊な類いのものであることを言おうとしない。確かに、子どもにとってはすべてが新しいものだが、それはすでに他人によって見られ、名付けられ、分類されたものである。〜未知の領域を探検するどころか、子どもはアルバムをめくり、植物図鑑を調べ、自分の土地を見回っている。幼年期のこの絶対的な安全性に、ボードレールはノスタルジーを抱いているのだ 大人によって整頓され、安全性を確認された世界を発見する子どもの歓びを「意のまま」にすることが、成年ボードレールにとって芸術家の「天才」であるというなら、その発見が真に創造的なものでありうるかは疑問となる。
サルトルは、安全地帯における「天才」という芸術家の自己欺瞞をボードレールの実人生に見出しつつ、次のように関連づける。
確固とした世界の只中でこそ、ボードレールは自分の特異性を確立するのだ。まず彼は、母親と義父に反抗(revolte) し激昂するなかで、それを提示した。だが、なされたのはまさしく反抗であって、革命的な行為ではない。革命家は世界を変えようと望み、未来に向けて、自らが創造する価値の秩序に向けて、世界を乗り越える。〜彼は秩序を破壊したいとも、乗り越えたいとも思わず、ただそれへの対抗を望むだけである。それを攻撃すればするほど、ひそかに尊重しているのだ。〜ボードレールは家族の観念を破壊しようとは決して考えなかった。まったく逆だ。彼は幼年の段階を一度も越え出なかったとさえ言えるだろう
「母親と義父」に体現される家族の秩序、社会に有用な役割を果たす構成単位としての家族の秩序に「反抗」することから自らの「特異性」を引き出すボードレールが、己の存在意義を家族の秩序に全面的に依存している事実に所以を求められる。(啓蒙的な社会起業は実現すると共にコモディティ化してしまい企業としての需要=特異性が欠損するため、ローカルな事業しか行わないみたいなもん。)
ボードレールはそうした依存の解消を欲するのではなく、反抗者として咎められ、譴責されることを欲するのであり、そうした仕方でかえって、秩序に保護される少年であり続けようと するのである。サルトルは、ボードレールのこの「特異性」を、道徳感情のありように結びつけ、こうも述べている。
意識的に〈悪〉をなすことによって、そして、〈悪〉における意識=良心によってこそ、ボードレールは〈善〉に加担する〜彼の行為と並の罪人の行為の違いは、黒ミサを無神論から区別するようなものである。無神論者は神を気にかけない〜が、黒ミサの司祭は神を、愛すべきであるがゆえに憎み、敬すべきであるがゆえに愚弄する。〜悪すなわち錯誤を故意に創造するとは、善を認め、これを受け入れることではないだろうか。それは、善に臣下の礼をささげ、自分を悪いものと定義して、自分が相対的で派生的なものであり、善なしには存在しえないものであることを告白することではなかろうか かくして、ボードレールの「有罪感」と「悪」はサルトルにとって、既成秩序の堅持とそれへの敬愛を前提とした、終わりなき反抗期という特異性によって説明される幼稚な駄々に過ぎないのである。
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無神論的実存主義文学の地平
神になり宇宙をつくること
眼差しはただ見るだけで足りるけど、作家は作品に自らを投企−アンガージュ(全人類を代表して小宇宙を超出)しなくてはならない。〜作家は言葉によって小宇宙を超出しながら、同時にその作品世界に責任を負わなくてはならない。そのために、文体は凝るべきではない。 読者との共創
創造的行為の目的は、若干の対象をつくりだすことによって、或いはふたたびつくりだすことによって、世界の全体を取り戻すことである。おのおのの絵や、おのおのの本は、存在の全体を取り返し、その全体を、観察者の自由に向ってさし出すのである。なぜなら、これこそ芸術の究極の目的だからだ。この世界をあるがままに、しかしその源が人間の自由のなかにあるかのように、見させることによって、世界を取り返すのだ。しかし作者の創造するものは、観察者の眼を通じてしか客観的現実とはならない。従ってこのような世界の取り返しが祝聖されるのは、作品を観るという−殊に読書という−儀式によってである。
創作は世界を人間の手に取り戻す行為であり、それは読者がいないと完遂できない。則、作家と読者が手を取り合って宇宙を取り戻す営為がサルトルの文学である。
そうして根差した作品に対する読者の姿勢
―言でいえば、文学は、本来、永久革命の状態にある社会の主観性である。〜作者は単に読者の自由へ呼びかけるだけであり、作品が何らかの効果を持ち得るためには、読者が無条件の決心によって自分の責任でその作品を取り戻すことが必要である。しかし、絶えず自己を取り戻し、自己を判断し、自己を変形する社会では、書かれた作品が行為の欠くべからざる条件、すなわち反省的な意識の契機となり得る。
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文学の自由意志
多義的文学の肯定
絵画は「全世界にひらかれた窓ゴッホの絵は額縁に収まるものではなく、観る人の能力に応じていくらでも世界を拡げていく〜小説も同じ。読書は「方向づけられた創造」 逆に一義的に感動を引き出すような作品観は、読者の自由を奪う行為であり、創造しえないことである。
ラスコルニコフは、私が彼に対して感じる反発や友情の混合がなければ、単なる影にすぎず、彼をして生命あらしめるのはこの混合である。しかし、想像された対象に固有な性質である逆作用によって、私の怒りや尊敬を喚起するのは彼の行為ではなく、私の怒りや尊敬こそ彼の行為に持続性と客観性とを与えるものである。かくして、読者の感情は決して対象によって支配されず、いかなる外的現実によっても条件づけられず、その源泉は常に自由のなかにある。別の言葉でいえば、これらの感情は高邁である。―私は自由から生れ、自由を目的とする感情を高邁と呼ぶ。かくして読書とは、高邁な心の行使である。作家が読者から要求するものは、抽象的な自由の適用ではなく、読者の全人格をそっくり贈与することである。その情念、その偏見、その共感、その性的欲望、その価値の尺度を贈与することである。〜作者は、このように、読者の自由に向って書き、読者にその作品を存在させることを要求する。
他人指向型文学の否定
作家は、悪い製作の方が良い製作より成功するものだということを統計によって示される。そして聴衆の悪趣味を知らされ、それを甘受するように頼まれる。作品が出来上ると、それが最低レヴェルにあることを十分に確かめるために、彼らは下らない連中にその作品を渡し、その連中が自分らのわからないところを切り捨てる。だがまさにこの点でこそ、われわれは闘わねばならないのだ。気に入るために身を落すべきではない。それどころかむしろ反対に、聴衆にたいしその本来の要求を知らせ、聴衆が読む要求を持つようになるまで聴衆を少しずつ高めるべきなのだ。
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文学の変遷
頂
書くという操作からは、当然、その弁証法的相関者としての読むという操作がみちびきだされる。そして二つの関連した行為のためには、二つの異なる主体が必要となる。精神の作品というこの具体的な想像上の対象を現出させるためには、作者と読者とのむすびつけられた努力が必要である。他人のための、また他人による芸術の他に芸術はありえない。
私は知っている。シュルレアリストの目的が主観と客観とをいっしょに破壊することにあったように、多くの作家の目的がことばを破壊することにあったことを。それは消費の文学の極点であった。〜これが永い弁証法的過程の最後の項である。 歴史的転換
もはや文学にはおのれ自身に異議を申したてることしか残っていない。文学 が、シュルレアリスムの名において行ったのは、そういうことである。人々は、70年の間、世界を消費するために書いたが、1918年以来、文学を消費するために書いたのである。文学的伝統や言葉を濫費し、互に衝突させて爆発させる。
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文学の存在論
文学が不滅であることをわれわれに保証するものは何もない。文学の機会、その唯一の機会は、今日、ヨーロッパの、社会主義の、デモクラシーの、平和の機会である。この機会に賭けねばならない。われわれ作家がそれを失うならば、われわれにとってひじょうに残念なことだ。しかもまた、社会にとってひじょうに残念なことでもある。私が示したごとく、文学によって、集団は反省と熟考とにみちびかれ、不幸の意識をもち、みずからの不安定なすがたを眼にして、それをたえず修正し改良していこうとする。しかし、結局のところ、書くという芸術は、<神の摂理>の不変の定めによって護られているわけではない。それは、人間がそれをどうつくっていくかであり、人間はみずからを選ぶことによってそれを選ぶのだ。もし書くという芸術がたんなるプロパガンダか、たんなる娯楽に変わらざるをえぬとすれば、社会はふたたび直接的非反省的なるものの巣窟に、すなわち、膜翅類や軟体動物の記憶なき生活に転落するであろう。むろん、すべてそんなことは大して重要なことではない。世界は文学がなくてもうまくやってゆけるかもしれないのである。だが、人間がなくとも世界はさらにうまくやってゆけるかもしれないのである。