マルクス・ガブリエル
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日本語版への前書き
本書において、ジジェクと私は、思弁的実在論に対する反論として、形而上学への回帰の要点は主体とあらゆる理性的秩序の偶然性について単に沈黙することとみなされるべきではないということを展開しました。主体性の理論は無視したところで乗り越えることはできません。どのような観点から見ても主体が存在することなしに生じる宇宙の秩序を記述しようとしているという点で、メイヤスーは批判されるべきなのです。メイヤスーのやり方では、どのようにしてそのような〔主体なき宇宙の〕秩序からそもそも主体が登場することができるのかは理解可能にはなりません。 「ジジェクはドイツ観念論についての著作の中で、ドイツ観念論全体を主体の存在論として把握」したように、「メイヤスーの立場にドイツ観念論のプロジェクトは対立しています」
ドイツ観念論によれば、すでに物の存在論的秩序のうちに主体のパラドクスがあり、そのために自らにとって構成的な偶然性と不透明さのある主体は、コスモス、つまりよくできた秩序にとっての部外者ではありません。むしろ、秩序が埋め込まれている偶然性の彼岸にあるような秩序は存在しないのです。
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カント哲学の契機
カントの批判哲学とそれを継承した観念論者たち(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)との間に克服しえない溝があるように見えるとしても、すでにカントの『純粋理性批判』のうちに、ポスト・カント的観念論を可能にすることになる座標を見て取ることができる。哲学するにあたっての最初の動機は、形而上学的な動機、つまり、ヌーメノン〔叡智的なもの〕としての実在性の総体についての説明を与えるという動機である。だが、そうした動機付けは、それ自身幻想〔仮象 ilusion〕であって、果たしえない課題を課すものである。それゆえ、カント哲学の明確な動機は、すべての可能な形而上学の批判である (この批判そのものはまだ〔体系としての〕学ではない)。かくして、カントの試みは必然的に形而上学という事実の後に来ることになる。なぜなら、形而上学の批判が存在するためには、まずもって〔批判の対象である〕元々の形而上学が存在していなければならないし、形而上学的な「超越論的仮象」の無効宣告を下すためには、あらかじめこうした仮象が生じていなくてはならないからである。まさにこの意味で、カントは「哲学的哲学史の創案者」だった。 「形而上学的な動機、つまり、ヌーメノン〔叡智的なもの〕としての実在性の総体についての説明を与えるという動機」(補足)に対してカント哲学は「それ自身幻想〔仮象 illusion〕であって、果たしえない課題を課すもの」として「形而上学的な「超越論的仮象」の無効宣告を下」したのだ。 哲学の展開にはいくつもの段階が必要である。つまり、人は直接真理に到達するととはできず、真理から始めることもできない。哲学が形而上学的な仮象から始まったのは必然だったのである。〜このような仮象(現象)が真理(存在) とって構成的であると主張しているのである。本書全体で我々が論じようとしているのは、まさにこのことに他ならない。ポスト・カント的観念論者たちによれば、仮象から出発し、それに対して批判的に無効宣告を下すまでの道程こそが哲学の運動に他ならない。〜哲学の成功が定義されるのは、諸々の仮象についての説明に成功することによってであり、つまり哲学の成功は、なぜ仮象が仮象であるのかだけでなく、なぜ仮象が構造的に必然的で不可避であり、単なる偶発事〔偶有性〕ではないのかをも説明することによって定義されるのである。最終的に真理が現れるためには、必然的に仮象が生じていなければならない。これが、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルがカントから受け継いだ考えである。
そこで上記のように本書の主題に至るのだ。つまり「形而上学的な仮象」から始めることによって初めて真理を探究できる階段をみつけられる-それが「仮象が構造的に必然的で不可避であり、単なる偶発事〔偶有性〕ではない」こと-のであって、その意味で「仮象(現象)が真理(存在)にとって構成的である」のだ。それゆえ「最終的に真理が現れるためには、必然的に仮象が生じていなければならない」というのだ。そしてこうした「最終的に真理が現れる」地点を下記のようにいう。
ポスト・カントの契機
カントとヘーゲルの唯一の(だが決定的な)違いとは次のようなものである。カントにとって、先行する仮象に対して批判的に無効宣告してゆくものとして現れる、真理のこうした「対話的」プロセスは、我々の知の領域、つまり認識論に限定され、我々の知や認識に対して外的で没交渉に留まるヌーメナルな実在とはなんら関わりを持たない。これに対して、ヘーゲルにとっては、〈事柄〔物〕〉そのものがこうした過程の展開にとっての適切な場なのである。最終的には、後期フィヒテやシェリングも、ヘーゲルと同じようにヌーメナルなものそのものの中に真理の必然的な転位や誤謬の必然性を位置付けている。言い換えれば、相対的なものが絶対的なものの内部で生じているのであって、絶対的なものは自らの偶然的な顕現から区別されない。
(一)第一のアプローチによれば、カントは的確にも、有限性のもつ隙間はヌーメナルなものへの否定的な接近しか認めていないと主張しているのに対して、〔ポスト・カント的観念論者の〕一例を挙げを挙げればヘーゲルの絶対的観念論は、カント的隙間を独断的に埋めて、前批判的観念論に退行してしまっている。(二)第二のアプローチによれば、カントによる形而上学の破壊は、到達不可能であるにせよ外的な存在者としての〈物自体〉という参照点を依然として維持している以上、十分に成功しているとは言えない。後者の観点からすれば、〈絶対者〉への否定的なアクセスから、否定性としての〈絶対者〉そのものへの移行を提起することによって、ヘーゲルはカントを徹底化しているにすぎないということになる。本書では、(二)の線に沿った読みを擁護したい。
この意味で(二)の立場は「徹底したカント的パースペクティヴからすれば、観念論的継承者たちはカントの批判的なプロジェクトを完全に誤解し、前批判的形而上学に、あるいはさらに悪く言えば神秘的狂信に退行していることになる」のだ。
繰り返すが「ポスト・カント的観念論は、まさに実在性の織り目のうちへと隙間を移し入れる」、つまり「カント的隙間」言い換えるなら「カントによる分断を「乗り越える」ことではなく、むしろこうした分断を「そのまま」擁護し、対立項をことさらに「和解させること」」を求めたのだ。
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対象領域と存在論的ニヒリズム
「存在論的一元論」はいかなる地点でも失敗することをまずのべる。
我々が世界の中で出会い、なんらかの単称名辞によって指示できるあらゆるもの、すなわち、我々がその存在を認めているあらゆるものは、或る特定の領域の一部分である。ルネッサンス時代の絵画は、我々の感情や心的状態とは異なった領域に属している。国民国家は物理学の素粒子、あるいは、例えばアマゾンの植物相や動物相とは異なった領域に属している。それゆえ、もし「世界」あるいは「宇宙」と呼ばれるものが、〔すべてを包み込むなんらかの総体性であるとするならば、それはまずもって、いくつもの部分集合、あるいは、いくつもの対象領域からなる総体性であるということに同意しなくてはならない。「世界」が単に諸要素(例えば、時間空間上の素粒子)の総体であることはできない。なぜなら、様々な記述を通じてアクセス可能であるということが、世界の本質的特質だからである。世界を一つの対象領域に還元しようとするどんな試みも―つまり、どんな種類の素朴な存在的一元論もー必ず失敗する。というのも、そうした試みは自らの理論形成過程―世界の部分集合を一つ選び出し、その要素を特定の(したがって偶然的な)仕方で配置するという自らの操作― についての説明を与えることができないからである。この解決不可能な論理的分離を乗り越えるためには、この試みは要素を叙述する活動を自らの要素のうちに内包しなければならないが、要素が或る所与の領域のうちで規定されるもの、つまり固有要素〔properelements〕である以上、そのような内包は不可能である。
こうした世界観はまさにジェイムズの「多元的宇宙論」であると言えよう。つまり各「対象領域」が重なり合うことによって「相対性」をもつのであり、特定の「対象領域」に世界を還元すること、或いは特定の「対象領域」によって「存在論的一元論」をなすことは不可能という主張なのである。「もし我々が或る物について、それが存在すると言うなら、我々はなんらかの規定された対象を指し示している」と言うのは「対象領域」のもとに成り立つのである。だから下記のように述べるのだ 世界はいくつもの対象から成っており、その規定性は関連対象領域を量化する適切な言説のもとで考察される
ただこれはいわゆるカント的「対立項」の「相対的なもの」である。ガブリエルは「絶対的なもの」を下記のように論じる。
しかし、こうした一連の考え方の問題点は、それが高階対象としての対象領域を常にすでに指示しているという明らかな事実を考慮し忘れているということである。我々は言説によって諸領域を区別することができるが、その言説そのものが、これらの領域の高階領域を生み出す。この〔さらなる高階領域への〕後退が必然的に停止するのは、全領域の領域という水準、すなわち「世界」の概念に到達する時である。この地点において、我々はなんらかの存在論的一元論、すなわち、世界はただ一つしかない(全領域からなる一つの究極的領域)というテーゼを受け入れなければならない。この存在論的一元論のテーゼは、存在的一元論〔onticmonis]に対立する。存在的一元論は、自分好みの領域を選び出し、それを唯一の現実に存在する領域として定義する。そして、そうすることにより、現象(自分以外のすべての理論)と実在(唯一の真なる一般理論)の間に、はっきりとした線引きを行う。それに対し、存在論的一元論は究極的には、世界内部の様々な世界観に折り合いをつけるが、それは、心から独立したいわゆる外的世界と、有限な思考者がその外的世界について持つ表象の間の境界を取り壊すことで実施される。存在論的一元論が引き合いに出す事実とは、様々な世界の表象形式は世界のうちで生じており、したがって世界の存在論的二重化が可能でなければならないという事実である。つまり、世界は自身の内部で自分自身を折り重ねる。存在論的一元論の古典的バリエーション(いくつかの例を挙げるとすれば、パルメニデス、ブラトン、プロティノス)は、「存在と思考は一つの同じものである」と述べることで、とうした思考を言い表している。存在は、必然的に思考の中で自らを「表現する」のであり、自己を意識化する。ヘーゲルはこの存在論的二重化を再措定しようとして、第三項、つまり反省のうちにこの二重化を導入した。二重化は、常にすでにうちなる二重化である。存在は有限な思考者のうちで(偶然的に)自己を顕現するのではなく、逆に、存在は、自らが存在と現象へ二重化することに依拠している。存在は「物」、あるいは、物を指示する我々の活動から独立しているとされる絶対者に対する名であることをやめる。存在は存在と現象への分離の固有名となる。
ハイデガーが述べるように、我々の対象への関係、すなわち志向性は、究極的には無に晒されている。しかし、この無が世界そのものなのだ。だが、もし世界そのものが存在しないとするなら、世界のうちに含まれる諸領域が存在できるということをどうやって信じられるというのか?存在論的ニヒリズム、つまりあらゆるものはどこにも生起しておらず、それゆえ、まったく生起していない以上、現実には何も存在しないという主張に陥るのを避ける方法はあるのだろうか?本章を通じて見ていくように、すべてを包摂する無に直面して言語が失敗するという事実は、最終的には、無を覆す創造的エネルギーを放出する。それゆえ、無〔何も存在しないわけ〕ではなく、何かが存在するのだ。空虚を名指そうとする我々の絶え間ない活動において、無は何物かになる。より正確に言えば、空虚はもちろん空虚でさえない。というのも、「空虚」はシニフィアンの連鎖における別の単称名辞の一つにすぎないからである。もし空虚なるものを指示する方法がないとすれば、つまり、もしいかなる超越へのアクセス方法もないとすれば、それを空虚として記述することで、空虚を指示することすらできないのである。「空虚」は(二つの項の間の適当な関係ではないようなこの関係を、好みのどんな仕方で呼ぼうとも)いかなる命題として語られる環境にも先行し、それを超越し、越えていく。いかなる理解可能性の圏域の内部でも、あるいは私が宇宙論的モデルと呼ぶものの内部でも、「空虚」を捉えることはできないのである。 則、「存在論的ニヒリズム」が「名无き」世界として「何かが存在する」次元であり、そのもとに諸「対象領域」が「名ある」世界の次元として二重化される。これこそ「存在論的二重化」であるのではないか。そしてこれがいわゆる「絶対的なもの」と「相対的なもの」としての「カントによる分断」そのものではなかろうか。それ故に「不完全性を乗り越えることができないのは、それが規定性の可能性の条件であり、したがって-逆説的なことに-完全性の条件であるからである」と言われる。つまり諸対象領域からみて「完全性」をもつことは、逆説的に存在論的ニヒリズムからみた「不完全性」の条件なのだ。
これはつまり「絶対的無規定性」をもつ「存在論的ニヒリズム」の「絶対者」を、一つの「対象領域」を選択することによって「退隠」させ、選択した「対象領域」の絶対者をつくりあげ「存在論的ニヒリズム」からの遡行的な「恒常的脅威」から自衛する為に「安定化」させまいと試みるのだ。
絶対的無規定性の脅威は、世界の起源についての神話的語りの起源である。〜「われわれの言語においては、その基底にひとつの完全な神話がある」ハイデガーも『世界像の時代』において、規定性の必要条件としての世界像の不可侵性に言及している。我々の世界像の時代においては、我々の経験の神話的条件付けはそれ自身、脱神話化という神話の背後に隠れてしまっている。世界は完全に脱魔術化されているように見える。例えば、我々は、権威に基づいた価値観を捨て去って、伝統社会を飛び越えたというように。こうした物語は科学的、操作的合理性が歴史性を超越できると信じる我々の神話の土台の一つをなしている。しかし、ここで見えなくなっている可能性とは、我々の時代が想定している自在に操れる像としての世界そのものが一つの世界像であり、つまり、世界像の世界像になっているという可能性である。 つまり「科学的、操作的合理性」という対象領域が「想定している自在に操れる像としての世界そのものが一つの世界像」であり「神話」なのだ。そして彼らの自称する「脱神話化という神話の背後に」、存在論的ニヒリズムという「ひとつの完全な神話がある」のである。
しかしながら、多くの哲学者たち―例えば、ヘーゲル、そして今日ではバディウ―は、自分たちが「叙述の絶対形式」を表現することができると信じている。へーゲルの反省もまた、それが有限なものの領域内での自然と精神の発展に依拠していることを発見する限りで失敗しているにもかかわらず、それでもヘーゲルは自分が「覆われることなく、それ自体自身である真理」を露わにしたと主張している。間違いなくヘーゲルはこの反省の失敗を認めようとはしない。ヘーゲルによる反省の説明には、反省の失敗が含意されていると主張することができるにもかかわらず(実際、私は以下でそのように主張する)、ヘーゲル自身はこの失敗を意に介さないのである。なぜなら、ヘーゲルは反省の失敗にこだわることを―ヘーゲルの目には不完全性に頑固に固執しているように映る―ロマン主義者たちの反抗的姿勢に結び付けて考えているからである。 恐らくここで指しているのは『The Century』であろう。前掲書では「存在論、つまり多様体の特殊な不整合の公理系は、すべての不整合性を整合性に、そして、すべての整合性を不整合性にすることで、多の自体を把握する。それによって、存在論はどんな一の効果も脱構築する。存在論は一の非存在に忠実であるが、それは、現前化の絶対形式、したがって存在があらゆるアクセスに対して自らを提示する際の様態に他ならないような統制された多のゲームを、はっきりと名指すことなしに展開するためである」という言明があり、現代版絶対知を醸し出す存在論的理解を展開している。 反省概念
「存在は反省に先行する」ことを原理とするシェリング的反省を下記のように論ずる。
シェリングによれば、反省は「思考以前の存在と呼ばれるものに依拠しているため、必然的に二次的なものである。別の言い方をすれば、シェリングが強調する事実とは、反省は必然的に、実存〔existence〕という無情な〔brute〕事実を指し示しており、この事実はそれ自身では論理的用語によっては決して説明できない(規定できない)ということである。
それゆえバディウの論理との類似点をガブリエルは以下のように指摘する。
それゆえ、シェリングの要点はバディウの考察に似ている。つまり、論理的変項の値(したがって論理的見地から見た実存)をこれらの変項そのものによって規定することはできない。馬、石あるいは象が本当に存在するのかどうかは、我々の概念に訴えるだけでは規定できない。
次に対照的なヘーゲル的反省を紹介する。
ヘーゲルによれば、存在は反省の一契機(Moment)であり、最終的には徹頭徹尾自己言及的〔自己参照的〕な概念のうちで完全に透明になる〜理論形成過程の外部には何も存在しない〜ヘーゲルにとって、存在は反省の一側面にすぎず、反省の盲点であり、残滓にすぎない。
それゆえ、ヘーゲルにとって、存在は決して説明できないものではない。もし現実を理解できないと思うならば、それはあなたが適切に反省していないからだ!驚きは誤った反省から生じるにすぎない。 反省は自らの前提条件を不断に領有していくことで、それらを所有しようとする。したがって、ヘーゲルにおける反省とは近代的主体性のプロジェクトを徹底化し、存在を表象の限界内へと取り込もうとするものである。カント、ラインホルト、そして初期フィヒテと同様に、存在は表象の座標上に措定された存在へと還元される。「存在は実在的な述語ではない」というしばしば引用されるカントの主張は、彼の「物の措定」としての存在概念によって支えられている。存在するということは(可能な)経験の対象として措定されるととである。経験の場の外に、現実的に何かがあるのかどうか、つまり、感覚の限界を超える何かがあるのかどうかは、肯定されることも否定されることもできない。というのも、我々は超越的な存在論的コミットメントを裏付けるいかなる手段も持ち合わせていないからである。表象の座標は、何が存在することができるかを決定する。「経験一般の可能性の諸条件は、同時に経験の諸対象の可能性の諸条件であるために、アプリオリな綜合判断において客観的妥当性を持つと、その時、我々はいう」。カントにとって、このことが意味するのは、「可能的経験一般のアプリオリな諸条件は同時に経験の諸対象の可能性の諸条件でもある」ということだ。〜ヘーゲルにとって決定的なポイントは、概念的に媒介された差異性の領野を超越するとされるいかなる実在性も、概念的媒介の副産物にすぎず、反省の自己把握の試みが失敗したことを表現したことを表現しているにすぎないということである。ジジェクが次のように書く時、この問題を適切にまとめている。つまり彼の言うところでは、ヘーゲルによれば、非概念的実在性は、概念の自己展開が不整合に陥り、自己に対して不透明になった時に現れる何かである。要するに、限界が外部から内部へと移転させられている。つまり〈実在性〉があるのは、〈概念〉が不整合で、自らと相入れないからであり、その限りのことである。 シェリングとヘーゲルのどちらもが指摘するように、近代的主体は自らの実存という事実を適切に説明することができない。実際、世界を無から構築する、自由に漂う独我論的自我という考え方そのものが、次のことに気がつくやいなや、本来的に一貫性を欠いたものであることが判明する。つまり、主体自身が世界の一部分になるということ、つまり無を世界へと変形しなくてはならないはずの主体が無そのものの一部分になることである。主体自身、自らが無から構成する世界の一部なのである。なぜなら、主体は経験の客観性を説明する認識理論の文脈内で表彰されるからである。無制約な主体は、自分の無制約な主体としての措定を主張することで、自らを構成し、それによって、自らを条件づける。
これはつまり「無制約な主体」として「理論形成過程の外部には何も存在しない」とする「独我論的自我」は「無を世界へと変形」しようとするが、「自分の無制約な主体としての措定を主張することで、自らを構成し、それによって、自らを条件付ける」時点で、「主体が無そのもの一部分」又は「主体自身、自らが無から構成する世界の一部」であることを反証してしまうのだ。この意味で前節の「世界の表象形式は世界のうちで生じており〜世界は自分自身の内部で自分自身を折り重なる」ことを理解する必要がある。つまり近代的主体の独我論的自我は、存在論的ニヒリズムの「うち」で「世界」をつくるような存在論的二重化なのである。その意味で「主体は、世界の一部になりたい、世界において自己を顕現させたいという「衝動」(Trieb, Sehnen)を感じていると言ってもいいかもしれない」というのであり、それは「反省的自己認識に先行する根源的な非概念的自覚の優位」に基づくのである。第二に二階性反省原理を論ずる
近代的主体は一連の反省のパラドクスに巻き込まれている。そのことを明らかにするのがヘーゲルとシェリングによる反省の反省という、二階の反省の理論なのだが、この理論は、カントと初期フィヒテの、対象に方向付けられた理論化を克服する試みとして読まれるべきである。カントとフィヒテは依然として、デカルトのパラダイムをモデルにした反省概念を用いていた。このパラダイムにおいては、思考は(物質的)存在に対立させられているのである。〜カントとフィヒテは、一義的には認知的な主体の想定にコミットしていたのであるが、そうした主体はその認知能力が限界づけられているがゆえに実践的(倫理的)であった。つまり、実践的なものの優位は初めから想定されたものではなく、知の必然的有限性の結果であることになる。 まずここでいうデカルトパラダイムは物心二元論である。つまりカントが後期、明らかに実用的人間学的見地に熱中するのは、主体の有限的な「認知」限界を理解しているからこそ「知の必然的有限性の結果」として立ち現れたのである。こうしてカントやフィヒテの理論は「方向付けられた」のであるが、「カント的隙間を埋め」ようと試みる―≒有限性を解消せんとする―ポスト・カント的観念論者のヘーゲルとシェリングの二階の反省は、「方向付けられる」所以たる有限性を克服できることから「方向付けられた理論化を克服」する反省になるのだ。 https://scrapbox.io/files/6555af1880bf69001ce33841.png
自然主義テーゼ
形而上学的テーゼ: 自然主義1
「超自然的なものは存在せず、自然的なものしか存在しない」
こうしたテーゼは「空虚でしばしば神学的に薄弱な反宗教的告白、あるいは、自然科学の科学性に対する敬意表明という空虚な定式化にすぐさま転化してしまう」として「現実に存在しているのは世界だけであり」、「自然の因果関係の連鎖の内にゴブリンやお化けは存在しないと言われ、続いてただちに、神、魂、自我、道徳的価値、さらに、あらゆる精神状態さえも超自然的なお化けの範疇に入れられてしまう」という。
連続性テーゼ
自然主義2
学問のあらゆる形式―論理学、数学、哲学も―は、最良の自然科学の延長でしかありえない
その例として「ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインが、例えば、認識理論を「自然化」しようとし、自らを自然主義者と称するとき、このことが念頭に置かれている」をあげている。
自然主義3
人間は動物界に属している。その最も急進的な理解によれば、人間のもっとも賞賛される能力―言語、思考、志向性、理性、道徳―を進化心理学の枠組みで探究し、人間と残りの動物界との連続性を示すことによって、人間を完全に理解することができる
テーゼの交錯
「自然主義」と呼ばれるもののうちには、別々の指標によって理解すべき、互いに論理的に独立した複数のテーゼが存在しているということである。本稿でのテーマであるこうした混ざり合った状態を商慣習的な自然主義〔handelsüblicherNaturalismus〕と呼びたい。ここで問題となるのは、論理的に互いに独立した諸テーゼの混同である。一見して明らかなように、形而上学的なテーゼ(自然主義1)ならびに、二つの連続性テーゼ(自然主義2と自然主義3)を常に一緒に掲げる理由はない。こうした反論を自然主義に向けると、通常、先述の三つの自然主義のテーゼを強引に統一しようとする以下のような反応が返ってくる。有名な玩具「レゴ」にならって私がレゴ中心主義と呼んでいる、そのような統一化のテーゼを紹介しよう。レゴ中心主義によれば、存在する全てのものは要素部分からなっており、その振る舞いは物理学的に最良の仕方で描くことができる。このことは遺伝子やその変異についても妥当するのであり、それゆえ進化理論の根本概念にも妥当するという。生き物としての人間は動物界に属するのだから、レゴブロックを使うことで、究極的にはあらゆる人間の振る舞いも再構成できるというわけだ。まだ再構成がうまくいっていないのは、そのために極めて多くのデータが必要だからである。レゴ中心主義は、世界は完全に理解するには複雑すぎることを認めている。だが彼らは同時に、世界がどのように作用し、さらに、どのようにして私たち人間が非常に精巧な時計や量子コンピューターのように作動するかを知っていると考えるのである。ここでは、ありとあらゆる自然主義的なテーゼが混ざり合っている。強引な統一が、少なくとも三つの論理的に互いに独立した自然主義のテーゼの混同という犠牲を代償にして獲得されているのである。 つまり先程挙げたような「独立した複数のテーゼ」が「商慣習的な自然主義」として強引に〔「レゴ」的に〕統一しているのである。そしてそれはよく「物理学的」説明されるのである。
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主題
大雑把にいえば、この科学の時代では、ポスト・デカルト的な見方がまっさきに表明されるのではないだろうか。岩、細菌、ゾウリムシ、爪は明らかに存在するが、『ファウスト』や『マクベス』や若返りの泉は明らかに存在しない。いろんな議論実践で、そういうもの 言語ゲームに加わることが許されるのは確かだが、それでも両者の違いは明らかだ、と。ふつうそうしたものは「虚構」と呼ばれる。「フィクションの作品で最初に導入された個体」ということだ。その存在は心に依存しているが、岩はそうではない。もし心がなかったならば、マクベスは存在しなかったというのは自明といっていい。ところが、いわゆる「虚構非実在論」をとる論者は、彼の存在をにべもなく否定する。ときにその根拠とされるのは、次のような理屈である―かりにマクベスが存在したとしても想像の産物としていたにすぎず、その意味で、現実に存在するといえるものではない。さて、こうした見方にしたがえば、心そのものも虚構の対象に分類したくなる。虚構の対象の存在論的身分を低く見積もる理由があるとすれば、それは要するに、虚構の対象が心から独立しているといえないからだ。もし心が若返りの泉のように心に依存しているのなら、心もまるごと格下げしなければならない。心からの独立性を目安にして存在するかどうかを決める存在論の枠組みでは、それは当然のことだろう。 現代の科学文化を代表する側は、ここでおそらく次のように言うのではないだろうか。心が 依存しているというのは、若返りの泉が心に依存しているのとは違う。心は、突き詰めれば、物理的対象―すなわち脳―と同一視できるからだ、と。〜脳の理解が深まれば深まるほど、心と脳を同一視して、われわれの「デカルト的」直感、心と脳は基本的に違うという印象を捨てることが無難に思えるようになると。 こうした科学的見解に「揺さぶりをかける」べく新実存主義の立場を提唱する。
無視点的性格
ガブリエルは“存在するものはすべて物質やエネルギーなどの物理的存在だ”という「狭い意味の」自然主義を、すなわち「唯物論」をターゲットにする。他方でガブリエルはこうした(狭義の)自然主義を「「標準的な自然主義」(SN)」であるとして、その主張を次の四種に分ける。 第一の自然主義主張
(S1)形而上学的自然主義(唯物論)。(真の意味で)存在するものはすべて、究極的には物質とエネルギーであり、したがってそれらは、最良の自然科学が研究する因果の網目に織り込まれている。 第二の自然主義主張
(SN2)認識論的自然主義。(真の意味で)存在するものはすべて、最良の自然科学の特徴である理論構築の基準にしたがうことでもっともうまく説明できる。 第三の連続性テーゼ
第四の連続性テーゼ
上記の主張全てを成り立たないとするのがガブリエルの主張だが、本書ではSN1とSN2を批判する。さて、自然主義―《すなわち一切は物理的存在だ》というテーゼ―が主張される根拠は、ひとつに、自然科学の成功である。すなわち、近代に誕生した科学は自然に関して多くのことを発見し、それは現在も人類に多大な恩恵をもたらしている。この点に関連してガブリエルは次のように言う。
自然主義の世界観が安息の地とされるのは、競合する現実の世界観や想像上の世界観とくらべて、方法論の点でまさっているように見えるからである
例えば医学は自然科学と連結することによって抜本的に進歩した。科学はテクノロジーを支え、人間社会を無視できない意味で「良い」方向へ変化させてきた。こうした科学の成果は、その方法の威力を示す。その結果、形而上学的自然主義や認識論的自然主義のような自然主義的テーゼが主張されることになる。
ガブリエルは、唯物論は或る事実の忘却と連動する、と指摘する。その事実は《科学は人間の営みだ》という事実である。彼はこの点を指摘するために「Google Universe」という架空のシステムを持ち出す。これは位置観測システム「Google Earth」を宇宙全体へ広げたものである。ガブリエル曰く
Google Universeのマイナス・ボタンをクリックすれば、観測の対象は地球から太陽系へ、太陽系が位置する銀河系の枝へ、銀河系を含む銀河団へと広がり、ついには宇宙全体が一望できる地点に立てる
ここからガブリエルは、唯物論の側に自らを語らせることを通じて、その立場を「おかしさ」を際立たせようとする。そこで上記批判に対する二つの回答を提示する。それは「Google Universe を概念として思い描くことはできるし、また実現も可能である、と主張する」ことと「唯物論はそのような筋の通らないシナリオには依拠していない、と主張する」ことである。まず前者については「地球にいるとわかる立ち位置が文字通り存在するのに対して、宇宙の場合―少なくとも唯物論者には―そうした立ち位置がないという問題は残されたままだ」として跳ね除け後者について論ずる。
唯物論は、因果的あるいは法則的に閉じた宇宙全体についての洞察にもとづく、確立した説だ。宇宙は自然法則に支配されている。宇宙のなかには物理的対象があり、物質やエネルギーからなる物や構造としてそれらは定義される。そうした物理的対称は、一個の全体、宇宙、自然、コスモスの一部をなしている、云々。
ただ「この段階でも、唯物論は「形而上学」という言葉の少なくとも三つの意味で形而上学的立場を表している」という。
第一に、この説は、文字通りあらゆるものが同じ特徴を共有していると主張する。すなわち、(ほんとうの意味で)存在するものはどれも物質とエネルギーであり、自然法則によって支配されているという共通点をもつ。形而上学は、文字通りの意味での万物を扱う分野である。それは実在の本性、その組成、構造を探るもっとも普遍的な探究である。〝形而上学とは、つまるところ、未来の統一物理学である〟という主張は「物理主義」と呼べる。あるいは──たまたまではあるが──物理学そのものではなく物理学の本性をめぐる形而上学的解釈に立脚している点を考えて、「メタ物理主義」と呼ぶのが正確かもしれない
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第二に、唯物論は経験的な主張ではない。経験的主張は、宇宙の具体的領域の成り立ちについて述べたものである。われわれは与えられたデータをもとに、帰納法やそのほかの正当な手法によって一般化をおこなう。しかしその性質からして、データ─すなわち情報─はつねにかぎられている。私の念頭にある「形而上学的」と「経験的」との違いを具体例で説明しよう。ボソンとフェルミオンのどちらも存在することは経験的事実である。この事実は、しかるべき方法によって突き止められた。そして、これらの素粒子に異なる性質を帰属させることには相応の理由がある。だからこそわれわれは、両者が別物だと考えるわけだ。ボソンについて何かを知るとは情報を得ることであり、それによってわれわれは、ある(種類の)物理的対象をほかの(種類の)物理的対象から区別できるようになる。これは情報にもとづく経験的知識である。われわれはこの知識によって理論を構築し、その理論によって何らかの現象の基本構造を理解する。このような経験的知識と対照的なのが、物理的対象はみなものであるとか、あらゆる物理的対象はそれ自身と同一であり、ほかの対象とは異なるといった知識である。これは経験的知識とカテゴリーも一般性のレベルも異なる知識である。こうした知識の主張を差し控えたり、あるいは特権的な事例に(または、そもそも何らかの事例に)その根拠を求めたりすることの意味はなかなか理解しがたいものがある。この種の知識はほとんど何の情報も伝えていないし、とくにこの抽象のレベルでは、自然的対象を区別する材料になるような情報を与えることもないのだ。 唯物論の主張は万物についての主張である。そのかぎりで、唯物論がそうした対象について教えてくれることは何もない。たんにそうした対象は、唯物論で存在しないとされる対象とは別種のものだと述べているにすぎない。唯物論が存在を認めない対象とは、非物質的な対象である。物質的対象は、性質が異なるから非物質的対象と異なるのではない。唯物論の眼目は、非物質的対象の存在そのものを否定することにある。そもそも存在しないのだから、物質的対象から区別される性質ももちようがない。唯物論者は、人からこれが非物質的対象だと指摘されて、その存在を認めるような、心の広い研究者ではない。そのような指摘を聞かされても、唯物論者はどこ吹く風と聞き流すからだ。数、共和国、小説や映画や夢に登場する架空の人物、色の感覚、信念──こうしたものはどれも、明らかに、物質とエネルギーからなる物理的対象ではない。唯物論者は、こうしたものが存在すると私が言い張っても態度を変えたりせず、その本性はどれも物質的なものだと説明して、科学的精神にもとづく世界観から消し去ってくれる理論探しにすぐさま乗り出すのだ。こうした理論的態度を見ただけでも、唯物論が形而上学的な見方であり、実際の科学的知見にもとづく経験的観点ではないことはすぐにわかる。唯物論が真であるという事実なるものを経験のなかに見つけることは、原理的に不可能なのだ。実際の経験的発見によって、非物質的対象の存在がありえないとされることはないのだから。
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類似論者との差異
以上の議論が、分析哲学でしばしば提示される唯物論批判とはタイプが異なる、という点は強調する価値がある。例えば―ガブリエル自身が言及するが―デイヴィッド・チャーマーズは、「脳状態」などの自然科学の語彙と「赤く見える」などの心的語彙はタイプの異なる存在を指す、と考える。そのうえで彼は、脳状態に還元されない赤さの感覚が存在する、と主張する。たしかに、例えば《人間の見る赤さは一定の脳状態で実現されている》などの事実へ目を向ければ、私たちはついつい《赤さは一定の脳状態だ》などと言ってしまいそうになる。とはいえじっさいには、「赤い見え」と「脳状態」の間には何かしらの「外延的」一致があるだけであり、それぞれが本来的に指すものは異なる。なぜなら、後者が物理的出来事を指すのに対して、前者は赤さの〈赤み〉という感覚的事態(ときに「クオリア」と呼ばれるもの)を指すからである。 こうした議論についてガブリエルは、「心的語彙には特別な点がある」という部分に同意しつつも、分析哲学者によるこの「特別な点」の取り扱いを批判する。というのもチャーマーズなどは「意識をもつ心を、その意味論的な特異性も含めて自然の秩序に組み入れようとする」からである。これは却って悪い結果を生む。なぜなら、特別な心的現象を自然の秩序へ組み込むためには、「不思議な」法則や原理が必要になるからだ。ガブリエルはチャーマーズの道行きを次のように記述する。
過去100年にわたって多くの論者がそうしたように、チャーマーズも量子力学のさまざまな解釈に着目する。それを拠りどころとして、物質とエネルギーの領域についての考え方が根本から修正される可能性をさぐるとともに、新たな種類の物質的対象や法則を受け入れる余地を確保しようとするのである。そこには、意識をもった、あるいは意識の萌芽を宿した、新たな不思議な組織をつかさどる自然法則が含まれるかもしれないと考えるわけだ。
ガブリエルはこの道行きを「前進」と捉えない。彼はむしろこうしたやり方は下記と評する
唯物論者にゲームのルールを委ねておきながら、そのルールをゲームの途中で変えようとしている。
ここでのルールは例えば〈一切を自然のアイテムで説明せよ〉などだ。ガブリエルによればチャーマーズは、このルールを具えたゲームに参与した時点で「誤っている」のだが、それに加えて「自然」の意味を拡張することでルールを変えようとした点でも「反則」を犯している。要するに、ドイツの哲学者にとっては、分析哲学における二元論は二重の意味で「道を誤っている」のである。
ガブリエルによる自然主義批判はこうした道行き―いったん唯物論のゲームにのったうえでルールを変えて自説を押し通そうとする―とは違ったやり方を採る。すなわち彼は《自然主義は人間の営みを離れた形而上学になっている》と批判するのである。じっさい、私たちの知的活動はそのつど何かしらの視点から行なされているという点に鑑みると、形而上学的自然主義のような「存在する一切は物理的だ」という言明だとか、認識論的自然主義者のような「一切は自然科学のやり方で説明できる」などとは言えそうにないことが分かる。そして、自然科学の語彙の特殊性や相対性を示すもののひとつが―チャーマーズらも指摘した点だが―「赤く見える」などの心的語彙なのである。
新実存主義
存在ではなく説明
無視点的な形而上学を離れるならば、私たちは《何が「真に」存在するのか》を、もはや問う必要のない問いと見なすことができる。こうなると、より重要になるのが《私たちは物事をどのように語りうるか》という問いである。じつに、ガブリエルにおいては、心/物体の区別は「存在」の領域で云々されるべきものではない。それはむしろ、私たちが一定のやり方で物事を語って理解するという「説明」の領域に属すものなのである。かくしてガブリエルは「説明構造としての精神」という構想を提示する。「説明構造としての精神」とは何か―ガブリエルはこれを説明するために以下のような具体例を挙げている。 私が自分のことをスカッシュの一流選手だと勘違いしていると想像しよう。友人たちとスカッシュをしたらどんどん上達して、世界チャンピオンに慣れると思ったのだ。大会で負け続けても、スカッシュの大物選手だという勘違いはあいかわらずで、連敗はたまたま相手の運がよかっただけだといって片づけてしまう。何らかの心理学的要因が働いたせいもあってか、自分がとびきり優れたスカッシュ選手だという誤った信念は、本格的な妄想へと発展し、人生すら大きく左右してしまう。〜虚妄は自分自身を変えてしまう 押さえるべきはこうしたケースに現われている〈自己理解〉あるいは〈自己説明〉のダイナミックな側面である。変化する説明、あるいは動的な説明、などと呼べるだろうか。ここでの理解や説明の目的は〈固定した絵を描くこと〉ではない。むしろ〈自己を駆動し、自分の人生を導くような物語を紡ぐこと〉が理解の目標になっているのである。
ガブリエルは、〈固定した絵を描くこと〉のために用いられる語彙を「自然種」と呼び、動性を本質とする「精神(Geist)」の語彙から区別する。そして諸々の心的語彙は精神のカテゴリーに属し、いわゆる動的な説明の文脈で用いられるものだ。これについてガブリエル曰く、
精神は、行為を説明する文脈で援用される説明構造である。行為主体である人間が行うことの一部は、その行為が歴史的に変転していく人間観に照らしてなされるものであるという事実を十分に踏まえることで、はじめて説明される。人間は、なんらかの人間観をたずさえて生きている。この人間観は、一個の自然種を拾い上げるものではない。
人間を物質の組み合わせで説明しようとする自然主義もまた〈固定した絵を描くこと〉を目指す試みであり、それは行為主体である人間をそれとして理解できるものではない。なぜなら〈行為主体としての人間の自己理解〉はいわば変化を本質とする説明だからである。ガブリエルが「われわれの行いは、自分がそれをどう見るかということと切り離せない」と言うように(67頁)、自己理解は行為へフィードバックし、行為はふたたび自己理解を変化させる。「心」の諸概念は、人間がこうしたダイナミックな循環に入るさいに用いられるものなのである。
とはいえ心的語彙の動性は何に由来するのか。―こうした点をガブリエルは踏み込んで説明していないので(というより「動性」というのは彼の議論の要約における私のオリジナルな表現なのだが)、彼のテキストの関連する箇所を引くことで傍証としたい。ポイントは、心に関わる語彙は「行為」の理解のために用いられる、という点だろう。行為は、たんなる物理的運動ではなく、「歴史的に変転していく人間観に照らしてなされるものである」。要するに心的語彙は、永遠の相のもとの自然ではなく、歴史の中で行為する人間を語るものなのである。
かくして―《心は自然へ還元されるか》という当初の問いへ戻るが―人間が人間を〈歴史の中で行為する存在〉と見なす限り、心的語彙は廃棄されることはない。言い換えれば「説明構造としての精神」は、物理学の語彙へ還元されないような、独立の地位をもっている。自然主義は必ずしも正しくない、とガブリエルが主張する根拠もこのあたりにある。結局のところ、人間が人間として生きることそれ自体が、自然主義的還元を拒否するのである。
新実存主義の地平
以上を踏まえてガブリエルは自分の立場の表現として「新実存主義(neo-existentialism)」を主張する。新実存主義は―ガブリエルのひとつの説明では―心的語彙の形式的な核を「人間を理解するという活動そのもの」に置く立場である。これは《人間の本質は人間の決断と行為がつくる》というサルトル流の実存主義よりも或る点で「穏健な」ものだが、それでも実存主義の伝統の一部を引き継いでいると言える。その一部とは、ガブリエル自身の言葉を引けば、次のような人間観である。 人間は、いかなる状況においてもいまいる位置を超え出て、ものごとの連関という、より大きな地図のなかに自分を絶えず置きなおす。われわれは、ほかの人びとがべつの前提のもとで生きていることを踏まえて、自分の人生を生きている。だからこそわれわれは、同類であるほかの人間がわれわれをどう見つめ、現実をどうとらえているかに関心を寄せるのである。
これはヤスパースが「実存的交わり」と呼ぶものに近いかもしれない。「愛しながらの闘い」とまではいかないが、他者の媒介を経た自己理解の重要性が指摘されている―この点に鑑みると「ヘーゲル的だ」とも言える。ちなみにガブリエルは「実存主義の伝統に連なる思想家」として「ヘーゲル」の名も挙げている。 新実存主義は、いま述べた伝統を引き継ぎつつ、それを反唯物論あるいは反自然主義として展開する立場だと言える。例えばガブリエルはこの立場の消極的主張を「現象が生起するとされるもっとも大きな枠組みは、自然の秩序ではない」と言い表す。ではその積極的主張は何かと言えば、それは、「無生物の匿名的プロセスや、人間以外の生物」と人間とを区別する機能や能力を説明することこそが、人間を理解することの核にある、という主張である。新実存主義においては、人間存在の説明は、自然へ人間を還元することでは行なわれえない。むしろ〈人間を理解すること〉は、〈人間を自然の他の存在から区別すること〉を本質的な側面としているのである。かくして新実存主義は人間理解に関して「反‐自然主義的な」立場をとることになる。この点が如実に現われたパッセージを引いておこう。
動物の世界の一員である人間は、基本的・本質的に生物学的機械であり、その目的はわれわれが知るあらゆる生命体の目的と同じである――こうした考え方は、貧弱なデータを乱暴に一般化したものでしかない。これがもっともらしく見えるのは、われわれの抱く人間観が途方もなく多様であること、その知識は歴史的・社会学的に媒介されたものであることを無視したときだけである。人間のあり方は、自分自身をどうとらえるかに本質的に左右される。自分が描いた自画像をふまえて、人は行動するからだ。
ここでは自然主義の「狭隘さ」が批判されている。自然主義は、人間の自己理解の本質的な「動性」を無視して、科学の語彙だけで固定的な人間像を作り上げようとする。とはいえ実際問題として、人間を物質から成る機械と描くことによって「推進力」を得る人生は少ないだろう(ひょっとしたらそんな人生は皆無かもしれない)。自然主義的人間理解(あるいは少なくとも従来のこのタイプの人間理解)は、「活きた」自己理解をめったにもたらさない。〈自画像をふまえて行動すること〉における「動的な」自己理解は、諸々の「心的」あるいは「精神的」語彙によって彩られておらねばならない、ということである。