バディウ
2007『The Meaning of Sarkozy』
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2009『民主主義という紋章』(引用)
『démocratie dans quel état』収録
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本論考の主題
民主主義は〜現代の政治・社会の支配的な紋章エンブレムであり続けている。紋章、つまり、象徴体系の不可侵の要素である。〜社会の真実に触れるためだけにでも、一つのアプリオリな演習として、この紋章を廃位させてみなければならない。
民主主義概念再考
「万人」といっても、私たちにあっては、この紋章をもとにしてしか言われないものなのだから。つまり「万人」は民主主義者なのである。これが、紋章の公理と呼びうるものである。
つまり民主主義というポリティクスのもとで「万人」という語のシニフィエが定まるのであって、言い換えれば万人自体が民主主義者なのである。だがこれ自体が誤謬だとバディウは語る
>私たちにとって大事なのは、世界 monde であって、「万人 tout le monde」ではない。世界は、まさにその現にある姿において、万人の世界ではない、、、、
この言明は民主主義と内部/外部を白日の元に晒す。万人を世界と、万人の世界と誤謬しているが、その万人という構造自体がある特定の内部でしかない。
民主主義〜には一つの政治的な族内婚制エンドガミーがある。民主主義者は民主主義者しか愛さない。それ以外の者たち~は〜「統合」されねばならない。何へ?おそらくは、民主主義へ。受け入れてもらうためには、そして、もしかしたらやがていつの日にか心から歓迎してもらうためには、真の世界に辿り着けるなどと考えるよりも前に、長い時間をかけて懸命に、民主主義者となる鍛錬を自分に積んでおかなければならない。〜そこからすぐさまわかるように、民主主義は、そのちっぽけな世界が享受し、生きているつもりの城壁の紋章にして守護者として、一つの保守的な寡頭制を結集しているのである。その全職務、往々にして好戦的な職務は、「世界」という僭称の下で、自らの動物的な生の領域にすぎないものを維持することにある。
これはまさにアルチュセールが指摘する、その原理として、問題の全体が単一の内在性をもった一つの原理、すなわち一つの内在的本質に還元されるというヘーゲル図式を民主主義に適応した原説。