パトナム
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水槽の中の脳
哲学者たちによって議論される次のようなSF的可能性がある。ある人(あなた自身と考えてもよい)が邪悪な科学者による手術を受けたと想像せよ。その人の脳(あなたの脳)は身体からとりはずされ、脳を生かしておくための培養液のはいった水槽に入れられている。神経の末端は超科学的コンピュータに接続され、そのコンピュータによって、脳のもちぬしはすべてがまったく平常どおりだという幻想をもたされる。人々も、いろいろな対象も、大空等も、みなあるように思われる。しかし、本当は、その人(あなた)の経験していることはみな、コンピュータから神経末端に伝わる電子工学的インパルスの結果なのだ。そのコンピュータは非常に賢くて、その人が手を上げようとすると、コンピュータからのフィードバックによって、その人は手が上げられるのを「見」たり「感じ」たりすることになる。さらにプログラムを変えるだけで、邪悪な科学者は彼の思い通りに、どんな状況や環境をも、犠牲者に「経験」させる(幻覚を生じさせる)ことができる。脳手術の記憶を抹消することもできるから、犠牲者には自分がずっとこういう環境にいたのだと思えるだろう。犠牲者には、自分が座ってこんなお話を読んでいるようにさえ思えるかもしれない。それは、おもしろいけれどもまったく馬鹿げた想定で、邪悪な科学者がいて、彼は人々の脳を身体からとりはずし、脳を生かしておくための培養液の水槽に入れるのだ。その想定によれば、神経の末端は超科学的コンピュータに接続されており、そのコンピュータによって、脳のもちぬしはすべてがまったく平常通りだという幻想を....。
そしてさらに「ひょっとすると邪悪な科学者などいないのかもしれない」として、さらに論理を飛躍させる。
宇宙というものは、脳や神経系でいっぱいの水槽を管理する自動機構からできているのかもしれない。そこで、自動機構が、多くの別々で無関係な幻覚ではなく、われわれみなに集団的な幻覚を与えるようにプログラムされているものと仮定してみよう。
そうした仮定のもとでは「われわれはある意味では本当にコミュニケーションをしているのである」。なぜなら「語り出すときに起こることというのは、遠心性のインパルスが私の脳からコンピュータに伝わって」聞いて見てるかのようにさせるからである。
こうした問いをもってパトナムが試みるのは-或いはその目的を-「外部世界についての懐疑論という古典的な問題を、現代的な仕方で提起することである」。そして「われわれがこのように水槽の中の脳であるとしたらば、われわれは、われわれがそうした脳なのだと言ったり考えたりできるだろうか。「いやできない」」とする。そしてそれは「ある仕方で、自己論駁的だから」とする。
「自己論駁的な想定」とは、それが真であることがそれ自身の偽であることを含意するものである。例えば、すべての一般言明は偽だというテーゼについて考えよ。これは一般言明である。だから、もしこれが真であるなら、これは偽でなければならない。したがって、このテーゼは偽である。また、そのテーゼが心に抱かれたり口に出されたりしているという想定が、そのテーゼの偽であることを含意するときに、そのテーゼを「自己論駁的」と呼ぶ場合もある。例えば、「私は存在しない」は私(どんな「私」でも)によって考えられているのならば、自己論駁的である。だから(デカルトが論じたように)、自分自身が存在するということを、そのことについて考えているかぎり、その人は確信することができる。
そしてなぜ「われわれが水槽の中の脳だという想定には、まさしくこの特性がある」といえるのか。それについて次のように表す。
その可能世界の人々は、われわれが考えることや言うことのできるどの語も、考えることや「言う」ことができるにもかかわらず、われわれが指示できるものを指示することができない(と私は主張する)のだ。とりわけ、彼らは、自分たちが水槽の中の脳であると考えたり言ったりできない(「われわれは水槽の中の脳である」と考えることによってさえもできなき)のだ。