デイヴィッド・ルイス
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われわれがたまたま住んでいる世界以外の可能世界が存在すると私は信じる。そのための議論が必要であれば、それはこうである。物事が実際にそうであるのとは違っていたかもしれないということは、議論の余地なく真である。物事は無数の仕方で別様であっただろうと、私は信じているし、読者もまたそのはずである。だが、これはどういう意味なのだろうか。日常言語ではこれをつぎのように言い換えてよい。すなわち、物事が現実にそうある仕方のほかに、物事がそうありえた多くの仕方がある、と。その通り取れば、この文は存在文である。それが言うことは、ある記述、すなわち、「物事がそうありえた仕方」が当てはまる多数の存在者が存在するということである。物事が無数の仕方で別様であっただろうと私は信じており、自分が信じていることを言い換えたものをも私は信じている。したがって、この言い換えを額面通りに取れば、「物事がそうありえた仕方」と呼ばれうる存在者が存在することを私は信じていることになる。私は、こうした存在者を「可能世界」と呼ぶ方を好む。 こうしたルイスの可能世界論はバウムガルテンとは異なる。なぜならバウムガルテンは「ありえたかもしれない」ことを真なる虚構の方に位置付けており、可能的諸世界とは別の次元として想定しているからである。 1995 『現代思想』第23巻4号所収
架空の対象についての記述を額面通り受けとるのではなく「然々の物語において⋯⋯」というオペレーターで始まる、より長い文の省略形であるとみなそう。このような句は、文∅の前に置かれて、新しい文を形成する、内包的オペレーターである。このオペレーターが省略されることによって、それは、元の文∅と同じように見えるが、それとは意味的に異なる文となるのである。よって、ホームズは好んで知力を披露した、と言うならば、それは、「シャーロック・ホームズの話では、ホームズは好んで知力を披露した」という真なる文の省略形を主張していることになる。〜ホームズは実際には存在していないのであるから、これらはオペレーターなしでは偽である
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主題
本書は様相実在論を擁護する。それは、われわれを部分として含むこの世界は複数存在する世界のひとつにすぎず、この世界に住むわれわれはあらゆる世界の住人すべてのごく一部にすぎない、というテーゼである。 これを別の言い方で現すなら「この現実世界と同じように他の可能世界も実際に具体的に存在する。現実世界は無数に実在する可能世界の内の単なる一つにすぎない」(『反事実的条件法』の訳者解説を参照)。だが本書の12年前に命名した自身のテーゼたる「様相実在論」を「今日の議論を予見していたならば、私はきっと別の名前をつけたはず」とする。なぜならルイスにとって「様相実在論が性格には次のテーゼにすぎない」と考えるからである。 すなわち、他の複数の世界およびそこに住む個体が存在し、それらはある一定の本性をもっており、ある一定の理論的役割を果たすのに適している、というテーゼにすぎない。これは存在に関する主張であえり、ネス湖の怪獣がいるとかCIAに赤いスパイがいるとかフェルマー予想に反例があるとかセラフィムが存在するといった主張と異なるところはない。それは私たちの意味論的能力に関するテーゼでもなければ、真理の本性・二値性・われわれの知識の限界に関するテーゼでもない。私が考えたいのは、対象オブジェクトの存在に関する問いであり、主題の客観性オブジェクティヴィティに関する問いではない。