バウムガルテン
バウムガルテンは美学を下記のように定義した。
それゆえに、可知的なもの(noéta)、すなわち上位能力によって認識されるものは論理学(logica)の対象であり、可感的なもの(aisthéta)は感性の学〔ないし美学〕(aesthetica)の対象であろう。
詩的な虚構
本書では、広義の虚構のうち「現実世界において可能な対象」を描いたものは「真なる虚構(figmenta vera)」とされ、「現実世界において不可能な対象」を描くものはたんに「虚構」と言われる(§51)-これは狭義の虚構である。
ここから分かるように、現代の日常における「figmenturn」には虚偽であるというニュアンスことが多いのに対して、バウムガルテンにおいては、作者自身が直接的に経験していない内容を描くことが虚構の条件である。
狭義の虚構については、バウムガルテンはさらに「他世界的(heterocosmicus)」と「ユートピア的(utopicus)」という概念を導入して分類する。それは下記のように言明される。
〔狭義の〕虚構の対象は、ただ現実世界において不可能であるか、あるいはあらゆる可能世界において不可能であるか、いずれかである。我々は、後者を絶対的に不可能な《ユートピア的》対象と言い、前者を《他世界的》対象と呼ぼう。(§52)
現実世界においては起こりえないが可能世界においては起こりうる事柄と、それを描く虚構は「他世界的」と呼ばれ、一切の可能世界においても起こりえない事柄と、それを描く虚構は「ユートピア的」と呼ばれる。
経験が十分でないならば、真なる虚構がおそらく必要であり、そして歴史的事実も実際に十分に豊富でないならば、他世界的虚構がおそらく必要であろう。したがって、真なる虚構か他世界的虚構も、詩において仮定的に必要である。(§58) バウムガルテンによれば、ある事柄を詩的に表現しようとするなら、具体的な記述を増やすのがよいが、そのときに作者自身の実体験や史実の記録が不足しているならば、詩人には虚構が必要となる。ただし虚構には「可能」であること、が必要であり、ユートピア的虚構は現実世界でも可能世界でも「可能」を有していない。よって矛盾を孕むユートピア的虚構は創作すべきではなく、詩的でないとする。 換言するなら、現実世界での経験外の「歴史的事実」或いは「歴史的事実には反するが、現実世界で起こりえた事柄ないし起こりうる事柄」としての虚構か、「現実世界において不可能であるが」可能世界においては不可能でない虚構、のみが「詩的」なのである。
下位認識能力
本項では、本書を起点とした、のちの大著『美学』に対する基礎付けとして最も重要な役割を担った認識諸能力の再検討を行う。それによって、そのなかでも基礎的な能力である「感官(sensus)」「想像力(phantasia)」「予見力(praevisio)」が認識能力論全体のうちに位置付け直されるとともに、「洞察力(perspicacia)」や「詩作能力(facultaspoetica)」も呼ばれる「創作する能力(facultasfingend)」といったいくつかの認識能力についても、下位認識能力論を越えた役割が見出されるであろう。
まず、『形而上学』における下位認識能力論の構成の変更に注目した、下位認識能力論全体と美学構想との関係への指摘からみていこう。バウムガルテンの認識能力論は、その認識の明瞭性の程度に応じて区別された下位認識能力論と上位認識能力論から成るが、 前者に含まれる節は初版から二版でその数を大きく増やす。初版においては、下位認識能力一般論を扱う節に、現在の状態を認識対象とする「感官」、過去の状態を認識対象とする「想像力」、そして未来の状態を認識対象とする「予見力」という三つ認識能力の各論を加えた、計四つの節が下位認識能力論を構成していた。それに対して、二版では想像力節から「洞察力(perspicacia)」「記憶力(memoria)」「創作する能力」が、予見力節から「判断力(iudicium)」「予感力(praesagitio」「記号的能力(facultas characteristica)」が、それぞれに節として独立したのである。
まず下位認識能力の前提となる「魂」概念を検討する。「魂」とはバウムガルテンによれば「宇宙における人間の身体の位置に応じて宇宙を表象する力」(§741)である。(§752)では下記のようにも論じる。
人間の魂はその身体の位置に応じて、世界の現在の状態を表象する、すなわち感覚し、世界の過去の状態を表象する、すなわち想像し、世界の未来の状態を表象する、すなわち予見する。人間の魂の感覚内容は、それらと同時的な世界のあらゆる部分の表象である。〜人間の魂の想像内容は、感覚する魂に先行した世界の過去のあらゆる部分の表象である。〜人間の魂の予見内容は、感覚する魂の作用の後に現実存在するであろう世界の未来のあらゆる部分の表象である。
この人間の魂の表象する対象は(1)世界の現在の状態、(2)世界の過去の状態、そして(3)世界の未来の状態に分類され、それぞれが(1)感覚すること、(2)想像すること、そして(3)予見することに換言される。つまりこれは(1)「感官」、(2)「想像力」、(3)「予見力」に対応するのだ。
次に「想像力」節から二版にて独立した「洞察力」、「記憶力」、「創作する能力」を論じる。
洞察力(§575)
事物の同一性と差異性を、私は判明に知覚するか感性的に知覚するかのいずれかである。それゆえ、同一性と差異性を知覚する能力、つまり資質と鋭敏さおよび洞察力は、感性的であるか知性的であるかのいずれかである。
事物の同一性と差異性を知覚する能力である洞察力において、その対象は「事物」のうちの同一性と差異性であって、想像内容に限定されていない。つまり認識過程において洞察力が、あらゆる認識能力の基礎に置かれることがわかるだろう。したがって、記憶力と創作する能力がはたらく際には洞察力による認識が必要となるのであり、この点で洞察力は他の二つの能力とは区別されなければならない。
記憶力(§579)
再生された表象を、かつて私が産出したものと同じものとして知覚する、すなわち《私は再認識する》(私は思い出す)。したがって、再生された知覚内容を再認識する能力、すなわち《記憶力》を私はもつ。記憶力は、感性的であるか知性的であるかのいずれかである。
記憶力は洞察力と異なり、想像内容と強く結びついている。なぜなら再生された表象を再認識する能力である記憶力において、その再生された表象とは、想像力によって過去のより不明にされた知覚内容がより少なく不明に知覚されたときに生ずるものである(§559)。つまり想像内容に限定されている。
創作する能力(§589)
想像内容を結合することと《分離する》ことによって、すなわち或る知覚の部分にのみ注意することによって、《私は創作する》。したがって私は創作する能力、すなわち《詩作能力》をもつ。結合とは多なるものを一なるものとして表象することであり、それゆえ事物の同一性を知覚する能力によって現実化されるのだから、創作する能力は宇宙を表象する魂の力によって現実化される。
創作する能力において、結合や分離される対象は想像内容である。その意味で「記憶力」と同じく、想像内容に限定されている。したがって、洞察力、記憶力、創作する能力はその認識対象が想像内容に限定されるか否かという点で分かたれる。また、創作する能力による結合というはたらきは、多なるものである世界の部分を新しい全体という一なるものとして表象することであり、あるいは分離というはたらきは、或る全体から取り去られた部分と取り残された全体を別個なものとして表象することである。
次いで、予見力節から独立した「判断力」、「予感力」、「記号的能力」について確認しよう。
判断力(§606)
私たちは事物の完全性と不完全性を知覚する、すなわち《私は判定する》。したがって、私は判定する能力をもつ。〜事物を判定する習性は《判断力》であり、これが予見することに関わるならば《実践的な判断力》と、それ以外のことに関わるならば《理論的な判断力》と呼ばれる。
事物の完全性と不完全性を知覚する判断力は予見内容に限定されていない。判断力による事物の完全性あるいは不完全性の知覚とは、その事物がもつ様々な要素が和合するものとしてあるいは不和なものとして知覚されたときに生ずるものである(§607)。つまり多なる部分が一なる全体に一致すること、あるいは部分のうちのいくつかが全体に対立するか一致しないことを知覚することである(§121)ゆえに、ここでも洞察力のはたらきが前提とされる。
予感力(§610)
予見された知覚をいつか知覚するであろうものと同じものとして表象する者は、《予感する》。したがって予感する能力、あるいは《広義の予感力》をもつ。
これらの三つの能力についても、予見内容との結び付きには濃淡があることがわかるであろう。事物の完全性と不完全性を知覚する判断力や、記号と指示対象を結びつける記号的能力について、その対象は予見内容に限定されていないのに対して、予感力は予見内容を将来に知覚するであろうものとして表象する能力であり、その対象は予見内容を素材としている。この点で、予感力と他の二つの能力は区別される。
予感力については、予感するというはたらきが予見内容を将来の知覚内容との同一性に基づいて知覚することであると理解することで、想像力と記憶力の関係と予見力と予感力のあいだにある類比関係が指摘される。ゆえに、予感力にも洞察力という媒介的能力が必要である。
記号的能力(§619)
私は一つの記号を指示対象とともに知覚する。したがって、私は表象する際に記号を指示対象と結びつける能力をもつ。それは《記号的能力》と言われうる。
記号と指示対象を結びつける記号的能力は予見内容に限定されていない。記号的能力についても、記号を記号、また指示対象を指示対象と見做すのは事物の同一性の認識を担う洞察力である(§621)。ゆえに、記号的能力では洞察力による知覚内容がその認識の対象となる。
神の知
感官・想像力・予見力が人間に固有の能力であるように思われる。しかしながら、その三つの能力とは本質的に異なりながらも、その構造が類比的であるような認識、厳密には「知識「(scientia)」を神はもつのである。すなわち、神は、可能なものとして考察されるかぎりでのあらゆる規定を、「単純知解の知(scientia simplices inteete」 によって知る(§874)、現実的なものとして考察されるかぎりでのあらゆるもののあらゆる規定を、「自由知(scientia libera)」 (§875)、あるいは「中間知(scientia media)」(§876)よって知るのであるが、まず注目したいのは自由知を構成する三つの知である。 神は、(Ⅱ)(1)この世界に属する現実的なものどもについてのあらゆる規定を《自由知》(直視の知)によって、〔そのうちで〕(α)過去のものどもを《神の想起(recordatio divina》によって、(β)現在のものどもを《直視の知〔scientia visionie〕》よって、(γ)未来のものどもを《予知〔praescientia〕》によって、 〔それぞれ〕知っている。
上記(§875)では自由知を構成する分類を紹介している。それはその認識対象が属する時制に応じて、現在であれば「直視の知」、過去であれば「神の想起」、そし て未来であれば「予知」に分類される。この分類は、感官・想像力・予見力の分類に符合し、その点で神の自由知のモデルは人間の認識能力論をモデルとしていることがわかる。つぎに「中間知」を論じる。
上記にある(§876)中間知は、この世界という現実的なものの連結のうちで、現実化することもできたけれどもそうはならなかった別の連結を、つまりこの世界とは部分的に異る連結を知る能力である。テクスト根拠は乏しいが、創作する能力を中間知のモデルと捉えることが可能である。これは創作する能力が結合・分離によって新しい全体を作る能力であった点に照らすと、両者の認識が非常に似ていることに気付くであろう。中間にとっての全体は世界であり、他方で創作する能力にとっての全体は事物であるように、それぞれの能力が対象とする全体の大きさは異なるものの、全体と部分については部分を変えることで新しい全体を創作する点で同じである。
ひいては「自由(libertas)」の問題においても、人間の魂の考察はモデルを提供している。自由とは、人間の場合にも神の場合にも「選好(lubitus)」に応じて行為することである(§719,818)
予見力、予感力、快・不快、刺激と動機は、それらは特定の実体において認識されるのであるが、その実体の選好を構成する。(§712)
選好は、(1)予見力、(2)予感力、(3)快・不快、(4)刺激と動機から構成され、それは感性的であるか、 より判明で知性的であるかのいずれかである。人間の場合、例えば私が何かを欲するのは、(1)将来の状況を予見し、(2)欲求の対象が将来にあることを予感するときであり、(3)完全性の直観から快を感じるときであり、(4)欲求を生じさせるいくつかの刺激ないし動機をもつときである。他方で、神は感性的な認識をもたないので、(1)・(2)予見力や予感力を用いることなしに、予知によってこの世界の将来の状況を知り(§875,878)、神は自らを最善で最も聖なるものとして最も判明に直観するために、(3)神自身から最も純粋な快を得る(§892)。そして、(4)神の意志はあまりにも多くの動機をもつために、私たちは神がただ最も判明な選好を動機とするとしか理解することができない(§900)。この意味で、神の自由は人間の自由をモデルとするといえる。但し、それらは両者の―感性的な認識を持つか否かといった―認識能力の違いに応じて明確に区別されるのである。
欲求と忌避が認識に従うとは、神の欲求がこの世界の自由知を現実化することであるために、それは自由知という認識に従うという意味であり、そのかぎりで神の自由は認識に基礎付けられるどころか、一致するといえよう。
神は全知をもつのだから、神の認識が自由を基礎付けるとしたら、人間の場合のような選択の予知を想定することは一見すると困難である。つまり、感性と理性をもつ人間とは違い、知性に一本化された神において、意志は最も完全で最善なものを欲求するしかない。それにもかかわらず、神が選好に応じて欲求するといえるのは、それが自由知に従うからである。先に確認したように、自由知とはこの世界の現実的なもののあらゆる規定に関する認識であり、中間知によって認識されるこの世界ではない他の世界を対象としない。ゆえに、自由知は他の世界のものであり得たにもかかわらず、この世界のものであるという点で、「相対的な完全性」である(§881)。
神はこの世界という全体に対して、その部分を任意に結合・分離して他の全体を創作することができたにもかかわらず、神はこの世界を構成する現実的なものの諸規定という諸部分を、この世界の在り方で一つの全体と判断して創作した。つまり、この世界とは部分的に異なる無数の世界があることは、神が中間知とは区別された自由知という認識をもつことから帰結するのであり、同時に、創作する能力をモデルとする中間知という認識をもつからこそ、無数の可能世界が想定されるのである。換言するなら、自由知が「この世界」を編み出し、それと区別できるものとして中間知が「可能世界」を編み出すのであり、それは相互準拠的な同一性と差異によって画定しているということ。『美学』でいわれる「可能的諸世界」とはこうした基礎づけのもとに成り立っているのだ。 美学を創始した書
https://scrapbox.io/files/659bb5dbc7a0900024356786.jpeg
虚構概念について
§511
創作者乃至詩人が、現実世界である「この世界」の確実な出来事や仮説を参照しながら、「この世界」では「可能なもの(possible)」ではないにしても、「他の世界」では「可能なもの」として創造した所産を「他世界的虚構(fictiones heterocosmicae)」とみなし、これを歴史から区別して「詩的虚構(fictiones poeticae)」と呼ぶ。そしてこのような所産は複数あるので、それらを「可能的諸世界(mundi possibiles)」(§475)とも呼ぶ。 /icons/hr.icon
『美学』では「可能的諸世界(mundi possibiles)」と「虚偽的世界」、『省察』では「他世界的対象(objecta heterocosmica)」(これが他世界的虚構)と「どこにもない対象(objecta utopica)」とを明確に区別して虚構に対して肯定的な存在性格を与えている
『美学』では「fictio」と呼び、『省察』では「figmenturn」と言い回しを変えている。
『省察』では、広義の虚構のうち「現実世界において可能な対象」を描いたものは「真なる虚構(figmenta vera)」とされ、「現実世界において不可能な対象」を描くものはたんに「虚構」と言われる(§51)-これは狭義の虚構である。一方『美学』では、それぞれ「歴史的虚構」と「詩学的虚構」と呼ばれ(§507,§511)、「真なる虚構」と「歴史的虚構」、「虚構」と「詩学的虚構」が対応している。
前者には「真実(verum)」が、後者には「真実らしさ(verisimilitudo)」が認められる (『美学』§509)。
前者(「真なる虚構」ないし「歴史的虚構」)とは、リウィウスの『ローマ建国史』のような、作者が実際に体験したわけではない現実世界の出来事を、歴史的事実に則して叙述したものと、ウェルギリウスの『アエネーイス』のような、歴史的事実には反するが、現実世界で起こりえた事柄ないし起こりうる事柄を叙述したものを含む。 歴史的虚構は、作者によって「経験されていない、この「現実」世界についてのあらゆる認識」を対象とする(『美学』§509)。ここから分かるように、現代の日常的な語法では「fictio」や「figmenturn」には虚偽であるというニュアンスことが多いのに対して、バウムガルテンにおいては、作者自身が直接的に経験していない内容を描くことが虚構の条件であり、むしろ虚構が真理ないし真実らしさを有しうることが強調される。
後者(狭義の虚構ないし「詩学的虚構」)については、バウムガルテンはさらに「他世界的(heterocosmicus)」と「ユートピア的(utopicus)」という概念を導入して分類する。それは『省察』にて言明される。
〔狭義の〕虚構の対象は、ただ現実世界において不可能であるか、あるいはあらゆる可能世界において不可能であるか、いずれかである。我々は、後者を絶対的に不可能な《ユートピア的》対象と言い、前者を《他世界的》対象と呼ぼう。(§52)
現実世界においては起こりえないが可能世界においては起こりうる事柄と、それを描く虚構は「他世界的」と呼ばれ、一切の可能世界においても起こりえない事柄と、それを描く虚構は「ユートピア的」と呼ばれる。
バウムガルテンによれば、ある事柄を詩的に表現しようとするなら、具体的な記述を増やすのがよいが、そのときに作者自身の実体験や史実の記録が不足しているならば、詩人には虚構が必要となる。ただし虚構には「真実らしさ」が必要であり、ユートピア的虚構はいかなる真理も有していない。よって矛盾を孕むユートピア的虚構は創作すべきではなく、詩的でないとする。
真なる虚構と他世界的虚構のみが、詩的である(§53)
次に『美学』を参照して補論する。バウムガルテンの考える「他世界的虚構」とは、『美学』によれば、古代ギリシャ・ローマやインドや北欧といった諸民族の神話の他、ユダヤ神秘主義のカバラの世界、キリスト教聖人伝の創作された部分、さらにはデカルトを含めた哲学者らによる宇宙開闢論の多く、などである(§513)。
他方の「ユートピア的虚構」とは、何の目的もなく偶然に生じる出来事を描き、ストーリーが矛盾に満ちた物語のことである(§520)具体には、ローマ神話におけるユピテルの破天荒な行動や、同一の詩のなかにキリスト教の天使とローマ神話のクピドを登場させる作品、といった事例が想定されている。この分類は作品全体だけでなく、個々の描写の単位に対しても使われる。