ヤスパース
序文
科学的認識であると同時に人生の教えとして、一つの世界観を展開させることが哲学の課題であった。そのとき合理的な考え方がその拠り所となるべきであった。それと違って本書においては、心がいかなる最終究極的な地位を占め、いかなる力がその心を動かすのかということを、ただ理解しようと試みるだけである。しかるに実際の世界観は、いつも生活の事実である。人生にとって肝要なことを伝達するのでなく、ただ自己覚醒のための手段としての、いろんな解明や可能性が述べられるべきである。いかに生きるべきかという問いに対して、直接その解答を本書に求めようとしても無益であろう。本質的なものは、個人的運命のいろんな具体的決意の中にあって、いつも閉ざされている。
序論
ヤスパースはこうした哲学を「予言的哲学」と呼ぶ。予言的哲学は「ある全体、宇宙」を組織し、「何が正しいのか、何が肝要なのか、何のために私たちが生きているのか、いかに私たちは生きるべきか、何を私たちはなすべきか」を与える。なぜならばそれはありとあらゆる存在と価値を秩序づけ、「世界の意味」に調和をもたらすのだ。まさにこの意味でヤスパースは「第三章」のA「懐疑主義とニヒリズム」にてつぎのように言う。「世界観の最初にして最後の根本問題は、全体としての生活が肯定されるのか否定されるか、最高のものが無の中にあるのか現存在の中にあるのか、最終の目標が自己解消や中止であるのか、それとも行動、創造、建設の中にある生活であるのかどうか、という問題である」。「しかし本書には、世界観の「心理学」という名がついている。これは何を表すのか。そこで提唱するは予言的哲学に対置される、社会学や論理学に与する方法論。「普遍的観察」である。 しかし哲学は、昔から単なる普遍的観察以上のものであった。哲学は、いろんな衝動を与え、いろんな価値表を掲げ、人間生活に意味と目標とを与え、人間に安らぎを感ずるような世界を与え、一言でいうなら、人間に世界観を与えた。普遍的観察は、まだ決して世界観ではない。それが世界観となるためには、全体的な人間に突き当たり、その全体から出発するところの衝動が添け加わらなければならない。哲学者たちは、ただ静止した無責任な観察者であるだけでなく、むしろ世界を動かし、形成する者であった。私は、このような哲学を予言的哲学と名づける。この予言的哲学は、それが世界観を与えたり、意味や意義を示したり、規範や妥当なものとしての価値表を掲げる点において、普遍的観察とは本質的に異なるものとして対立する。(...)衝動を熱望する者や、何が正しいのか、何が肝要なのか、何のために私たちが生きているのか、いかに私たちは生きるべきか、何を私たちはなすべきか、ということを知りたい者や、世界の意味について知りたい者は、たとえそれが哲学の名の下でおこなわれようと、普遍的観察に頼っても無駄である。たしかに普遍的観察は、衝動について述べる。すなわち、いかに人間が哲学の意味を見いだすのか、人間が正しいと見なすものは何か、どんな要求を人間が絶対に責任あるものとして経験するのか、というようなことについて述べる。しかし、普遍的観察はどんな立場もとらないし、予言的哲学が何かを宣伝するようなことも欲しない。普遍的観察は、人生の意味を求める者に対しては、パンの代わりに石を与え、仲間を組んだり、従属したり、弟子になりたいような者には、自分自身に帰るように指示する。そしてそのように指示された者は、普遍的観察によって、せいぜい彼にとって手段となるものを学びうるだけである。(...)もっとも、社会学は哲学であることに反対し、心理学もまた同じように哲学であることに反対する。しかし、社会学も心理学も、哲学を軽蔑するから反対するのではなく、むしろひとえに哲学を尊敬するからであり、哲学と混同されるのを避けたいからであり、また明らかに自分たちの領域で、なしうる限りのことを遠慮なくおこないたいからであるが、そうかといって大言壮語をしたいのではない。そこで社会学も心理学も、本来の意味の哲学という名からいつも遠去かろうとしている。哲学者とは、他人から頼されうるような予言的哲学者であるか、あるいは単に観察し、ただいくらか相対的に認識するような心理学者、社会学者、論理学者であるか、のいずれかである。
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第二章 真理
真理の生成性
そもそも真理というのは、われわれがその場に居合わせれば認識できるような、ある無時間的に存立するものとみなされていた。すなわちそれは、ただ発見しさえすればよい不動の不可侵なる存在者としての真理である。(...)しかしこの場合、彼にとって真理はそれ自身だけで存在するものではなく、無制約的なものではなく、端的に一般的なものではない。むしろ、真理は、生きているものによって解釈された世界の中で、その生きているものの存在と不可分に結ばれている。
では真理とは如何にして生と関連するのか。そこで示されるは真理は誤謬であること、そして誤謬としての真理が無ければ僕たちは生きていくことが不可能であることである。
真理とは、第一に、生の条件となる誤謬であり、第二に、生から遠い、いわば生を見捨てることにおいて獲得されうるところの、この誤謬が誤謬として認識されるための基準である。(...)真理と誤謬を区別することは避けられない。というのは、ただこのように区別することによってのみ、真理について有意味に語ることが可能になるからである。(...)
すなわち生の条件であるからして真理なのだとすれば、その他全ては誤謬なのであり、真理が規定されているからして誤謬も決定される。ゆえに真理の機能の第二を「誤謬が誤謬として認識されるための基準」とするのだ。よって先ほどの引用でも真理は「動的な一群」であるとしたように、真理と誤謬は生のあり方に対し、常に入れ替わるのだ。ニーチェはこれを「生成」と呼ぶ。
ニーチェはこの立場をとり、そのことによって彼には、生成しながらつねに他のものになる仮象の中で〈自体的に妥当するもの〉はすべて消えてなくなる。なぜならむしろ仮象が、不安定性のうちにあって絶えず消失しつつあるものとして、存在そのものであるからである。したがって彼にとって「真理」とは、現存在する、見つけ出されるべき、発見されるべき何かなどではなく、−創造されるべきものであり、一つの過程に対する名称をなすものである...その過程は、それ自体としては終わりがない。
これは平素に言い換えるなら客観的に従うべき生の条件はなく、ただ自らの生のうちでその条件が流転するだけということに他ならない。ゆえに次の定式が可能になるという。それは「何ものも真ではない、すべてが許されている」。
絶対的自由
それ自体として受け取るならば、この命題は完全な無拘束性の表現であり、随意性、詭弁への、そして犯罪性への促しの表現である。(...)その場合その命題は直接的に、あらゆる真理の終わりと共に、何ものでもない無規定可能性の中への沈滅を意味する。(...)そうなると全現存在は一つの領面上で等しいものになってしまっているだろうし、(...)最後の限界はもはや空虚な無意味性と無益性でしかない。
しかしニーチェのそれは果たしてそうだろうか。なぜなら生成とは絶えず諸存在のうちで真理と誤謬が駆動するのであり、それによって動的に生は条件づけられる。しかし上記では「生を高めるがゆえに真である仮象と、個人の任意の虚偽との区別が(...)消失してしまっている」。
何ものももはや真「である」のではないのだから、「すべて」が許されており、不可侵の存在は自由なのである。歴史性の深みから存在そのものが迎え出てくるところでのみ、その命題はニーチェの本義をもつ。(...)われわれが明確に弁証法的運動を遂行すると、真理はどこにおいてもその目標に到達しない。なぜなら真理はどこでも所有されず、むしろ結局は、真理がおのれ自身を否定することになるからである。その結果われわれは自身の歴史的に現在的な実存の充実に立ち戻るように強いられる。こうした運動を知ることによってわれわれは、真理を所有していないということを実感する。(...)この弁証法的思想であらゆる事物を勝手に正当化したり拒絶したりすることによる欺瞞の危険が生ずるのであるが、この危険を克服するのは、この運動の中で一貫して確証し続けることだけなのである。
換言するならば生は無拘束でなく、寧ろ歴史的で生成的で、動的であるからして、あくまで現在の地点のみにおいて拘束される。しかし、それは勿論客観的に「真「である」のではないのだから、「すべて」が許されており」、その意味では自由である。
心理学は、もろもろの世界観のあらゆる可能性を観察的に了解するが、これに対して哲学は、一つの世界観すなわち真実の世界観を考えると、私は簡潔に表現した。そして本来の哲学とそ予言的哲学であるとした。かくて私は、あまりにも単純な、この形式からみて根拠のない対比をおこなったのである。(...)当時の私が予言的哲学から遠去かりながら述べたような意味においては、プラトンもカントも予言哲学の創造者でない。この予言的哲学は宗教の代用品であろう。