ボーヴォワール
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エピグラム
サドの人生
サドの発見を理解し、この経緯の中に彼の自由の部分を把握し、彼の成功と失敗を計量するためには、彼の置かれた状況の予件を正確に認識するのが役立つことだろう。(...)サドがその真の独創性をかち得たのは、成人してからの自己の生活についてのこの反省的な心の動きによってなのである。
こうした見解のもとにボーヴォワールは多くの文献のもとに、彼の成人後の人生を彼女の耽美なエクリチュールに投影する。
23歳の時のサドは、当時のあらゆる良家の子弟と変わるところはない。教養があり、演劇を好み、芸術を愛し、読者に親しんだ。放蕩にふけり、情婦のラ・ボーヴワザンを囲い、密会の家から家へと駆け廻った。父の意志に従って、小貴族ではあるが金持ちの貴族の若い娘ルネ・ベラジー・ド・モントルィユと、情熱もなしに結婚した。(...)若いころのサドには、革命家ふうのところも、反抗者ふうのところさえも、なにひとつない。ありのままの社会を受け容れる覚悟が、つよくあった。父の言うままに気に入らない妻を23歳でもらうほどまでに父に従い、相続権によって約束された運命と異なった運命を考えてみようとはしなかった。すなわち、彼は夫となり、父となり、侯爵となり、大尉となり、中将となるであろう。彼の地位と妻の財産とが保証する特権を放棄しようとはけっしてねがってはいなかった。
結論部
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レーモン・アロンはその年をベルリンのフランス学院で送り、歴史の論文を準備しながらフッサールを研究していた。アロンがパリに来た時、サルトルにその話をした。私たちは彼とモンパルナス街のベック・ド・ギャーズで一夕を過ごした。その店のスペシャリティーであるあんずのカクテルを注文した。アロンは自分のコップを指して、「ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!」サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それは彼が長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるままの事物を……そしてそれが哲学であることを彼は望んでいたのである。アロンは、現象学はサルトルが終始考えている問題に正確に答えるものだといってサルトルを説き伏せた。つまりそれは彼の観念論とレアリスムとの対立を超越すること、それから、意識の絶対性とわれわれに示されるままの世界の現存とを両方同時に肯定するという彼の関心をみたすのだとアロンは説得したのであった。