メルロ=ポンティ
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序文
現象学について
メルロ=ポンティは現象学という概念の広がりについて下記のように論じる。
これは大変適切な紹介であると言える。「人間と世界とを了解するために自然的態度の諸断定を停止せしめる超越論的哲学である」ような「一つの〈厳密学〉」という側面では-フッサールは徹底した反カント主義者ではあるが-カントを感じさせる。
また別の側面では、「ゆるがしがたい現存として〈すでにそこに〉在るとする哲学でもあり、その努力のすべては世界とのこの素朴な接触をとりもどし、結局はこの接触に一つの哲学的な規約を与えようとする」として「現にあるがままのわれわれの経験の直接的記述の試みであって、その経験の心理学的発生過程とか、自然科学者や歴史家や社会学者がこの経験について提供しうる因果的説明とかには、いっさい顧慮を払わない」ような単なる「〈生きられる〉空間や時間や世界についての報告でもある」という素朴実在論ぽさを感じる。
ただ「フッサールは、その後期の著作のなかで、〈発生的現象学〉だの、さらには〈構成的現象学〉だのとさえ言い出している」ゆえ、素朴なんて到底言い得ないのだ。一方で「自然的態度」を括弧に入れる、つまりエポケーすることは下記のように鮮明に論ずる。 われわれは徹頭徹尾世界と関係しているからこそ、われわれがこのことに気づく唯一の方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいはこの運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、この運動に参加しないでohne mitzumachenそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。それは常識や自然的態度のもっている諸確信を放棄することではなくて─それどころか逆に、これらの確信こそ哲学の恒常的なテーマなのだ─むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として〈自明なものになっており〉、それと気づかれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させるためには、われわれはそれらを一時さし控えなければならないからこそ、そうするのである。
幻像肢の両義性
概略すると本稿では病気や事故などで身体的欠陥をもったが、それを自覚できていない「病徴不覚症患者」と、その身体的欠陥部分をそこにあるものとして扱ってしまう身体を「幻像肢」として論じ、それは心理学や生理学では説明できない両義性をもつという。
病徴不覚症患者は、単純に麻痺した肢体を知らないということではない。~病徴不覚症は自分の不能を体験しなくてもすむように、彼の麻痺した腕を場外に置くのである。~実は私の眼の前にいない友人の存在を私が生き生きと感ずることができるのと同様な仕方で、切断手術を受けた患者は、自分の脚を感ずるのである〜プルーストは、彼の祖母の死をはっきりと確認しつつも、彼の生活の地平に彼女が存続する限り、まだ彼女を失わずにいることができたが、幻像肢についても、これと同じ事情なのである。 そしてそんな幻像肢は「熟慮された決断ではない。つまりさまざまな可能性を考慮したあげく、はっきりと態度をきめる措定的意識の水準において生ずるのではない」としてデカルト的?な「.......と私は思う」(je pense que....)といった種類の経験ではないのだとする。(これが手前でメルロ=ポンティが「前意識的な知」と言っていることである...恐らく) これに反して「世界における(への)存在」という観点に立つと容易に理解される。われわれのうちにあって切断の事実や欠陥の存在を否認するものは、自然的であるとともに相互人間的なある世界に参加している「我」である。この「我」は欠陥の存在や切断の事実をものともせずに、あい変らず自己の世界に手を差しのべ、その限りでは撤利」これらを認めないのである。欠陥の否認は一つの世界に属している の裏面にすぎない。いいかえれば、われわれをわれわれの仕事や関心事や状況やなじみ深い範囲のなかに 投げ入れる自然な運動を妨げているものを、ひそかに否定することにほかならない。幻像肢をもっている ということは、腕のみがなしぅるところのあらゆる行動の可能性を今もなお所持しているということであ る。つまり切断以前にもっていた実践の場を保持していることである。身体は「世界における(への)存在」 の媒体である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境に加わり、若干の企投と一体となり、たえずこれに自己を拘束するということである。手で扱うべき諸対象が今なお存するこの完全な世界の自明性のうちに、また字を書いたりピアノをひくというような企てを依然として含んだこの世界に向う運動の力のなかに、患者は自分の身体の完全さの保証を見出すのである。しかし世界は彼にその欠陥をかくすと同時にまたそれを彼にあばいて見せずにはおかない。なぜなら、私が世界をとおして私の身体を意識するということ、身体は世界の中心にあっていっさいの対象がそれに向って面を向ける知覚されないものであるということが、真実であるならば、同じ理由によって私の身体が世界の枢軸であることも真実だからである。対象がたくさんの面をもっていることを私が知っているのも私が対象のまわりを廻ることができるからであり、そしてこの意味において、私は私の身体を媒介として世界を意識するのである。~私の馴れ親しんだ世界が私のうちにさまざまな習慣的な志向を換気するまさにその刹那に~手で扱う諸対象は、まさにそれらが手で扱われるべきものとして提示される限りにおいて、私がもはやもってはいない手を尋ね求めるのである。 そこで「知の両義性は結局、身体が互いに区別される二つの層として、習慣的身体という層と現実の身体という層とをもっている、ということに帰着する。後者からは消えうせてしまった操作の仕種が前者にはまだ残っており」とメルロ=ポンテイが語るように、ペンを触ろうとするとき「習慣的身体」が立ち現れ、そこには「幻像肢」が存在している。が、同時に身体という「媒介」によって世界から「欠陥」をあばかれて、「現実の身体」が立ち現れるということ、それこそがまさにメルロ=ポンティが「腕の両面価値的な(ambivalent)な現前」ということではなかろうか。