プルースト
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これ凄くわかる離散的な時間概念に固執しすぎてるがあまりフルフレックス的な環境下にストレスを感じる人が多いのもこれが理由じゃないかな。土地のようにそもそも連続的でプルースト効果のようなとめどないものであるはずで、それが本来的なのに。 /icons/白.icon
してよいことといけないことに対して厳然として厖大な、微妙でしかも断固たる一つの法典を所有しており、それはとらえどころのないような、またはどうでもよいような区別の上に立つものだった(そのことはこの法典に、法典に古代法の趣を与えていたー嬰児を虐殺せよという残酷な命令と並んで、並外れた思いやりで、仔山羊をその母乳で煮たり、動物の腿の筋を食べたりするのを禁じた、あの古代法である)
父の愛による母の愛の歪曲、私の後悔
母と祖母は私を非常に愛していたから、ただ苦痛を免れさせようというのではなく、私のぴりぴりした神経を和らげ、意思の力を強くするために苦痛を克服することを教えようと考えたのである。〜母がはじめて私に譲歩したのだ〜私のために心に抱いていた理想を母ははじめて自分から放棄した〜つまり母の意思を弛緩させ理性を屈服させることに成功したのだ、この夜は新たな時代の始まりで、悲しい日付として残るだろう。私はまるで、親不孝な秘密の手でもって母の魂に最初の皺をつけたような、そこに最初の一本の白髪を生えさせたような思いだった。その思いで私の嗚咽はますますかきたてられた
祖母は初めミュッセの詩集とルソーの本を一冊、そして「アンディアナ」を選んだのである。〜知的な利益を引き出せないようなもの、とりわけ安楽と虚栄の満足とは別の喜びの探求を教えつつわれわれに知的な利益をもたらしてくれる美しいもの以外は、何ひとつ買う気にならないのだった。〜とびきり美しい史跡や風景の写真を飾らせたかったのだろう。ところがそれを買うとなると、写された対象が美的価値を持っているのにも関わらず、写真という機械による表現方法にはたちまちまた通俗性や実用性が顔を出してくるように祖母は思うのだった。 母の朗読
ジョルジュ・サンドの散文を読むママは力強く打ち寄せる波を遮るような、いっさいの偏狭と気取りを注意深く自分の声から追放して、まるで自分の声のために書かれたような文章、いわば母のような感受性の声域にすっぽり収まってしまう文章に、求められている自然の愛情や豊かな優しさを余すことなく込めるのであった。〜語自体によっては示されてないアクセントを、再び見つけだす。そのアクセントによって朗読の途中に出てくる同士の時制の生々しさをみな和らげ、半過去と定過去には心のやさしさの中に宿る甘美さ、愛情の中にあるメランコリーを与え、終わりの章句を次に始まる章句のようの方に導き〜シラブルの歩みを速めたり遅めたりするのである。こうして母は〜どこまでもつづくいとしい思いのこもった一種の生命を吹き込んだのであった フランソワーズの法典に対しては「本の中で読めば私は心を動かされたろうが〜彼女がわざと重々しい、感動した調子でそれを語ろうとするので」と表現していることから対応関係が見出され、本来的な解釈を得るのでは。
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あたかもコンブレーとは狭い階段で結ばれた二つの階でしかなく、またコンブレーには夕方の七時しか存在しなかったかのようだ。本当を言うと〜コンブレーにはほかのものも含まれており、またほかの時刻にもコンブレーは存在していた〜それは意志的な記憶、知性の記憶によって与えられたものに過ぎない〜そういうものは実のところ私にとって死んでいたのだ。永久に死んでしまったのだろうか?〜私はケルト人の信仰を、きわめて理にかなったのものだと思う〜しかしその日になると、死者たちの魂は喜びに震えて私たちを呼び求め、こちらがそれを彼らだと認めるやいなや〜私たちが解放した魂は死に打ち克って、ふたたび帰ってきて私たちと一緒に生きるのである。私たちの過去についても同様だ。過去を思い出そうとつとめるのは無駄骨であり、知性のいっさいの努力は空しい。過去は知性の領域外の知性の手の届かないところで、たとえば予想もしなかった品物のなかに潜んでいるのだ。〜それは偶然によるのである。
ケルトの死生観とは、生きている者も死をはらんで生きているし、死んでしまった者たちもまるでまだ生きているかのように人々の間(超自然的)にいつまでも存在している。収穫の秋が終わり冬が始まるとき、死者の魂がこちら側である私たちの世界に戻ってくるというのだ。そしてその瞬間、「過去」「現在」「未来」の垣根はすべて吹き飛び、ありとあらゆるものが混ざり合う中で、本当の再生が始まるとされている。(引用) お茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌごと、一匙のお茶を掬って口に持っていった。〜口蓋に触れた途端に〜私は自分の内部に異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとしたのである。素晴らしい快感、孤立した原因不明の快感〜苦難などどうでも良く、その災厄は無害なものであり、人生の短さも錯覚だと思われるようになった。その快感がちょうど恋の作用と同様に、なにか貴重な本質で私を満たしたからだ。というよりも、その本質は私の内部にあるのではなくて、それが私自身であった。〜私はカップをおき、自分の精神の方に向きなおる。真実を見つけるのは精神の役目だ。〜精神というこの探究者がそっくりそのまま真っ暗な世界になってしまい、その世界のなかでなお精神は探求を続けねばならず〜探求?それだけではない、創造することが必要だ。精神はまだ存在していない何者かに直面している。精神のみが、その何ものかを現実のものにし、自分の光に浴びさせることができるのである。そこで私は今一度自分に問うてみる、〜この感覚を再び捉えようとする精神の躍動が〜疲れるばかりで一向に目的に達しないので〜精神にほかのことを考えさせ〜気力を回復させようとする。それから今一度〜その目の前にまだ遠くない最初の一口の味をふたたびおいてみる。と、自分のうちで何ものかがビクッと震え、それが場所を変えて、よじのぼろうとするのを感じる。非常に深い水底で錨を引き上げられたような何かだ。〜それはゆっくりと上がってくる。〜その思い出はあまりに遠いところで、あまりに雑然とみをもがいている。〜そこには多くの色彩がかきまぜられ、とらえがたい渦をなして溶け込んでいる。〜この思い出、この昔の瞬間は、私のはっきりした意識の表面にまで到達するのだろうか?よく似た瞬間の牽引力が、はるか遠くからやってきて、私の一番奥底の方で促し、感動させ、掻き立てようとしている、この昔の瞬間は?〜また沈んでいった〜十度も私はやりなおし、〜そのたびごとに、〜無気力さが私にこうすすめるのだった〜お茶でも飲みながら、苦も無く反芻できる今日の倦怠、明日の欲望だけを考えたまえ、と。そのとき一気に思い出があらわれた。〜それはコンブレーで日曜の朝〜叔母が紅茶か菩提樹のお茶に浸して差し出してくれたマドレーヌのかけらの味だった。〜たぶんあれ以来食べはしないが菓子屋の棚で何度もそれを見かけたので、そのイメージで〜もっと新しい別の日々に結びついてしまったためであろう。〜また〜こんなに長いこと記憶の外に棄てて顧みられなかった思い出の場合、何ひとつそこから生き延びるものはなく、すべてが解体してしまったためでもあるだろう。それらの形態はー厳格で信心深いその襞の下の、むっちりと官能的な、あの駄菓子屋の店頭の小さな貝殻の形も同様だがー消え去るか眠りこむかしてしまい、膨張して意識に到達することを可能にする力を失っていたのだ。けれども人びとが死に、ものは壊れ、古い過去の何ものも残っていないときに、脆くはあるが強靭な、無形ではあるが、もっと執拗で忠実なもの、つまり匂いと味だけが、なお長い間魂のように残っていて、ほかのすべてのものが廃墟と化したその上で、思い浮かべ、待ち受け、期待しているのだ、その匂いと味のほとんど感じられないほどの雫の上に、たわむことなく支えているのだ、あの巨大な思い出の建物を。
そしてこれが叔母のくれた菩提樹のお茶に浸したマドレーヌのかけらの味であることに気づくやいなや〜たちまち叔母の部屋のある、道路に面した古い灰色の家が、芝居の書割のようにやってきて、その背後に庭に面して両親のために建てた別棟に、ぴたりと合わさった。またその家と一緒に町があらわれた、朝から晩まで、いろいろな天気の下で見る町。昼食前にお使いにやらされた広場が、買い物をしにいった通りが、天気の良い日に通った道が、あらわれた。そしてちょうど日本人の遊びで、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙切れを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だとわかるものになってゆく、あの遊びのように、今や家の庭にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォーヌ川のスイレン、善良な村人たちとそのささやかな住居、教会、全コンブレーとその近郊、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ。