ルソー
1750『学問芸術論』
1755『人類不平等起源論』
1762『エミール』
人間を社会化(rendre sociable)するのはその弱さだ。わたしたちの共通の惨めさ(nos miseres communes)こそが、わたしたちの心に人類愛ユマニテをもたらす。したがって、わたしたちを同胞に結びつけるのは、彼らの喜びよりも彼らの苦しみ(leurs peines)だ。(...)わたしたちに共通の必要は利益のためにわたしたちを一つにする(unir)が、共通の惨めさは愛情によってわたしたちを一つにする。
仲島陽一
『ルソーの理論』
第三章 救済の実現
『エミール』の題辞としして、ルソーは次のセネカの句を引いている。「私達は治療可能な[sanabilis]病で苦しんでいる。もし自らを正そうと[emendari]と望むならば、自然〔本性〕そのものが正しい誕生へと私達を支える。」(...)救済は可能である。しかし救済とはより具体的にはなんであるか。比喩的には病を癒すことである。この病のことを(...)ルソーの言葉では「不幸」であり、「悪」ないし「邪悪さ」である。
『ボーモンへの手紙』でルソーが「どのようにして人間は善良であるのに、人々は邪悪になるのか、彼等がそうなることを防ぐためにはどうしなければならないのかを探求するためにこそ、私は自分の本〔『エミール』〕を献げたいのである」とするように、人間の邪悪性を善良に変革せんとする試みこそ「治療」という語で示唆する意味なのだ。
ルソーは生得的な性善説の立場に立つゆえ、悪は生を賜り、社会化する過程によって生じると考える。よってカッシーラーが「今までの形態の社会は人類に非常に深い傷を負わせてきたが、変形と改革によってこの傷を癒すもの、そして癒さなければならないものも同じく社会なのである」などとルソーの信条を代弁するように、ルソーは社会制度の変革を求めた。
人間の救済のためには社会制度を変えなければならない。「変えなければならないのは、私たちの欲望よりも、それを生み出す状況である」と言うように、ルソーは救済を観念論的にでなく、物質的諸条件の第一義性に基づいて把握する。社会ははじめは「できた」のであって「つくられた」のではなかった。
そこで提示する手法論が一般意志の「共同体の再建」理念なわけだが、これらを以て如何なる救済を完遂するのか。ひいてはどういった状況下で救済を遂げたと言えるのか。そこで挙げるは「幸福」である。仲島はロバート・モージ(Robert Mauzi)のL'idée du bonheur dans la littérature et pensée française au XVIIIe siècleから引用し、この転回の意義を説く。
モージが言うように、一般的には宗教的でない「十八世紀においては、人が世界を非難するのは、もはや救済の名においてではなく、幸福の名においてである」。
来世を失効したフィロゾーフは、現世における救済のシステムとして「幸福」を提唱し、それこそが目的化したのである。