ゴッホ
プロテスタントの家庭に生まれる
1880/6/22-24 弟テオへの書簡
ぼくは情熱の人間だ。多少とも非常識なことをしでかす傾向があって、そのことで多少とも後悔することがある。もっと我慢して待ったほうがいいようなときにも、すぐにしゃべったり、行動したりすることがよくある。ほかの人たちだって、似たような軽率事を同じくらい何度もやらかしているのではなかろうか。だとしたら、今どうすべきか。自分を危険な人物、何もできない人間とみなすべきだろうか。ぼくはそう思わない。どんな手段を尽くしてでも、この情熱をうまく活かすことが大切だ。様々あるぼくの情熱からその一つを引きあいにだしてみると、ぼくは書物への多少とも抗しがたい情熱を持っている。そして自分を教育したいと欲している。ちょうどパンを食べるのと同じようなぐあいに、勉強し続けたいと思っている。きみなら分かってくれると思う。現在とは別の環境にいたとき、そう、絵画や芸術品に囲まれていたとき[ゴッホは美術商グーピル商会の支店員としてオランダのハーグ、ロンドン、パリで働いていたことがある]、ぼくは、きみも知ってのとおり、この環境に対して、激しい情熱を持っていた。この情熱は熱狂にまで達していた。そのことをぼくは後悔していない。あの故郷から遠く離れている今、ぼくは、何度もあの絵画の国に郷愁に覚えている。 ではこうした情熱は彼のどこに発芽するのか。その表象こそ神なき時代のメランコリーに対する渇望という選択肢にある。ショーペンハウアー曰く、人間はどちらかの絶望を選択することを義務付けられている。それは渇望か、倦怠かである。前者は満たされることのない無限の冀求を意味し、後者は前者への移行とそこに位置する絶望の狭間に絶えず揺らぎながら、前者を不断に夢想することを意味する。ゴッホもまさにこうした二極の狭間で揺らぐ近代ロマン主義精神の持ち主であった。 1887/10 パリから妹ウィルに宛てた手紙
1888/9/3 弟のテオに宛てられた手紙
ゴッホの終点
それは祖父、父と代々続く牧師の家庭に生まれ、神学を志すも途中で挫折し、その牧師的役目を文学か芸術のどちらかに求め、芸術にて確立する一連なのである。
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ゴッホにラテン語とギリシア語の指導をしていたメンデス・ダ・コスタによる回想文
1910/9/2 アムステルダムの新聞に掲載されたゴッホの回想文