ショーペンハウアー
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カント美学の無関心性
ショーペンハウアーによれば、われわれは「時間、空間、因果性における多様な関係」をとおして対象を認識するするのであって、この関係によってのみ「客体は個人にとって関心を惹くもの(interessant)となる、すなわち、意志に対して何らかのかかわりを有する」と論ずる。
換言するならば、人は、個々の客観がある一定の時に、 ある一定の所に、一定の原因から生じたことを認識する、という仕方で客体と関係を結ぶのであって、こうした認識をとおして人は自らの意志を発揮する。だが、認識が意志に奉仕するという事態(それは動物においては常に 成り立っ)の否定が、人間にあっては「例外としてではあるが」生じうる、とショーペンハウアーは主張する。
天才性とは、純粋に直観的に振る舞い、直観のうちに自己を失う〔没入する〕(sich verlieren) 能力であり、本来は意志に奉仕するためにのみ存在する認識に対してこの奉仕をさせない能力である。すなわち、自己の関心(sein Interesse)、自己の意欲、自己の目的を眼中に入れず、自己の人格をある時間全く放棄し、それによって純粋に認識する主観、明晰な世界の眼としてのみ残ることができるようにする能力である。
通常の人間は〜あらゆる意味で完全に関心を欠いた観察〜これが本来の観想である〜を、少なくとも全く持続的に行うことができない。〜通常の人間は単なる観照に長らくとどまる(weilen)ことがなく、したがって一つの対象に自らの視線を釘づけすることがない。むしろ、通常の人間は自分に差し出されるあらゆるものに対して、〜ただそれを包含すべき概念をすばやく探し求め、一旦それを探し出せば、この対象にそれ以上関心を寄せる(interessieren)ことがない。こうして通常の人間は、芸術作品であれ、美しい自然対象であれ、本来的にはいたる所で有意義な生のあらゆる局面における光景であれ、すべてのものをたちどころに片づけてしまう。 読書は言ってみれば、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。(...) 自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。(...) 読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。