ショーペンハウアー
ニーチェはショーペンハウアーを度々「魂の医者」と呼んだ
1819『意志と表象としての世界』
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主観が消滅すれば、表象としての世界はもはや存在しないであろう
第三巻
カント美学の無関心性
ショーペンハウアーによれば、われわれは「時間、空間、因果性における多様な関係」をとおして対象を認識するするのであって、この関係によってのみ「客体は個人にとって関心を惹くもの(interessant)となる、すなわち、意志に対して何らかのかかわりを有する」と論ずる。
換言するならば、人は、個々の客観がある一定の時に、 ある一定の所に、一定の原因から生じたことを認識する、という仕方で客体と関係を結ぶのであって、こうした認識をとおして人は自らの意志を発揮する。だが、認識が意志に奉仕するという事態(それは動物においては常に 成り立つ)の否定が、人間にあっては「例外としてではあるが」生じうる、とショーペンハウアーは主張する。
天才性とは、純粋に直観的に振る舞い、直観のうちに自己を失う〔没入する〕(sich verlieren) 能力であり、本来は意志に奉仕するためにのみ存在する認識に対してこの奉仕をさせない能力である。すなわち、自己の関心(sein Interesse)、自己の意欲、自己の目的を眼中に入れず、自己の人格をある時間全く放棄し、それによって純粋に認識する主観、明晰な世界の眼としてのみ残ることができるようにする能力である。
対象への無関心性とは、ショーペンハウアーにおいて、ハイデガーが理解するような「純粋に休息し、全くそれ以上何も意欲せず、無関与のうちにただただ漂うこと」ではなく、むしろ、対象の直観への完全なる(つまり自己忘却的な)関与であるといえる。こうした天才の認識力は通常の人間のそれと次のように対比される。
通常の人間は〜あらゆる意味で完全に関心を欠いた観察〜これが本来の観想である〜を、少なくとも全く持続的に行うことができない。〜通常の人間は単なる観照に長らくとどまる(weilen)ことがなく、したがって一つの対象に自らの視線を釘づけすることがない。むしろ、通常の人間は自分に差し出されるあらゆるものに対して、〜ただそれを包含すべき概念をすばやく探し求め、一旦それを探し出せば、この対象にそれ以上関心を寄せる(interessieren)ことがない。こうして通常の人間は、芸術作品であれ、美しい自然対象であれ、本来的にはいたる所で有意義な生のあらゆる局面における光景であれ、すべてのものをたちどころに片づけてしまう。
第四巻
人間存在はア・プリオリに悲劇である。
第一に示されるは形式的悲劇である。
現在がなんら阻止されず過去の中へくりこまれていくことは、死への休むことのない移行であり、休むことなく死んでいくことだといっていい。彼の過去の人生とは、それがなおいくばくか現在に結果を残しているとか、もしくは彼の意志の証言がその中に刻みこまれて残っているとかということを度外視すれば、それはもうすでに完全に済んでしまったこと、死んでしまったこと、もはや存在していないものだといっていい。それだから理性的に考えれば、そのような過去の内容が苦しいことであったのか、それとも愉しいことであったのかなどということも、彼にはどうでもよいことでなければならないのである。しかし現在というものは、たえず自分の手もとからすりぬけて過去になっていくのであるし、未来はまたまったく不確実であって、そのうえ未来はいつも短い。人間の存在とはこのように、ただ形式的な面から考察してみただけでも、現在が死んだ過去のなかへたえまなく落していくことを指すのであり、すなわちたえず死んでいくことにほかならないのである。(...)いかなる個人も、いかなる顔つきの人間も、またその人の生涯も、終点のないあの自然の霊の、すなわち生きようとしてかたくなに固執するあの意志のひとつの短い夢、ひとつのはかない画像にすぎない。意志は、時間と空間という終点のない白紙のうえに、たわむれにこの画像を描きつけ、時空の無限にくらべれば消え入りそうな小さな瞬間だけ、これに存続を許して、やがて新しいのに席を与えるためにこれを抹消するのである。それにもかかわらず、じつにここに人生の重大な一面があるといっていいのだが、このはかない画像のどれ一つをとっても、この投げやりな気紛れのどれ一つをとっても、みな生きようとする意志の全力を傾け、あらんかぎりの熱情をつくし、多くの深刻な苦痛をもって贖われ、そしていよいよ最後に、長いあいだ恐れたあげくやっと出現してくる忌むべき死をもって贖われるにいたることは避けるべくもない。屍体を目撃するとわれわれが卒然として厳粛な気持に襲われるのもこのためである。
第二に示されるは肉体的或いは物質的悲劇である。
さてこのことを肉体という面からも眺めてみるなら、次のことが明らかになる。周知のように、われわれの歩行とは、身体が倒れることがたえず阻止されていることにすぎないが、これと同様にわれわれの身体が生きているということは、じつはそれは死ぬことのたえざる阻止、つまり死ぬことがそのたびごとに先へと延期されていることにほかならないのである。おしまいに、われわれの精神に活気があるということも、これと同じように、退屈感がひきつづいて先へ延期されているというだけのことなのだ。一呼吸一呼吸がたえず押し寄せてくる死を防いでいる。われわれはこういう仕方で、刻一刻、死と闘っている。そしてさらに、これをもっと間隔を大きくしてみるなら、われわれは食事のたびごとに、睡眠のたびごとに、暖をとるたびごとに、等々によってまたしても死と闘っているのである。そうしているうち挙句の果てには、死が勝利をおさめるに違いない。もともとわれわれは誕生したということによってすでに死の手に委ねられているからなのだ。そして死はおのれの獲物を呑みこむまで、ほんのしばしの間、この獲物を相手に戯れるのである。われわれはそれでも、われわれの生命を大変な関心と涙ぐましい配慮をもってできるだけ永く引き延ばそうとするであろう。これはシャボン玉を、それがいずれは破裂するであろうことを確実に知りながらも、できるだけ永くまたできるだけ大きくふくらませようとしていることと同じようなことである。(...)ほとんどすべての人々の生活というのはこのように生存そのもののためのたえざる闘争にすぎないが、しかも最後に彼らがこの闘争に敗北してしまうということも確かなことなのだ。そのうえこれほど苦難に満ちた闘争において、人間が自分の生存をなんとか長もちさせたいというのは、生への愛着のせいではあるまい。むしろ死への恐怖のせいではないだろうか。しかも死は不可避なものとしていつも背後にひそんでいて、いつなんどきしのび寄ってくるかわからない。(...)人生というものは岩礁と渦巻きにみちみちている海にほかなるまい。人間はこれらを避けようとしてこのうえなく慎重に気をくばっている。が、それでいて彼は知っているのだ。たとえ彼が努力と手だての限りをつくして岩礁や渦巻きをくぐり抜けることに成功したとしても、まさにそのことによって、彼はひと船足ごとに、最大の、全面的難破―避けることもできず救いようもない難破に近づきつつあるのだということを。いな、彼はもともとこのような難破をめざして―すなわち死をめざして舵を取っていたのだといっていい。死こそ苦難にみちた航海の最後の目標地なのであり、死こそ人間がこれまで避けてきたあらゆる岩礁よりもはるかにひどいものなのである。
「全人生はいわば死からの逃亡において成り立っている」のだ。第三に示されるは生物的悲劇である。
われわれはすでに認識を知いた自然界(人間、動物を除く自然界)においても、その内的な本質は目標なく休息なき不断の努力であることを見ておいた。そのことは、人間や動物を観察すると、人間や動物の世界がはるかにはっきりわれわれに分からせてくれる。意欲と努力とが、人間や動物の本質の全部なのであり、それはまったくいやされ得ない渇にも似ている。ところであらゆる意欲の基盤は、欠乏であり、不足であり、したがってまた苦痛なのだ。とすれば人間はすでにその根本からいってその本性上苦痛の手に引き渡されているものなのである。
しかし「意欲」という苦痛の種は、人間存在に対しより残酷な根を下ろす。「意欲」とは動物に反し人間存在において、倦怠をその裏面としてもつのだ。
もしまたその反対に、意欲したいと思う対象が人間に欠けている―あまりに簡単に満足を得てしまうと意欲の対象もまた人間から奪われてしまうことになる―ような場合には、今度は恐ろしい空虚と退屈とが人間を襲うことにもなるだろう。すなわち自分の本質と存在そのものが、今度は彼には耐え難い重荷となってくるだろう。人間の人生は、だからまるで振子のように、苦悩と退屈の間を往ったり来たりして揺れている。じつをいえば苦悩と退屈の双方は、この人生を究極的に構成している二部分である。きわめて奇妙な話であるが、今まで述べてきたことというのは、もしも人間がありとあらゆる苦悩や苦悶を地獄に追い払ってしまったら、その後で天国のために残っているものは退屈だけでしかないという事実によってきっぱり言い表わされるに違いない。(...)退屈がまぢかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かしつづけているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこのさきどうしたらよいか分からなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。(...)つまりわれわれにいま分かってきているのは次のようなことだ。困窮も心労もなく安全に守られているほとんどすべての人々は、いっさいの余計な重荷を払いのけるに至ったかと思っていると、今度はたちまち自分自身が重荷として感じられてくるということである。それで、これまで彼らは人生をできるだけ長く維持しようと全力を傾けてきたはずだというのに、今度はほかならぬその人生をけずり取るようなことを、そのつど、すなわち浪費的に過ごしてきた一時間一時間を、儲けものだと思うようになってくるのである。(...)民衆というものは「パンとサーカス」を必要とするのである。
すなわち生物学的悲劇とは欲望そして、その反作用としての倦怠を及ぼし、人間はパン〔=欲望ひいては生存の充足〕とサーカス〔=退屈ひいては倦怠の充足〕を必要とするのである。そしてその欠乏を満たすべく幸福が消極的に求められるのであり、そこに叙事詩を求めるわれわれ人類の形態的普遍性が隠れている。
あらゆる満足、あるいはひとびとが通例幸福とよんでいるようなことは、もともと本質的にいえばいつも単に消極的なことにすぎないのであって、断じて積極的なことではあり得ない。それはもともと向うからわれわれの方におのずと近寄ってくる祝福ではなく、いつの場合もなにかの願望の満足といったことであるほかはないものである。願望、すなわち欠乏があらゆる享楽を成り立たせる先行条件である。ところが願望が満足されると、その願望も、したがってまた享楽もなくなってしまうであろう。そういうわけだから満足とか幸福とかいってみても、それはなんらかの苦痛、なんらかの困窮からの解放という意味以上のものではあり得ない。(...) 他の人の苦しみを眺めたり述べたりすることがわれわれに満足や喜びを与えるということもまた否定できぬことであり、まさにこの点の道理をルクレティウスは第二巻の冒頭で次のように卓抜かつ率直に申し述べている。「荒れ狂う風が海原を鞭打つとき、海辺にいて、岸に立って、船人が難儀しているさまを眺めるのは、楽しいことだ。それは他人の悩めるすがたを見て面白がるというのではない。自分が災悪より免れていることを知って嬉しいのである」(『事物の本性について』二・一)。このことは世界と人生との本質を忠実に映す鏡たる芸術、とくに詩においても証明される。─ すなわちいかなる叙事詩も劇文学も、いつも必ず、幸福を得ようとして格闘し、努力し、戦闘するさまを描くだけで、永続的にして円満なる幸福それ自体を描くものではけっしてあり得ない。これらの文学は主人公にいくたの難関や危険をくぐり抜けさせて目標にまでつれていくが、彼らが目標に達するやいなや、急いで幕を下ろしてしまう。(...) 永続するほんものの幸福などというものはあり得ないのだから、それは芸術の対象たり得ない。なるほど田園詩 Idyll(または牧歌)の目的は、本来このような永続するほんものの幸福を描くことにあるといえるかもしれない。しかし田園詩がそういうものとしては持ちこたえられないということも人の知るところである。つねに田園詩は詩人の手にかかって、叙事的になるか、単なる記述的な詩になるか、のいずれかであろう。田園詩が叙事的になれば、それはちっぽけな悩みごと、ちっぽけな嬉しさ、ちっぽけな努力から組み立てられた、内容のつまらない叙事詩になるにすぎなかろう。これはいちばんよくみかける例である。また記述的な詩になれば、自然の美を描く。すなわちこれはもともと意志から離れた純粋な認識であって、いうまでもなくこれが実際においてもたった一つの純粋な幸福であり、苦悩も欲求もこれに先立つことはなく、後悔も、悩みも、空虚感も、倦厭もこれにつづいて必ず起こるということもない。とはいえこのような幸福は全生涯を満たすことはなく、ただ生涯の瞬間瞬間を満たすことができるだけである。
こうした形式的、肉体的、生物的悲劇を締めくくるは、その永劫性、すなわち生殖という力学によって絶えずそれが再生産されていくことにある。その意味で人類という種全体が終わりなき悲劇を宿命づけられているのだ。
最大多数の人間がその一生を送るありさまを外からみるといかに無意味に内容空虚にみえることか、また内から感じとるといかに鈍感で無自覚に感じられることか、これでよくも生きて行けるものだと疑わしくなるほどである。このような一生は人生の四期(幼少年、青年、壮年、老年)を経て死にいたるまでの、鬱々とした憧れと悩みであり、くだらない一列のよしなしごとを引きずっては夢を見ながらよろめき行くことである。最大多数のひとびとは、あたかも時計が、発条を巻いてもらって、自分ではなぜだか分からぬままに動いているというのにも似ている。一人の人間が生殖をうけ誕生してきたそのたびごとに、人生というこの時計はあらためて発条をまかれることになり、これまで無数回すでに奏でてきた琴の曲を、一楽節ごとに、一拍子ごとにくだらない変奏曲などをそえて、いまいちど最初から演奏をくりかえすというようなことになるのだといえよう。
そしてショーペンハウアーは次のように帰結する。「いずれの人の一生も、もしこれを全体として一般的に眺め渡してその中から著しい特徴だけを抜き出してみるなら、本来それはいつも一個の悲劇である。(...)願い事は決して満たされないし、努力は水の泡となるし、希望は無慈悲に運命に踏みつぶされる。そのうえ悩みは年齢ごとに多くなって最後に死が来るというのであれば、これは何としても悲劇である」。つまり人間に与えられた生というものはアプリオリに悲劇が宿命づけられているのだ。
いずれの人の一生も、もしこれを全体として一般的に眺め渡してそのなかから著しい特徴だけを抜き出してみるなら、本来それはいつも一個の悲劇である。ところがこれを一つ一つ仔細に立ち入って見ていくと、喜劇の性格を帯びてくる。だいたい日ごとの営みや煩労、時々刻々にくるせわしない嘲弄、毎週訪れる新しい願いや恐れ、各時間ごとにある厄介、こういったものは悪ふざけをいつも企てている偶然によるもので、まったくのところ喜劇の場面というほかはないものだからである。ところが願いごとはけっして満たされないし、努力は水の泡となるし、希望は無慈悲に運命に踏みつぶされるし、一生は全体として不幸な誤算であるし、おまけに悩みは年齢ごとに多くなって最後に死がくるというのであれば、これはなんとしても悲劇である。運命はそのうえわれわれの生存の悲嘆にさらに嘲笑を加えんとするかのごとく、われわれの人生は悲劇のあらゆる苦しみを背負っていなくてはならぬというのに、その際、われわれは悲劇的人物としての威厳を主張することすらできないのであって、生活のうえの広範囲な瑣末事のなかで、いやおうなしに愚鈍な喜劇俳優の役を演じなければならない始末なのだ。(...)われわれはもっとも普遍的な考察、人生の第一の基本をなす根本特徴の研究をおこなうことにより、そのかぎりにおいて、今や人生がすでにその土台全体からいってもほんとうの幸福を得る力をもっていないことを確信したし、それどころか、人生はもともととりどりの形をした悩みの組合せで、どこまでいっても祝福されない状態であることをア・プリオリに確信するにいたった。そこで、このような確信をいっそう鮮明にわれわれの心の中によび起こすには、われわれは今度は、むしろア・ポステリオリな手続きを踏んで、いちいちの特定のケースに仔細に立ち入り、さまざまな映像を想像力でもって浮かびあがらせ、経験と歴史とが見せつけている名状し難い悲惨──人がどこを見ようと、どんな関心で探求しようとも悲惨である──をかずかずの実例をもって描写しようとしなくてはならないであろう。(...)さておしまいに、すべての人の生涯が間断なくさらされている凄絶な苦痛や苦患を、誰でも眼のあたりにまざまざと見せつけられたとしたら、背筋の凍る思いがするであろう。どんな楽天家でも、いま彼を案内して公共病院、衛戍病院、外科手術室を見せて、次いで彼をつれて監獄、拷問部屋、奴隷小屋を通りぬけ、さらに戦場、処刑場に彼をつれて行って、これら悲惨さのあらゆる暗黒の宿り家を──ここでは悲惨さは冷やかな好奇心の眼ざしに出会わぬようこっそり隠れてはいるが──今彼にこれをおおっぴらに開放し、あげくのはてウゴリノの塔の餓死牢(ダンテ『神曲』地獄編第三十三)を覗かせたとしたら、楽天家といえども最後には必ず、この「あらゆる可能な世界の中の最上の世界」meilleur des mondes possibles(ライプニッツ『神の善意に関する弁神論の試み』一七一〇年のなかの有名な句。ライプニッツの世界に対する考えを表わす)がいかなる種類のものであるかを見抜くことであろう。そもそもダンテがその地獄編のための材料を取ってきたのはいったいわれわれのこの現実世界とは別の、どこからであるというのか。しかも彼の描いたのはまちがいなくちゃんとした地獄になっている。ところがこれに反し彼が天国ならびに天国の歓喜のありさまを描こうという課題にとりかかったとき、彼は手に負えぬ困難に直面したのであった。なにしろわれわれの世界はそういうもののための材料をまったく提供してはくれないからである。そこでダンテは楽園の喜びを描くかわりに、楽園で彼の祖先や、ベアトリーチェや、いろいろな聖者たちから聞かされていた教えをわれわれに再現してみせるというような方法をとるよりほか仕方がなかった。しかしこのことから、われわれのこの現実世界がいかなる種類の世界であるかはじゅうぶんに判明する。
その意味でシェンクがその哲学を、「奇怪なデミウルゴスは生の大悲劇を上演するだけで、あとはたったひとりの観客となってこれを眺めている」と評したのは適格である。デミウルゴスは大悲劇を上演しながら、観客として「愚鈍な喜劇俳優」たちに「嘲笑を加える」のだ。
救済への旅路
芸術という救済
美しいものに寄せる審美的な喜悦の大部分は、(...)その瞬間にいっさいの意欲、すなわちいっさいの願望や心配を絶して、いわば自分自身から脱却し、われわれはもはやたえまない意欲のために認識する個体―個体とは個々の事物と対応するものである―ではなしに、意志を離れた永遠の認識主観―これは イデアと対応するものである―になっているということにいつにかかっているのであるわれわれは知っている。われわれが残忍な意志の衝迫から解脱して、いわば重苦しい地上の空気から抜け出して浮かび上がっているこのような瞬間こそは、まことにわれわれの知りうるもっとも祝福された瞬間であることを。そうだとすれば、ここから推定して、美の享受におけるこの場合のように意志が瞬間的に鎮められるのではなくて、永久に鎮められているような人がいるとしたら、その人の生活がいかに至福に満ちあふれた生活であらざるを得ないかは言を俟たないであろう。その人の意志はただ単に鎮められているという程度にとどまらない。身体を維持し身体とともに滅するはずのあの最後の微かに光る火花を除いては、意志はすでに完全に消し去られているのである。
すなわち「美しいものに寄せる審美的な喜悦の大部分は、(...)その瞬間にいっさいの意欲、すなわちいっさいの願望や心配を絶して、いわば自分自身から脱却」することであり、「われわれが残忍な意志の衝迫から解脱して、いわば重苦しい地上の空気から抜け出して浮かび上がっているこのような瞬間こそは、まことにわれわれの知りうるもっとも祝福された瞬間である」。
生殖という救済
性欲の満足だけをみてもすでにおのれ自身の生存──これはほんの短時間を満たすにすぎない──の肯定を超越していくものだし、性欲は個体の死を超越して、無規定の時間の中へ生を肯定していく。自然、つねに真実にして一貫している自然は、性欲においては無邪気といえるほど、すっかり露骨に、生殖行為の内的意義をわれわれの前にさらけ出す。性行為のうちに、生きんとする意志のこのうえなく決定的な肯定が、まじりけなく、しかも余計なつけ足し〔たとえば他の個体を否定すること〕などまったくなしに表わされていることを、欲望の自覚と激しさとがわれわれに教えてくれる。─ そしていまや時間と因果系列のなかに、すなわち自然のなかに、行為の結果として新しい生命が出現する。生まれた子供は生んだ母胎に対しては、現象のうえからいえば異なっているが、それ自体としては、つまりイデアのうえからいえば、子供は母胎と同一である。それゆえ、生殖行為を介して、生命あるものの種族は、それぞれ全体に統合されていき、そのような全体として永続していく。生殖とは、生む母胎の方からいえば、生きんとする意志の決定的な肯定の表現であり、徴候であるにすぎないが、生まれた側の子供の方からいえば、生殖とは、(自然界の他の)あらゆる原因と同じように、かくかくの時に、かくかくの場所に意志が現象するという機会因にすぎない(機会因はマールブランシュの説。第二十六節とその訳注を参照)。ということはそもそも意志が根拠をなして、子供のなかにそれが現象するというようなことではないのだ。意志は、それ自体としてみれば、根拠も帰結も知らないからである。だが、物自体としてみれば、生み出す母胎の意志と、生み出される子供の意志とでは、異なるものではない。「個体化の原理」に支配されるのは物自体ではなく、現象にすぎないからである。─ 自分の身体を超越していくこのような肯定、そしてなんらかの新しい身体を提出するにいたるこのような肯定とともに、苦悩も、そして死も、生命の現象の一環としてあらためて一緒に肯定されるのである。そして、すぐれて完璧な認識能力によって解脱が招き寄せられるという可能性は、この場合には、無効であるとみなされる。ここに、生殖の営みに関する羞恥心の深い理由が存するのである。
性欲の満足とは、生きんとする意志を個別の生命を超えて肯定することであり、これではじめて個体を使い果たして、生命に所有されるのであって、いわば生命に対し処方箋をいま一度書き改めることである
性欲が生きんとする意志のもっとも決定的な、もっとも強力な肯定であることは、これが動物ならびに自然状態にいる人間にとって、生の究極の目的であり、最高の目標であることによって裏書きされている。彼が最初に努力するのは自己保存であるが、それへの心配をすませてしまうと、ただちにおこなう次の努力は、端的にいって種族の繁殖である。人間は単なる自然状態の存在であるかぎり、努力できるのはせいぜいそれくらいのことであろう。自然もまた、その内奥にある本質は生きんとする意志そのものであって、全力をあげて人間や動物を繁殖へと駆り立てている。繁殖がすめば、自然は個体とともにその目的に達してしまったことになるので、個体の死滅にはまったく無関心である。生きんとする意志としての自然にとって、大切なのはただ種族の保存だけであり、個体などは自然にとってみればものの数にもはいらないからである。性欲のうちには自然の内奥の本質、生きんとするあの意志がもっとも強力に表明されているので、古代の詩人や哲人たち──ヘシオドスやパルメニデス──が、エロスこそは万物の基本であり、原理であり、創造者であると述べたのはまことに意味深いことであった〔アリストテレス『形而上学』〕。ペレキュデスも、「ゼウスは世界を創ろうとして自らエロスと化した」と言っている。
生殖器は身体のいずれの外的器官にくらべても(...)、認識にはまったく支配されていない器官である。(...)生殖器が脳の対極をなすのはそのためである。なぜなら脳は認識の代表であり、認識というのは意志の世界とはもうひとつ別の側面、つまり表象としての世界だからである。
生殖器は、生を維持し、時間に無限の生命を保証する(種族を絶やさない、という意味)原理である。この特性をそなえているおかげで、生殖器はギリシア人においては Phallos(バッカスの狂躁乱舞における荘厳な行列の中で、自然の内部の生殖力の表徴として誕生したものの像)として、インド人においてはリンガ Lingam(梵語で表徴の意、すなわち男根の表徴。第五十四節参照)として崇拝された。
死の反対にあたる生殖は、完全に死と平衡を保っていて、たとえ個体が死んでも、生殖が生命を永久に生きんとする意志に対し確保し保証しているからである。このことを表現するために、インド人は死の神シヴァにリンガ Lingam を属性として与えたのであった(第五十四節参照)。(..)世の大抵の人々は、これだけの明瞭な思慮深さなどをもたずに、生の肯定の立場に立って、始終生を肯定して生きているのが実情である。世界はこうした肯定の鏡であるから、世界は無限の時間と無限の空間と無限の苦悩のただなかで、生殖と死との間を果てしなくただよう数しれぬ個体を擁しながら存在している。
自殺という救済
思慮深く同時に誠実な人であれば、その生涯の終りに際して自分の人生をもう一度繰り返したいなどとはけっして望まないだろう。むしろそんなことをするくらいなら、まったく存在しないことを選ぶ方がまだしもはるかにましだと思うことだろう。『ハムレット』の世に名高いあの独白の肝心な内容にしても、要約すれば、次のようになると思う。われわれの生存の状態はきわめて悲惨であるから、こんな状態でいるくらいなら完全に存在しない方が断然望ましいであろう。で、もしも自殺が、ほんとうにこの完全な非存在を提供してくれて、「生きるべきか死すべきか」(シェイクスピア『ハムレット』三幕一場中のハムレットの独白)という二者択一が文字通りの意味においてせまるのだとしたら、そのときこそは無条件に自殺の方を、最高に望ましい完成〔衷心から望ましい人生の仕上げ a consummation devoutly to be wish'd〕(『ハムレット』第三幕第一場)として選びとるのがよいであろう。しかしわれわれの心の中には、そうではない、それでけりはつかない、死は絶対的な破滅にはならないのだとささやきかけてくるものがある。
人生の苦悩はすぐにも増大していくので、今までなによりも恐れられていた死が、かえって熱望されるというようなことが日ごとに起こるようにさえなるだろう。
自殺は意志の否定であるどころか、むしろ意志の強烈な肯定のひとつの現象である。なぜなら意志を否定するということの本質は、苦悩の嫌悪のうちにあるのではなしに、人生の享楽を嫌悪することのうちにあるのだからである。もともと自殺者は生を欲しているのだ。自殺するのはただ、現在の自分の置かれている諸条件に満足できないというだけの話なのである。だからして自殺者はけっして生きんとする意志を放棄するのではなく、ただ単に生を放棄して、個別の現象を破壊するにとどまっている。
こうしてつまり生きんとする意志は自己保存の快適さ〔ヴィシュヌ〕と、生殖の愛欲〔ブラフマ〕のうちに現象しているのと同じように、この自殺という行為〔シヴァ〕のうちにも現象しているといえるのである。これがかの三神一体 Einheit des Trimurtis(インド教では創造の神ブラフマ、保存の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァの三神即一が唱えられる)の内面的な意味なのであって、いかなる人間も三神一体として全体をなしているのであり、ただ時間のなかで三つの頭のうちのあるときはこれ、またあるときはあれを強調しているだけのことなのである。
自殺する人というのは、ある苦しい手術を受けている病人が、手術で根本的に治療されうるはずだったのに、手術が始まってから途中でそれを中止して、好んで病気のままでいることを選ぶようなことだといえるだろう。苦悩が近づいてきて、せっかくこの苦悩によって意志の否定の可能性が開かれてきているというのに、彼は苦悩をしりぞけてしまうのである。そうしておいて、意志が打ち挫かれないですむようにと、意志の現象である自分の身体の方を破壊するというわけである。
無という救済
真の救い、生と苦悩からの解脱は、全面的な意志の否定なしにはおよそ考えられない。意志が否定されるまでは、人は誰でもまさしくこの意志そのものにほかならないのである。意志の現象は儚く消えてゆく存在であり、つねにむなしく、たえず水泡に帰していく努力であり、万人がいやおうでも平等に所属している、苦悩をいっぱいに充満して出現した一つの世界である。なぜなら、先にすでに発見しておいたことだが、生きんとする意志にとってはつねにこの生ほど確実なものはなく、生の唯一の現実的な形式はただ現在だけであり、誕生と死とがこの現象界を支配しているにせよ (たとえ個体は滅びるにせよ) 万人は現在からけっして逃れ出ることができないからである。インドの神話はこの点を表現して「万人は再生する」と言っている。
1836『読書について』
読書は言ってみれば、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。(...) 自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。(...) 読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。
1851『余録と補遺』
第十三章 自殺について
現代は自殺を悪と断罪する。その可笑しさについてショーペンハウアーは次のように云う。
わたしの知る限り、その信者が自殺を一種の犯罪と見ているのは、一神教、すなわちユダヤ系の宗教だけだ。このことは、旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に対するなんらかの禁令、あるいは決定的な否認さえも見いだせないのだから、いよいよ奇怪である。
その好例として彼は古代の哲学者をあげる。
古代の人たちにとっては、この問題を犯罪視することは思いもよらなかったことなのだ。プリニウスは言っている。「われわれの考えでは、人生をなにがなんでもひき延ばすほど愛してはいけないと思う。このことを願うおまえが何者であるにせよ、死ぬことには変わりはないので(善行を積もうが)それまでの生活が悪徳や罪悪にみちみちていようが、どのみち同じなのだ。それゆえ、自然が人間にあたえたいっさいの財宝のなかで、早死ににまさるものはないということを、各人はなによりも魂の良薬としておぼえておくがよかろう。しかし最上のことは、めいめい自分で死を処理できることだ」(『博物誌』)と。彼はまたこうも言っている。「神でさえすべてをなしうるわけではないと、われわれは主張する。なぜなら、神はたとえその気になっても、自殺を決断できないからだ。ところが人間に対しては、神は、人生の苦悩がこのように多いところから、自分で死をきめることを最上の賜物としてあたえ賜うたのである」と。
一般的にいって、生きているのが恐ろしくない、それが死の恐怖にうちかつようになるとすぐ、人間はその生命を断つということがわかるだろう。しかし、死の恐怖の抵抗もそうとうなもので、死の恐怖はいわば番兵として、この世の出口のまえに立っているのだ。もし生命の終わりが、なにか純粋に消極的なもの、生存の突然の停止だとしたら、おそらく自殺しないような人はひとりもあるまい。−しかし、そこには積極的なものがあるのだ。すなわち、肉体の破壊である。これがしりごみさせる。なぜなら、肉体は生きんとする意志の現象にほかならないからである。
ショーペンハウアーはその主著にて以下のように自殺を理解したと改めて言にする。
自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるもの。