アリストテレス
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自然と技術はいずれもモノの生成過程を律するが、同時に目指す目的によって規定される(合目的性) 技術の合目的性は自然の合目的性に従う、あるいはその影響下に置かれる。すなわち技術そのものが自然の可能性を実現する方向に向けて発展する。
人生の究極の目的である幸福を実現するためには人間としての徳を身につけることが必要である
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正義と不正
支配者にとってであれ、共同体の成員にとってであれ、ともかく他者にとって利益になる事柄を行うもの
正義の分類
「剛毅」「節制」といったすべての徳が何らかの意味で「正しいこと」をもつ(「正しいこと」をもたない「剛毅」は単なる暴力である)という意味で、徳の全体に関わるといえ、したがって「徳の全体としての正義」とも呼ばれる。 ト・イソン(公正なこと)を対象とする「公正に関わる正義」 不公正による反証。例えば臆病のゆえに戦闘で同志を見捨てるというように、不正な行為でありながらも「より多くをとる」ことのない場合がある一方で、「より多くを取る」という行為が、不正でありながら臆病などの種々の邪悪のどれにも当てはまらない場合がある。このように、「法に反する事柄という「不正なこと」全体の部分をなすような、何かある特定の不正な事柄があるはずである。これが「部分としての不正」である。同様に、「公正」という意味での「正義」は、「法に関わる」全体的な正義に対して「部分」をなす関係にある。
前者は名誉や財貨、その他およそ国制を共有する人々に分け与えられうるかぎりのものに関する"配分"に見出され、後者はさまざまな取り引きにおける"是正"的なものである
人間は他の動物と違って言語をもち、善と悪、正と不正を区別できる「政治的動物」であるが、このような知識を共有しているが故に人間は家や国家を形成できる。このような正義がアリストテレスにとって、共同体の共通善を確保するための重要な概念である。 人間の体液を血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁からなるものとし、これらの混合比が正常に保たれていると健康であり、そのバランスが崩れたとき人は病にかかるという「四体液説」という考えが体系化された。そしてメランコリーの語源は黒胆汁(メライナコレー)であることからもわかるようにメランコリーは黒胆汁にまつわる病だとされていた。 なぜ、哲学や政治や詩作や様々な技術に関して「尋常ではない」(ペリットス)人間になった限りの者は、すべて、明らかに、「黒胆汁質の者」(メランコリコス)であって、しかも「黒い胆汁」(メランコイネー・コレー)に由来する限りにおいてそうである者もおり、例えば、様々な英雄譚のうちでも、ヘラクレスに関する話が、そのように語られているのだろうか 勿論ミクロコスモス(人間)とマクロコスモス(自然)の照応関係に基づく因果としているため、主張自体は疑似病跡学的なものにとどまっているといえる (1)異なった媒体によって(2)異なった対象を(3)異なった方法で再現し、同じ方法で再現しないということ
再現するものは行為する人間を再現するのであるから、これらの行為する人々は優れた人間であるか、劣った人間でなければならない。〜というのは人間の性格は大抵の場合この二つの性質のいずれかに相当するからである。
差異
すなわち喜劇が現代の人間より劣った人間の再現を狙うとすれば、悲劇はそれより優れた人間の再現を狙うのである。
呼称
悲劇と喜劇はドラーマという名で呼ばれるという。悲劇と喜劇は行為する者(ドラーン)を再現するからである 悲劇とは
一定の大きさを備え完結した高貴な行為と人生の再現であり、哀れみと恐れを通じて感情の浄化を達成するもの(カタルシス) 六つの構成要素
再現の媒体(語法・歌曲)/ 再現の対象(筋・性格・思想)/ 再現の方法(視覚的装飾)
価値順位
一番は筋(ミュートス)、これは出来事の組み立てであり、悲劇の原意であり、いわば魂である。 二番目に性格
これとよく似たことは絵画についても見られる。すなわちいかに美しい色の絵の具を使っても手当たり次第に塗りまくるのであれば白と黒で性格に描かれた似像にも人に喜びを与えないであろう
均一はなく、繊細に多様に描くこと
性格とは登場人物が選び、避けるかが明らかでない場合に、その人物がどのような選択をするかを明らかにする者である。
三番目に思想であり、これは『政治学』と『弁論術』の機能にあたる部分。行為は性格と思想の二因子によって定まる 四番目に語法。韻文においても散文においても言葉による意味伝達である。
五番目に歌曲。感覚的な魅力において最も重要である
最後に視覚的装飾。衣装係の技術依存であり、最も詩作に遠く技法を必要としない者であるため
逆転とは反対方向へ転じる、行為の転換(メタボレー)である。 認知とは無知から知への転換であり、その結果として幸福か不幸かが明瞭だった人々が愛するか憎むかになるような転換である。
ex)『オイディプス王』における羊飼いがオイディプスを喜ばせようとし、母親に対する恐怖から解放しようとしたが素性が明かされ、知を経て意図と反対の結果になった(これは逆転と認知の同時生起) 苦難とは:眼前の死、激しい苦痛など
示してはならぬこと
1,善人が幸福から不幸に転じること、あわれみではなく忌まわしいもの
2,悪人が不幸から幸福に転じること、必要なものを何一つ備えず、人情にうったえるものもない
3,まったくの悪人が幸福から不幸に転じること、人情に訴えるやもしれないが、哀れみもおそれも生起しない。
おそれとは、私たちに似た人が不幸になる時生じる
あわれみとは、不幸に値しないにも関わらず不幸に陥る人に対して生じる
即ち優れた筋は徳と正義に優れているわけでなく、卑劣さ邪悪さ故の不幸ではなく、なんらかの過ちによって幸福から不幸に転じること。
範疇論
1
「同名異義的」と呼ばれるのは、名称だけが共通であり、その名称に対応した、事象の本質を示す説明規定は互いに異なるものである。 多義的な語句(例:はし=橋/箸/端...)
「同名同義的」と呼ばれるのは、その名称が共通であるとともに、その名称に対応した、事象の本質を示す説明規定も同一であるものである。 一義的な語句
「派生名的」と呼ばれるのは、他の何かからそれの名称に対応する呼称を、語形を変化させることによって得ているものである。 teachの動詞からteacherの名詞は派生する。また、identityとidentifyに共通するident-の語幹は、-ityと-ifyの接辞が後ろにつくことで名詞になったり動詞になったりし、identifyにあっては、さらに-icationの接辞をつけるすることでidentificationとでき、動詞を名詞に化することもできる(引用) /icons/白.icon
2
基体に内在するのが非実体で、外在するのが実体である
例)「動物」(厳密には一部の動物の実体なら「陸に棲む」こと、人間(全ての人間)の実体なら「理性を有つ」ことなどを言う。これらの実体は、動物や人間が居なくなった途端自らも姿を消すという点で共通する。つまり自らがその内にあるところのそれに依存して存在するもの。逆に人間や動物は上記実体を失っても存在するので外在するということ(引用) 非実体は(量・質・関係・場所・時間・位置・所有・能動・受動)である
その本質ではなく偶有性を示し、どんなであるかを語るだけだとして形容述語と呼んだ。 述語になり得るのが種・類で、独立しているものが個
非実体の種・類
非実体の個
これを述語とするときのみが「その本体の本質が何であるか」を語り得るとし、それを本体述語と呼ぶ /icons/白.icon
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第二実体を用いて存在を語り得ないということ。
たとえば、バッタは昆虫だというとき、「バッタ」という「種」の概念が「昆虫」という「類」の概念に包含されるという関係をしめすことでその意味が説明されている。だけど、その昆虫なるものが、他にカマキリやチョウなどの要素を持っているとか、頭部胸部腹部があり3対の脚と2対の羽を持つ節足動物であるかとかいうことがまるで分かっていなくて、ある対象についてまったく昆虫かどうかを判別することが何一つできないのであれば、何の意味説明にもならない。「種」を「類」でもって説明しようとするなら、「類」とはどんなものかどんなものかがある程度分からないといけない。バッタ以外の何かついてもその類(昆虫)に当てはまるか当てはまらないかが、多少なりとも弁別できないとダメだってことだ。
神の存在と、ものの存在は一方が無限であり他方が有限な対象であるのだから、それらが同じ存在としてある訳がなく、神の無限に至るようなものが語り得るわけがない。それゆえ、存在や神の無限は論理的に扱えるものではない。アリストテレスの世界では、そんなものを語るのは論理内では無理な話で、それは形而上学でしか扱えないものなのだ。