ムフ
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シュミットの乗り越え
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みずからが参与できる民主的な政治闘争が欠落しているところでは、その場は他の形態の自己の帰属化―それがエスニック的性格のものであれ、民族主義的ないし宗教的性格のものであれ―によって奪取されることになり、反対者もまた、そのような枠組みで規定されてしまう。そうした状況では反対者は、競合しあう、「対抗者」として認識されることはなく、むしろ破壊されるべき「敵」としてのみ認識されてしまう。
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脱構築およびプラグマティズムと民主政治
クッチリー批判
ローティは、世界を暴露するアイロニストとしてはデリダの重要性を強調するが、デリダの著作の政治的意味は一貫して否定している。ローティが『偶然性・アイロニー・連帯』で提案している「私的アイロニスト」と「公的リベラル」という区別に従えば、デリダは「私的アイロニスト」とみるべきであって、彼の著作には公的な効用がなく、自由社会の政治活動に貢献するところは皆無だというわけである。 このテーゼに対してクリッチリーは後期デリダに向かえば「しだいに正義と責任が強調」されており「公的な思想家とみるべき」であると反論する。 決定不可能なものの「経験」として正義を捉えるデリダの考え方は、公的領域においてその具体的な実例をあげるのは確かに容易なことではない。しかしそれだからといって、デリダの考え方は政治に何の影響も与えないということにはならない。公と私をあまりにも厳密に区別するためローティは、二つの領域の複雑な絡み合いに気づけない。彼は個人的自律への要求と社会的正義の問題とを関連づける試みを非難するが、それもこの事情にもとづいている。
ローティの主張によると、私的領域と公的領域を統一または和解させる道はなく、一つは自己創造や自律への欲望が支配する領域であり、もう一つは共同体への欲望の支配する領域であって、この二つが調停不可能な終極の語彙であるという事実を認めなければならない。クリッチリーはそういう主張には反対である。ローティはこの二つの言葉は私的・公的という二つの異なる言語ゲームにおいて機能するものであって、それぞれの適用領域を混同するのは危険だと言い切る。しかしクリッチリーは、ローティはそう言い切ることによって、ニーチェやフーコーのような公的アイロニストが開いた、豊かな批判の可能性を奪い去ってしまっていると考える。さらにクリッチリーは、ローティのように自己をアイロニストとリベラルに分けると、政治的シニシズムの状況が生まれかねないことも問題にしている。 https://scrapbox.io/files/650ef0f7f4f299001b07ea60.png
「敵対性」的転換
政治学者のシャンタル・ムフは、熟議民主主義の構想における(意見の不一致や対立は、政治過程のなかで集団的意志決定=合意へと向けて議論が収斂していくなかで、最終的には取り除かれるものとされること)が、新自由主義にラディカルに対抗するには不十分だとする。 ムフによれば、そもそも、自由と平等という最終的には両立しない二つの論理の接合から帰結したものがリベラル民主主義体制であり、その両者が完全に和解することはありえないと考える。だからこそ民主主義を、合意に焦点を当てるのではなく、本質的に「敵対性〔antagonism〕」(友敵理論性)を孕んでいることを前提としなければならないとする。そこで敵対性を弁別する。 そこで、私は二種類の敵対性を区別することを提起した。敵対性そのもの―複数の的、つまり共通の象徴空間を持たないものの間に生じる―と、「闘技性」と私がよぶものの二種類である。後者は、敵対性の異なる表現である。というのも、それは敵同士の関係ではなく、(競技における)対抗者の間の関係に関わるものだからである。〜すなわち、対抗者は共通の象徴空間を共有するが、その共通の象徴空間を異なる仕方で組織しようとする点において敵でもあるものなのである。
則、他者を切断された共通の象徴空間における討ち滅ぼすべき「敵〔enemy〕」とみなす暴力的次元からを掬いだし、民主主義的な「ゲームのルール」の範囲内で、共有された共通の象徴空間における「対抗者〔adversary〕」として互いに競合することにおける「敵対性」を構想するものなのである。補足として対抗者間に引かれる「境界」は、比較的長い場合もあるがあくまで一時的に生じるものであり、いちど引かれた線が固定化され永続するわけではない。そしてこの転換は「敵対を闘技へと変換する」という主要なテーゼであり、下記のように言明する。 「闘技的複数主義」の視座から見ると、民主主義政治の目標は、「彼ら」を、もはや破壊されるべきひとつの敵としてではなく、ひとつの「対抗者」として知覚されるような仕方で構築することにある
熟議民主主義論がいくつかの規範的命題を議論の主題から外すことで合意を担保するのとは異なって、対立の主題となるものに、民主主義を構成する原理である自由や平等も含まれる。ムフの民主主義的な公共領域は、熟議のそれよりも開かれているといえよう。
また、その両者の交渉は、双方の原理がそのまま維持されたまま遂行されるのではなく、「汚染」の関係であるという。その意味は、二つの原理の対立によって、それぞれの論理がもう一方の同一性を変化させるということである。ムフにとって、緊張関係が除去されれば合理的な合意に到達しうる、という熟議民主主義論の想定は「幻想」である。その考えには、緊張関係にあるもの同士の対立や衝突と、交渉を通した両者の汚染が民主主義のダイナミズムを生み出してきたという逆説が排除されているからである。
言語ゲームの導入
意見において一致することはまず用いられている言語についての合意でなければならない~意見における合意は生活の諸形式における合意である~ある言葉の定義に同意するだけでは十分ではなく、私たちがそれを〔生活の中で〕用いる仕方についての同意が必要である
熟議民主主義論は、合意の正当性は手続きに由来するとし、その手続きを理性に基づいて普遍的に正当化しようとする構想であった。ウィトゲンシュタインの考えでは、ある手続きに同意が与えられるのは、社会のなかにかなりの数の「判断における一致」(仕方についての同意)が存在しているからである。ムフは次のように述べる。
ウィトゲンシュタインにとって、規則とはつねに諸実践の要約であり、それらは生活の特殊な形式から切り離しえない
すなわち、規則の正当性は、体系志向の理論家たちが考えているような、論理の一部の破綻によって不成立となるようなものではなく、日常生活における無数の実践によって支えられている。私たちの生活において失敗をしたとしても、すべての破綻になどにならず、大概の場合、やり直しがきくのと同様のことである。
ムフは、この考えに従って、リベラル民主主義の正義概念や諸制度を正しく機能させ、維持するために必要な民主主義的諸価値を理解する。つまり、ムフは、諸実践の総体にささえられた民主主義的諸価値を、民主主義的合意の発生の条件であると主張しているのである。ムフが、理性の限界を主張するのは、理性が意味をなさないということではなく、理性だけでは発生の条件を捉えきれないからである。
ウィトゲンシュタインが私たちに教えているのは、規則に従うただひとつの最高でより「合理的」な方法などあり得ないこと、そしてこの認識こそが、複数主義的な民主主義を構成するのだということである。
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「自由世界」は共産主義に勝利し、そして、集合的アイデンティティの弱体化にともない、「敵なき」世界がいまや実現可能になる。党派的な対立は過去のこととなり、いまでは対話を介した合意が可能だ。
上記のようなポスト・デモクラシー的空気が蔓延してきる現在をムフは批判する。抑圧された敵対性は消滅することなく、「テロリズム」や「右派ポピュリズム」という形態をとって噴出してしまうと。
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序論
本書のもととなったのは、現代の情勢の性質を理解し、「ポピュリスト・モーメント」と表現される困難な状況を捉えることが、左派にとって急務であるという確信である。私たちが目撃しているのは、新自由主義的なヘゲモニー編成の危機と、この危機からいっそう民主的な秩序が構築される可能性である。このチャンスを掴むためには、過去三〇年のうちに起こった様々な変化の性質と、それらが民主政治にもたらした帰結を受け入れる必要がある。 ラクラウとの共著『ヘゲモニーと社会主義の戦略』において批判していたことをまず明らかにする。まず書籍を書くにあたったバックグラウンドを1968年頃の「階級によって捉えることのできない」支配形態への対抗運動として「第二派フェミニズムやゲイ・ムーヴメント、反レイシズム闘争、そして環境をめぐる諸問題が、政治の風景をすっかり塗り替え」たにも関わらず、「諸要求の政治的性格を容認することができず、これを受け入れようとしなかった」伝統的左翼政党の「欠点を改善するためにこそ、私たちは事態の原因を検討」したという。そしてその課題を下記のように述べる。 検討を開始してすぐ、克服すべき課題が、左派の思考を支配している本質主義的な考え方パースペクティヴに起因していることがわかった。私たちが「階級本質主義」と呼ぶこの考え方によれば、政治的アイデンティティとは、生産諸関係において社会的行為者エージェントの占める位置を表すものであり、 彼らの利益はこの位置によって規定されている。こうした見方が、「階級」にもとづくことのない諸要求を理解できないのは当然であった。 そこで『ヘゲモニーと社会主義の戦略』では、下記を「ポスト構造主義とグラムシの洞察を組み合わせることで、私たちは新しい「反−本質主義的」アプローチを展開し、様々な支配形態に対する多様な闘争を捉えようとした。」そしてその「闘争の節合に政治的な表現」として「民主主義の根源化」を掲げ「社会主義プロジェクトを再定義しようとした」という。 このようなプロジェクトは、労働者階級の要求を新しい運動の要求に節合する「等価性の連鎖」によって成り立つものだ。これにより、「共通の意志」を構築し、グラムシが「拡張的へゲモニー(expansive hegemony)」と呼んだものの創出をめざすことができる。「根源的で複数主義的なデモクラシー」という用語で左派のプロジェクトを再定式化することによって、私たちは左派のプロジェクトを民主主義の革命という、いっそう広汎な領域に位置付けた。そして、解放を求める様々な闘争が、多様な社会的行為者とその闘争の複数性にもとづいていることを示したのだ。このことによって、社会的対立の領域は、労働者階級のような「特権的な行為者」に集中していたところから、拡張されることになった。私たちの議論に対する不誠実な読解に対して、誤解のないように言っておきたい。私たちは、労働者階級の諸要求を犠牲にして、新しい運動の諸要求を特権化しているのではない。私たちが強調しているように、左派政治にとって必要なのは、どの闘争もア・プリオリに中心化することなく、様々な従属形態に対する諸闘争を節合することなのである。 同時に私たちは、民主主義のための闘争を拡張し、根源化することによって、完全に解放さ れた社会が実現されるわけではないこと、そして解放に向けたプロジェクトは、もはや国家の廃棄としては考えられないことを示した。敵対性や闘争、社会的なものの部分的な不透明性といったものがつねに存在するだろう。だからこそ、透明で調和した社会としての共産主義の神話―これは明らかに政治の終わりという含意をもっている―を放棄する必要があったわけだ。 だが2001年に出版された第二版では、「多くの社会−民主主義政党が、「近代化」という見せかけのもとで「左派」のアイデンティティを捨て去り、みずからを「中道左派」として婉曲的に再定義するようになった」という深刻な後退について書き記さねばならなかったという。
そこで『政治的なものについて』という著作に移る。本書で分析したのは、このよ うな新しい情勢であった。そこでブレア政権の成り立ち、主題等を下記のように述べる。 私はそこで、英国のギデンズが理論化し、ブレアと彼が率いるニューレイバーによって導入された「ブレア労働党の第三の道」の影響力について考察した。かつてサッチャーは、新自由主義によるグローバル化以外の選択肢などない―有名な「TINA(ThereIs No Alternative)」だ―という独断的な教義ドグマを打ち立てたが、 私の分析は、この教義を受け入れたことで、新しい中道左派政権がどのようにして「新自由主義の社会−民主主義版」(スチュアート・ホール)に行き着いたのかを示した。政治の対抗モデルと左−右の対立を時代遅れであると主張し、中道右派と中道左派の「中道での合意」を歓迎することで、いわゆる「ラディカルな中道」は専門家支配による政治形態を進めることになった。 この考え方によれば、政治とは党派的対立ではなく、公共の事柄を中立的にマネジメントすることとされたのだ。 かつてトニー・ブレアは、「左派的な経済政策か右派的な経済政策かではなく、 よい経済政策か悪い経済政策かという選択である」と口にしたものだった。新自由主義によるグローバル化は私たちが受け入れるべき運命であるとみなされ、政治問題は専門家が対処すべき単なる技術的な問題へと格下げされた。複数の政治プロジェクトのなかから市民が真に選択を行う余地は残されていない。市民の役割は、専門家によってつくり上げられた「合理的な」政策をただ追認することのみである。 このような状況を成熟した民主主義への前進であると考える人々とは対照的に、私は、こ の「ポスト政治的」な状況が民主的な諸制度に対する不信の高まりの原因であり、これは〔選挙への〕棄権が増加していることに明らかであると論じた。同時に、右派ポピュリズム政党の躍進に警鐘を鳴らした。彼らは新しい選択肢オルタナティヴを与える振りをし、既得権益層エスタブリッシュメントのエリートに奪われた声を人民に取り戻すと訴えている。そこで私は、ポスト政治的なコンセンサスを打ち破り、 政治の本質である党派性を再肯定することで、実行可能な選択肢についての「闘技的アゴニスティック 」な討論条件を創出する必要性を唱えたのだ。 そこで当時ムフは「社会主義政党や社会−民主主義政党を変えること」が「民主主義の根源化」を導入するだろうと考えていた。だがそのようなことは起こらず、「右派ポピュリズムによる深刻な侵食が進む一方で、ほとんどの西欧民主主義国で社会−民主主義政党は低迷期に入ってしまった」という。ただ同時に新たな潮流へと至っていることを示す。
しかし、2008年の経済危機は新自由主義モデルの諸矛盾を際立たせ、新自由主義のヘゲモニー編成はいまや、右であれ左であれ、既得権益層に反対する多様な運動によって疑問に付されている。この新しい局面こそ、私が「ポピュリスト・モーメント」と呼ぶものであり、本書で精査しようとするものなのだ。 そこで本書の中心的な議論は、そんな「ヘゲモニーの危機に介入するためには、政治的フロンティアの確立が不可欠である」ことであり、「「人民」と「少数者支配オリガーキー」とのあいだに政治的フロンティアを構築する言説戦略と理解するかぎりで、現在の局面において左派ポピュリズムは、民主主義を回復し、深化させるために必要な政治類型を構成しているのだ」とし、前著の反省に至る。 『政治的なものについて』を書いたとき、私は左−右のフロンティアを再興することを提案した。しかし、いまとなっては、そのような伝統的に設定されたフロンティアは、今日の多様 な民主的諸要求を含んだ集合的意志の節合に、もはや適していないと考える。ポピュリスト・モーメントとは一連の異質な諸要求の表出なのであり、それらの要求をあらかじめ決められた、 社会的カテゴリーと結びつく利益によって定式化することはできない。さらに、新自由主義的な資本主義のもとで、生産過程の外部に様々な新しい従属形態が現れた。それらが生み出した諸要求は、社会学的用語で定義づけられた社会セクターや、社会構造における彼らの位置付けとはもはや一致しない。そして、このような異議申し立で―環境保護、性差別やレイシズム、 その他の支配形態に対する闘争―こそが、ますます重要になっているのだ。このような理由 から、今日の政治的フロンティアは「ポピュリズム的」かつ領域横断的な仕方で構築される必要がある。とはいえ、「ポピュリズム的」な次元だけでは、今日の情勢に求められる政治類型 を特定するのに十分というわけではない。求められているのは「左派」のポピュリズムであり、 これが追求する諸価値を提示しなければならない。 「民主的な言説」の役割、民主主義という「覇権的ヘゲモニックなシニフィアン」の「従属に対抗する複数の闘争のあいだに等価性の連鎖」をつくることによって右派ポピュリズムとの差異が明瞭になるという。 これからの数年間は、右派ポピュリズムと左派ポピュリズムが政治的 対立軸の中心となる。その結果として、平等と社会正義の擁護に向けた共通の感情を動員することで、「人民」の構築、すなわち集合的意志の構築が生じるだろう。これにより、右派ポピュリズムが推し進める排外主義的政策と闘うことができるようになる。
そして最後に下記のように述べる。
政治的フロンティアを再創出するにあたり、「ポピュリスト・モーメント」は、ポスト政治の時代が過ぎ去ったあとの「政治的なものの回帰」を示している。このことは、もしかすると権威主義的な解決策にも道をひらくこともありうる―これは自由民主主義の諸制度を弱体化させるような体制を導くかもしれない。しかし政治的なものの回帰はまた、民主的な諸価値を 再肯定し、それを拡張することもあるだろう。すべては今日の民主的諸要求のヘゲモニー化にどの政治勢力が成功するかということ、そしてポスト政治に対する闘争に勝利するのがどのような種類のポピュリズムなのかということにかかっているのだ。 /icons/白.icon
ポピュリスト・モーメント
政治理論家としての私の理論化の方法は、マキャヴェリに由来している。アルチュセールが記しているように、マキャヴェリは「状況について」省察するのではなく。自身をつねに「状況のなか」に位置付けていた。 私は、マキャヴェリに倣って、ある特有の状況に私の考察を位置付けることで、彼が「ことがらの具体的真理」と呼んだものを、今日の西欧諸国の「ポピュリスト・モーメント」において探求しようと思う。
ポピュリズムの定義
「メディアは、現状に反対する人々をポピュリズム」とし「不適格者の烙印」を押してきたとし、「このような軽蔑的意味合いを拭い去るために、私はエルネスト・ラクラウが発展させた分析的アプローチにしたがう」とする。
このポピュリスト・モーメントは、一九八〇年代を通して西欧で漸進的に実践されてきた新自由主義的なヘゲモニー編成の危機を示している。この新自由主義的なへゲモニー編成は、社会民主主義的なケインズ主義的福祉国家(戦後三〇年間にわたり、西欧民主主義諸国において主要となった社会経済モデル)にとって代わった。この新しいヘゲモニー編成の核をなしているのは、市場原理―規制緩和、民営化、緊縮財政―を押しつけ、さらに国家の役割を私有財産権の保護、自由市場、自由貿易に限定するといった一連の政治―経済的諸実践である。新自由主義とはいまや、この新しいへゲモニー編成を言い表す用語となっており、 これは経済の領域のみならず、所有的個人主義(possessive individualism) の哲学にもとづく社会と個人という考え方全体を指すものとなっているのだ。 1980年代以降、様々な国で導入されたこのモデルは、2008年の金融危機によってその限界が深刻な仕方で露呈するまで、いかなる大きな困難にも直面してこなかった。2007年の米国サブプライム・ローン市場の崩壊に始まるこの危機は、翌年、投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻により、本格的に国際的な金融危機へと発展した。世界の金融システムの崩壊を止するために、金融機関への大規模な公的資金投入による救済策がとられることなった。グローバルな不況は欧州経済にも大きな影響を与え、欧州債務危機を引き起こす。この危機に対処するために、多くの欧州諸国で緊縮政策が導入されたが、これはとりわけ南欧諸国に深刻な影響をもたらすことになった。 経済危機になると、様々な矛盾が凝縮され、グラムシが「空白の時代(interegnum)」呼んだものが生じる。つまりこの危機的な期間においては、既存のヘゲモニー・プロジェクトのもとで合意されていたいくつかの信条が挑戦を受けるのである。危機への解決策はいまだ見通せていない。これが今日、私たちの目撃している「ポピュリスト・モーメント」の特徴である。 したがって、「ポピュリスト・モーメント」とは、新自由主義的なヘゲモニー期における、政治的かつ経済的な変容に対する多様な抵抗の表出にほかならない。(...) >民主主義的な自由主義政治は、〔二つの伝統の〕絶え間ない交渉の過程によって成り立っており、そこでこの本質的な緊張は、様々な仕方でヘゲモニー的に構成される。この緊張は、右派と左派のあいだのフロンティアに沿った政治言語によって表現されるのだが、それが安定しているのは、政治勢力同士のプラグマティックな交渉を通じた一時的なものに過ぎない。これらの交渉によって、つねにひとつのヘゲモニーが確立され、それがほかの勢力に行使されることになる。自由民主主義の歴史を振り返ると、あるときには自由主義の論理が支配的であり、また別のときには民主主義の論理が優勢であったことがわかるだろう。それでも、二つの論理は互いに力をもっていたし、右派と左派による「闘技的な」交渉の可能性はつねに存在した。この可能性こそ、自由民主主義体制に特有のものであり、この体制をつねに活性化していたものなのだ。ここまでの考察は単に、政治体制として想定される自由民主主義のみにかかわるものであった。しかし、これらの政治制度が経済システムと別箇に存在しえないことは明白である。(...) 現在の欧州の政治状況は、「ポスト・デモクラシー」であると言うことができる。なぜなら、近年、新自由主義的ヘゲモニーの帰結として、自由民主主義の構成要素である自由主義原理と民主主義原理の闘技的な緊張感系が消し去られたからである。平等と人民主権という民主的価値が死滅したことで、様々な社会的プロジェクトが対抗するための闘技的空間が消滅し、市民から民主的権利を行使する可能性が奪われてしまった。確かにいまも「デモクラシー」について口にする人はいる。しかし「デモクラシー」はそのなかの自由主義原理へと縮減され、自由選挙と人権の保護を表しているに過ぎない。自由主義の保護を唱える経済的リベラリズムがますます中心的な地位を占め、政治的リベラリズムの多くの側面が二の次となってしまった―まだそれが残っていればの話だが。これこそ私が「ポスト・デモクラシー」と呼ぶものである。(...)「ポピュリスト・モーメント」は、人民主権と平等という民主主義の理念が侵食されている、ポスト・デモクラシー的なコンテクストにおいて理解されるべきである。 つまり「今日の情勢に特徴的」なポピュリスト・モーメントとは「新自由主義的なヘゲモニー期における、政治的かつ経済的な変容に対する多様な抵抗の表出」である。そしてそれは大きくふたつに区分される。第一に、新自由主義の「米国サブプライム・ローン市場の崩壊に始まる」危機をきっかけとした経済的コンテクスト。第二に新自由主義の自由主義陣営による民主主義陣営の抑圧という「ポスト・デモクラシー」的な政治的コンテクストである。後者において、まさに「成長と分配」というネオリベのテーゼは「経済的リベラリズム」或いは「自由主義」陣営に「中心的な地位」を与え、「政治的リベラリズム」或いは「民主主義」陣営に「二の次」な地位を与えることそのものを表している。「成長しなくて分配なし」なんて表現はまさに前者の陣営に特権的な地位を与えるテーゼなのである。 ここまででラクラウのいうポピュリズム解釈を認識し得たであろう。が、本書のタイトルは「左派」ポピュリズムのために、である。上記で論じたポピュリズムは右派と左派でいかに変容するのだろうか。そこで右派ポピュリズムからは「オーストリアの自由党(FPÖ)」「フランスの国民戦線(Front National)」を挙げ、左派ポピュリズムからは「ギリシャのシリザ(Syriza)」「スペインのポデモス(Podemos)」を挙げる。
当初、ポスト・デモクラシー的なコンセンサスに対する政治的抵抗のほとんどは、右派の側から現れた。1990年代には、オーストリアの自由党(FPÖ)やフランスの国民戦線(Front National)のような右派ポピュリスト政党が、エリートに奪われた声を「人民」に取り戻す存在として現れた。こうした方法で、イェルク・ハイダーは (...) 国家がエリート連合によって統治され、真の民主的な討議を妨げていることに対する数々の抵抗を節合したのだ。様々な反グローバリゼーション運動によって、すでに左派の急進化の兆候を見せていた政治的光景は、2011年に大きく変わることになった。緊縮政策が広範な人々の生活条件に影響を与え始めたとき、欧州各国では注目すべき国民的抗議が起こり、ポスト政治的なコンセンサスが解体し始めたのだ。(...) 民主主義の回復と深化をめざしてポピュリズムを導入した最初の政治運動は、ギリシャとスペインでみられた。ギリシャではシリザ(Syriza)―左派運動の連合として生まれた統一社会戦線であり、ユーロ・コミュニスト政党を前身にもつ左翼運動・エコロジー連合(Synaspismos)を中心とする―が新しいラディカル政党として現れ、議会政治を通じて新自由主義的ヘゲモニーに挑戦することを目標としていた。社会運動と政党政治の相乗効果を打ち立てることで、シリザは多様な民主的諸要求を集合的意志に節合し、2015年1月には政権を獲得するにいたったのだ。(...) 2014年のスペインにおけるポデモス(Podemos)の躍進は、インディグナドス〔怒れるものたち〕が創り出した土壌を、若手の知識人たちが活かしたことによって可能となった。民主主義の疲弊がコンセンサス政治をもたらしていたが、この土壌からコンセンサス政治の膠着状態を打破しようとする政党運動が生まれたのだ。既得権益層のエリート(la ‘casta’)と「人民」とのあいだにフロンティアを構築することで、人民の集合的意志を創り出すというポデモスの戦略は、いまだ右派の国民党(Partido Popular)から政権を奪うにはいたってないものの、重要な地位にあった議員たちを追い出し、ポデモスのメンバーを議会に送ることができた。それ以来、ポデモスはスペイン政治の一大勢力として、その政治状況に根本的な転換をもたらしてきた。同様の進展は、ほかの欧州諸国でも起こっている。ドイツの左翼党(Die Linke)、ポルトガルの左翼ブロック(Bloco de Esquerda)、さらにフランスでは、ジャン=リュック・メランション率いる不服従のフランス(La France Insoumise)が、2017年に結成わずか一年で同国議会に17人もの議員を輩出し、いまではエマニュエル・マクロン政権の主要な対抗勢力となっている。また、ジェレミー・コービンを党首とするイギリス労働党の予期せぬ躍進も、欧州諸国における新しいラディカリズムのもうひとつの兆候だろう。 これこそが ポピュリスト・モーメント なのである!!!一方、右派ポピュリズムは、反エリート、反グローバリゼーションを掲げ「民主主義の回復を求める」が、それはいわゆる闘技するべく多元化される民主主義のための活動なのではなくて、「愛国者」のための主権奪還なのである。他方、左派ポピュリズムは「新自由主義」による「ポスト・デモクラシー」への対抗、換言するなら「左派ポピュリズムは民主主義の深化と拡張のためにその回復を求める」つまり「デモクラシー」の回復を求めるのだ!これを下記のように表現する。
右派と左派、どちらのタイプのポピュリズムも、満たされない諸要求を結集させることをめざしているが、両者はまったく異なる方法でそれを行う (...) 右派ポピュリズムは人民主権を奪回し、民主主義の回復を求めるが、しかしこの主権は「国家主権」と理解され、真の「愛国者」とみなされる者のためにとっておかれている。右派ポピュリストは平等への要求には応じず、アイデンティティとネーションの繁栄への脅威とみなしうる多種多様なカテゴリー―通常は移民である―を排除したかたちで「人民」を構築する。ここで示唆しておきたいのは、右派ポピュリズムはポスト・デモクラシーに対する数々の抵抗を節合する者の、必ずしも新自由主義的勢力によって構成されたものを人民の対抗者として提示するわけではないということだ。したがって、彼らがポスト・デモクラシーに対抗しているからといって、それを新自由主義の拒絶と捉えるのは誤りであろう。それどころか、彼らの勝利は民主主義を回復するという名目のもとに、実際にはそれを大幅に制限するような新自由主義の国家主義的かつ権威主義的な形態に行き着く可能性がある。これに対して、左派ポピュリズムは民主主義の深化と拡張のためにその回復を求める。左派ポピュリスト戦略は民主的な諸要求を、少数者支配という共通の敵に立ちむかう「私たち」、すなわち「人民」を構築するための集合的意志にまとめあげようとする。このためには、労働者や移民、不安定化した中間層、さらにLGBTコミュニティのような、その他の民主的諸要求をもつ人々のあいだに、等価性の連鎖を確立する必要がある。この等価性の連鎖がめざす者こそ、民主主義の根源化を可能にする新しいヘゲモニーの創出なのである。
民主主義を根源化すること
反−資本主義的
左派ポピュリズム戦略は、多元主義的な自由民主主義とのラディカルな切断や、まったく新しい政治秩序の創設をめざしているのではない。左派ポピュリズム戦略は、立憲主義的な自由−民主主義敵枠組みの内部で、新しいヘゲモニー秩序を打ち立てることを求めるのだ。その目的は集合的意志を構築すること、つまりは、新しいヘゲモニー編成をもたらす「人民」を構築することにある。〜新しいヘゲモニーは、これまで新自由主義に否認されてきた自由主義と民主主義の節合を、再度打ち立てることになるだろう。民主的な諸制度を回復し、根源化するプロセスは、支配的な経済的利害との断絶と対立の契機を含むに違いない。しかしそれは自由民主主義の諸原理の正統性を放棄することを求めるわけではない。 そこで三つに左翼を区別し位置付ける。
これは自由民主主義の正統性の諸原理と現行の新自由主義的ヘゲモニーの社会編成を受け入れるものだ。
国家観
様々な社会集団の利害を調整する中立的な機関
これは正統性の諸原理を受け入れるが、新しいへゲモニー編成を履行しようとしている。
国家観
グラムシ風に言えば、 この立場は、国家を様々な力関係の結晶化として、つまり国家を一箇の闘争の領域として捉える。国家は同質的な媒介物などではなく、諸部門と諸機能のいびつな組み合わせであり、そこで生じたヘゲモニー的な実践によって統合されているに過ぎないのだ。 ヘゲモニー政治へのグラムシの重要な貢献のひとつは、「統合国家」という彼の構想にある。 彼は、統合国家を政治社会と市民社会を含むものとして考えていた。これは、市民社会の「国家化」ではなく、市民社会の根本的に政治的な性格を示しており、市民社会はヘゲモニーを求める闘争の領域として提示されている。この見解によれば、政府という伝統的な装置と並んで、 国家もまた、多様な装置と、様々な勢力がヘゲモニーを求めて争う公共空間から構成されているのである。 闘技的な介入のための場としてみたとき、これらの公共空間は、民主主義を前に進めるための領域を提供してくれる。だからこそ、ヘゲモニー戦略によって多様な国家機構に関与することが必要なのである。こうした関与を通じて、国家機構を変容し、多様な民主的諸要求を表出する手段にすることができる。重要なことは、多元主義を組織する国家や諸制度を「死滅」させるのではなく、むしろそれらを民主主義の根源化のプロセスに載せ、根本的に変容させることである。めざすべきは、国家権力の掌握ではなく、グラムシが「生成する国家(becoming state)」と呼んだものの掌握なのだ。 上記のような観点から左派ポピュリズム戦略を「極左」と同一視することを拒み、誤りとする。(資本主義リアリズムの蔓延を示唆するような言明でもある。) 現状を擁護しようとする人々が、新自由主義的な秩序への批判のすべてに「極左」というラベルをはり、それを民主主義の危険と喧伝する〜陰険な試みである。そこでは選択肢は限定され、現在の新自由主義的なヘゲモニー編成を自由民主主義の唯一正統な形態として受け入れるか、もしくは新自由主義と自由民主主義をあわせて拒絶するかの、二者択一であるかのようにみられているのだ。
これは現行の社会−政治的秩序との完全な断絶を求めるものである。この第三のカテゴリーには、伝統的なレーニン主義的政治にくわえ、国家やや自由民主主義の諸制度をそっくり拒絶するアナーキストや「叛乱インサレクション」も含まれている。 国家観
廃棄されるべき抑圧的な機関
まとめると下記である。
重要なことは、次の点を認識することにある。つまり、「民主主義」が覇権的なシニフィアンとなり、これを中心にして、多様な闘争を節合するということ、そして政治的リベラリズムを放棄しないこと。
ネグリ=ハートとムフ
ムフにとってのラディカル・デモクラシーとその他の定義の不一致は「代議制民主主義の問題」だという。そして「私たちが直面しているのが代議制民主主義「そのもの」の危機ではなく、現在のポスト・デモクラシー的なあり方が危機にある」という。そして「この危機は闘技的な対立の不在に起因するものであり、「非代表制的な」デモクラシーを打ち立てることによって解決することはできない。」とする。そこで下記見解に至る。
議会外の闘争が民主主義を前進させる唯一の原動力であるとする考えと論争するなかで、私が主張したのは、マイケル・ハートとネグリがとる脱走ディザーションと脱出エクソダスの戦略ではなく、国家や代議制度、およびそれらを大きく変容させる目的に「関与エンゲージメント」するという戦略である。 『アセンブリ』において、ハートとネグリが脱出戦略から立場を大きく変更したことは興味深いことである。彼らはここで、〈マルチチュード〉は脱出や撤退の方向に進むべきではなく、権力をとりにいく必要性を避けられないとし、「異なる仕方で権力をとる」必要を主張する。これが何を意味しているのかはさほど定かではないが、いずれにせよ、〈マルチ チュード〉がみずからを自己−組織できるという考えは放棄しなかったようである。彼らは 指導することリーダーシップの役割を認識したが、それは戦術的な決定に限定すべきであり、戦略的な決定は〈マルチチュード〉のもとにあるべきだと主張するのだ。 生産過程についての彼らの分析は多くの論者から批判されてきたが、私は彼らの分析にどれくらいの価値があるのかとは別に、〈共〉を言祝ぐことに問題点を見出している。問題なのは、〈共〉が組織と社会の主要原理を提供するという考え方である。つまり、〈共〉をもち上げることで、否定性と敵対性のない多様性を想定し、社会秩序に不可欠なヘゲモニーの性質を認めていないいのである〜ハートとネグリの場合、代表と主権の拒絶は、内在主義的な存在論に起因するものであり、それは私のラディカル・デモクラシーの構想を支える存在論と明確に対立している。さらに、民主主義の根源化をめざす別の構想のなかにも、代表への批判を見出すことができる。ここでは、くじ引きや抽選による古代の選出行為が、私たちの民主社会を現在襲っている代表の危機への救済策を提供するとして、様々な理論家たちによって提案されている。彼らの主張によれば、代議制民主主義は人民を権力から排除するために発明されたものであり、真なる民主的な秩序を打ち立てる唯一の方法は、選挙モデルを放棄し、それをくじ引きに代えることであるという。 この見解の問題は、代表を選挙に還元し、多元主義的なデモクラシーにおける代表の役割を捉えていない点にある。社会は権力関係や敵対性によって分断されており、縦横引き裂かれている。そして、代表制度はこの抗争的な次元の制度化にあたって、決定的な役割を果たしているのだ。たとえば、多元主義的なデモクラシーにおいて、政党は言説的な枠組みを提示している。この枠組みのおかげで、人々は自分たちがおかれている社会を理解し、その断層線を認 識できるようになるのだ。
社会的行為者の意識が、彼らの「客観的」位置付けの直接的な表現でないこと、およびその意識がつねに言説的に構築されていることを認めるとすれば、政治的主体性が競合する政治的言説によって形成され、その形成に政党が本質的な役割を果たすことは明らかである。政党は象徴的な指標を提示するのであり、それによって人々はみずからを社会のなかに位置付け、彼 らの生きた経験に意味を与えることができるのである。しかし近年では、これらの象徴空間は、ますます多様な性質を備えた別の言説によって占められるようになっており、このことがかなり否定的な帰結を民主社会にもたらしている。ポスト政治的な転回のおかげで、政党は象徴的役割を演じる力を喪失してしまった。とはいえこれによって、民主主義が政党なしでもやっていけるという結論にいたるわけではない。繰り返し議論したように、多元主義的な民主社会は、多元主義を調和させるような反-政治的な形式によっては構想できず、絶え間ない敵対性を承認する。そして、そのような社会は、代表なしには存在しえないのだ。実行力ある多元主義は、ヘゲモニー的なプロジェクト間の闘技的な対立を想定している。集合的な政治的主体が創出されるのは代表によってであり、それ以前には存在しない。抽選のようなモデルは、政治的主体の集合的な性格を認識せず、個人的な観点をもとに民主主義の実践を情想してしまっている。このようなモデルにデモクラシーの危機に対する解決策を求めるのではなく、活力あるデモクラシーを構成する闘技的な力動ダイナミクスを回復することが喫感の課題なのだ。くじ引きによる選出は、より良い民主主義を打ち立てる手続きであるどころか、政治とは、諸個人を構成的な社会関係による重荷から解放し、個人の意見を尊重することであるという考えを促進するものだろう。 現行の代表制度のおもな問題は、それが異なる社会的プロジェクトのあいだの闘技的な対立を認めないことである。この闘技的な対立こそ、活力あるデモクラシーの条件そのものなのだ。 市民から声を奪っているのは、代表という事実ではなく、闘技的な対立の欠如にほかならない。 救済策は代表を廃止することではなく、私たちの諸制度をいっそう代表的にすることである。 これこそ、左派ポピュリズム戦略がめざすものなのだ。 結論
西欧における今日の情況を検討しながら、私たちは今「ポピュリスト・モーメント」の渦の中にいると論じてきた。このポピュリスト・モーメントは、ここ30年のあいだに新自由主義的ヘゲモニーがもたらした、ポスト・デモクラシー状況への抵抗の表出にほかならない。このヘゲモニーは現在危機に陥っており、新しいヘゲモニー編成を確立するチャンスを創出している。この新しいヘゲモニー編成がより権威主義的なものになるか、あるいはいっそう民主主義的なものになるかは、ポスト・デモクラシーへの抵抗がどのように節合されるのか、またどのような政治の類型が新自由主義に異議を申し立てるのか、それ次第である。〜ポピュリスト・モーメントを、単にデモクラシーにとっての脅威としてみるのではなく、民主主義の根源化に向けたチャンスでもあると認識することが急務である。この機会を活かすためには、政治が本性上、党派性を帯びたものであり、「私たち」と「彼ら」のあいだには、フロンティアの構築が必要であると認めなければならない。民主主義の闘技的性格を回復することのみが、感情を動員し、民主主義の理想を深化させる集合的意志の創出を可能にするだろう。このプロジェクトは成功するだろうか?もちろんここには何の保証もない。しかし、現在の情勢が生み出したこのチャンスを逃してしまうことは、深刻な過ちになるだろう。
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付録
反−本質主義アプローチ
社会的行為者は「言説的位置」の組み合わせによって構成されており、この組み合わせを閉じられた差異のシステムのなかに固定することはできない。これは、多様な言説によって構築されており、そこにあるのは必然的な関係ではなく、重層的決定とずらしディスプレイスメントの絶え間ない運動である。したがってそのような多様で矛盾した主体の「アイデンティティ」は、つねに偶発的で不安定なものであり、複数の言説が交わるところで一時的に固定され、同一化の特定の形式に依拠したものである。 そのため、社会的行為者について、あたかも統合された同質的な実体を扱うように語ることはできない。むしろ一箇の複数性として、主体位置に左右されるものとして、社会的行為者にアプローチすべきなのだ。社会的行為者は様々な主体位置を通じて、様々な言説的編成のなかで構成されている。さらに、私たちは、主体位置を構築する複数の言説のあいだに、ア・プリオリで必然的な関係がないということも認識すべきである。しかしながら、複数性といっても、多様な主体位置が共存しているわけではなく、ある主体位置が別の主体位置をたえず転覆したり、重層的に決定したりしている。これが、ある領域の内部で、全体化効果が生じることを可能にする。この領域は、ひらかれつつも規定されたフロンティアによって特徴づけられるのだ。
したがって、次のような二重の運動が存在している。一方では、脱中心化の運動が、あらかじめ構成された点を中心にして、主体位置を固定することを妨げている。他方で、この本質的な非−固定性の帰結として、反対方向の運動が存在している。すなわち、結節点を創設し、シニフィアンのもとにシニフィエの流れを引き止め、部分的に固定化しようとする運動である。 しかし、非−固定性/固定化といった弁証法が可能なのは、固定性があらかじめ与えられていないからであり、さらに、主体の同一化に先立って、主体の中心性が存在しないからである。 だからこそ、私たちは主体の歴史を、同一化の歴史として捉える必要がある。同一化の背後に救済されるべき隠された同一性アイデンティティなど存在しないのである。 主体位置のあいだに、ア・プリオリで必然的な関係がないからといって、そこに歴史的で偶発的な、そしてまた可変的な結びつきを打ち立てようとする絶え間ない努力がないというわけではない。様々な主体位置のあいだの、偶発的であらかじめ予見できない結びつきは「節合アーティキュレーション」と呼ばれるものだ。たとえ、多様な主体位置のあいだに必然的な結びつきがないとしても、政治の領域にはつねに、様々な観点から節合を試みる言説が存在する。以上の理由から、あらゆる主体位置は、本質的に不安定な言説構造のなかで構成されるものである。なぜなら主体位置は、たえずそれを転覆したり、変容させようとする多様な節合実践に委ねられているからである。したがって、別の主体位置との結びつきが確定的な仕方で保証された主体位置などないし、さらに、十全で永久的に獲得される社会的アイデンティティというものも存在しない。 民主主義の闘技的な構想
「政治的なもの」の次元を認めるならば、多元主義的な自由民主主義にとっての大きな挑戦のひとつは、人間関係における潜在的な敵対性を取り除くことであることがわかる。敵対関係を取り除くことで、人間の共存が可能になると考えるからだ。〜自由民主主義における決定的な問題は、多元主義の承認と両立するような仕方で、いかにして政治にとって構成的な「私たち/彼ら」という区別を打ち立てるかということである。重要なことは、抗争が生じたとして、それが「敵対性」(敵同士の闘争)ではなく、「闘技」(対抗者同士の闘争)という形式をとることである。闘技的な対抗関係は敵対的なそれとは異なる。それはコンセンサスを可能にするからではなく、相手を破壊すべき敵ではな く、対抗者として、その存在を正統なものと捉えているからだ。対抗者の考えとは厳しい態度で戦うが、相手がその考えを擁護する権利は決して疑義に曝されてはならない。とはいえ、敵というカテゴリーが消えるわけではない。このカテゴリーは、抗争を含んだ合意(confictual coes)を拒絶し、闘技的な闘争を形成できない人たちについては、なおも適切であろう。 この合意こそ、多元主義的なデモクラシーの基礎を構成しているのだから。
そして下記のように続ける。
それゆえ、多元主義の限界は、民主主義にとって避けることのできない決定的に重要な問題である。社会的分断の構成的な性格と、最終的な調停の不可能性を肯定することで、闘技的な構想は民主政治の党派的性格の必然性を認めている。友敵のモード―これは内戦をもたらしかねない―ではなく、対抗者という視点からこの対立を描き出すことによって、対立は民主的な制度内部で生じるのである。〜私が主張しているのは、闘技的な対立が民主主義に対する脅威ではなく、現実には民主主義の存在の条件そのものであるということだ。いうまでもなく、民主主義はある種のコンセンサスの形式がなければ生き延びることはできない。このコンセンサスは、民主主義の正統性の諸原理を構成する倫理-政治的な価値観への忠誠、およびそれらの諸原理が書き込まれる諸制度への忠誠にかかわっている。しかし、それは同時に、抗争の闘技的な表現を可能にしており、 この闘技的な表現は、市民が新しい選択肢から選択する可能性を真に手にすることを要求しているのだ。うまく機能する民主主義は、民主的な政治的立場の対立を求めるものだ。これが身失われてしまうと、民主的な対立が、交渉では解決できない道徳的価値観のあいだの対立、もしくは同一化の本質主義的な形態のあいだの対立に置き換わる危険性がつねに存在することになるだろう。