ネグリ
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帝国について
彼らのとらえるマルチチュードは、〈帝国〉概念と対になっているものである。
グローバリゼーションのプロセスが進行するにつれ、国民国家の主権はしだいに衰退してきている
としたうえで、国民国家の主権の衰退は主権そのものの衰退と同義ではないとして、以下のように述べる。
国民国家の主権の衰退は、主権そのものが衰退したということを意味するわけではない。いま現在起きているさまざまの変容をとおして、政治的統制・国家機能・規制機構は、経済的かつ社会的な生産と交換の領域を支配しつづけてきているのだ。それゆえ、私たちの基本的な前提はこうなる。すなわち、主権が新たな形態をとるようになったということ、しかも、この新たな形態は、単一の支配論理のもとに統合された一連の国家的かつ超国家的な組織体からなるということ、これである。この新しいグローバルな主権形態こそ、私たちが〈帝国〉と呼ぶものにほかならない このように、〈帝国〉を国民国家の衰退のあとに来る「新しいグローバルな主権形態」としてとらえたうえで、そのような「〈帝国〉の内部で成長する生きたオルタナティヴ」、すなわち、帝国にとってかわるオルタナティヴな社会を構成する担い手として、マルチチュードを次のように位置づける。
グローバリゼーションには二つの側面があるといえるだろう。ひとつは、〈帝国〉が、支配と恒常的な対立という新しいメカニズムをとおして秩序を維持する、階層構造と分裂に彩られたネットワークをグローバルに広げていくという側面である。だがグローバリゼーションには、国境や大陸を超えた新しい協働と協調の回路を創造し、無数の出会いを生み出すという、もうひとつの側面もある。 〜したがってマルチチュードもまた、ネットワークとして考えることができるだろう。すなわち、あらゆる差異を自由かつ対等に表現することのできる発展的で開かれたネットワーク、言いかえれば、出会いの手段を提供し、私たちが共に働き生きることを可能にするネットワークである。
つまり、〈帝国〉とマルチチュードはグローバリゼーションの二つの側面であり、〈帝国〉が新しい主権権力によるグローバル支配形態であるとすれば、マルチチュードはそうした〈帝国〉の内部で成長し、〈帝国〉を超えて「新しい協働と協調の回路を創造し、無数の出会いを生み出す」ネットワークにほかならない。
マルチチュードについて
もちろん、ネグリ=ハートはマルチチュードを単なる詩的な空想として語っているわけではなく、マルチチュードの概念は、理論の裏づけを伴って導出されていることに留意しておく必要がある。特に、後論との関係でここで注目しておきたいのは、ハートとネグリが、自身のマルチチュード論を導出する際に、ローザ・ルクセンブルクの帝国主義論を参照している点である。 ルクセンブルクによる帝国主義批判の立脚点は「外部」に根ざしていた、すなわち、支配諸国と従属諸国の双方においてマルチチュードの非資本主義的な使用価値をもってすれば組織し直せるさまざまの抵抗に根ざしていたのだった 資本主義は、労働力を再生産し、商品化するとによって成り立っているが、ローザ・ルクセンブルクによれば、資本主義は成長と利潤を産み出すために非資本主義的な要素を取り込まざるを得ず、下記のように語る。
社会的過程としての資本蓄積は、その一切の関連において、非資本主義的な社会階層と社会形態に頼らざるを得ない
資本主義が資本主義の外側に帝国主義的に広がっていくときには必ず資本主義とは異質なものにぶっからざるを得ず、かつ、そこに依存せざるを得ないというわけである。
そのことは、逆の視点から見れば、労働力の商品化が本来的に抱えている矛盾にもなっている。そこに資本主義を内側から解体し、変革していく可能性があるのではないか、というのが、ローザ・ルクセンブルクの問題意識である。つまり、資本主義が自らのうちに抱えこまざるを得ない異物としての社会的マイノリティ、排除されている存在が、資本主義の周辺部からそれを解体し、変革してく可能性を構想できるのではないか、という問題意識である。
排除されている生が変革主体としてのマルチチュードの基礎となっていることを認めている。
アンヌ・デュフールマンテル
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革命運動や解放運動の内部における政治的分業、すなわち、指導者リーダーと追従者フォロワー、戦略と戦術という分業は、さまざまの行為者アクターたちの能力の評価にもとづくものである。こうした考えによれば、戦略の立案に求められる知性や認識や洞察力 ヴィジョン を持ち合わせている者はごくわずかしかいないため、垂直的かつ中央集権的な意思決定の構造が必要となる。 だが、そうではなくて、そうした戦略に適した能力が、今日では一般化しつつあるということを確証できるとしたらどうだろうか?民主的かつ水平的な社会運動が、社会的領域全体を把握して、持続的な政治プロジェクトを丹念に作り上げる能力を発展させているとしたらどうだろうか? 私たちの見るところ、現在の状況下では、垂直性と水平性のあいだの力学や、中央集権的な意思決定構造と民主的な意思決定構造のあいだの力学がいまだに必要なのである。だが、現在の変化しつつある社会的能力を認識することにより、私たちはそうした力学の極性を入れ替えて逆にすることができる。そして、この転換は途方もない効果を及ぼしうるだろう。こうして私たちの第一の呼びかけは次のようなものとなる。すなわち、役割を逆にせよ。そう、運動に戦略を、指導に戦術を、というように、従来の役割を逆転させるのだ。
戦術的指導
社会運動と民主的な意思決定の構造が長期的な方針を立てなければならないのに対し、指導リーダーシップは短期的な行動に限定されるべきであり、また特定の機会に結びつけられるべきである。しかし指導が戦術的なものであり、ゆえに臨時に用いられるもので、部分的かつ可変的なものであると述べることは、組織が必要ではないということを意味しない。それとは逆に、組織(化)をめぐる争点に対して、より多くの注意が払われなければならないのだ。だがその場合、運動に従属し、運動に奉仕するような、新たなタイプの組織(化)が必要だということを付け加えておかねばなら ない。 次に「迅速な対応が必要とされる状況を大まかに指摘する」として、指導が要請されるもののなかで、まず暴力的なものを挙げる
この場合、最も明白なのは、暴力の脅威を伴う状況である。最近の社会運動の多くが大規模な参加型の意思決定の実験を試みてきたとはいえ、私たちは(まだ)差し迫った問題に民主的な仕方で向き合うための妥当な手段を有していない。戦術的指導を必要とする脅威の型式の一つは、対抗権力というテーマの下に分類できる。というのも、既存の権力構造との対決は、ことに強制力の問題に関わるときや、暴力の脅威の下にあるときには、しばしば迅速な意思決定を必要とするからである。最も民主的なストリート抗議活動であっても、アクティヴィストたちを暴力から守るセキュリティ・チーム―例えば、警察や暴漢が攻撃してきたときに 進路を変更するようなチーム―を配置しないなら無責任である。これと同じ必要性は、進歩的ないし革命的な運動が、寡頭支配や死の部隊、メディアによる攻撃や民兵、さらには右翼の反動などによって脅かされるときにも、大規模なかたちで当てはまることになる。 更に下記のように続ける。
この問題がはるかに複雑になるのは、指導は実効的な政治的組織化にとって必要なものであり、また制度を持続させ、導くためにも必要なものであるという、伝統的な前提に向き合うときである。すでに述べたように、私たちは政治的な組織化と制度化のニーズをいまだになくてはならないものと考えているだけではなく、そのニーズは以前よりも大きくなっているとすら考えている。
そこで組織を維持しつつ、力関係を逆転させるべきだと述べる。
たとえ誠実な指導者であっても、その権力を決して制限できないだろう、と。指導者に少しでも権力を与えれば、ますます多くの権力を手に入れさせることになる。独裁政治家たちが自分は民衆の下僕にすぎないと主張するのを、君たちも何度も聞いてきたはずだ。社会運動によって権力の座に担ぎ上げられるや、傲慢にも社会運動に命令を下すことになる政治活動家を何度も目にしてきたはずだろう。友人たちのこうした忠告は、いかなる法的安全装置も、形式的構造も、権力分立も、権力の篡奪を実際には防いではくれないという点で正しい。味方どうしの場合でさえ、権力の篡奪を防ぐのは、最終的には力関係なのだ。指導をたんなる戦術的役割に抑え込むための、唯一信頼できる方法は、マルチチュードが完全に、また確固として戦略的地位を占め、それを何としても守り抜くことなのである。言い換えるなら、私たちはマルチチュードの戦略的能力を発達させることに力を注ぐべきであり、指導を戦術に限定することはそれに続く事柄なのである。
戦略的運動
そして上記「戦術的指導」で述べたようなことを実現するための必要条件を語る。それはマルチチュードの「知識」レヴェル、「組織化」能力、「潜勢力」としての自己認識的な能力である。
運動を戦略と同一視することは、運動が社会的現実についての十全な認識をすでに有しており(またはそれを発展させることができ)、自らの長期的な政治的方向性を立案できるということを意味する。私たちはまず一方で、人々がすでに所持している知識と組織化の能力を認識しなければならず、もう一方で、持続的な政治プロジェクトの構築と実施にマルチチュード全体が積極的に参加するために必要なものを認識しなければならない。人々は自らの実践をかたちづくり、導くために、党の路線を与えられる必要はない。彼ら/彼女らは自らの抑圧を認識し、自らが何を望んでいるかを知るための潜在能力〔=潜勢力〕を有しているのだ。
社会運動や反乱を自発的〔=自然発生的〕もの呼ぶ者は、誰であれ信用してはならない。物理学においてと同じく政治学においても、自発性〔=自然発生性〕を信じる振る舞いは、〔スピノザ的に言えば〕原因に関する無知―また私たちのねらいに即して言えば、自発性〔=自然発生性〕の発生源にあたる、既存の社会組織に関する無知―にたんにもとづいているのだ。
例えば1960年2月、4人の若い黒人男性がノースカロライナ州のグリーンズボロにあったウールワースの白人専用の軽食カウンターに座って立ち退くことを拒否したとき、ジャーナリストや多くの学者たちはそれを自発的〔=自然発生的〕な抗議活動と見なした―そして外から見れば、それはたしかにどこからともなく現れたように思われた。けれどもアルドン・モリスが主張するように、運動の内部に目をやれば、1950年代の合州国南部全体に広がった座り込み抗議のサイクルはもちろん、学生自治会や教会、地域団体、そして全米黒人地位向上協会の諸部門を含む、豊かな組織構造から、その抗議活動が出現したことが見て取れるだろう。グリーンズボロの座り込みは自発的〔=自然発生的〕なものではなく、進行中のさまざま組織活動が織りなす広範なネットワークの表現にほかならなかったのである。 同じことは、主要な労働組合や党指導者たちがその評判を落とすために「自発的〔自然発生〕ものだと見なした、1960~70年代のヨーロッパ全土における多くの労働者闘争にも当てはまる。だが、それらの闘争もまた、工場の内外で根気強く続けられたアジテーションの産物にほかならなかったのである。自発性〔=自然発生性〕への信仰は、抗議活動や反乱という出来事の背後にある営み〔=労働〕や知識、また組織構造を覆い隠し、その評判を落とす機能を(意識的にせよ、そうでないにせよ)果たすイデオロギー的立場なのである― 実のところ無知は決して無垢ではないのだ。私たちに必要なのは、「自発性〔=自然発生性〕」がそこから現れる、さまざまの構造と経験を探究し、それらの社会的身体〔=組織〕が何をなしうるのかを明らかにすることなのである。
しかし、戦略に適した能力がどのように広く行き渡っているかを明らかにするためには、アクティヴィストの組織を超えたところに、またひいては政治の領域を超えたところに目を向けなければならない。つまり私たちは、社会的領域を掘り下げる必要があるのだ。こうした理由で、第二部と第三部において私たちは、政治の領域の下へ降りていき、現代社会を構成する社会的・経済的な協働関係について探究することにする。こうした仕方によってのみ、人々の現行の能力を正確に測ること、また現に存する豊かさばかりでなく不足を認識すること、またそれらを通じて、何をなすべきかについて構想を練ることが可能となるだろう。
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所有権を改革し、その権力を制限しようとする法学〔=法的〕プロジェクトは、たしかに有益な効果を持ったのだが、いまや私たちは、最終的にその彼方へと跳躍する必要がある。〜労働が社会化され、社会全体が価値化の領野になるとき、また、全員の知性、身体活動、文化的創造性、創発力が協働的に用いられ、共に社会を生産・再生産するとき、〈共〉は生産性の鍵なるのであり、反対に、私的所有は生産的能力を妨げる桎格と なる。換言すれば、ますます明確になっているのは、所有財産からその主権的性格を剝ぎ取り、〈共〉へと変容させることは可能であるし、またそうしなければならない、ということだ。
そのとき〈共〉は、第一に、所有財産とは対照的に、私的かつ公的なものとして定義される。それは新たな所有形態ではなくむしろ非所有であり、すなわち、富の使用と管理運営を組織する根本的に異なった方法なのである。〈共〉 は、富にアクセスするための平等で開かれた構造であると同時に、民主的な意思決定のメカニズムである。より口語的に言えば、〈共〉とは私たちが共有するもの、あるいは、私たちが共有するための社会構造であり社会的技術である、と述べることができるだろう。 所有財産と〈共〉の歴史は、所有諸関係を脱自然化するために有益である。私たちが想起すべきは、私的所有は人間本性に内属するもの、あるいは文明化された社会にとって必要=必然的なものではなく、むしろ歴史的現象である、 ということだ。私的所有は資本主義的近代性と共に存在するようになり、ある日、存在しなくなるだろう。とはいえ、 世界中で私的所有が、共有的富―最重要なのは土地―の社会的諸形態の制圧を伴いつつ、暴力的かつ残虐なかたちで構築されていることによって、私たちが〈共〉を前資本主義的社会形態との関係で構想し、その再創造を切望するよう導かれるべきではない。多くのケースにおいて、共同体と共有的富のシステムの前資本主義的諸形態は、気分な父権的かつヒエラルキー的な分配・管理様式によって特徴づけられていた。資本主差的な私的所有以前に目を向ける代わりに、私たちはその先を見る必要がある。 今日、私たちは、平等で開かれた富の共有様式を確立し、社会的富へのアクセス、その使用、管理運営、分配について共同で民主的に決定する権利を設立する潜勢力を有している。(混乱を避けるために、この〈共〉の概念は、社会的富を目的としているのであって、個人的所有を目的としているのではない、という点を心に留めておいてほしい。あなたの歯ブラシを共有する必要はないし、いわば、あなた自身が作るほとんどのものを他者に譲る必要さえない。)〈共〉の対象はさまざまな特徴を持っており、〈共〉をどのように共有するかについての私たちの推論は、ある程度まで、さまざまに異なるかたちをとるはずである。例えば、富のある形態は限定され希少であるが、富の他の形態は無限に複製可能であって、それゆえ、 私たちがそれらの富をどのように共有しうるかを管理運営することは、そのつど異なった挑戦に直面することになる。 以下は、〈共〉の異なった諸形態を考えるためのいくつかの主要なガイドラインを示す、ごく大雑把な図式である。 1
第一に、地球とその生態系は、私たちが全員その損傷と破壊によって影響を受ける(その程度は異なっているとはいえ)という意味で、避けがたく〈共〉である。しかし私たちは、私的所有あるいは国益の論理がそれらを保護すると信じることはできない。その代わりに私たちは地球を、その未来と私たちの未来について配慮し、それらの未来を保証するための意思決定を集団で行うような仕方で、〈共〉として扱わねばならない。
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第二に、アイディア、コード、イメージ、文化的生産物のような主として非物質的な富の諸形態は、所有諸関係によって課された排除にすでに激しく抵抗しており、〈共〉の方向へと進んでいる。
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第三に、社会的労働のますます協働的となる形態によって生産あるいは採取された物質的商品は、〈共〉的使用 へと開かれうるし、そうあるべきだ。―そして、同様に重要なのは、計画の決定(例えば、地中の何らかの資源を手付かずにしておくかどうかについての)は、可能な限り民主的になされるべきだ、という点である。
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第四に、大都市、地方の社会的領域―建設された環境であると同時に、確立された文化的回路でもある―は社会的相互作用と協働の成果であって、〈共〉的使用、管理運営へと開かれていなければならない。
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第五に、健康、教育、住宅、福祉を目的とした社会制度、サービスは、全員の利益のために用いられ、民主的意思決定に従うよう変革されねばならない。
〈共〉の運営に際して「大規模な民主的自己統治的共同所有」の立場を示す。
あらゆる形態の〈共〉を理解しようとする、どの試みにとっても決定的に重要なのは、富の使用と富へのアクセス が管理運営されねばならない、ということだ。とりわけエリノア・オストロム―その仕事は、〈共〉の現代的妥当性に多くのことを導入するさいに中心的なものであり続けてきた―は、正当にも、ガバナンスと制度にとっての必要性に焦点を合わせている。オストロムは、あらゆる「コモンズの悲劇」の議論―その議論は、富が効果的に使用され、崩壊から保護されるためには、あらゆる富は公的所有〔=公有財産〕であるか私的所有〔=私有財産〕でなければな らない、と主張する―の誤りを説得力ある仕方で明らかにしている。彼女は、「コモンプール財」は管理運営されねばらない、という議論に同意するが、国家と資本主義的企業がそれを行う唯一の手段である、という議論には同意しない。自主管理の集団的形態が存在しうる―そして実際、すでに存在している―のである。つまり、「自己統治的共同所有の配置において、規則は参加者自身によって考案され変更されてきたし、また、参加者自身によって 監視され執行されている」というわけだ。私たちは、〈共〉は民主的参加のシステムを通じて管理運営されねばならない、というオストロムの主張を心から支持する。けれども、私たちがオストロムと袂を分かつのは、アクセスと意思決定を共有する共同体は小規模でなければらず、内部と外部を分ける明確な境界によって限定されねばならない、と彼女が主張するときである。私たちはより大きな目標を持っており、他者に開かれたより拡張的な民主的経験に関心を抱いている。そして私たちは、そうした新たでより十全な民主的形態の実現可能性を、続く諸章で示さねばならないだろう。 そして「私たちが強調しなければならないのは、いかなる最終的な「〈共〉の権利」も私法、公法から区別されるだけでなく、私たちが述べたように、とりわけヨーロッパで「社会法」、「社会権」と呼ばれてきたものから区別されねばならない」ことだとし、
第一に社会法と社会権が根本的に静的である―それらは、社会的諸関係の規制を装いつつ、市場内部で肯定されてきた法的規範を登録する―のに対して、〈共〉は根本的に生産的であって、既存の社会的諸関係をたんに規制するのではなく、むしろ「共に在ること」の新たな諸制度を構築する。
第二に、社会法が、国家に奉仕する公法の下で、一種の「総動員」を課して、一九三〇年代に遡るこの伝統のあらゆる国家統制主義的な両義性(右派と左派双方からの)を維持するのに対して、〈共〉は、下から管理運営された民主的な協働的諸関係からなる社会を構築する。
第三に、社会法が多数の個人をその対象として引き受けるのに対して、〈共〉は諸特異性の協働によって存続し、それら特異性 の各々が、諸制度の構築に固有の貢献をもたらすことができる。
最後に、社会法は、それが労働運動から生まれたにもかかわらず、新自由主義によって、「人的資本」を管理し、生権力のメカニズム―それは人間の行動と諸関係を、 貨幣と金融の支配へと服従させ配置する―に参加するよう変容させられたのに対して、〈共〉は法的媒介なくして進み、マルチチュードとして、すなわち、その諸特異性を共に富と自由の生産的制度へといたらせる諸主体の能力として現れるのである。 それゆえへ〈共〉は、実のところ、私的所有〔=私有財産〕と公的所有〔=公有財産〕を超えた第三種〔tertium genus〕―もしそれが、たんに所有の第三の形態を意味するとすれば―なのではない。(実際、オストロムの「コモンプール財」という定式化も、ウゴ・マッテイの「共有財」という概念もしばしば、たんに所有のもう一つの形態を名指しているだけのように思われる。〈共〉は、より根本的な仕方で所有と対照をなすものなのであり、使用と意思決定の権利から排除的性格を取り除くことで、それに代えて、開かれた共有的な使用と民主的ガバナンスという図式を設定するのである。 /icons/白.icon
反転したウェーバー
ウェーバーの夢とカフカの悪夢
ヴェーバーは、専門的知識と正統な制度的指導に依拠した、合理的で、公正で、効率的な行政を思い描いている。ウェーバーの行政装置における行為者の役割は、〜近代的な軍隊的・政治的配置に従うものである。すなわち、指導者は戦略立案と長期的意思決定に責任を持ち、官僚制内部の幹部は戦術的義務を持ち、計画を実行する。ヴェーバーが強調するように、いかなる組織も指導者なしで存在することはなく、したがって、近代的行政は「支配」(タルコット・パーソンズはそれを「指導」と翻訳するが、「支配」や「権威」と翻訳されることの方が多い)と切り離すことができない。指導者は意志を与え、行政官の軍隊はその意志を実行する頭脳、武器、足である。ヴェーバーの行政官は、官僚制機械におけるたんなる歯車ではなく、その思考する合理的核である。彼によれば、近代の官僚制的行政の主要な優越性は、技術的知識と技術的能力の役割にある。「官僚制的行政は知識による支配を意味する」。したがって近代的官僚制は、支配の形態、権威の形態であるが、それ以前の行政諸形態よりも優れている。なぜなら、それは過去の行政諸形態の非合理的構造を打破し、その正統性を知識に置いているからだ。ヴェーバーの思い描く近代の官僚制的行政官は、一連の分離によって特徴づけられた興味深い動物である。 1
第一に、行政スタッフは、残りの住民から分離された社会的身体を形成する。ヴェーバーによれば、行政スタッフは、彼らの知識によって(無知な)一般住民から分離されており、利害ではなく理性と法にもとづいて行為するために、生産手段や行政手段の所有権から完全に分離されていなければならない。こうしてヴェーバーは、近代的な官僚制的行政官を分離した社会体として構想するが、実のところそれは階級ではなく、反階級に似た何かである。つまりヴェーバーは、所有権なしに知識を所有することが、行政官を近代的階級闘争の外部に置くのであり、それゆえ純粋に調停的立場に置く、と想像するのである。
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第二に、行政官は内的分離によって定義される。ヴェーバーの強調するところでは、行政とは一生続くキャリア、職業〔=召命〕、義務でなければならないが、その職務は、〔私的〕生活領域から分離されていなければならない。こうして、行政官は二重の存在形式を生きる。さらに、行政官を特徴づける知識と技術的能力は、狭く限定されていなければならない。過去の行政諸形態が、自らの生活に統合された幅広い社会的知識を備えた「教養ある」行政官を求めたのに対して、近代官僚制は、自らの限定された知識が意思決定を行う資格を与えるのでなく、むしろその職務上の義務を実行する資格を与えるような専門家(スペシャリストやエキスパート)を要求する。官僚制的知識、行動の非個人的性質は、その合理性要求、社会的対立を調停する能力とにとっての一つの基礎をなすものである。
上記のような官僚制を鋭く突いたのが、カフカであり、彼にとっては悪夢であった。
専門的知識にもとづいた合理的で、公正で、透明な官僚制に関するヴェーバーの夢想は、しかしながら、多くの人にとっては悪夢として経験される。フランツ・カフカの仕事においてその頂点に達する批判の方向性によれば、近代的官僚制は、ヴェーバーの夢想とは裏腹に、基本的に非合理性と不公正によって特徴づけられる。その議論によれば、これは、たんに不完全ないし不十分に実現された行政プロジェクトの帰結ではない。もっと正確に言えば、あらゆる合理的な社会的行政プロジェクトは、自己の内に非合理的核を保持しているのだ。「専門家」は真なるもの、正しいもの、公正なものを知らない―その代わりに彼らは、不公正と虚偽からなる理解不可能なシステムを設立する。カフカの、法の前の門番に直面する男の話や、Kが強迫的に城に入ろうとする試みは、近代官僚制権力の不可解で疎外的な諸形態の寓話である。「理性のペシミズム」に依拠した近代官僚制のこうした批判はたしかに説得的であり、そのフラストレーションは世界中のあらゆる国々でよく知られている。近代的な行政的メンタリティの不公正と非合理性を直に知るのに、何も刑事司法制度に入るという不幸を経験する必要はない。行政上の何かばかばかしい務めを完了するために、列に並び続け、果てしなくと思えるほどに待つという苦痛を味わったことのない人はいるだろうか。私たちはみな毎日、官僚制の迷宮的で不透明な通路を経験しているのである /icons/白.icon
マルチチュードの起業家活動
マルチチュードの起業家活動を、間接的経路と直接的経路を通じて、すなわち、症候論的読解と存在論的読解を通して明らかにすべく試みる。前者として、私たちはシュンペーターの起業家理論をそれに逆らって用い、資本主義的起業家のイデオロギーの下に、マルチチュードの協働的力が持続的に収奪=収容されていることを明らかにする。この見方によれば、資本主義的起業家とは、どこか別の場所で成し遂げられた起業家的機能に不正に与えられた評価である、ということになるが、そうした道徳的主張よりもむしろ私たちは、資本主義的起業家活動がいかにマルチチュードの潜勢力を明らかにしているか、という点にさらに大きな関心を持っている。後者の道筋はむしろ、マルチチュードの生産的な社会的力を探究し、その指導がどれほど発展されうるかを調査し、この文脈において指導が何を意味するのかを問うものである。 まずシュンペーターの代表的な新結合概念について論じ、それはマルクスと同じく「協働」が大事であるとする。 協働の暴力的=監視的な秩序化
さらにシュムペーターは、起業家は、彼らが用いる労働者の有給の協働に加えて、広大な社会的領域の無給の協働をも必要としている、という点をよく知っている。「統治者があらゆる市民の背後に警官を一人ずつ配置できないように、起業家は、彼が必要とする協働を作り出す社会的・政治的生活において、全員に給与を支払うことはできない」。統治者とその警官とのアナロジーは、起業家が必要とする力あるいは暴力の脅しを強調している。マルクスも同様に、資本家の監視的協働、自らの指令下で部隊に戦略を指示する戦場の将軍になぞらえている。資本主義社会における協働は、つねに力の脅しの下で遂行されるのである。しかしながら、シュムペーターのアナロジーはさらに遠くに向かい、起業家が強要あるいは必要とする協働は、自らの工場においてのみならず、社会全体にわたって、有給、無給の住民全体に対して効果を持つという認識にいたる。社会的労働はまた、無給であることに加えて、ある特定の生産目標へと機能的に従属させられ、秩序化されねばならないのである。これはまさしく、フォーディズム的産業モデルの危機の時代に、〔生産過程の〕外部化の実践と共に、拡散した工場や、複合工業地域の構築―これは生産の新たな社会的組織化を支えた―へと通じていた仮説である。シリコンバレーからインドのソフトウェア・テクノロジー・パークまで、北イタリアやバイエルンのイノベーション的生産センターからメキシコや中国の自由貿易地域や輸出加工区まで、これらの起業家的「結合」は、広大な社会的領域の生産力を管理し、広範な種類の有給、無給の社会的行為者を管理して、大きな成功を収めてきた。 そして三つの時期のシュンペーター的起業家解釈を紹介する。
前期
還元すれば大衆/知識人/行動人という分類である。
中期
つまり彼が先ほど論じた新結合を行う起業家はおらず、ただ媚びへつらう者に成り下がっているという。
後期
「しかしながら、シュムペーターにはこの方程式の別の側面が見えていない」とし、独自の解釈を加える
彼は、起業家の形象を正当にもその実力相応に評価し、金融と所有の権力によって課されたその社会的限界を認識しているにもかかわらず、「大衆」は根本的に受動的であるという見解を維持している。しかしながらむしろ、資本主義的発展の中では、生産的協働が社会的領野全体に広がり、拡散的で多中心的な回路を形成するにつれて、新結合が生産者自身によってますます組織化され、維持されるようになる。先に示したように、固定資本を再領有する潜勢力を備えたマルチチュードは、生産的協働の生成と実施においてますます自律的な存在となる。マルチチュードを展開するために必要とされた将軍たちは、社会的生産の戦場ではもはや必要ない。部隊はいわば、自らを組織することができるのであり、自分自身の方向性に関して細かな計画を立てることができるのである。
上記のように「大衆」の自律性、ひいては自己組織化を示し、その選択肢を下記のように述べる。 社会的生産・再生産の潜勢的に自律的な協働する諸力に直面するとき、資本主義的所有者は二つの選択肢を持つように思われる。一つ目の選択肢は、それらの力を拘束するというものだ。この選択肢は、それら協働する諸力を工業的規律の次元に縮減したり、それらが労働の科学的と想定される組織化に従うよう強制したり、人々の知性、創造性、社会的能力を、例えば「クリック労働」やデジタル・テイラー主義の体制によって縮小したりすることにより可能となる。この選択肢によれば、資本は主体性のレヴェルに介入しなければならず、会社のために自分の生活を喜んで(あるいは少なくとも自発的に)捧げる労働者を作り出さなければならない。しかしそのとき、資本は結局、生産的な諸力を縮減してしまい、その利潤への渇望をくじくことになる。二つ目の選択肢(実のところ資本が取りうる唯一の道)は、労働者の自律的で協働的な潜勢力を受け入れ、これこそが価値増殖生産性増大のための鍵であることを認識し、同時にこの潜勢力を包含して封じ込めてしまうことである。資本は、労働を規範化し、内部から管理するという問題を提示するのではなく、むしろ労働を外部、上部から支配しようと努める。こうした選択肢に従って資本は、生産的協働を強制するという伝統的様式から撤退し、それに代えて、相対的に自律的な仕方で社会的に生産された価値を、生産過程とその協働の回路の外部から採取する、という方向に傾くのである。 起業家としてのマルチチュード
出現しつつあるマルチチュードの起業家活動は、新たな生産様式の確立や、社会的協働、情動労働、認知労働、デジタル技術、コミュニケーション技術が支配的になった資本主義的発展の段階と緊密に関係している。新たな生産様式と言うとき、私たちは、均質な諸段階を通じた歴史的移行―労働運動と植民地主義イデロオギーの両者において有害な諸効果を持った概念-を考えているのではない。例えば、労働の奴隷的組織化を資本主義から切り離された別個の生産様式と考えることは、概念的混乱と共に、欺瞞に満ちた政治的効果へとつながった。私たちは新たな生産様式をむしろ、過去から残存している労働諸過程が新たな労働諸過程と混合しており、にもかかわらずそれらすべてが諸要素の支配的組み合わせによって(それほど秩序化されることなく)新たな光で照らされるような、異種混交的形成体として考える。〜したがって、この意味における生産様式とは、生の形態の別の表現、もっと正確に言えば、生の諸形態の生産のことであり、これは、社会的生産において、商品よりも社会や社会的諸関係が生産過程の直接的対象にますますなっていくがゆえに、そうなのである。換言すれば、生産とは、社会的協働を組織し、生の諸形態を再生産することを意味するのだ。社会的労働の、ゆえに一般的知性と〈共〉の生産様式は、マルチチュードの起業家活動がその中で現れる領域なのである。 そして一旦「マルチチュードの起業家活動が成長しつつあることを理解できるようになる前に、私たちの視界を遮るいくつかの雑草を取り除いておかなければならない」として、「新自由主義」的なものと「社会起業家」を拒む。
新自由主義的文脈
社会起業家文脈
もう一つの取り除くべきごまかしは、社会民主主義者や中道左派政治家がときに傾倒してきた「社会的起業家活動」という概念である。じじつ、社会的起業家活動の台頭は福祉国家の新自由主義的破壊と同時に―その裏面、その代償メカニズム、そのケア的側面としてー起こっており、それらは共同で「社会的新自由主義」を形成している。トニー・ブレアのかつてのアドヴァイザーであるチャールズ・レッドビーター―彼はこの言葉の考案者だとされる―は、国家の給付金や援助が消滅するとき、残された空白を社会的起業家活動が埋める、という議論を行なっている。(先に主張したように、福祉政策の破壊は、レーガンとサッチャーの下で開始されたにもかかわらず、その大部分は中道左派の立場にたつ彼らの後継者、クリントンとブレアによって実現されたのだった。)レッドビーターは次のように説明する。社会的起業家活動は、ボランティア活動、社会奉仕活動、慈善活動を含み、それは非国家的で、共同体に基礎を置いたサービスのシステムを作り出すのであり、「そうしたシステムにおいて、ユーザーやクライアントは自分自身の生活により責任を持つよう促される」。レッドビーターは例として、公立病院が閉鎖されるのを許す代わりに、それをキリスト教コミュニティの病院へと変容させる勇敢で粘り強い女性、また、貧しい若者のためのスポーツセンターを創設するべく、企業スポンサーや有名アスリートに資金提供を要請する献身的な黒人英国人、といった人々をあげている。社会的起業家活動とは、エンパワーメントというそのレトリックにもかかわらず、実際には、シュムペーターの初期著作の人間学のような何かを(その稀にしか存在しない行動人と快楽主義的大衆〔という二分法〕と共に)採用し、英雄的なビジネス起業家という伝統的イデオロギーを慈善事業の領域へと翻訳することなのである。しかも、社会的起業家活動は、その社会民主主義的ルーツに忠誠を誓いつつ、所有財産の支配や社会的不平等の源泉を問いただすことはせず、その代わりに、最悪の苦しみを軽減し、資本主義社会をより人間的にすることを目指している。これは、たしかにそれじたいとしては立派な仕事だが、社会的生産・再生産の諸関係において現出している協働の潜勢的な自律回路に対して、社会起業家たちの目を塞いでしまうものだ。 更にその具体例を示す
社会的起業家活動という幻惑的な主張は、多くの研究者たちが示しているように、最も従属的な諸国における国際的支援、慈善活動、NGO活動の回路において、よりいっそう有害な影響をもたらす。エンパワーメントの名の下に、支援の受取人たちはしばしば社会生活を商品生産へと振り向け、新自由主義的発展の文化とその市場合理性を内面化し、ローカルかつ現地〔=先住民〕の共同体構造や価値を捨て、それらを起業のための財産として動員するよう要求される。例えば、マイクロクレジットのシステム―すなわち、ごく少額のローンを、標準的な融資構造にアクセスするための担保を持たない人々、とくに女性へと拡張すること―は、世界の最貧住民たちに起業家活動の手段へのアクセスを開くものとして賞賛されたが、その結果として示されたのは、そうしたローンは貧困を軽減するにはほとんど役立たず、むしろ住民たちに持続的な借金の重荷を負わせた、という事実だ。マイクロローンを受けとる女性たちは一般に、既存の社会的連帯と協働のネットワークを、下からの新自由主義のために「起業家化」しなければならない。同様に、最悪の貧困を撲滅し、病気を根絶することを目標に掲げる、国際的支援を通じた社会的起業家活動のさまざまなプロジェクト―広範に奨励されたケニアの「ミレニアム・ヴィレッジ」から、エクアドルの現地コミュニティへの灌漑支援まで―は、新自由主義的合理性の採用を要求する。社会的新自由主義と社会的起業家活動の結びつきは、コミュニティのネットワークと、社会的生活を支える協働の自律的様式とを破壊するのである。
①
第一に、この起業家活動は、資本主義的生産の内部、外部から現れ出る協働の諸形態から直接的に生じるものである。以前は、資本家が規律的ルーティーンを通じて生産的協働を生み出すことを求められたが、今日、協働はますます社会的に、言い換えれば、資本主義的指令から自律したかたちで生み出されているのだ。
②
第二に、マルチチュードは、生産手段へのアクセスを持ち、固定資本を取り戻し、自身の機械状動的編成を創り出すことができる場合に、起業家的な存在になることができる。
③
第三に、マルチチュードによって結合された諸々の機械、知識、資源、労働は、私的所有の領域から抜け出して、〈共〉化されねばならない。社会的富が共有され、共同で管理運営される場合にのみ、社会的協働の生産性はその潜勢力を実現することができるのである。
社会的生産→社会的ユニオン→社会ストライキ
第二部を通じて議論してきたように、生産は今日、二つの意味でますます社会的なものになっている。一方で、生産過程は社会的である。すなわち、諸個人が孤立して生産するというよりもむしろ、生産は協働のネットワークにおいて遂行される。さらに、どのように協働するか、どのように互いを生産的に結びつけるか、という法則や慣習は、もはや上から押しつけられるのではなく、下から、すなわち生産者間の社会的諸関係において創出される傾向にある。他方で、生産の結果もまた社会的なものになる傾向がある。物質的または非物質的商品を生産の終点 、私たちはそれを社会的諸関係の、人間的生そのものの(しばしば商品を通じた)生産として理解する必要がある。現代的生産が人間生成的ないし生政治的生産と呼ばれるのは、まさにこの意味においてである。
これら二つの意味における生産の社会的性質は、直接的に〈共〉を指し示している。私的所有は、それが生産を創出する協働の諸関係を妨害するという意味で、また、それが自らの結果である社会的諸関係を掘り崩すという意味で、社会的生産にとってますます桎梏として現れるようになっている。しかし、社会的生産から〈共〉への道は、直接的 でも不可避的でもない。先に述べたように、〈共〉への権利を肯定し、擁護することは、持続的に推進されるべきアクティヴィストのプロジェクトを必要とする。とりわけ、社会的生産によって創り出された潜勢力は、社会運動と労働闘争の結合が実現されることを必要とする。これこそが、マルチチュードの起業家活動の鍵となる形態なのである。
社会的ユニオニズムは、経済闘争と政治闘争の伝統的関係をひっくり返すが、その関係は戦略と戦術の関係のもう一つヴァージョンである。標準的な見方によれば、経済的で労働組合的な闘争(とりわけ賃金に関する闘争)は、部分的で戦術的なものと見なされ、それゆえ党―包括的で戦略的な視野を持つと考えられるもの―によって指揮された政治闘争と連携=同盟し、それによって指導されるべきものと見なされる。〔ところが〕社会的ユニオニズムが提起する経済闘争と政治闘争の連携=同盟は、戦術と戦略の割り当てを攪乱する。というのも、経済的運動は構成された権力ではなく構成的〔=構成する〕権力と結びつくからであり、政治的党ではなく社会運動と結びつくからである。そうした連携=同盟は、社会運動が組合の安定し発展した組織構造に依拠することを可能にし、貧者、 不安定労働の従事者、失業者に、さもなければ彼らには欠けている社会的な広がりと連続性を与えることで、社会運動に利益を与えるはずである。代わりにこの連携=同盟は、たんに労働組合の社会的領域を広げ、組合闘争を賃金や職場を超えて拡張し、労働者階級の生の全諸相に呼びかけ、組合組織化の関心を階級の生の形態に集中させるだけでなく、ユニオンの方法を刷新し、社会運動アクティヴィズムの有する敵対的力動性が、組合ヒエラルキーの硬化した構造とその使い古された闘争様式を打破できるようにするべきである。
英語圏における社会的ユニオニズムの標準的典拠は、南アフリカで形成された反アパルトへイト連合である。1990年、南アフリカ労働組合会議は、アフリカ民族会議(ANC)、南アフリカ共産党と「三者連合」を結んだ。連合はさまざまな種類の反アパルトヘイト社会運動のためのアンブレラとして役立ち、南アフリカの外では、労働組合組織が社会運動の発展と行動をどのように促進しうるかについて創造的刺激を与えるものとして役立った。南アフリカの経験は、最近数十年のあいだに世界中で散発的に展開されたさまざまの運動と共振している。カーニヴァルのような社会運動「リクレイム・ザ・ストリーツ(路上を取り戻せ)」と解雇されたリヴァプール港湾労働者のあいだで1997年に打ち立てられた連携や、1999年シアトルでの世界貿易機関への抗議におけるチームスターズ(全米トラック運転手組合)とタートルズ(環境団体)の束の間の協働は、二つの重要な例である。金属労働者連合(FIOM)、教育、健康、その他のセクターにおける草の根組合(COBAS)のようなイタリアで最も精力的な労働組合の一部は、合州国における国際サービス従業員組合と共に、繰り返し社会運動との連携を試み、さまざまな程度の成功を収めてきた。 しかしながら今日、社会的ユニオニズムの伝統は、重大な転換を経験しなければならない。諸集団はいまや、労働組合と社会運動の連携=同盟についてその外的関係を主張するよりもむしろ、社会的生産と〈共〉にもとづき、労働の組織化と社会運動をたんに密接に結びついたものと見なすだけでなく、労働の領域がますます生の諸形態の領域となりつつあることを認識しながら、両者を闘争の様式と目的を互いに構成し合うものと見なすような、連携=同盟の内的関係を構築しなければならない。社会的ユニオニズムのこうした新たな構想に宿されている潜勢力を実現するためには、工場や職場をはるかに超えて、社会的生産・再生産を幅広い枠組みで理解しなければならない。大都市そのものが社会的生産・再生産の巨大な工場、もっと正確に言えば、〈共〉の中で生産された空間(後ろを振り返れば)なのであり、〈共〉の未来の事例にとって生産・再生産手段として役立つ空間(前を見れば)なのである。今日の資本主義社 会において、〈共〉とは生産手段と生の諸形態の両者を名指すものなのだ。
それゆえこうした枠組みにおいて、私たちが先にあげたような、〈共〉への権利を肯定する現在の闘争の国際的サイクルは、社会的ユニオニズムにとっての新たな可能性を開くものである。現代の生産・再生産における〈共〉の中心性は、経済闘争と政治闘争の区別を否定するものではなく、むしろそれらが分離不可能な仕方で絡み合っていることを示すものだ。諸々の闘争は、民主主義のあらゆる新形態の構築を可能にするための前提条件として―そしてまた、ポスト資本主義的な経済的諸関係を構築するための必要条件としても―、〈共〉への平等で開かれたアクセスに加えて、〈共〉の集団的な自主管理を主張している。例えば私たちは、医療費予算削減に反対する二〇一三年スペインのマレア・ブランカ(白い波)〔白衣姿の抗議者たちで路上が埋まる光景から、こう名づけられた〕の抗議運動―これは医療従事者と医療システム利用者を路上に結集させた―と、二〇一五年のバルセロナ、マドリードを含む大都市地方選挙での、医療とその他の社会サービスを〈共〉にするための連合の勝利とのあいだに、明確な線を引くことができる。
社会的ユニオニズムの主要な武器(であるとともに、社会的生産の力の表現でもあるもの)、それは社会ストライキである。 労働組合は、そもそもの初めから、組織された労働の拒否がもたらす脅威をその力の基盤としてきた。労働が保留されれば、資本主義的生産は停止する。歴史的かつ英雄的な闘いが、この土壌の上で戦われてきた。けれども、この伝統的枠組みの中では、失業した労働者、賃金を支払われない家庭内労働、不安定労働の従事者、貧者は力を持たない存在であるように見える。標準的な論理に従えば、彼ら/彼女らの労働を保留しても、資本主義的生産と利潤を直接的には脅かさないため、彼ら/彼女らは何の影響力も持たないということになってしまう。とはいえ、社会運動ははるか昔に、〔労働の〕拒否の戦略は多種多様な―すべてのではないにせよ―社会集団にとって効果的な武器でありうる、ということを発見した。フランシス・フォックス・ピヴェンとリチャード・クロワードは次のように説明する。 「[一部の貧者はときとして、重要な制度参加から非常に隔てられているため、彼らが保留しうる唯一の「貢献」は、 市民生活における休止=無活動という貢献である。つまり、彼らは暴動を起こすことができるのだ」。すべての人が―貧者さえもが―最終審級において、自らの自発的隷従を撤回し、社会秩序を破断するという脅威を行使するのである。 いまは生政治的生産の時代であり、今日ますますそうなっているように、〈共〉が社会的生産・再生産の基礎となり、生産的協働の回路は工場の壁をはるかに超えて社会構造全体に広がっている。それゆえ、拒否の力も社会的領野全体に波及するのだ。社会秩序の破断と資本主義的生産の中断は、区別がつかない仕方で結びついてくる。これこそまさしく、社会的ユニオニズムが開く潜勢力なのである。二つの伝統―すなわち、労働運動による工業生産の中断と、社会運動による社会秩序の破断の二つのことだが、両者はいまや〈共〉に基礎を置くものとなっている―は合わさり、化学反応を起こすようにして爆発的混合を創り出す。実際この文脈において、全生産部門の労働者が同時に活動停止するゼネラル・ストライキという伝統的構想が、新たな意味、よりいっそう強力な意味を獲得するのである。 しかしながらまた、社会ストライキはたんなる拒否ではなく、同時に肯定でもなければならない。換言すれば それはまた、〈共〉において共有された社会的富を利用しながら、賃労働の内外に存在する協働の回路と社会的生産の潜勢諸関係を創り出す―もっと適切に言えば、明るみに出す―ような、起業家活動の行為でもなければならないのだ。
結論
今日のアクティヴィストたちが、カリスマ的指導者リーダーに従ったり、伝統的な集権的指導リーダーシップ構造を受け入れたりするように―現実主義と実効性の名において―強いる、諸々の圧力に抵抗しているのは、正しい振る舞いである。彼ら/彼女らは、そうした政治的実効性の約束が幻想であることを知っているし、もっと言えば、民主主義への道筋が別の経路をとるものであることを知っている。とはいえ、アクティヴィストたちの中で、水平主義を盲目的に崇める 〔=フェティシズムの対象にする〕人々が存在するが、それは誤りである。また、より重大なのは、集権的な指導に対する批判を組織化の欠如と同一視してしまう誤りである。民主主義は、組織化に対してより多くの焦点―より少ない焦点ではなく―を当てる必要があるのだ。なぜなら今日、適切かつ実効的な組織形態がとくに必要とされており、 そうした形態をぜひとも発明しなければならないからである。 伝統的な集権主義と絶対的な水平主義は、ありがたいことに、私たちの唯一の選択肢ではない。 非衆愚なマルチチュードの戦略の導
著者は「第一の呼びかけにおいて、戦略と戦術を逆転させることにより、指導の役割を変容させることを提案した。遠くを見据えて決断を下し、包括的かつ長期的な政治的プロジェクトを実行する能力にあたる戦略は、もはや指導者や党が担う責任でもなければ、政治家の責任でさえもない。そうではなくて、その戦略はマルチチュードに委ねられるべきものなのである」と述べ、同時にポピュリズム批判が「民衆は民主主義を台無しにしてしまうだろう。彼らが十分な合意を形成して、一つの決定をすことなど決してありえない。たとえ彼らが決定できたとしても、それには永遠に長い時間がかかるだろうし、そのときでさえ、良い決定を下すための情報や知性を彼らは所持していない」とそれに対して囁くだろうとし、「これらの懸念に対して、私たちは二通りの応答をしておきたい」として下記を述べる
①
第一に、指導はいまだある役割を有してはいるが、それは戦術の領域に格下げされるべきものである。指導は、特定の専門知識や技術が必要とされる場合や、とくに迅速な行動が必要となる場合のように、特別な事態が発生したときに、限定的な委任というかたちで一時的に配備されるべきものなのだ。
②
第二に、戦略を考案し、政治的な意思決定を実施するマルチチュードの能力を測るためには、現に存するマルチチュードの富と知性を確証する必要がある。この点に立ち返っておこう。マルチチュードが実効的な意思決定を行うためには、その富と知性が協働の回路を通じて作動させられなければならない。そして、その作動の仕方を捉えるためには、諸々の政治的能力が社会的・経済的な壌一緒にどのように実験されているのか、またそうした土壌の上でどのように開発=展開されているのかについて、見ておかなければならない。第五の呼びかけにおいて私たちは、社会的生の生産・再生産を支える協働形態から発現する、マルチチュードの起業家活動の重要性を明確化した。 起業家活動は、諸々のプロジェクトを指名して、シュムペーターの言うような新結合、もっと的確に言えば、新しくてより強力な協働形態を創出する任務に取り組ませるのである。むろん協働は、資本主義的生産の内部で発展するものではあるけれども、つねにその制限=限界に対して強い圧力をかけ、資本主義的コントロールの彼方を指し示すものでもある。マルクスはすでにその事実を大規模工場の中に認めていた。そこでは、労働者の協働からなる結合労働日が、新しい力、個々の労働者の力をはるかに超えた社会的な力を創り出していたのである。マルクスは言う。 「他人との計画的な協働の中では、労働者は彼の個体的な限界を脱け出て彼の種族能力を発揮するのである」と。協働を通じて私たちは、個人の善か人類の善か、利己主義か利他主義かといった二者択一をもはや強いられることなく、その代わりに両者を同一のプロジェクトとして追求することのできる世界を創出するようになるという意味で、種の 能力を実現するのである。こうしたプロジェクトこそが、起業家活動の最高形態にほかならない。 しかしながら、資本主義的工業〔=産業〕における協働は、その彼方を指し示してはいるものの、つねに資本主義の指令に従わされたままである。すなわち、労働者は工場に集められ、一緒に生産する手段を与えられ、協働を規制する規律に従うことを強いられるわけだ。これとは対照的に、現代の社会的生産の回路内における協働はますます、資本主義的コントロールを直接的に押しつけられることなく形成されるようになっている。生産的・再生産的な協働の基本構想スキームはますます、コミュニケーション的かつ社会的なネットワークの中で生産者たち自身によって創案され、規制されるようになっているのである。これらは、マルチチュードが起業家として出現しうるための条件をなすものだ。 そしてそのようなマルチチュードは多元的で動的な編成を成しているという。
マルチチュードが決定すると言うとき、私たちはマルチチュードが均質な主体や統一された主体であるということを含意しているわけではない。実際、私たちがマルチチュードという用語を有用なものであると認定するのは、それが縮減することのできない内的な多数多様性を指し示しているからである。つまり、マルチチュードはつねに多数であり、群がりをなしているのだ。第二の応答において私たちは、社会的存在の多元的〔=複数的〕存在論を強調した上で、政治的プロセスは、諸々の主体性からなるそうした多元性〔=複数性〕を単一の主体に還元しようとするのではなく、マルチチュードがそのすべての多数多様性において政治的に行動し、政治的な決定を下すことを可能にするような接合メカニズムを創出すべきであると強調した。マルチチュードの政治は、連携=連合コアリションの政治の土壌の上にしっかりとその足を置いているが、しかしそれは決して諸々のアイデンティティの集合体にすぎないものにとどまることはない。接合のプロセスを通じて、マルチチュードの政治は変容=変革の旅に出かけるのだ。 上記で述べたように、マルチチュードとは複数性をもった静的で固定化された集合体ではなく、「接合」といったプロセスを通して動的なものという。そしてその接合が「闘争」という体裁をなすことによってスケーラビリティを得るという。
これらの接合は、闘争のサイクルを形成することを通じ、時空を横断して広がっていくことがある。この場合、闘争のサイクルは、たんに同じ闘争を―異なった主体性間で、または世界の異なった地域で―反復することによって、形成されるものではない。新しい文脈に置かれるたびに、闘争はつねに異なったものとなる。闘争の一つのサイクルは、アクティヴィストたちが政治的翻訳を作動させ、他の場所で開発=展開された抗議活動のレパートリー・行動様式・組織形態・スローガン・熱望を採用するとともに変容させることができるようになったときに、形成されるのである。まさにこのようにして、二〇一一年以降の闘争の長いサイクルは、正義と民主主義を要求しながら―アラブの春からブラック・ライヴズ・マターへ、ゲジ・パークからブラジルの交通闘争へ、スペインの憤激する者たちからオキュパイ・ウォー ル・ストリートへと―展延されていったのである。それらの関争が有する知性は、本書全体を導いてくれた道標の一つであり続けてきた。連携=連合として始まったものは、接合と翻訳のプロセスを通じて大きな変貌を遂げ、諸々の強力な新しい主体性からなるマルチチュードとして集会=集合形成アセンブルしなければならないのだ。 勧告
集会と結社の自由―世界人権宣言だけではなく、ほとんどすべての国の憲法でも尊ばれているもの―は、国家権力からの本質的な保護を確立するものである。人々は政府の干渉を受けずに集会=集合形成アセンブルし、結社=アソシエーションを形成する権利を有している。しかしながら今日、集会の自由はより実質的な意味を帯びるようになっているのだ。 近年、あらゆる泊まり込み抗議運動や占拠の現場では、全体集会が社会運動によって設けられるようになっている。それらの集会は、すべての人々に対して参加を開放すべく努め、伝統的に不利な立場に置かれてきた人々に対して最初に発言することを奨励する規則を自らに課している。その意味で、それらは今日、集会=集合形成がどのようなものになりつつあるかを示す、最初の指標を提供している、と言える。それらの集会=集合形成は、モデルとして理解されるよりも、新しい民主的な参加様式、意思決定様式に対する政治的欲望の増大を示す徴候として理解されるべきなのである。けれども、それらの社会運動の要求と実践は、政治的権利の伝統的な枠組みの外へと間断なく溢れ出している。たしかに、それらの行動は集会=集合形成する権利―ストリートや広場への、またひいては都市全体への権利―を宣言しているが、同時にそれらの権利を新しい社会的内容で満たしているのである。実際、それらの運動の意義は、近代労働運動の中核をなす結社=アソシエーションの自由を豊穣化するものとして理解するのが、最も良いやり方だろう。職場でのストライキという伝統から、ますます社会的な性質を強めつつある生産に依拠した社会ストライキの諸形態が現出しているのだ。
より完全かつより民主的な集会=集合形成への権利を要求することは、政治的な見地からのみ理解されるなら、主権権力に対峙する権利としては弱いものに見えるかもしれない。けれども、社会的な土壌の上に集会=集合形成が据えられるなら、権力のバランスが〔社会的権利としての集会=集合形成への権利へと〕シフトすることになる。ここでいう
集会=集合形成の自由とは、社会的協働への権利、言い換えれば、諸々の新結合や新しい生産的な動的編成を形成する権利のことを意味する。こうした集会=集合形成への社会的権利は、たやすく否定されるものではない。というのも、今日ますます協働の回路が、社会的生産にとっての、またひいては資本主義経済全体にとっての主動力となっているからである。
今日、広く流通している具体的要求の中には、集会\集合形成の社会的権利を拡大することへと、すでに向かっているものがある。例えば、すべての人々に無条件に支給される金額である、ベーシック・インカムへの要求は、もはやラディカルな左翼に限定されたものではなく、世界中の国々でメインストリームの議論の主題となっている。ベーシック・インカムは、社会的生産の成果のより公正な分配を制定するものであるばかりか、最も極端な形態の貧困や虐待的労働から人々を保護するものでもある。政治的参加と社会的創造を行うためには、最低限の富と時間が必要だ。それらがなければ、集会=集合形成する権利は空疎なものにとどまるほかない。そして先述したように、ベーシック・インカムはすでに、〈共〉の貨幣と、新しい民主的な社会的諸関係のより実質的な制度化を暗に指し示しているのである。
また同じく、〈共〉へのオープンアクセスと、〈共〉の民主的な管理運営を求める声も、ますます広まっている。今日、私的所有〔=私有財産・私的所有権〕が地球とその生態系を保護するものではなく、その破壊を早めるものであることは明白だ。しかも私的所有は、知識や文化的生産物といった、私たちが共有する富の社会的形態の効率的かつ生産的な使用を促進することもできない。新自由主義的な採取経済は、少数者のために利益を生み出すことには成功しているかもしれないが、真の社会的発展を妨げている。集会=集合形成し協働する自由、社会的生を共に生産する自由を実現するためには、〈共〉をそのあらゆる形態においてケアし、使用するための持続可能な諸関係を確立することが、ぜひとも必要なのである。〈共〉へのアクセスは、社会的生産にとって不可欠の前提条件をなすものであり、〈共〉の未来は、意思決定に関する民主的な基本構想によってのみ保証されうるものである。実際、ひとたび生産を-社会的な見地から-生の諸形態の創出として理解するならば、〈共〉への権利は、社会的生産・再生産手段の再領土化への権利と重なり合うことになる。私たちはますます、集会=集合形成する自由なしに社会的に生産することができなくなっているのである。 集会=集合形成の自由はまた、いまとは別の主体性の生産様式を特色づけるものでもある。つまりその自由は、私たちが何をしているのか、私たちが誰であるのかを共に特徴づけるものなのだ。新自由主義が、一連の経済政策と国家政策のみならず、それらの政策を支え、活性化する新自由主義的主体、換言すれば、経済的人間の生産をも必ず必要とするように、ポスト新自由主義社会もまた、いまは別の主体性が創出されるまでは、現れ出ることはないだろう。じじつ、諸々の主体性は今日、もはやその所有物によってではなくそのつながりによって規定される、動的編成の論理に応じて、ますます作動するようになっている。社会的生産において協働が支配的な位置を占めるようになっているという事実は、諸々の生産的な主体性が、さまざまな関係性と合成―それらを構成する諸要素は、
すらも超えて広がっていく―の織りなす、拡張的なウェブからなるものでなければならないということを暗に示しているのだ。動的編成の論理は、自然や他の非人間的な存在体と同じく、物質的かつ非物質的な諸機械を、諸々の協働的主体性へと統合していくのである。またそのようにして、集会=集合形成の自由が豊複化されることにより、協働的ネットワークと社会的生産からなる新世界を活気づけることのできる、主体性の動的編成が生み出されることになる。
したがって集会=集合形成の自由は、もはや個人的自由のたんなる擁護や政府による権力濫用からの保護でもなければ、国家権力に拮抗する力でさえもないわけである。集会=集合形成の自由は、主権者や代表者の働きによって認可された権利ではなくて、構成者たち自身の成し遂げる偉業にほかならない。集会=集合形成は構成的な権利になりつつあるのだ。つまりそれは、社会的生産における協働を通じて、社会的なオルタナティヴを組み立てるための、あるいはまた、権力を別の仕方で奪取するためのメカニズムになりつつある。集会=集合形成への呼びかけは、マキャヴェリなら徳への勧告〔=奨励・激励〕と呼ぶであろうものに相当する。この徳は、規範的な命法である以上に、アクティヴな倫理なのである。言い換えれば、これは、私たちの社会的富を基盤にして持続的な諸制度を創出し、新しい社会的諸関係を組織する構成的プロセス―そこには、それらの制度や関係を維持する力が備わっている―なのだ。私たちはまだ、マルチチュードが集会=集合形成するときに何が可能になるのか、それを見たことがないのである。