フェリックス・ガタリ
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エコソフィ=三つのエコロジー=倫理的・美的パラダイム 基礎づけ
主観性
ガタリ的主観性(subjectivite)の概念によって言いたいことは、第一に、人間の精神は、さまざまな人間関係、すなわち社会や、自然環境といったものと無縁ではありえない、それらから独立して存在するものではないということである。 第二に、人間の精神は、あのフランス人による非常に古典的な定義による思考する私といった存在ではなく、さまざまな社会的な流れによって影響をうけて、それらの多様な組合せによってなりたつものだ、ということである。
たとえば、社会のなかで、他者からのさまざまな影響を受けて生きるということもあるし、また、言語を使って生きざるをえないということもある。プライベートな言語というのは、ほとんど思考実験のなかでしかありえないのである。
さら精神分析のバックグラウンドをもつガタリは、人間の精神の重層性ということを考え、それを意識的な層と無意識の層にわけて考える。無意識の層にあっては、理性的な主体が生じてくる前の欲望や情動が渦巻く。それらがまだ統御されないかたちで、部分対象が散乱している。こういうものが人間の精神の無意識とよばれる層にあって、それはその重要な部分なのである。これらが、さらに社会関係と組み合わされて、人間の精神というものが形成されている。精神とか主体とか言っても、それらは多様な要素の組合せである。
これが主観性という概念で、ガタリがとらえなおした人間の精神、主体の存在論的な性格である。この多様性としての精神・主体ということを強力に主張するために、ガタリは主観性という概念を用いる。
私は主観性はつねに集合的動的編成の結果であるという考えから出発するのです。集合的動的編成は個人の多数多様性だけでなく、テクノロジー的・経済的・機械的なファクターの多数多様性、前個人的といってもよい感覚的ファクターの多数多様性といったものをもたらします。個人というのは、私にとって、ある型の文化や社会的実践と結びついた動的編成の一特殊ケースにすぎないものです。私はまずもって、文化やコミュニケーションを諸個人のあいだの相互作用の結果であると考えるという類の還元主義を拒絶します。最初から個人的横断的な主観性の構成があるのです。それはあなたが言葉に関して考えてみれば納得されるでしょう。あなたは自分がしゃべるにつれて徐々に言葉を発明していくというわけではありませんよね。言葉はあなたのなかに住み着いていて、あなたが組み込まれているエコロジー的・動物行動学的な社会的範囲に共存しているのです。主体化の全プロセスについても同じことが言えます。 倫理的態度
中立的であること、ニュートラルな立場というのはありえないのであって、人はなんらかのいろめがねをつけてながめざるをえないということを自覚すること、このいろめがねの自覚を倫理的とよんでいるようである。
中立的であるということは現実にはありえない、ということを少なくとも自覚していること。それを彼は倫理的態度とよんでいるようである。
そしてもう一つ強度の論理(logique des intensits)がある。ガタリによれば、それは運動や変化の過程しか重視しない論理である。さらにいえば、なにかの規範に準ずるものではなく、特異なもの、特異なものに成ること、特異なものへの生成を肯定する論理が本倫理観である。 美的態度
これは古典的な意味での美、あるいは規範としての美が問題となっているのではない。芸術的創造、すなわち何か新しいものを創るということが何より大切である、ということが言いたいようだ。なにかの規範に則って行為する、行動するということではなくて、どんどん新しいことを行なう、新しいものを組み替えながら創ってゆく、ということが美的といわれている。
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精神のエコロジー
非排中律
精神のエコロジーの原理は創造である。そこでは排中律がなりたたず、善と悪、美と醜、内と外とが共存する無意識の論理、いいかえれば発生状態の主観性の論理に依存している、とガタリはのべている。
幻想のエコロジー
ここでガタリは、幻想のエコロジー(ecologiedufantasme)をかんがえなければいけない、といっている。幻想のエコロジーとは、人間のうちにひそむことがありうる(人間のうちに先験的にそなわっているとか、内在しているということではない。たとえば、原罪とか死の本能とかいったものではない。つまりせむしの人的である)悪への対処法である。 たとえば、殺人や強姦といったものなら、少数の極端な例かもしれない。しかし、無意識のうちにひそむ人種差別や人種的偏見、さまざま差別の感情、などといったらどうだろうか。これを特殊な人格のみがもつ特殊な感情や価値判断であるといえるだろうか。おそらくはそうではあるまい。また、強姦といったら少数のケースかもしれないが、のぞき見といったものならどうであろうか。これは精神病院に入院して、治療が必要な人のみがもちうる特殊な衝動だろうか。それを実行するのは少数であろうが、そのような衝動にかられるということであるならば、人間にとってめずらしいことであろうか。
ガタリはこれらの悪を肯定しているのではもちろんない。そうではなくて、それらが決して例外的ではない人間の精神的事実として認識し、それに対処しなければならない、といっているのである。なぜなら、これらへの対処が遅れれば、それらが内面的衝動にとどまることなく現実のものとなるおそれがあるからである。それは、差別の感情から殺人や侵略といったものまで、さまざまな可能性がかんがえられる。それらが、特殊なものではなく、一般的で社会的なものであればあるほど、それらの現実化の可能性は高いのである。
それらのもとになる人間の感情や欲望は、特殊なものではなく、普通に存在している。そして、それらは、芸術的な創造の根源にあるものと無関係ではないのである。だからわれわれは、はっきりと認識して幻想のエコロジーをかんがえなければならない。無意識の欲望や衝動、感情を別の方向へとみちびかなければらない。これが、幻想のエコロジーの主張である。そして、それは精神のエコロジーの重要な部分である。
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社会のエコロジー
ガタリによれば、社会のエコロジーの原理は、さまざまな規模の人間集団における感情の備給とその促進に関係する。要するに、家庭や学校や職場などといった社会的集団の中で、他者に対する共感や愛情をいかに育んでゆくかが、社会のエコロジーの重要な問題である、という程の意味であろう。社会関係には二種類あり、それは閉じられた関係と開かれた関係である。
二項の社会関係概念
閉じられた関係とは、家庭、家族的なものである。開かれた関係とは、社会や字宙にむかって開放された主体―集団である。 ここでいわれている主体―集団とは、自覚的な主体が孤立せずに連帯感をもって集団を形成している状態、といったものであろう。社会と個人の位相を図式化すれば、一方の極に社会的諸関係から独立・孤立した個人がいて、他方の極に群衆、個人がまったく自律性を持たず、そのなかに溶解してしまったような集団、顔のない大衆がある。この両極の中間に、先の主体―集団を位要づけることができよう。
現行社会の分析
ガタリは、資本主義社会がさらに発達してどういう形態をとるかに深い関心を示し、それを統合的世界資本主義CapitalismeMon-dial Integre(CMI)よんで分析している。
特に社会的エコロジーの実践という観点から興味を示しているのは、メディアの問題である。なんとかしてメディアの内実を変えてゆくこと、変革してゆくことが社会的エコロジーのポイントではないか、と彼はかんがえている。彼はそれをメディアの再特異化とよんでいる。開かれた集団、意識の高い主体―集団がメディアを獲得して、そこから世の中が変わっでゆくのではないか、あるいはそのきっかけがつかめるのではないかという可能性に、ガタリはつよい希望をいだいているようである。 /icons/白.icon
環境のエコロジー
ガタリの本の中では、環境エコロジーにさかれている部分はきわめてすくない。それは、この書物の性格やガタリの主張からいって、ある意味では当然であろう。環境エコロジーにはすでにおおくの論客があり、また実践もなされている。そのことじたい否定するわけではないが、真の人類の未来をかんがえるならば、環境のエコロジーだけを単独で行なってもだめである。その外に、精神のエコロジーと社会のエコロジーを総合的にかんがえなければならない、というのがすでにくりかえしのべてきたガタリの主張である。
要するにガタリのエコゾフィーは、すでに現行の環境エコロジーの存在を前提としているのである。したがって、あらためて環境エコロジーにかんしてさまざまな具体的提言をするまでもない、と彼はかんがえたのかもしれない。
環境エコロジーへの言及も皆無ではない。環境エコロジーの原理について、最悪の破局からしなやかな変化まですべてが可能である、とのべている。また、具体的な提言として、第一に、空気中の酸素、オゾン、炭酸ガスの調整など、第二に、サハラ砂漠の再生、アマゾンの修復、第三に、新種の動植物の創造、などといったことを提案している。新種の動植物の創造などといった提言、あるいはサハラ砂漠の再生などといった発想はユニークで、いかにもガタリらしいが、本書の他の部分、または精神のエコロジー、社会のエコロジーといった部分に比べると、内容が薄くて貧弱である、といった印象はまぬがれない。
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芸術論
「芸術作品との出会いという出来事」について、ガタリはこう述べている。
実在の流れに不可逆的なかたちで新しい区切りをつけ、日常性という「均衡のとれた世界」からかけ離れた可能性の領野を触発的に生みだすのです
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主体について
「現段階で最も包括的なものとして私が提案することのできる主体感の暫定的定義」として下記のように表現する。
個人的そして/あるいは集合的な諸審級が自己参照的な実存の領土として浮上し、こちらもやはり主体的な他者性と隣接あるいは境界画定の関係に入るような位置に立つことを可能ならしめる条件の総体
そして冒頭で「個人、集団、制度のさまざまな審級によって生産される主体感を、これまで以上に重視するようになった」といい、「主体かんの生産に関与するさまざまな記号論的機能域は必然的かつ永久に固定された階層的関係に従うものではない」とし下記のように述べる。
主体感というものは実のところ多元的であり、ミハイル・バフチンの言葉を借りるなら多声的でもあるのです。主体感には、みずから決定要因となり、一意的な因果性に沿って他の全審級を操るような支配的審級はいっさい含まれないのです。 主体感を論じる一環として私がここで特に導入しておきたいのは部分対象、あるいはラカンが理論化した「対象a」概念ですが、この概念が示しているのは無意識的主体感の構成要素が自律性を獲得していく動きであり、それと同時に起こるのが主体感の働きによって美的対象が相対的自律性を獲得していく動きであるわけです。そこで再び浮上してくるのがバフチンの問題提起です。はじめて独自の理論を展開した1924年の論文でバフチンが浮き彫りにしたのは認知面、あるいは倫理面の内容に自律性を与え、そのような内容を美的対象として完成させることで実現するような、言表行為による美的形態の占有という機能ですが、私としてはこれを「部分的言表行為者」と呼んでおきたい。 ガタリ的主観性とはさまざまな要素の動的編成のなかで、集団、個人、個人未満の「何か」にその都度生成するものだが、「リトルネロ(ritournelle)」とはこの生成のプロセスをさらに細かく分析するときに彼が使う造語である。その複合体が複合的リトルネロということ。さまざまな要素の動的編成というのは、諸要素が繰り返し何らかの配置を取ることで実存的なまとまりを成し、名指せるような「何か」に生成するプロセスのことである。リトルネロとは、この実存的なまとまりを生成する諸要素の“繰り返し”である。リトルネロに導かれて主観性はあれやこれやに「何か」に成るのだが、物語にはこの働きを助ける機能があるらしい。 ここで物語として語られる体験は、通常なら「ある個人が持ち合わせている自分 の体験を言葉にする」と考えられるはずである。
しかし、ガタリの主体に関する(集合的動的編成)転回を踏まえると、私たちが物語によって表現できたと思っている「私の経験」は、むしろ物語という支柱があることで「私の経験」として実存化できるようになるということになる。つまり、家族や友達、恋人との関係、住んでいる地域、馴染んできた風習など、その人をこれまで形作ってきた諸要素が、神話、宗教、幻想、あるいは社会的にプロトタイプ化されたストーリーなどの物語を支えにすることで、誰かに語れるような「私の経験」として生成するということである。おそらく、物語という形式を支えにすることで、主観性を構成するさまざまな要素が整理され、実存的なまとまりを生成することが可能になるのだろう。 /icons/hr.icon